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ことばと自由とリアリティ

『現代詩手帖』バロウズ特集収録 (1990年)

山形浩生

要約: バロウズは、カットアップを通じて作る側の自由を追求していたが、結果として読者に不自由を強いるものとなってしまっている。


一、

「ウィリアム・バロウズの何たるかについて説明がいるようなら、あなたは読む雑誌をまちがえている」

――Semiotext(e) 14(1989)

 ウィリアム・バロウズが好きか、といえば、多少なりとも目はしがきいて、大文字の体制とか権力とかには一応斜にかまえてみせているような人間は誰でも「うん」と答えるだろう。ふつうなら、なぜ好きなのかをきくのは間抜けなことだ。人は別に、理詰めでものが好きになるわけじゃない。はじめに「好き」が来て、理由は後づけでくる。しかし、ときどき、自分にだけは「なぜ?」ときいておいたほうがいいこともある。その対象の何かが、一種の符丁として流通しているときだ。バロウズの場合もそれにあたる。

 たとえば、「セミオテキスト」誌の最近の号に、バロウズがちょっとした雑文を寄せているのだが、ふつうは作者略歴などが載る欄に、ぶっきらぼうに載っているのが冒頭の引用だ。「バロウズを知らんヤツは読むな!」このように、ある世界では、バロウズという名はすでに一種の符丁として確実に通用するのであり、こういう不遜な選民意識を許してしまうようなところが、これまたバロウズらしいというのも事実である。

 符丁には符丁のよさがあって、それは恥知らずなヌクヌクとしたスノッブな内輪感覚である。現在日本でウィリアム・バロウズをめぐってかわされていることばの一部は、この符丁の力をうまいこと欧米から拝借してこよう、という狙いで流通している。符丁の価値の軽重を決めるのは、それが流通しているコミュニティのプレステージである。だから、そのことばも、おもに誰が「バロウズ」という符丁の通用する人物であるか、を述べるのが主眼となっている。そういうことばには、やたらに人名がたくさん出てくるのが特徴だ。これは日本だけの現象ではなくて、こんど思潮社から邦訳が刊行される「ウィリアム・バロウズと夕食を」という本は、まさにその符丁の通じるコミュニティの名前だけで売り出そうというような本だ。読む方は、「バロウズ」という名を覚えることで、そのコミュニティの一部となったような気分を味わえる。

 それでいい領域もある。たとえばディスコ(ああそう、クラブっていわなきゃいけないのね)の宣伝に、ちょいとばかしこのコミュニティの御威光を使いたいな、なんていう場合。「ウィリアム・バロウズのコンセプトに基づいてます!」とか言って、その内実がただのぼんぼり(それもホントはバロウズじゃなくて、ブライオン・ガイシンが三十年も昔につくったもの)であったって、来てる人たちは文句も言うまい。それに、建設から(長くても)一年以内に投資額を回収しなければならないあの種の施設には、いちいち気分以外のものを考えている余裕がないという事情もあるのだ。でも、ぼくは(回収すべき投資があるわけじゃなし)それだけじゃいやだ。誰がそのコミュニティにいるのかも知りたいけれど、なぜ彼らがバロウズに魅かれているのかのほうがもっと知りたい。影響を受けたというなら、それがどんな影響なのかが知りたい。そしてそれよりも、自分がなぜバロウズが好きなのか、それがいちばん知りたい。

 だから、ここらでバロウズの(自分にとっての)重要性みたいなことについて、ウソでもいいから何か言っておくべきだろうと思う。別にバロウズがディスコ(はいはい、クラブね)のちょうちんのデザイナーとして有名になったって一向にかまわない。でもクラブの寿命はわずか数年、それにひきかえバロウズは、すでに三十年以上にわたって書き続け、その変てこな位置を保っている。二十一世紀になってクラブが滅びても、バロウズは(本人はさておき彼の本は)まだ生き延びているはずだ。そうなったとき、問われるのは、なぜ彼のちょうちんが十年前の踊り場で利用できたかなどという話ではなくて、なぜ彼の小説が(そして絵が)当時も今も、リアリティと重要性を持って生き続けているのか、ということだろう。

 今すでに、この問いに対して回答が(部分的にせよ)出せるのではないか、とぼくは考えている。証拠はすでに出そろっている。彼の重要性の鍵となるのは「自由」である。リアリティの鍵となるのは「切り貼り」である。


二、

「その昔、デニス・ホッパーが『ジャンキー』を映画化しようとかで、バロウズといろいろやってたんだって。で、ホッパーがバロウズにきいた。 『ね、バロウズさん、例のヘロイン中毒で、にっちもさっちも行かなくなって、タンジールで部屋にこもりっきりで、ヘロイン射ちながら丸一か月もズーッとつま先ばっか見つめてたんでしょ。そのとき、ひげなんかどのくらい伸びちゃったんですか?』  するとバロウズ答えて曰く、 『若いの、わしゃどんなにヤク切れでつらくても、毎朝ひげだけはちゃーんときれいに剃って、シャツも新しいのに着替えとったんじゃよ』」

――アレックス・コックス談

 バロウズはこれまで、主体的に集団というものに属したことがない。彼が通常編入されているのは、五〇年代から六〇年代にかけてのビート・ジェネレーションという集団だ。一応ビートといえばバロウズ、ギンズバーグ、ケルアック、と三人並べるのが定石になっているけれど、これはむしろお友だち集団的な組み合わせだ。単にいつもツルんでいた、という程度の話。彼らの書くものに、特に共通性があるわけじゃない。

 ただ、唯一彼らの書くものが、あるいは書き方が、その時代のアメリカの空気と共鳴した、ということはあるのだろう。ぼくにはその空気など知りようもないが、隠れビートを自認するトマス・ピンチョンによると、それは「これまでとはちがった何かが許されるのだという、解放的な可能性の拡大」なのだそうだ。ひとくくりに自由と呼んでもいい。  そのアプローチは三人ともちがっていた。ケルアックの場合、それはとりあえずウロウロすることだった。それに合わせてゾロゾロ書くことだった。ギンズバーグの場合は・・・よくわからない。ヒッピー運動などといちばんしっくり連動するような形での自由だったと思われるが、ぼくには詩はわからない。

 さてバロウズの場合、まずそれは、自分のオブセッションを直接的に描くことから始まった。たとえば自分を解放してくれるはずの究極のドラッグであったり(『ジャンキー』、『麻薬書簡』)、自分を愛してくれるはずの男だったり(『おかま』)。そうした試みがすべて挫折(奥さんを殺してしまったことも、この挫折の一部だ)する中で、次に彼の行ったことは、不自由を強制するものをすべて戯画化することだった。「裸のランチ」ってのはそういう小説だ。構成なんてものはまるで考えず、次から次へと羅列的にあげつらってゆく。警察、売人、ポン引き、麻薬、女、セックス、学校、医者、一般市民……こうしてテーマを並べると、いかにも重苦しい現代文明批判が展開されているような印象だが、それを救っているのが、極端な誇張で生まれるアイロニカルなユーモア感覚だ。映画「バロウズ」で、爺さん自ら演じていたベンウェイ医師のシーンのくだらなさが、翻訳では多少わかりにくいのだが、「裸のランチ」全編を律儀なまでに貫いている。この生真面目な不真面目さは、その後ずっと彼のとらえどころのなさの源泉となり、今なお彼の小説に脈々と生きている。

 「裸のランチ」でバロウズは、脈絡のないさまざまな材料を並置する手口をおぼえた。同時に、執筆末期につきあいはじめたブライオン・ガイシンから教わったカット・アップの手口が、彼にもう一つの不自由のもとを示唆することになる。それが言語だった。


三、

「ときにはこんな霊感に満ちたすばらしい文章が、と信じられなくなることもある。またときには、こんな信じがたいクズがあるものか! と思うね。まったく、あの子の編集者は何をしてたんだい?」

――アルフレッド・ベスター

「あいつの場合、カットアップでどんどん掘り下げていって、その挙げ句にできあがった文章のほんとんどが全然読めないものになっちゃうんだ。ウィリアム本人からして、二度と読めないって言ってるんだからね」

――ブライオン・ガイシン

 カットアップの全面的な使用によって生まれたのが、彼の最初の三部作「ソフトマシーン」「ノヴァ急報」「爆発した切符」だった。オリジナルの文章をどこかから調達してきて、それを切って並べかえる。しまいには、いちいち切るのがめんどうになって、折るだけですまそうという横着がフォールド・イン、折り込みである。

 この技法は、小説から見た場合、いい面と悪い面を併せ持っている。いい面とは、これが(場合によっては)人の空間的な体験を直接的に描いてしまっているという点。これについては「カットアップ・シティ」と題して別のところで書いた。俯瞰的な視点に絶対たたない、まったくの異人の不安な精神にダイレクトに入力される外部の過剰な刺激から成る恐れの風景と、懐かしく親しい記憶のみから成る歓びの風景との間をを揺れ動く、人の意識内にのみ存在する、真にリアルな空間。キャシー・アッカーの言う「バロウズのリアリティ」は、シチュエーション面でのリアリティだが、ぼくにとってのバロウズのリアリティとは、ランダムに取り込まれ、しかも無意識的に取捨選択が行われている外世界の場所的情報が、俯瞰的パースペクティブにおさまる直前の、混然とした意識状態を描くリアリティである。カットアップのような手法なくして、このリアリティは存在し得なかっただろう。

 悪い面とは、章の頭の引用二つにあるように、そのいい面があまりに少なすぎるというところだ。

 これはあくまで推定だが、「言語はウィルスだ!」というバロウズの十八番は、カットアップを正当化するための後付けの理屈だったのだろう。このカットアップ三部作と前後して、バロウズの書くものは俄然理屈が多くなる。人が理屈っぽくなるのはだいたいが愚痴か言い訳によるものだ。考案者のガイシンにもたしなめられ、自分ですら再読できないような文章を機械的に量産していたバロウズのひねりだした口実が、この言語ウィルス説だった。が、この口実は、それまでの彼の「不自由を強制するものを茶化す」という手法と奇妙にマッチするものだった。その後、「裸のランチ」をめぐる周囲の大論争の中で、彼はそのテーマとともに、言葉に関する人々の過敏な反応を目にして、言語もまた不自由を強制するものである、という認識に自信をもったらしい。

 この不自由のもとに対して彼は、カットアップ/フォールド・インと、「裸のランチ」以来のアイロニーとブラック・ユーモアで対抗する。アイロニーとユーモアは、あるものを利用しつつ、それを全面的に受け入れない、という利点を持っている。言語をもって言語をどうにかしようというバロウズの目的とは見事に一致する。

 「言語からの自由」という彼のねらいは、部分的には成功した。少なくとも、カットアップという手法を正当化できるだけの成果はあげることができた。しかし、その代償として彼の小説は、著しく一般性を失ってゆく。不自由から逃れるべく使った手法が、かえって読者に不自由さを強制する結果になってしまったわけだ。「いずれはみんなカットアップになじむようになる」と語っていたバロウズも、次第にそれを認識するようになる。

 自由を求めつつ、不自由に到達してしまう。「ソフトマシーン」も「ノヴァ急報」も、この矛盾が極限に達したところで成立している。だからバロウズのカットアップ三部作は、美しく、かなしい。アーティストたちがバロウズにひかれるのも、一つにはこの自由をめぐる彼の逡巡のせいなのだと思う。

 同時期に書かれた彼の短編は、もう少し気楽なものだ。「裸のランチ」のエピソードと、言語ウィルス理論による脚色がほどこされる前の生材料から成る、不思議に叙情的な(誰がなんと言おうと、バロウズはがさつなアメリカ性だけの作家ではない)短編と、その積み重ねによる「ワイルド・ボーイズ」などの長編は、カットアップがテーマからツールの一つに降格しているが、それゆえに別種ののびのびとした自由さに満ちている。  その後、彼は「シティーズ・オヴ・ザ・レッド・ナイト」「デッド・ロード」「ウェスタン・ランド」のいわゆるウェスタン三部作にとりかかる。

 また、趣味の銃を使ったショットガン・ペインティングの制作も開始。彼の絵が生み出す世界も、カットアップによる文の世界となにかしら類似した、派手な色彩の渦の中に不思議とくっきりした懐かしげな写真がはりつけられたような世界である。


四、

「バロウズ? そうねえ、何度かインタビューしに行ったけど。いやあ、とうてい正気の人間じゃないのは、会えばすぐわかるわね。本人のことは何きいても怒んないし、まともに答えてくれることもたまにはあったわよ。たいてい全然関係のない返事をするのが困ったもんだったけどさ。

 あと、動物の話になると目の色が変わるの。怒らせようと思って変な質問もしたけど、全然反応しなかったのに、こっちが動物の生態とかを知らないと激怒したもんね。二回怒鳴りつけられたけど、一回がフェネック(砂漠キツネ)のエサか何かを知らなかったときと、もう一度はレムール(メガネザル)ってのが何だか知らなかったとき。『お嬢ちゃん! そのくらいの勉強はしとくもんじゃよ!』だって」

――キャシー・アッカー談

「……バロウズに会うときは、ちゃんと三ピースのスーツを着てかないとダメだよ。オレが会ったとき、最初この格好(ボロジーンズとボロTシャツ)で行ったら、ほとんど黙殺されちまってさ、話しかけるたんびに『キミは誰だね』みたいなぞんざいな扱いすんの。でさ、次のときにはスーツ借りて着てったら、いきなり『おおキミか』だって」

――アレックス・コックス談

 たぶん、ぼくがバロウズに会うことはないと思う。


井口様、

   どうも遅くなりました。間に合うようなら使ってやってください。尻切れトンボの文ですが、まあ言いたいことは言えているし、つまらないエピソードも一通り紹介できているし、まあいいか、という感じです。    各章のエピグラフを字下げするとかの処理はおまかせします。

ではまた。

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YAMAGATA Hiroo<hiyori13@alum.mit.edu>
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