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ジュスティーヌ

『論座』も必ずしも読むところがないわけではないこと。

(2007/09/04)

山形浩生

要約:『論座』で、立岩真也の書評に対する小畑清剛の反論が投書欄に掲載されているが、それがこの手の論者にありがちな打たれ弱いダメさ加減を露骨にさらしていて大変に参考になります。



『論座』10月号を送ってきたんだけれど、相変わらず読むところの少ない雑誌ではあって、『諸君』とかに対抗してアカピーの牙城を死守しようとしてグズグズになっている。今回もあんまし読むところはない。内田樹の安倍政権に関する特集の文章は、何やら安倍政権でなくても全然かまわない時事性のまったくない文で、しかも批判している構図に自分の文がまさにぴったりあてはまるという自覚を徹底的に欠いただらしない代物。意見のちがう人も許容しましょうなんていう小学生の学級会みたいなことを言うのに、いちいち「他者」とかなんとか言う必要あるんですか? ついでに、同胞愛を愛国心に拡大できない、という内田の議論は、内田の想像力の狭さを物語るだけの根拠レスな妄言だと思うし、林香里なる人物の整理整頓万歳論は、ジョブディスクリプションを曖昧にすることで縦割りに陥らずに大きな生産性向上を実現してきた日本の職制の長所について無知丸出しだし云々。

  が、それはさておき。

  『論座』の前号で、立岩真也が小畑清剛『近代日本とマイノリティの〈生-政治学〉』なる本の書評を書いていたのですよ。それについてちょいとおもしろい展開があった。

  さてぼくは立岩の「弱者様はおえらいのだからなんでもわがまま聞いてやるべき」とでも言いたげな議論が大っきらいだし、あまり評価はしていない。が、ぼくがこう書いたからといって、立岩の議論について唯一の正しい読みができる山形が立岩を審判した、これで立岩真也の社会生命抹殺、ということにはならない。かれが学者として活動したり本を出したりしている以上、かれに本を出させたり教員をさせたりしようという程度にはポジティブな評価をする人もこの世にはたくさんいるんだろう。稲葉大人はとてもかれを評価しているようだし。山形の意見は、山形がどんなに強く断言しようと、数あるなかの一見解にすぎない。そんなことはいちいち断るまでもなく、当然のことだ。

  が、その立岩が書いた書評はちょっとおもしろかったのをなんとなく記憶している。そして今号で、その立岩書評に対する著者小畑清剛の反論投書が、投書欄に掲載されている。これがなかなかに味わい深い。

  もちろん反論投書なので、立岩の主張に異を唱えているんだが、どこに文句があるんだろう。事実誤認か? 視点の偏りか? いや、ぜーんぜんちがう。曰く:

  「ここからは、それらの著作について唯一の正しい読みや学びができる立岩氏が、誤った読みや学びしかできないために全く価値のない書物を刊行した小畑を審判するという構えが確認される」

  要するに、批判すること自体がダメってこと。立岩は自分の見方だけが正しいと言っているからダメだ、というのが小畑のメインの主張なのだ。うっひゃー。

  立岩だって別に、唯我独尊とは思っていないはずなんですけどねえ。なんでそんな変なものが「確認される」んでしょうか。ワタクシには確認できませんでございました(ついでに「全く価値のない書物」なんてことも言ってない。わざわざ書評にとりあげる程度には、よかれ悪しかれ価値があると判断したんでしょー)。いろんな読みや解釈があるのはいちいち断るまでもなく当然のこと。立岩が「これはダメだ」といったからといって、それ以外の解釈がすべて否定されるわけじゃないことくらい、読者は当然知っている(でしょ?)。立岩だって知っているだろう。小畑は知らないんだろうか? 学者なのに? そしてどうして本について論じた書評なのに、「小畑を審判するという構えが確認される」なんていつの間にか自分という人間への批判だと思っちゃってるの? かつて久美沙織が「新人賞のとり方」かなんかで「作品離れのできない作家」をバカにしていたけれど、まさにその見本。

  実際問題として、立岩がどう書けばご満足いただけたのやら。あーゆー解釈もあればこーゆー解釈もあって、こういう立場もあればああいう立場もあり、こっちからみればこれはダメだがしかしダメではないという解釈をする余地もあって、でもカラオケで歌ってる中学生にはたぶん特に意味を持たず、安倍首相の立場ではどうで、だがひょっとしたらガーナの農民にはあーかもしれず云々。はいはい、確かにいろんな立場はあります。でもそれをすべて書くことはできない。となれば、立岩は自分の判断である(第三者的にもそれなりに重要だろうと考える)立場を選び、何故その立場からだとその著作をダメだと思えるのか説明するのがいちばん誠実なやり方だ。立岩は、それはちゃんとやっていた。その見方があまりに狭いとか妥当性がない、という批判はあり得る。でも今回の反論はそう言っているのではない。ある特定の視点からものを言っている、というのがただちに他の解釈を否定している、とでも言うような物言いはひどい。

  だいたい多様な読みがあると言うんならば、立岩の読みもその一つとして認めればいいではないか。多様な読みは認めるけど批判的な読みは認めない――それは「多様な読み」とか「多様な解釈」というお題目を重視しているようで、実はそれを自ら(自分についてだけは)否定しているかなり悪質な態度だ。でもこの手の議論ってのはしょっちゅう見かけるんだけど(冒頭に挙げた内田の議論もその例だ)。ちょっと批判されると「他の読みを認めていない」「他の可能性を切り捨てている」「全否定している」「主体を否定された」「XXとしての存在をなきものにされた」とかなんとか。相手が全身全霊捧げた親や先生や恋人ならいざ知らず、どっかの人が一人批判したり悪口言ったりしたくらいで主体なんか普通はなくなんないんですけど。世の中もっと広いんですけどー。

  この人はまた、立岩の批判もきちんと理解できていない。この本は、いろんなマイノリティとか弱者とか言われる人たちの話をシュミッタレとか不幸とかアカンベーとかの論の枠組みに位置づけました、というような本らしく、立岩の批判は、そんなことしても意味あんの、ということ。まさに小畑がこの反論で書いている「トランク法哲学」そのものでしかない無意味な努力じゃないんですか、という話だ。弱者の話を西洋の賢しらな哲学に奉仕させて消費しちゃうんじゃなくて、弱者の話は弱者の話で個別に大事にしようよ、という一応は理屈の通った主張ではあった。さてそれに対して小畑の反論は「氏と異なり、樋口陽一氏のように『知らなかったことが多く勉強になった』と言ってくださる方も多い」だって。うん、そういう人は当然いるだろう。「フーコーなんて小畑先生の本で初めて知りました」という子がいても不思議ではないし、たぶん個々の弱者談義は立岩真也といえどすべて知り尽くしていたわけはないと思う。

  でも本のよしあしは、受験参考書でもない限り、単に知らなかったことがあったかどうかで判断できるもんじゃない。むしろそうした未知、既知の情報をどのように構築し、いままで言われていなかったことを言うか(あるいはすでに言われていることでもそれを新しい読者に対して訴えたか)、ということだ。立岩は、議論の組み立てがダメで、最終的に小畑が目指していたはずのことを実現できていない、という話をしている。それが読めていないのは絶望的。ちょっと批判(といっても、糾弾されていたわけじゃなくて、立論や構成に弱さがあるという建設的な指摘なんだよ)されただけで逆上して支離滅裂なことを投書しちゃう――いやあ、この投書の最後の部分にもあるように、本当に自閉していて外部との接触もなくて、打たれ弱いんだなあ。

  またこの反論にはさらに頭痛ものの仕掛けがしてある。二段目。立岩が小畑の本を批判したのは 小畑がかつて身障者であるひけめからいじめっぽいことをしたことがあるからだろうといった、何の根拠もない邪推をしてみせて(どっからそんな話が出てくるの??!!)そうなんだ、オレはだめなやつなんだ、でも人間ってそういうもんじゃないか、おれだって弱者なんだ、(だからオレは批判されるべきではないと、はっきり言わないが匂わせる)という手口。ちょっと立場が弱くなったら、まったく関係ない議論でも身障者カードを切って同情をひこうというそのやりかた自体が、まさに自分(たち)を貶めているという認識はあるのかなあ。たぶんないだろう。

  だが……ある意味で、こうした反論のやりかた自体がまさに立岩の書評の論点を補強してしまった面もあるという、なかなかに興味深い例ではある。

  ついでにこの人の投書の後半も、ワタクシからすれば目が白黒。「法の分野は現実への知への越境が厳しく禁止されている」とか「法科大学院が開始したこともあり、知の専門化・技術化が高まり人間疎外をますます進めつつある」といった言い分は、非専門家であるぼくなんかの認識とはまったくちがうんですけど。現実への越境が禁止? いや裁判とか法執行を通じた逮捕とか、現実の方から見てると法も日々かなり越境してらしてますことよ。法科大学院で人間疎外? 訴訟とか増えて、法が現実の人間に関わる分野が増えてるからロースクールじみたもんが欲しいんじゃないの? これを読んで、いやあ法学の人ってホントに自閉した、現実と隔絶した変な世界に暮らしているんだなあ、という認識をぼくは新たにしたことでありますよ。

 「立岩氏の書評は、『やはり現実とかかわるのはおそろしい』という萎縮効果を彼らに与え云々」(強調引用者)という具合に、他人の心配をしてあげているかのごとき部分というのは、たいがいは自分のことを書いている場合が多いのだけれど、これも例外ではない。確かにこんな変な現実認識を持っているんなら、そりゃ「現実」(ものにもよりますが)と関わるのはおっかないでしょう。でもそれは立岩書評のせいではなく、そちらのタコツボぶりが原因では。せっかくマイノリティのお話を集めても、それを哲学者の空論と関連づけるなんてことに血道をあげてるようでは、現実に直面どころか現実逃避ですよ、というのが立岩書評の主旨なんだけど、それがわかりませんか。いやはや見事トランク哲学のトランクぶりをあらわにして、まさに否定しようとしたものをばっちり裏付けてしまっているという味わい深い投書で、たんのうさせていただきました。

  あいやもちろん、このぼくの見方が唯一絶対に正しいなどと言うつもりなく、ほかにいろいろとらえかたや解釈はあり、さらにはぼくの見方に思わぬまちがいがあるかもしれず、浅学非才を顧みずに書かれた放言にすぎぬことはご留意いただいたうえ、そうそう、それと批判する意図はないことも書いておこう。こういう逃げ口上を見ると何か安心する人々もいるようなので。だけれど、この手の物言いが謙遜のように見えて単なるごまかしだってことは、読者はわかるべきだと思うんだけどね。だがそれはさておき。

  まとめると、まあ『論座』も決して読むところがないわけではなく、読み方次第では楽しめる部分もあるということで。飯田泰之のコラムもあるし、今月はあと、ジュリアーニのエッセイとかもいいぞ。そしてもちろん、宮崎哲弥&川端幹人「中吊り倶楽部」は必読、祝復活!

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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>
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