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ヤン・シュヴァンクマイエル』展覧会パンフ

『アリス』の不気味さとシュヴァンクマイエル

山形浩生

(『ヤン・シュヴァンクマイエル』展覧会パンフ寄稿 2007/08)

要約:ラフォーレ開催の『ヤン・シュヴァンクマイエル展』パンフレット用の寄稿。シュヴァンクマイエルと『アリス』との関わりは、テニエルの呪縛を逃れた数少ないアリス映像化となっている。そしてテニエルが、仏頂面のアリスを描き、『アリス』にこめられた意地悪さを表現したように、シュヴァンクマイエルは小説『アリス』の不気味さをうまく反映しおおせている。


 キャロル『不思議の国のアリス』シリーズが持つ通俗的な人気の多くは、その挿画を描いたジョン・テニエルによるところが大きい。かれの挿画の力は、それはそれはすさまじいものだった。ちなみにかれは、話そのものにも大きな影響を与えている。『不思議の国のアリス』ではすでにお話ができあがっていたからあまり変更の余地はなかったが、その後刊行された『鏡の国のアリス』では、話の細かい部分――列車がゆれたときにアリスが何にしがみつくのが論理的か、といった話――について、イラストに基づく視覚的な論理性から注文をつけ、変更させている。それどころかゲラの段階まで収録されていた「かつらをかぶったスズメバチ」という章は、テニエルが「そんなものはイラストに描けないから削れ」と要求したために、まるごと削除されてしまった。もともと本文を多少削りたいという希望をキャロルが持っていたこともあるとはいえ、テニエルの示唆が大きな要因だったことはまちがいない。

 挿画のために作品を変えてしまう――作品と挿画のここまで強力な共生関係はなかなか見あたらない。その強力さは、作品中の各種生物やエピソードについて現在の人々が抱いているイメージが、ほとんど完全にテニエルの絵に支配されきっていることからも明らかだ。チェシャ猫といえば、あんな顔をしてあんな具合に尻尾をたらしながら木の上にいなくてはいけないし、キノコの上のいもむしは、あんな具合でなくてはならない。そしてキャロルの小説を越えたところまであのイラストは規定してしまっている。十九世紀の女の子といえばあんな格好というイメージを、ほとんどの人は絶対不動のものとして抱いている。それが証拠に、十九世紀的なファンタジーをもとにした、日本の女中喫茶のファッションも、あのイラストのイメージに明らかに影響されている。ほとんどの人は、あれ以外に十九世紀欧州の文物に接する機会がほとんどないからだ。

 おかげで、いまやテニエルのイラストをもとにしないと、そもそもそれがアリスであることさえ認識してもらえない事態とはあいなった。『アリス』はもちろん、世界的に人気があり、それを独自に視覚化しようという試みは無数にある。だがその試みのほとんどすべて、かのディズニーですら、『アリス』アニメ化でテニエルのイメージを踏襲せざるを得なかった。

 シュヴァンクマイエルは、それに刃向かった数少ない一人だ。

 なぜシュヴァンクマイエルにそれができたのか。これはまず原作をかなり顕著に変えた、映画版『アリス』に負うところが大きいのかもしれない。靴下がにょろにょろと床を食い荒らし、それがキノコ上のイモムシに変わる世界。自由落下がエレベータとなり、机の引き出しがドラエモンのごとき出入り口となる世界。血や肉々しい肉、そしてぬいぐるみとはいえ傷と怪我と、ぶちまけられるおがくずとその治療など生臭い部分にあふれた世界。それはもちろんテニエルがどうしたという話ではないだろう。おそらくは予算も限られており、また当時の技術の絶対的な水準からしても話をそのまま映像化するのは不可能だったという制約があったんだろう。だからこそ、同じ小道具(机)を何通りにも使い回し、同じ部屋を何変化もさせる工夫が必要となり、そしてその要請にあわせてお話もある程度変えられている。だがそのおかげで、映画はかえってテニエル的なイメージから離れた別の世界を作り上げている。

 そして、それをさらに原作のほうに引き戻して敷衍すると、最近邦訳のでた書籍版の『アリス』二作となるんだろう。

 確かに邦訳のシュヴァンクマイエル版アリスの序文では、シュワンクマイエルはテニエルをほめているし、各章のタイトルページでは、テニエルのイラストの輪郭を使っている。でもご覧の通り、それ以外の部分にはテニエルのテの字もない。映画版で唯一、多少なりともテニエルっぽさを残していたのは主人公アリス役の少女だけだったけれど、本ではそれすら排除され、アリスはとんでもない変形をこうむっている。そしてそれがまったくちがったアリス像を、映画より原作に即した形で実現しえている。

 そこに出てくる世界は、あからさまに不気味だ。だが――キャロルの原作自体が、そんな健全まみれの明るい作品ではないのは、読んだ人ならだれでも知っている。なんせ正気の登場人物が一人として登場せず、どいつもこいつも(当のアリスからして)意地悪く重箱の隅をつつきまわし屁理屈ばかりこねては嫌がらせをするというお話ですもの。シュワンクマイエルのイラストは、その病的な部分を実にあからさまな形で表現し得ている。

 そして――それを見るうちに、序文でのシュワンクマイエルの物言いも、どこまで本当かな、と思えてならないのだ。かれはテニエルのイラストに「あたたかみがあって」と述べる。でも――テニエルのイラストは、見た人ならご存じだろうけれど、暖かみはない。アリスは一度も笑わず、いつも仏頂面をさらしている。テニエル自身、政治的な諷刺画の流れをくむ、嫌みったらしい画風で知られているし、またキャロル自身が単純なおとぎ話としてと同時に政治的な戯画をアリスにこめていたことは有名で、テニエルはそれを忠実に反映している。かれの画風はむしろ、冷たい感じだ。もっとふわふわしたイラストだって使えたはずなのに、キャロルは敢えてそれをしなかった。その冷たい意地悪い画風が、かえって『アリス』をうまく表現していることを、かれは(意識的にか無意識的にか)理解していたからだ。その成功は、後の歴史が物語る通り。

 そしてシュヴァンクマイエルもまた、『アリス』の持つ別の病的な部分を見事に抽出できている。さて、歴史はそれをどう評価しますことやら。それは読者の皆さんに科せられた仕事だ。

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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>
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