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リチャード・ストールマン:フリーソフトの大聖人

山形浩生 (週刊アスキー)

 リチャード・ストールマン。この名前をきいて、ソフトウェア業界の人――特にフリーソフト系の人々――は、畏怖と敬意と嫌悪の入り交じった反応を示す。一方で、かれはフリーソフトの大偉人だ。かれがいなかったら、たぶんいまのコンピュータ文化はずっと貧相なものになっていただろう。その一方で、人間としてのかれはかなりの変わり者で、直接つきあった人の多くは「あいつとは二度と口もききたくない」と罵る。ただしそういう人も、ストールマンの業績の偉大さについては、諸手をあげて認めるのだけれど。

ソフトウェアを通じて世界を救おう

 いまのぼくたちは、商業ソフトを買って使うのは当たり前のことだと思っている。本誌にも、いろんな市販ソフトの広告や記事が載っている。そしてほとんどの場合、それはコピーして友だちにあげてはいけない。勝手に改変しちゃいけない。仕組みを調べることさえ禁じられている場合が多い。

 でも、考えてみると、これはほかの商品に比べてずいぶんときゅうくつだ。自動車やいすを買ったら、それを勝手に改変するのは自分の勝手。仕組みを調べても、誰にも文句は言われない。本だって、部分的ならコピーしてもいい。書き込みもできるし、友だちに貸せる。ところがソフトウェアではそれをしたら犯罪だ。

 そんなのいやだ。友だちに親切にできないような仕組みなんかまちがってる。他人に意地悪をするよう強制するソフトなんか許せない。ソフトを他人に使わせないなんて、自分さえよければ他人を助けなくてもいいという堕落した発想だ。そんなのが増えたら社会がだめになる。なんとかしなきゃ。一九八〇年代に、そう思って立ち上がった人物がいた。  それがリチャード・ストールマンだった。

フリーソフトの大偉人ストールマン

 いまの話を読んで、目が点になった人も多いだろう。コピー禁止ソフトが社会をだめにする? なんのこっちゃ。でもストールマンは大まじめだった。で、社会を救うにはどうすればいいだろう。さっき述べたような、社会をだめにする条件のないソフトウェアが必要だ。それも一つじゃダメだ。コンピュータを動かすシステムすべて――オペレーティングシステムから、プログラムの開発環境、エディタ、ワープロ、その他ありとあらゆるもの――が、社会をだめにする条件なしで使えないと。つまり、自由に他人にコピーしてあげられて、中身を自由に見ることができて、だれでも自由に改良していいという条件をつけた、完全なシステムを用意しないとだめだ。

 もちろん、そんなものはどこにもなかった。そこでストールマンは、そのありとあらゆるソフトを、自分で実際に開発しはじめたのだった。

 ふつうの人はそんなことをそもそも考えつかない。考えても、実際にやったりしない。でもストールマンは、良くも悪しくもふつうの人なんかじゃなかった。まずは、開発を行うための化け物エディタを書いた。それがEmacsだ。ただのエディタだけでなく、メールソフトにも、ウェブブラウザにも、とにかく何にでもなる化け物ソフトだ。次に、プログラムを書くためのプログラミング言語Cが完成した。かれの作ったCは、一時期はその効率も、速度も、あらゆる面で市販製品を上回る性能を見せた。そうやってかれは、理想とするフリーなシステムを壮絶な勢いで組み上げていった。これがGNUプロジェクトだ。

フリーソフトの要石:GPL

 さらにストールマンは、いったんフリーなシステムとして提供されたものが確実にフリーであり続けるようなライセンスを編み出した。これが一般公有ライセンス、通称GPLだ。コピー自由。売ってもかまわない。中身(ソースコード)も公開。改変自由。改変したのを再配布も自由。一部をほかのソフトに流用したりしてもかまわない。ただし再配布する場合や、改変したり、流用したりして作った新しいソフトも、この同じ条件で公開すること。人によっては、GNUの各種ソフト自体より、このライセンスこそがフリーソフトの発展の原動力だったと論じている。

 フリーソフトには、ほかにもライセンスは何種類かある。でもこのGPLは非常によく使われる。そうしたソフトの一つが最近マスコミをにぎわしているリナックスだ。そしてリナックスができたことで、ストールマンの最初の目標だった、社会をだめにしない条件のソフトだけで構成されたシステムがついに実現してしまった。

 理想を掲げ、その実現のために実際にシステムを書き、そしてそれを支えるライセンスまで作り、だれもが不可能と考えていた無謀な目標を実現してしまう――これだけのことをやってしまった人物だからこそ、みんなリチャード・ストールマンをフリーソフトの大偉人として深く尊敬しているのだ。

頑固な変人ストールマン

 が……いまの話からもわかるように、かれがこうした偉大な業績をあげてきたのは、ひとえにかれが頑固だったからだ。いっさい妥協がなく、他人から見ればまともとは思えないことを平気でやってしまうし、同時に同じことを他人に要求する。

 正直言って、かれはとてもつきあいづらい人だ。チームで行うソフトの開発でも、かれはすべてを自分の思い通りに進めないと気が済まない。おかげで、大きなソフト開発プロジェクトが分裂したり、統合の試みが決裂したりしている。しかもかれは、自分がリーダーでない他のフリーソフトプロジェクトにまでいちいち口をはさみ、自分の思い通りの方向性に変えようとする。「コントロールフリークのエゴイストめ!」「ストールマンがプロジェクトを乗っ取ろうとしやがった」と罵る人はあちこちにいる。

 そしてそれは、ソフトの中身だけじゃない。かれはリナックスをGNUリナックスと呼べ、とここ数年主張し続けている。リナックスはGNUプロジェクトの作ったほかの多くのソフトがあって初めてシステムとして成立しているからだ。それは確かにその通りだけれど、別に名前なんて好きに呼べばいいじゃないか、と思うのが人情だろう。でも、ストールマンは頑として自分の主張をゆずらない。他人が「リナックス」と言うたびに、いちいち訂正し、大げんかを繰り広げる。多くの人は、「あいつも、もうちょっと人間が円くなればねえ」とこぼす。でも、人間が円かったら、GNUプロジェクトはそもそもなかっただろう。みんな、その頑固さを嫌いつつ、その頑固さの恩恵を自分が被っているのもわかる。ストールマンをめぐる愛憎半ばする感情はここから出てくる。

むすび:GNUの聖人ストールマン

RMS as saint iGNUtius  ストールマンは時々、フリーソフトの聖人と言われる。それは、かれが大して得にもならない、世のため人のためのフリーソフト開発に生涯を捧げてきたことに対する敬意の表明でもある。でもその一方で、下々の衆生たちの事情など一切考えない、地に足のつかない(と見えることも多い)徹底した原理主義の、悪い意味で孤高の人物、というニュアンスで言われることも多い。かれ自身は、Emacs教会の聖イGNUチウスを自称して、こんな格好をして歩き回るだけの茶目っ気もある人物ではあるんだけれど。

 かれのこれまでの努力が、本当に社会を少しでもよくしたかどうか――それはあなたの判断次第。でも、コンピュータのあり方、ソフトのあり方にまったく新しい形を提案し、実現させたというかれの功績はいくら評価しても評価しすぎることはないだろう。そしていま、かれの知的財産についての発想は、文章や音楽などのフリーな公開という形で、コンピュータ分野を越えた世界を本当に変えつつある。案外、数十年後にはかれはもっと広い世界の「聖人」となっているかもしれない。よくも悪しくも。



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