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二十世紀ハイブリッド文化のエキゾチズム

(『SWITCH』だったかな? 1994年くらい)


山形浩生

 たとえばモロッコで、ガキどもがじゃれてくるのを適当に相手しつつ、何とかコミュニケートしようとして、片言でおたがいいろいろ試した挙げ句に、筆談と身振りと異声によって、ブルース・リーとキャプテン翼とアーノルド・シュワルツェネッガーが共通項のようだとつきとめた時の感慨というのは、なんだかよくわからない複雑な心境である。

 特に珍しい話でもない。これに対し「文化帝国主義」とゆーよーな旗印をふりかざして眉根をしかめてみせてもいいし、出来の悪いイミテーションをあざけるようにして笑いとばすことも可能だ。そこまで極端でなくとも、「伝統文化の喪失・汚染」といった、マハティールやリー・クアンユーや石原慎太郎のようなくだらない懐古趣味に浸るのは実に簡単なことなのだ。

 ではもう一例。チェンマイからトレッキングでタイとビルマ国境近辺の山岳民族を訪ね、途中でラジカセを修理してあげたり(日本人の株をあげちゃったね)するうちに、言葉は通じないながらお互い漢字が書けることがわかって、それから夜中まで夢中で筆談していた。

 この2つの出来事の間に、質的な差はなにもない。どちらも二つの辺境民族が、同一の文化的強者の影響下にあることを見出だしたという話である。前者の場合、辺境民族とはモロッコ人と日本人、そして文化的強者はハリウッドであり日本アニメであり香港カンフー映画である。後者の場合、辺境民族は倭人とタイ山岳人、文化的強者は漢字シナ文化である。前者はいま始まったばかりで、後者は数世紀にわたり続いてきたものではあるけれど、文化は常にそうやって影響を受け、ハイブリッド化を繰り返してきた。「伝統文化」「独自文化」論のくだらなさと単純さは、そのダイナミズムを(往々にして政治的な意図によって)見事なほど無視する点にある。

 旅行記の多くも、こうしたダイナミズムを黙殺する。欧米文化のアンチテーゼとして、アジアやアフリカの静的な「伝統」文化を据え、その歪んだ鏡を通して欧米大量消費文化を批判する安易な物書きを、われわれはどれほど目にしてきたことか。

 ピコ・アイヤーは、その安易さから逃れ得ている希有な書き手である。「絵葉書みたいな風景よりも、二十世紀末独特のハイブリッド文化が生み出す新しいエキゾチズムが見たい」とかれは書いている。「ポップ文化の影響を通してアメリカを見直したい」とも。

 世界各地にたち現われつつあるそのハイブリッド文化を、かれは「単一のポリグロットマルチ文化」と呼んでいる。カセットとビデオと資本主義が一瞬にして世界に広めたマクドナルドやデニーズ、「ランボー」にマイケル・ジャクソンによって、あらゆる文化が縫い合わせられる一方で、地域ごとの特性によってそれが変形と発散を繰り返し、同じようでいてまったく異なる文化コンプレックスを生み出す。そして、そのコンプレックスの中にあっては、アメリカそのものも一地方に過ぎない。
 文物の伝えるイメージとしての「アメリカ」は、現実のアメリカとは似てもにつかぬ代物である。現実のアメリカも、アジア諸国とまったく同じように、そのイメージとしての「アメリカ」の影響を浴びて文化的変態を遂げ続けている。むろんこの日本も、そのハイブリッドの際たる存在である。デビュー作/出世作の『カトマンズ徹夜ビデオ』で、ピコ・アイヤーは傍観者を決め込むことなくそのハイブリッド文化に自ら加わり、淡々とした(しかし妙におかしい)文体で、そのマルチ文化を愛情こめて肯定的に描き出している。

 懐古趣味のかけらもない。ありもしない「伝統」だの「素朴なふれあい」だのに堕することもない。描かれるのは徹頭徹尾、今世界をおおっている、泡立つ得体の知れない「現実」の姿である。二十世紀末の世界へようこそ。目下、その「現実」への最良のガイドの一人は、このピコ・アイヤーである。

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