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『ジャンキー』とバロウズのことば

W.S.Burroughs『Junky』(2001 年 9 月, IGC ミューズ)解説、 pp.177-180)

山形浩生

 どんな分野でも、ある作家なりクリエーターなりアーティストなり(そしてその人の作品)が名前を残すための条件がある。それはもちろん、単に売れるものを作ればいいという話じゃない。「芸術性」の高いものを作ればいいというわけでもない(というか、そもそも「芸術性」ってなんだ?)大作家が、そのジャンルの王道にしたがって押しも押されもしない大作を発表したら、その時にはほめられる。でも、やがて忘れ去られるだろう。真に記憶されるためには、その分野やジャンルそのものの拡大や更新、生命力に貢献しなきゃいけない。

そしてウィリアム・バロウズ『ジャンキー』は、小説(少なくとも英語圏の小説)の生命力に貢献してくれた小説だ。

たとえばジョン・ケージが、ピアノを一回叩いたあだけであとは何も演奏せずに、背景のいろんな音を人々に聞かせたとき、かれは「音楽」という概念を広げてくれた。そんなものまで音楽として考えていいのだ、という自由を与えてくれた。これが「ジャンルの拡大」の一つの例だ。ただし、そこには新しい生命力はなかったのね。あくまでそのジャンルの中で、頭で考えた拡大だった。定義のみなおしみたいな話だ。要するにこの人たちは、この業界のお約束ごとを知っていて、あえてそれを無視したわけ。だけれど、その新しい「音楽」がホントにおもしろいはは、ぜんぜん考えられていなかった。

 一方、ジャズやロックが音楽にもたらしたのは、まったくちがうエネルギーだった。ジャズやロックが音楽でない、という人はだれもいなかった。それは単に、洗練されていない粗雑な音楽だったわけだ。粗雑だから、伝統的な音楽の枠組みの中ではバカにされた。こいつらは音楽のお約束ごとをなにも知らない、といって。知っていてあえて無視した現代音楽の人たちとはちがって、わざわざ音楽の勉強なんかしなかったジャズやロックの人たちは、お約束ごとをそもそも知らなかった。でも、それがまったく新しい自由さ、ふつうの人にも受け入れられるおもしろさを作り出すことに成功した。それは音楽を通俗化したけれど、それを通じて音楽は新しい生命力を得た。そしてそのロックすら、各種リミックスやラップ、ノイズやハウスの出現で、さらに新しい力を獲得するようになる。

 その両方が、適度に混ざることで音楽は新しさと活力を維持し続けている。

小説にも、この手の例はたくさんある。たとえばダダイストなんかがやった自動書記とかは、前者の例だ。一方、チャールズ・ディケンズは、いまは英米文学史の常連だけれど、かれはビクトリア朝ロンドンの、汚くて下品な下層階級連中のことばと生態をそのまま小説の中に持ち込んだ。それがかれのえらさだ。かれはそれによって、英語の小説が描ける世界を押し広げた。それまでの、貴族がのほほんとしていたりするような優雅な小説とはまったく別の舞台、まったく別の人々、まったく別のことばを、かれは英語の小説にもたらした。それ故に、かれは文学史に名前が残った。

あるいはダシール・ハメットやレイモンド・チャンドラーみたいな、いわゆるパルプ雑誌出身のハードボイルド作家たち。いま、ぼくたちはふつうにミステリー小説やハードボイルド小説を読む。でも、当時それがいかに異様なことだったか。

バロウズは、中でも小説ジャンルの拡大と、小説への活力の注入を両方やった希有な人だ。ジャンルの拡大は、かれの「カットアップ」と呼ばれる手法の導入で実現されている。これはできあいの文章を持ってきて、それを適当に切って、でたらめに並べることで新しい文章をつくろうというもの。これによってかれは、意味は通らないけれど、雰囲気だけはある変な文章をつくる技法を確立した。

でも、それが登場するのは、この『ジャンキー』が書かれた十年近く後だ。

この『ジャンキー』でバロウズが実現したのは、ジャンキーや売人、捜査官たちがうごめく、だれも知らなかった世界とそのことばを、「こちら側」に送り返してくれることだったんだ。

 それまでだって、みんなドラッグの存在は知っていた。それがやばいもので非合法なのも知っていた。でも、それが具体的にどういう効果を生んで、その周辺にいる人がどういう連中なのか、だれも知らなかった。人々が知っていた麻薬の世界は、警察が勝手にでっちあげたプロパガンダか、ギャング小説のわざとらしいチンピラの世界でしかなかった。それがこの「ジャンキー」でほとんど初めて、独自の論理と人間関係と隠語体系を持つ、独立した世界として描かれることになったわけだ。

 ヨタヨタのジャンキーが、始終クスリを探してうろうろしているところを描くことに、何か意義があるのか? そんな連中のことばがわかって何かメリットがあるんだろうか? ある。それは、自分の使っていることばの可能性、世界の可能性について目を開かせてくれることだ。そしてジャンキーたちの変なことば使いや人間関係も、その自分たちの知らない可能性を教えてくれる。そこにこの小説の価値がある。

あらゆる世界のことば、俗語体系、スラング体系には、それぞれ独自の論理がある。だけれど、それはなにもないところから出てきた論理じゃない。それは既存の言語をもとに、一定の変形ルールにしたがって登場してくる。そのルールを発見したチョムスキーという言語学者は、それが人間の遺伝子に刻まれたルールだとまで言う。そこまで言うかはさておき、たとえば暴走族が「よろしく」を「夜露死苦」と書いたり、やたらにギザギザした漢字を、万葉仮名みたいな使い方で書く。それは異様だけれど、そこにある種の論理性があることはわかる。だれかが、この暴走族風の漢字の使い方を真似ようとしても、なかなか真似られない。無理にやると、わざとらしく嘘臭くなる。でも、かれらが反応している美的センスはわかる。そしてそれは、これまで使っていなかった脳の部位を刺激してくれるのだ。

 「ジャンキー」でも同じだ。ぼくたちは、当時のジャンキーや売人たちのことばを知らない。知らないけれど、それがぼくたちも知っている言語の変形規則にしたがっていることを理解できる。自分たちも知っているその規則の別の現れ方を見ることで、ぼくたちはこのジャンキーの世界と自分たちの世界との、共通性とちがいを同時に感じ取る。それがこの「ジャンキー」の気持ち良さであり、新鮮さだ。そしてそうやって、人間という生き物として自分が持つ、言語的・人間関係的な可能性を感じ取る――そこに小説というものが持つ、本質的な価値がある。ディケンズも、ハメットも、最近では「トレインスポッティング」のアーヴィン・ウェルシュも、そしてこの「ジャンキー」も、その価値を確実に持っている。

残念ながら日本だと、小説家も評論家もすぐにおえらい先生さまになっちゃって、すぐに「正しい日本語」「美しい日本語」なんてことを平気で言い始める。それは小説という分野の首を自分で締めるまぬけな動きでしかない。そんなことをしているくせに「最近は本が読まれない」なんてことを、その同じ連中がしたり顔で言うのだ。バカだね。英米小説は、こういう代物を積極的に探して取り込んできている。それがかれらのジャンルとしての活力を維持している。それをサボってる日本の小説は衰退してあたりまえ。この「ジャンキー」で、そういう英米小説の活力の源泉をすこしでもみんなが感じられるといいな、と思うのだ。そしてそんなこと以上に、自分の持つことばや世界の可能性を、理解しなくても感じ取ってもらえればと思うのだ。

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