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アレックスたちのことばと自由、みたいな。

A.Burgess『Clockwork Orange』 (2001 年 9 月, IGC ミューズ)解説、pp.170-173)

山形浩生

 ことばというのはむずかしい。たとえば東京人が大阪弁をまねしてみても、一瞬でばれる。あるいはおっさん作家とかが、若者風俗に詳しいふりをしようとして「チョーなんとか」だの「いいかも」なんてのを得意げに使って、逝ってよしになってる例はいっぱいある。

 なぜそういうのが不自然で浮くかといえば、ことばにはすべてルールがあるからだ。聞きかじっただけの、表現のうわっつらだけをつぎはぎしている人たちは、そのルールを知らない。そもそもルールがあることさえ認識していない人が多い。読む方だって、必ずしもそのルールがわかっているわけじゃない。でも、多くの人は直感的にことばの持つ規則性を知っているのね。そしてとってつけた「チョーなんとか」が、ほかの部分のことばの規則からずれてることは感じられる。その時点でそいつはドキュソ決定しちゃうわけ。新しいことば、新しいしゃべり方が生まれるとき、それはいままでの言語への継ぎ足しみたいな形で生じるわけじゃないのよ。ことばが一つ加わるとさ、言語の構造そのものが大きくずれることもある。さらに、そのずれ方だって、なんでもいいわけじゃなくて、それなりの規則性があるってのもわかってきてんの。新しい言語をつくる人たちは、だから言語そのものの変化に取り組まなきゃならない、みたいな。そこまで激根性がある作家は滅多にいない。

 バージェスは、その数少ない作家の一人だ。そしてその最大の成果の一つがこの「時計仕掛けのオレンジ」なり。

 この本を開いた瞬間に、ぼくも含めて多くの人は目をむく。読めない。わかんない。なんだこれは、みたいな。そこには、辞書にも載っていないようなことばが、ほとんど何の説明もなく並んでいる。でも、だんだんわかってくる。そこにはきちんとしたルールがあるからだ。バージェスは、単に思いつきでこれをやってんじゃない。かれは古代英語の変遷の研究もしているし、言語の変形ルールについてはちゃんと勉強していて、それをこのアレックスたちのことばに徹底して活かしてる。だから、その変形の規則がわかってくるうちに、新しい単語が出てきても、その変形規則と周囲の文脈からどんどん意味がわかるようになっちゃう、みたいな? 変形ルールとして具体的には、フランス語のリエゾンみたいなのが考慮されているし、(our rassoodocks とか)音の表面上の類似のほうがことばの意味より強い場合もあるのを熟知していて(horrorshowとハラショー、なんてのがそれだ)、それをこの新しいことばに体系的に導入している。それがいかに完成された代物かは、この本をバージェスが音読したテープが販売されている(Amazon.comなんかで買える)から、聞いてみるといい。違和感激なし。

 かれの言語感覚の激すごさは、たとえばこの本の何かと「like」を使って断言を避ける傾向が、いま実際に世界的に広がりつつあることからも理解できる。バージェスってば、これを何十年前にあてちゃった、みたいな。

 そしてバージェスは、こういう新しいことばの背景も考えている。この新しいことばでマジわかるのは、ロシア語の影響だ。なぜロシア語なのか、説明はないけれど、でも当時の文化人の激関心は、世界の共産化? だったのね。共産主義にならなくても共産主義プロパガンダ激しくキボンヌ。だからこの未来社会はロシアの影響がマジ強い。そして「見る」というのが「viddy」と表現される世界がどういう世界か。バージェス、世界的な衛星テレビ網をこの小説で想定している。テレビを通さないと「見た」ことにならない? みたいな世界像が、この一語に表現されているわけ。小説そのものもさることながら、その登場人物のことばだけで、この未来世界の細部まで描き出しちゃってる、とかさ。バージェスage。

 ほかにこんなことを実現できている作家がいるか? いる。そんなに多くはないけれど。ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』は、未来の超管理社会で、電脳世界に没入してわずかな自由を享受する人々の世界を新しいことばで描き出した。『鏡の国のアリス』でルイス・キャロルが考案した、ジャバウォッキーに出てくるかばん語もその見事な例だろう。アイスランドの新鋭ロックバンド、シグール・ロスは、絶対に英語では歌わない。アイスランド語と、そしてホープランド語と称する独自の言語を作り出して歌っている。アイスランド語とちがってだれも知らない言語だけれど、でも聞いてれば意味がわかる、とかれらは主張する(正直言って、アイスランド語だってアイスランド人以外にはわからないし、聞いていても一向にわかるようにはならないけれど)。井上ひさしの『吉里吉里人』も、独自言語を作り出している点で、こういう小説の仲間だ。

 そしておそらく何よりもバージェスと近いのが、傑作『一九八四年』でジョージ・オーウェルの考案した、「ニュースピーク」という新しい英語だ。これは英語からいろんな不規則活用を取り除いて単純化し、国民に学習しやすくするという名目で作られたものだが、実はその真のねらいは、ことばを単純化して規制することで、国民の思考を統制することだ。世界がことばを規定し、ことばが世界を規定する――お遊びではない、本当に真剣にことばのあり方を考えた例がこの『一九八四年』だ。すごいなり。

 実は……ことばは、オーウェルが考えたよりも激複雑なものだ。たとえばパプア・ニューギニアの公用語の一つトク・ピシン語は、もともとかたこと英語から派生したもので、まさにこのオーウェルの考案したニュースピークと激同じ構造を持つ。でもそれは、オーウェルが考えたような抑圧の言語ではない。ことばは、作った人の意図を超えて、まったく予想外に使われる。それがことばの自由だ、なんちて。

 バージェスにとっても、ことばはマジ問題だった。が、ここでのアレックスたちのことばは、『一九八四年』とは激ちがった意味を持つ。アレックスたちの変なことばは、バージェスにとっては自由の象徴?みたいな。バージェスはオーウェルの『一九八四年』に対する回答として『一九八五年』という本を書いていて、その中でこの「時計仕掛けのオレンジ」に触れている。恐ろしいことだけれど、アレックスの各種破壊行為は、バージェスにとってはぜーんぜん問題ではない、ってゆーか。かれがこの本でマジ批判しているのは、実はそのアレックスくんを洗脳してしまう国家であり、それを利用する左翼活動家たちだ。人には悪を選ぶ権利がなきゃいけないのだ、とバージェスは主張する。ベートーベンを聴いて感動する権利があって、それは悪を選ぶ権利と同じことだ、とかれは主張する。それこそが自由なのだ、と。そして、アレックスたちのことばもその自由の一部? なわけ。最終的にかれを暴力と破壊から引退させる、世間的な生活の力というのも、実はかれにとって批判の対象だ。かれの昔の仲間は、世間並みの平凡な家庭生活を選んだ時点で、昔のことばを捨てている。それは、かれが自由(殺す自由、破壊する自由)を捨てたときでもある、とかね。

 実はバージェス自身は『時計仕掛けのオレンジ』を自分ではまだ青いと思っていたそ うで、自分が死ぬまで「あの映画の原作者」としてしか記憶されないんじゃないかと おそれていたらしい。でもそれがワリーか。この『時計じかけのオレンジ』をバージェスの最高傑作の一つとして挙げることに、何のためらいも感じない。バージェスは、政治的な思索家としては二流だったと思う。『一九八五年』でかれがやった『時計仕掛けのオレンジ』の説明は、本書の可能性をかえって殺ぐドキュソな代物、みたいな? 本書の本当のパワーと可能性は、このことばにある。それをよくよくご賞味激キボンヌ。そしてそのことばが自由の象徴なのに、その自由というのがこんなものである、というところに見られる、作者自身ですらきちんと理解できていなかったこの本の真の問題提起も、少し考えてもらえるといいな、とか。



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