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二十一世紀のボコノン教

K. Vonnegut『Cat's Cradle』 (2001 年 12 月, IGC ミューズ)解説、pp.208-211)

山形浩生

 「猫のゆりかご」のテーマは、一応は人はいかにして幸せになれるか、ということではあって、そしてその答えとして二種類の道が提示されている。科学(技術)と宗教だ。科学は、語り手がルポを書いている、原爆の父と、かれが発明した原爆およびアイス・ナインによって代表されている。一方、それに対する宗教は、ボコノン教というやつだ。ぼくが初めてこの本を読んだときには、これが大受けして、仲間内ではカラースとかフォーマとか、その手の隠語がしばしやたらにとびかったものだ。

 科学は、真理を追究するものだ(と一般に思われているからそういうことにしておこう。ホントはそういうものじゃないんだけれど)。それに対するボコノン教は、ウソの宗教だ。そしてここでのヴォネガットの立場は、すっごくはっきりしている。もちろん科学なんかでは人は幸せになれない。科学は原爆を作ったりアイスナインなんかを作ったりして、人の存在を矮小化して、自分の価値や居場所を見失わせてしまうだけの、ろくでもない代物だ。それに対して、サン・ロレンゾの人は、科学の恩恵は何一つ受けていない。受けていないけれど、ウソだらけのボコノン教のおかげで、かれらはとっても幸せに生きている。貧しく、職もなく、進歩への希望もなにもない。それでも、ボコノン教というウソを与えられることで、かれらは満足している。

 そのボコノン教が、最後にかれらに死ぬことを命じる宗教であっても。

 科学、およびそれによる文明の進歩に絶望して(あるいはそれを疑問に思って)宗教に走るのは、なにもヴォネガットの専売特許じゃない。また、文明に毒されていない低開発国の人たちが、実は貧困でも寿命が短くても、文明世界のわれわれよりずっと幸せに生きているんじゃないか、という幻想だって、これまたヴォネガットの発明じゃない。アレン・ギンズバーグを初めとするビート・ヒッピー作家たちは次々に東洋宗教にはまって、変な導師(グル)にだまされてけったいな格好でうろうろするようになっていたし、また西洋文明に冒されていない幸せな「未開」人という幻想は、たとえばマーガレット・ミードがサモアの女の子たちの冗談を真に受けて書いてしまった「サモアの思春期」をはじめ、無数の書物でそうした発想がたれながされている。

 そしてそれがまさに、この本が書かれた1960年代前後のできごとだった。

 ヴォネガットがそうした動きにどこまで意識的だったのかはわからないのだけれど、少なくとも読者たちには、それを受け入れる下地があったわけだ。かれらは、鈴木大拙などの著作を通じて、禅と、そのわけのわからない公案についての知識があった。インド系の宗教を通じた、理性では理解できない変な悟りとかチャクラのナンタラとか、人を煙に巻くような各種の物言いとかについても知識があった。さらにカルロス・カスタネダの著作(これまたインチキであることが後年明らかになるのだけれど)を通じて、現実は現実ではなく夢こそが現実、というような、これまたこの現実世界以外の何かを重視する考えかたも、そこそこ聞きかじっていただろう。ちなみに、イースター島やオーストラリアのアボリジニーの間では、この猫のゆりかごのあやとりが本当に儀式で使われる。かれらはそれを、一種の網として解釈しているそうなのだけれど。

 それが背景にあればこそ、『猫のゆりかご』はヴォネガットの出世作となり得た。ボコノン教は、ある意味でこうした東洋宗教(とアメリカ人が思っているもの)の性格をすべて、軽薄ながらも持っている。あるがまま、現状肯定、背伸びしない、事実や真理よりも居心地のいい(または気をそらせるような)ウソを重視する考え方。

 が。

 いまこの本を読んでみても、たぶん1960年代(または70年代だっていい)の大学生たちが抱いたほどの共感を、あなたたちは本書に抱くことができないんじゃないか、という気がする。ぼくは、大学時代に読んだときのおもしろさを、今回読み直して感じることができなかったし、本書のラストでは、むしろ暗澹たる思いにかられてしまった。それはたぶん、ぼくが歳をとったせいもあるのだろうけれど、同時に時代がかわったせいが大きいんだろうと思う。ヴォネガットがこの本を書いたときの読者たちに比べて、ぼくたちはすでに宗教というものにすさまじく幻滅し、すさまじく警戒心を抱くようになってしまったからだ。

 すでに1970年代に入った時点で、そういう兆候はだんだん出てきていた。それはチャールズ・マンソン教団による虐殺事件とか、各種インドがかった宗教の教祖と称する連中が実は私利私欲の固まりなのがわかってきたとか、テレビ伝道師の急増とその堕落ぶりの暴露が続いたとか、そういう話があちこちで見られるようになってきたせいもある。さらにその後、ガイアナの人民寺院の集団自殺事件があり、集団自殺する宗教団体というものが現代もなお健在であることが証明されてしまった。さらにその後も、たとえば彗星に乗って天国に生けると信じた、ヘブンズゲート教団の集団自殺は衝撃を与えた。集団自殺でなくても、はた迷惑な宗教は山ほど出てきた。それはオウム真理教の地下鉄サリン虐殺事件なんかを嚆矢とするけれど、それ以外にだっていくらもある。かれらの信じていたちょっとしたウソ、理性とはまったく無縁なところで紡がれていた異様な信念体系が、結果としていかにすさまじい事件を引き起こしてしまったことか。

 旧約聖書を読めばわかるとおり、かつてはユダヤ教、キリスト教だって異様な排外的独善宗教で、神さまのお告げで勝手気ままに隣近所を虐殺してまわり、略奪を繰り返してきていた。またその末裔を自称する(が他からは認められていない)モルモン教だって、その発端では西部開拓者の虐殺を繰り返して蓄財していた宗教だと言われる(当人たちは否定しているけれど)。でも、もうそういう時代はだんだんおさまってきたと思われていた。宗教の持つ力はだんだん弱まって、もっと単純な生活規範や道徳律くらいのポジションになると思われていたところへ、このざまだ。

 一方の、文明に毒されない幸せな原住民という発想も、だんだん崩れてきた。ミードが、暴力皆無でだれもが幸福なフリーセックスの楽園として伝えたサモアは、実は殺人も多く、女性への縛りも厳しい地域でしかなかったし、正直がすばらしい美徳とされていて、ウソをつく人はだれもいないと伝えられた一部のインディアンたちは、実はすさまじい大うそつきばかりの集団だった(だからこそ正直が美徳とされたのだ)とか、みんな文明人たちと同じ悩みを抱えていることがわかってきた。それなら……病気になっても薬のある文明国のほうが、やっぱりいいじゃないか。ウソの宗教がどんなに気休めになったって、おなかがすかないほうが、子供が死なないほうがいいに決まってるじゃないか。もちろん、自然と共存する原住民という幻想は未だに世間的には根強いものではあるけれどね。

 そしてちょうどこれを書いているときに、ニューヨークの世界貿易センタービルへのテロが起きた。

 ヴォネガットは、科学や文明に対抗するものとして、皮肉まじりとはいえ、宗教――それもウソの宗教――を出してきた。ウソの宗教を信じる非文明国。でも、いまのぼくたちは、もうヴォネガット式の皮肉をこめてすら、宗教に頼りきることはできなくなっている。幻想を信じて貧困の中でも幸せな人々――そういう図式を皮肉としてすら、いまぼくたちのすむ文明のアンチテーゼとしてすら受け入れることは、もうできなくなってきているんじゃないだろうか。本書を読む二十一世紀のあなたたちは、どう思うだろう。



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