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納屋の壁のスローガンと、よりよい未来の末路

G. Orwell『Animal Farm』 (2001 年 10 月, IGC ミューズ)解説、pp.120-123)

山形浩生

All animals are equal, but some animals are more equal than others.

 この「動物農場」のラスト近く、納屋の壁にはこの一行だけが書かれている。「平等」の理念をのものを徹底的に愚弄しつくし、風化した人々の理想を納屋の壁から見下ろしてあざ笑い続ける、歴史的な名スローガンだ。さて、ここで問題。

いったい、この一行は、どんな書体で書かれていただろうか。

 もちろんオーウェルは、それについてあまり書いてはいないのだけれど、ぼくたちはそれを推測できるだけの十分な材料を手にしてしまっている。20 世紀の歴史、というか、むしろ人類の歴史において、ぼくたちは無数の動物農場がたちあらわれては消えてゆくのをまのあたりにしてきたからだ。

 *  *  *  *  *  *  *  *

 社会主義、共産主義という20世紀の壮大な(でも多くの人にとってはえらくはた迷惑な)実験が残してくれたものはたくさんあるのだけれど、その中のとっても不思議な部分がある。なぜそれは、どれもあんなに似ているのか、ということだ。

 二〇世紀の社会主義は、成立と同時にすさまじい分裂と抗争と内ゲバを繰り広げた。にもかかわらず、それはあらゆる面で実に似ていた。ことば使い、スローガンの多用、個人崇拝、密告に秘密警察に歴史の書き換え、セクト分裂に粛正。矯正収容所。大がかりなモニュメントの建設。まさに、この「動物農場」で描かれたモデルを、地でいくようなものが、世界各地で繰り広げられた

 なぜ似るんだろうか? 定説はない。一つの説は、ソ連がかつてのロシア帝国主義とナチスにそういう手口を学んで(ソ連はナチスの最大の敵だったけれど、一方でナチスはもともと社会主義政党だったし、さらに敵と味方は似てくるものなのだ)、そしてソ連がそれを世界の共産化を進めるプロセスで教え込んだのだ、というものだ。もう一つは、社会主義とその根幹にある弁証法そのものに、そういう心のウィルスみたいなものが仕込まれているのだという考え方(ただしあまり一般的じゃない)、そして三つ目の説は、これが強力な大義を真ん中にすえた「革命」すべてに共通するものなんだ、という説。

 たぶん、どれもそれなりに正しいんだろう。でも一番本質的なのは最後のやつだ。たとえば中世キリスト教のおそろしいまでのセクト構想。あるいはアメリカ大陸でのキリスト教派閥争い。「赤毛のアン」シリーズを読んだ人は、長老派教会とメソジスト派教会、というのがしつこく登場したのを記憶しているかもしれない。この闘争は、実はもっともっと熾烈なものだった。あるいはかつてのイスラームの派閥抗争。そして記録魔の中国人は、とってもおもしろい例を残してくれている。いまから千年以上前、則天武后という女帝が中国の皇帝の座についたことがある。古代から 21 世紀の現代まで連綿と続く、中国の圧倒的に男性優位の帝国支配の歴史の中で、これはまさしく革命的な一瞬だった。そのときに彼女が採用したシステムというのが、余白のない曼陀羅を中心に据えた仏教原理と、そして動物農場と寸分変わらない、秘密警察に巨大モニュメントにスローガン、さらにはそのスローガンを描いた立て看板にビラの巨大システムだったのだ。

(Note: これについては大室幹雄『檻獄都市』(三省堂)を参照のこと。)

 歴史は(動物農場は)繰り返す。その中世中国の革命がどんなふうに立ち上がってきたのかも、そしてそれがどんなふうに人々に希望を与え、どんなふうに腐敗して、そして最後にどんなふうに人々を抑圧したかも、記録には残っている。それは「動物農場」と寸分たがわない形で起きているのだ。

 そしてかれらの使った看板にビラの巨大システム。それは余白のない曼陀羅を核にしていた、と述べた。ここにぼくたちは、一つのヒントを見ることができる。最近は知らないけれど、しばらく前だとあらゆる大学にはなんとかの左翼系セクトがあって、その人たちはいつも同じことを同じふうに同じ形式で怒鳴り続けていた。一部の大学では、いまでもあの金釘文字の立て看板というのが見られる。あるいは、アジビラと称するものが配布されている。それはどこへ行っても同じ書体、レイアウト、文体になっている。「打倒日帝! 全人民武装蜂起云々革命的共闘」という具合。その美学の一つは、漢字を多くして、紙面いっぱいいっぱいをインキで埋め尽くす、というものだ。寄席の演題は「空いた席のない大入り満員状態になるといーなー」という願をかけて勘亭書体という余白の少ない書体を使うし、相撲の番付も同じ理由で相撲書体という似たような書体を使う。左翼アジビラは別に客が大入りという発想はないんだけれど、埋め尽くしたいという心理は似ている(ただし左翼アジビラはもっとイガイガした角の多い書体だ。これは筆記具のちがいからくる差で……という話はあまりにマニアックだからやめよう)。さらに偏執狂の患者の書く文章や絵も、余白を嫌ってそれを埋め尽くすのが一つの特徴だ。自分がコントロールしていない部分があるのが、たまらなくいやなんだって。

たぶんそこには何か共通する心の働きがあるんだろうね。

 で、ここで最初の疑問に戻ろう。一体動物農場の壁のスローガンはどんな字で書かれていたんだろうか。ぼくたちはいま、かなりの確信をもって推定できるんだ。たぶん、この動物農場の納屋に書かれていたスローガンも、似たような黒々とした余白のほとんどない、太くていかついゴチック書体で書かれていたことだろう、と。「すべての動物は平等であるが、一部の動物はより平等である」!! そこには同じ心の働きがあるからだ。

 同じ偏執狂的な精神がそこには機能しているからだ。

 そして困ったことに、ぼくたちはそこからどう逃げ出していいかわからずにいる。いま、左翼系ビラの構成は、偏執狂患者と似た心性を持っているという話をした。そしてビラだけじゃない。他人に対する不信、被害妄想、自我の肥大——これはすべて、偏執狂の特徴でもある。にもかかわらず、強力な既存体制を倒そうと思ったら(倒さないまでも改善しようと思ったら)、現状に対抗できるだけの強大な原理が必要なことはわかる。そして一つの大きな大義や原理を掲げて、それだけに準拠できると思っている人は、ふつうはまあ融通の利かないやつで、それがちょっと過剰だと頑固なヤツで、それの度がすぎると偏執狂だ。

 つまりこういうことだ。人はなかなか現状を変えたがらない。それを変えるには、何かしら偏執狂的な力に頼らざるを得ない。そしてそれは……動物農場にまっすぐ続く道でしかない。

 そして、ここでぼくたちは壁にぶちあたる。多くの人は、動物農場を社会主義やスターリニズム批判の書だと言って、それで安心してしまう。が……でもそれだけで終わらせたら、この本の本当の問いかけと絶望をぼくたちは見過ごすことになる。なるほど、ブタにやりたい放題させたのはまずかった。でもそれじゃあ動物たちは、どうすればよかったんだろうか。何もせずに人間の支配に甘んじているのがいちばんよかったんだろうか。

 そんなはずはない。動物たちが最初に、人間の支配に不満を抱いてそれを倒し、もっといいシステムをつくろうとしする部分は本当に感動的だ。問題はその先なんだけれど……じゃあ動物たちにはどんな選択肢がほかにあったんだろうか。そして何かを根本的に変えようとする動きが、すべて偏執狂に支配されて骨抜きにされるしかないなら……この先、ぼくたち人間にはどんな選択肢があるんだろうか。「より平等」なブタのいない農場は、どうすれば実現できるんだろうか。「一部の動物はより平等である」。金釘文字のスローガンはいまも納屋の壁から人々をあざ笑い続けているのだ。



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