恩田陸『図書室の海』解説の没バージョン

2005/06/27

 何の因果がどこでどう巡ったか知らないけれど(知ってるけど)、恩田陸『図書室の海』が文庫落ちするときに解説を書けと依頼されたのだった。小物単発原稿は基本的に断らないことにしているので、これも二つ返事で引き受けた……のはいいんだが、大きな問題が二つ。

  1. 恩田陸の本って読んだことなーい……
  2. 普通ならそしらぬ顔で付け焼き刃で読みあさるところだが、依頼がきたときスリランカにいたので調達できないー。

 しょうがないのでかくかくしかじか、というのを担当の方に説明したら、じゃあ適当に見つくろって送りますんで、というので、送られました。

 で、10冊だかもうちょいだか来て、ざざーっと主に飛行機の中で読んだ。まず本題の『図書室の海』。まあまあかなあ。どれも食い足りないとか説明不足気味とか予備知識を要求しすぎているとか、文句はあるんだが。次に読んだのが『六番目の小夜子』でこれは結構おもしろかった。最後に人々の外ですべてを見ているような人形遣いっぽいのを置いたのは、あざといような気もしたけど、いいのかも。『ネバーランド』どんな男子校じゃい、これは、と男子校出身のワタクシはしらけながら読んでいた。『三月は深き紅の淵を』。ここらへんから、だんだん恩田陸のつくりものめいた書きっぷりが鼻につくようになってくる。ほら、なんだっけ、名古屋の工学部の先生の書いてる、Fになるとかなんとか、萌え系お嬢様女子高生と作者のナルシズム全開キャラの出てくるシリーズ。あれみたいな、トリックだけは物理的にはかろうじてつじつまがあっても(とはいえ「すべて仮想現実でした」なんてのがまともな意味でのトリックと呼べるならね)その他すべてがペカペカした感じ。人が死ぬときもちゃんと血を流したりせず、死体も腐ったりせずにロボットが壊れるみたいに「死んだ」と言ってるだけ。『光の帝国』まあオッケー。『夜のピクニック』悪くはないが、そんな絶賛ものだとも思わないなあ。それにみんなこんなうっとうしいありえーん高校生の話を読んでノスタルジーなんかホントに感じられんのか? あともう何冊かきてたような気もするが、覚えてもないなあ。最後が『麦の海に沈む果実』これはホントに読んでて腹がたってくるくらいひどかった。シチュエーションもキャラも全部思いつき並べただけで、それが最後に何かを出すための積み上げにもなってない。どれも読み終わったら、とにかく手荷物を軽くしたいので次々に捨ててきた。最初の数冊はスリランカにおいてきたし、光の帝国はチャンギ空港、夜のピクニックはヨハネスブルグ空港の国際線ターミナルと国内線ターミナルの間のゴミ箱、三月はシンガポール航空の飛行機の中に放置、アムスで捨てたのはなんだっけ、恩田陸じゃなかったかな? 麦の海だけはホントにむかついたので、アクラのスラムのたき火にくべて、復活しないように市場で買った呪術用のトカゲの粉をかけといた。

 で、これを読んだあとでもう一回『図書室の海』を読むと、長編でわざとらしさが鼻につき出す手前のところでどれも終わっていて、最初に読んだときより印象は大幅に改善 (その印象のいい部分については下の解説にいろんな形で盛り込み済み)。さて、どんな解説を書いたもんか。

 で、他の人が書いた解説を読んでみたが……ひっでえ。解説ってこんな身辺雑記の感想文でいいの? これ読まされた人はどうしろと言うの? それと『麦の海』の解説書いてる笠井潔は……苦労したんだろうね。ほとんどほかの小説の話を書いてるよ。でもたぶん恩田読者には漢字が多くてむずかしすぎてまったく読まれさえしなかったと思う。光の帝国の解説は書き殴りが見え見え、皆川博子のはつまんなかったことしかおぼえてない。ホント、文庫の解説ってなんか意味あんのか、と前から思ってたんだが、その感が一層強まる。皆川博子とか笠井潔とか知ってる人は見るかもしれないけど、知らない人には何の意味もない文章。

 というわけで、自分が書くにあたってのポイントが出てきた。

  1. 「解説」ったって改めて説明すべきことがあるわけじゃなし(解題は恩田陸自身が書いてるんだよね)、通俗的な人気ではそもそも恩田陸>>山形なんだから、山形のなんたるかを知らない人でもちょっとは読んで楽しいひねりのあるものにしようじゃないか。あまり読者を馬鹿にしないが、一方で馬鹿な読者でも多少楽しめるようにしよう。
  2. 耐え難い部分もかなりあるけれど、おもしろいところもそこそこある、という恩田陸についての自分の感想には忠実であるべし。
  3. 特に『図書室の海』の、他の作品とつながっているというのを前面に出しましょう。いろんな言及やほのめかしで解説自体が他とつながるようにすることで、外部の作品とつながった短編による『図書室の海』のなんたるかが示される、そんな解説にしたいなあ。

 てなわけで、特に最後のところから出てきたしばりとして、解説の中で収録作品すべてに何らかの形で言及しつつ、それが他のものといろんな形でつながっているのを強調するために、解説全体が本全体と対応するような仕組みを作ろう、というのがあった。最初は、途中に出てくる CEB の図書室の窓から見える海を見て、そこを通るコンテナ船の貨物がレムチャバンやタンジュンプリオクや高雄を通って日本につながるのを夢想しつつ収録作品に言及するような構図を考えていた。最初これを思いついたときはタイトルが『図書室の窓』だと誤解していて、正しい題名に気がついたとき、窓から見える海じゃなくて、海そのものが図書室、という話があるなと思った。本が図書室の海なら、こっちは海の図書室。海そのものが図書室化している。ポリスの名曲「孤独のメッセージ」の最後と、ミッシェル・セール『生成』の冒頭で、海一面がメッセージの入ったびんで埋め尽くされる、というのがあって、それみたいに海が本で埋め尽くされている、というイメージをふと思いついたわけ。さてそれでは、なぜ海が本まみれになってるのか? そう考えると本格的なインチキ小説まがいになる。でも解説してもらうことに関心のない読者が、おまけでもう一編読んで得したような気になれればいいなあ。あからさまな嘘もたくさん入れよう。そんなことを考えつつ、アクラのホテルでこんなものを書き上げたのだった。


海の図書室――解説、のようなもの

山形浩生

 読み終わって、いつものように飛行機の窓を開けて投げ捨てようとしたところで、離陸アナウンスがかかった。「当機はまもなく離陸いたします。お荷物を所定の位置に収納し、座席の背、テーブルをもとの位置までお戻しのうえ、シートベルトと窓をしっかりお閉めください」。A380の機内がざわめいた。向こうではおばさんがボタンを押し間違えて、電動シートの背に押しつぶされかけて大騒ぎだ。しょうがない、後にするか。それにどうせなら海の上のほうがいい。そう思って手元の本をもう一度開いた。恩田陸の短編集『図書室の海』だ。

 空間を無駄にしちゃいけない。余白は埋め尽くせ――都市工学出身のぼくにとって、それはもう本能に近い衝動だった。毎週のように機内から見る世界各地の何もない海は、ほとんど自分に対する侮辱に思えた。あのスペースを埋め尽くせないものか。そう思って四年前から、読み終わった本を飛行機からどんどん海に投げ込むようになっていた。本は海を覆い、いつの日か海の余白を埋め尽くすだろう。
 だが同じ発想の人はじわじわと増え、いまやちょっとした世界運動と化していた。おかげで近海部の余白はすでに相当部分が本で埋まりつつある。今も、入れ違いにメルボルンへと降下する隣の飛行機の窓から、本が雨のように降り注ぐのが見える。「お水のおかわりはいかがですか」とスチュワーデスが尋ねる。

 コロンボ電力庁の図書室の窓からは、抹茶のような水のたまった堀が見え、ペリカンたちがあくびをしている。その向こうには、ムンバイ行きのコンテナ船が本の山をかきわけつつゆっくりと進んでいた。ぼくは手元につまれた恩田陸の本を眺めた。あと九冊か。そして読み終わった一冊を、堀に投げた。本はゆっくりとインド洋目指して流れていった。

クズみたいな映画だよね」隣で機内映画を観ていた華僑系の女の子が、あまりに憮然とした顔をしているので、おかしくなってつい話しかけた。画面ではキムタクと王菲が所在なげにしている。
「そう! 凡庸な思いつきの羅列。ペカペカした派手な意匠。その意匠を下手に説明しようとして支離滅裂に拍車がかかるという」彼女が一気にまくしたてるのを聞きながら、ぼくは読み終わったばかりの本を投げ捨てた。本は雲の中に消えていった。
「そっちは何見てるの? 予告編チャンネル?」驚くなかれ、シンガポール航空の機内ビデオには、映画の予告編ばかり流すチャンネルがあるのだ。「予告編ばかり見ていて楽しいの?」
「予告編には、作品のいいところだけが詰まってるから。映画に限った話じゃないけど。密度も高いし、無理につじつまをあわせる必要もない。オープンなんだ。ほとんどの作品は、予告編を超えることはないと思う」
 ふーん。彼女は急に関心を失ったようで、かばんの中の茶色の小瓶をあれこれ並び替えはじめた。雲がとぎれ、マラッカ海峡のタンカー群が見える。

 落ち方は本ごとにちがう。シートの隅に隠れたり、指にかみついたりして抵抗する。器用なやつはパタパタ飛ぼうとし、あるいは石のように急降下し、中には大気との摩擦で燃え出すやつもいる。最初のうちは、シートの位置次第ではエンジンに吸い込まれるやつも多く、時には運転手が怖い顔をしてやってきたものだ。「お客さん、すいませんが、それやめてもらえませんかね。エンジンが詰まってかなわんのですよ」そういって指さす先を見ると、副運転手が翼の上に出てエンジンを開け、すす払いをしていた。高度一万メートルで大気が薄いとはいえ、時速九百キロではさすがに風圧がきつく、髪が異様な乱れ方だ。「あれで落ちると労災の申請も面倒でしてね。頼みますよ」。だが最近はエンジンにフィルタがついたので、何も言われない。どの本も五秒もすればみんな、観念してゆっくりとらせんを描きながら落ちてゆく。恨めしそうな視線をこちらに向けながら。着水と共に上がる小さなしぶきがあがる。あの本は、どこへ流れていくのだろう。あと五冊。

 一月ぶりの帰国。シンガポールからの夜行便。あと三十ページほどだからこいつを読み終えたら寝よう。そう思ってページをめくっていると、隣の野球帽をかぶったアジア系小僧がいきなり日本語で話しかけてきた。「やあきみはヒロオっていうの? さっきボーディングパスに書いてあったのを見たんだ。ビジネストリップなの? ならどうしてエコノミークラスなの?」
 なんだ、日本人か。経費節減ってやつでな。それと坊や、日本ではいきなりファーストネームで呼びかけたりはしないんだよ。あとな、目上の人間に口をきくときには帽子を取れ。
「へえ、日本では変な風習があるんだねえ。一年前から留学してるアメーリカでは、そんなことは言われないよ。こんど姉のハイスクールのイベントを見物しに日本に帰るんだけど」
 一年でそこまで洗脳されるとは見上げた馬鹿だ、と嫌みを言うのも面倒で、無視して本を読み続けた。が、そいつはお構いなしに、歩くとか秘密とか聞かれもしないことをしゃべり続ける。いい加減うんざりしたので、シートのリクライニングボタンにフォークをつっこんでショートさせた。小僧のシートの背がものすごい勢いで前傾し、そいつは一気にペシャンコになったのに、まだしゃべり続けている。それも暴力はいくないとかこざかしいお題目をたれ続けるのがなおさらうっとうしく、さらに八つに畳んで読了した本にはさみ窓から投げてやったる。白い本が、闇の中でしばらく光りつつ乱流の中で踊り、やがてフッとかき消えた。久方ぶりの静けさが広がり、そこらじゅうで安堵のため息が聞こえた。
「よくやった」と声がした。通路をはさんで、赤ら顔のヤンキーじいさんが片腕でガッツポーズをしてみせている。「おまえがやんなきゃワシがやってたとこだ。最近のガキはまったく躾がなっとらん。ところでさっきの本はなんだ?」
 うーん、あの本は説明がむずかしいけれど、日本人の作家ですよ。ここ二週間ほど、諸般の事情で彼女の本を十冊ほどまとめて読んでるんです。まあ全体に、そうだな、ミステリ系にちょっとホラー系って感じの作家かな。
 「ふーん」じいさんは分厚いペーパーバックをこちらに渡した。「こいつを頼む。ミステリーは好きでな。これもさっき読み終えたばかりだ。ミステリーやホラーの多くには、人間の持つ本質的な欲望に訴えるものがあると思うんだよ」
 えーと、推理小説は、真実の探求という近代思想の反映なのだ、という人もいますが、と答えると、じいさんはせせら笑った。
「馬鹿だね、そいつは。真実の探求なんて、いつの時代にもあった。食い物を盗んだのはだれだ。女房は浮気してないか。サルでさえその程度の真実探求はする。全然ちがうよ。ミステリやホラーの一部が持つ本質は、連続性へのこだわりにある」
 連続性?
「そうだ。地縁、血縁、あるいは単なる運命でもいい。ミステリやホラーは、人のそうした連続性を見いだすところに醍醐味がある。いまは伝統的な絆が弱まっている。だからみんな、それが続いているというフィクションに気休めを感じるんだ。それが時に恐ろしく、悲惨なものや不幸な絆であっても」
 そのまま話がとぎれた。見るとじいさんは、いきなり眠り込んでいた。ぼくは預かったペーパーバックを、太平洋めがけて窓から放り出す。地平線が日の出で赤く染まり出していた。

 アムステルダム便で、隣のおばさんがポロポロ涙を流している。どうしたんですか、と尋ねたら、おばさんは「タルコフスキー」と言うと小さな液晶テレビの画面を指さした。雪の降る教会の廃墟で、水たまりを前に犬と男がじっとすわっている。でも……とおばさんは首をひねった。なんか昔見たのとちがったような気がする。ローマの演説の場面に、あんな石のランタンが並んだりはしていなかったような……。飛行機は着陸態勢に入った。手元の本を大西洋に投げ出してからふと見ると、おばさんはなにやら灰色のものをかみしめている。彼女はきまり悪そうに笑った。お恥ずかしいけど、未だに着陸は怖くてね。怖いときはこれを噛むといいって昔もらったのよ。

 ケープタウンへの機上から本を落とす(あと二冊)。ふと見ると、隣のデブなインド人親父が DVD プレーヤーと格闘している。どうしたんですか?
「いやしばらく前からうまく再生されないんだ。インドを出たときにはちゃんと映ったのに、一眠りしたらもう映らない。路上の海賊版はこれだからまったく!」
いやいや。初心者にありがちなミスですね。ここはもう南半球だから、なんでも逆回りなんですよ。台風も、流しの渦巻きも、カタツムリの殻も、競馬場の周り方も。右利きと左利きの人の比率も逆転しているし。CDやレコードや DVD だって当然逆まわりなんです。
「ああ、そういえば聞いたことがある。えーと……ブロッコリ?」
ええ。まあだいたい。星座だってひっくり返っちゃってるでしょう、とテーブルマウンテン上空の倒錯したオリオン座を指さした。だから DVD も半球設定を変えないと。
「でも変だな、それだと赤道の上なら……」と素人っぽい理屈をこねようとするインド人を遮って、スイッチを切り替えてやると、いきなり銃撃戦の場面らしき音が大音量で流れだした。インド人は慌ててヘッドホンを差し込むと、小さな液晶画面に文字通りかぶりついて、どうやら劇中のキャラになりきったようで、やたらに唇をムニュっとつき出しつつ両手の人差し指を立てて、二丁拳銃をぶっぱなすような動作をしきりに繰り返しつつ、ときどき自分の胸の脂肪を寄せては谷間を眺めてにやついている。それがグロいながらもおかしくて、墓泥棒の話ですか、と聞いてみると、だまれ、というように手をふった。
「何の話でもいいんだよ、おれはこのネーチャンが好きなだけなんだから」

 一区切りついたとおぼしきところで、こないだから気になっていた連続性の話をしてみた。腹をシートからはみ出させつつ、かれは急に真顔になって首を傾げた。「その通りだろう。もちろんその連続性に対して二種類の対応がある。一つは解放の物語。過去の連続性から、主人公が(奇跡的な努力により)解放される物語だ。もう一つは、虜囚の物語。人がその連続性にとらわれ、逃げられなくなる。昔のアメリカ型だと前者が多かっただろうな。いまだと後者のほうか。だが別に後者は悲劇というわけじゃない。人はとらわれることにも喜びを見いだしたりするんだから」
 ふーん。さっき読んでた本の作者は、圧倒的に後者ですね。
「そうか、おれは前者のほうが好きだ。今見てた映画もそうだったし。まあ、それは個人の趣味と、それにインドという国の状況にもよるんじゃないかな」
 日本は後者のような気がしなくもない。
「そうかもしれない。おれは昔、JETプログラムで日本にいたんだよ。その高校にもなにやら代々伝わる鍵の話があるとか。もっとも、まだ三代目とかその程度の若い伝承ではあったがな。生徒たちもそういう連続性を欲してたんだろうな」
 でも現実だって、人はぼくたちみたいに会ったり分かれたり、連続性はあるでしょうに。
「日本人のくせにシニカルだな。それじゃ足りないんだよ。現実と小説や映画はちがうんだ。フィクションには、現実にない確実性があるんだ。たとえば映画なら、この会話は古代秘密結社の謎を解く糸口だ。そしておまえはアンジー・ジョリーで」そう言いつつ、そいつはまた唇をめくらせながら両手で女体の曲線を何度も描いてみせた。空間を三次元的にすくい取りつつ、胸と腰に相当する部分でぐっと揉みしだくような動作が卑猥だ。「そして五分後にはおれとベッドインする、と」。気色悪いのをこらえて、むしろぼくがシャルーク・カーンで、ここらで機内のみんなを従えて一大ダンスシーンを展開するのはどうですか、と答えると、男は大笑いした。この腹だとそいつはちょいとつらいな、といいつつも、ちょっと腕をぐるぐる回して踊ってみせるのだった。「だが現実には、おれたちは二度と会うことはないだろう」

 おもしろいんですか、その本は。ガーナ手前で水を注ぎながら、スチュワーデスが尋ねる。どんな話? うーん、いま読んでるのは睡蓮が生えてくる女の子の話とか。ああボリス・ヴィアン! マドリード大学時代によく読んだわ。その本も噛みつくの? ぼくは敢えて訂正しなかった。噛まないけど、ぼくの心臓は四角いんだ。そのまましばらくだベリつつ、彼女は不思議な表情を浮かべて何度か水を足してくれた。窓の下にはサハラ砂漠が広がり、小さな都市がゆっくりと移動している。こんどの仕事では、あの砂漠のまん中に電気を引きに行くんだ。そういうと、彼女は笑った。あたしも今回のフライトがすんだら、休みを取って、モロッコ旅行をするのよ。前から海峡の南には興味があったし。飛行機は着陸前に、いったん海上に出たけれど、再読が終わるまでもう少しかかりそうだ。この『図書室の海』は。

 おっと事故だ、と運転手が指さした。トラックが女の子をはねたらしい。人だかりの隙間から、血に染まった水色の布辺が見えた。最近多いんだよ、アクラもずいぶんトラックが増えたからね。そういいつつ、かれはそのまま車を進めた。一分もしないうちに車は止まった。海はこのすぐ先だよ。ここからは歩きだ。排泄物のにおいが漂うスラムを抜けると、目の前は一面本に覆い尽くされた海だった。「あそこに岩があるだろう。あの先南極まで、陸地は一切ないんだぜ」と運転手が言う。ぼくは『図書室の海』を取り出すと、そこに投げ込んだ。それはすぐさま他の本にまぎれて、もう見分けがつかない。

2006年4月
コロンボ/ステレンボッシュ/アクラにて


後日談

 ホントはもっと長くて、それをちょいと縮めた。長いバージョンをとっておかなかったのは禍根だ。もっとネタがつまっていたし、短編としてもまとまりがよかったのに (一部サルベージして追加)。が、これでもおもしろがってもらえるだろうと期待して送ったら……没。

 恩田陸の小説に対する批判をバンドルして売ることは商品としてありえん、とおっしゃるのだ。えー、揶揄は入ってるけど批判じゃないのにー、と思ったがそう思われちゃうなら仕方ない。特に、本を投げ捨てるというのが、抵抗があるのだと編集の方。うー、そういえばそういう感覚の人っていたなあ。ぼくは本は平気で破るし捨てるし、本そのものにフェチる感覚があまりないけど、そういやときどき本を捨てると異様な顔をされることがあるっけ。うーん。要するにそれが、恩田陸の本なんて捨てちゃえ、という風に読めるわけか。ちがうんだけどー。本でいっぱいの海、とか、人の手を離れてどこかに漂う本、というイメージを実現するためのアレなんだけどー。でも言われてみれば、そういう解釈もあり得るなあ。

 どうしようか考えてたら「恩田陸の小説が気に入らなかったんなら今回はなかったことにしましょう、原稿料は払いますので」、という申し出を受けたんだが、それは売文の徒としての沽券にかかわりますです。気に入らないものをヨイショするくらいできずに何の物書きか。要求仕様を確認しなかったのはこちらのミス。それに気に入らなかった部分も多々あるが、気に入ったところもそこそこあるのだ。しゃあない。海の図書館のアイデアは捨てよう。てなわけで、一瞬で書き直したら、そっちはオッケーになった。ひねらず、ちょっとでも批判的ととられそうな部分は作らないようにして、とにかくあたりさわりなく。バベルの図書館ネタで似たような論点は出しつつ、それ以外のところはおくびにも出さない……できたものは、あの通りの代物。規格量産品という感じで、そつのなさが読み手から見てもあまりに露骨なんじゃないかとおっかなびっくりではあったんだが (そして実際にはかなり意地悪かったりするんだが)、まあお客様がそれでよいというし、それであれば、こちらはあれこれ言う立場ではない。でも個人的にはこっちのほうに未練があるなあ。というわけでここで公開。ハードカバー版の『図書室の海』は、今頃ガーナの青年協力隊のだれかが読んでるでしょー。

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