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ナンバー23ポスター

ウィリアム・バロウズと「23」

山形浩生

(映画『ナンバー23』劇場パンフ寄稿 2007/11)

要約:映画『ナンバー23』は、23という数字にとらわれた男の話だが、ウィリアム・バロウズもまた23という数字にこだわりを持っていた。


 だれしも、ラッキーナンバーや不幸の数字を持っているものだ。そして迷信とは知りつつも、それを現実世界に反映させてしまったりする。欧米の建物の多くは13階がないし、韓国や中国(そして華僑の保有する世界中の多くのビル)には4階がないのは有名な事実だ。

 だが作家で――小説のネタにするのは別として――こうした迷信を広言する人は意外と少ない。その数少ない例外の一人が、ウィリアム・バロウズだ。

 で、このウィリアム・バロウズというのは……知っている人は説明の必要がなく、知らない人には説明のしようがないという変な作家だ。かれを有名にしたのは、その波瀾万丈の人生だろう。そこそこの良家に生まれ、寄宿学校からハーバード大学というエリートコースを歩みながら、卒業後も親のすねをかじり続け、定職につくこともなくふらつくうちにモルヒネに手を出し、ジャンキーと売人の兼業を続ける。その一方で(迫害も多かった時代に)ゲイを広言。1950年代にニューヨークを中心に台頭しつつあったビート世代と活動し、ゲイなのに結婚して子供まで作る。だがメキシコシティで泥酔して奥さんを射殺、保釈中にモロッコに逃亡。そこで一大決心と共に麻薬を断ち、グロテスクな小話集じみた小説『裸のランチ』を発表して、本格的な執筆活動を開始する。そしてこの一作をめぐる発禁騒動などにより文壇での地位を確立し、20世紀後半のアメリカ文学界における最重要作家の一人と呼ばれるようになった人物。

 かれの小説のかなりの部分は、カットアップ/フォールドインと呼ばれる変な手法で書かれている。新聞、雑誌、自分の昔の原稿をはさみで切り刻み(あるいはそれが面倒なら単に折って)、適当に並び替え、そこに出てくる意外なつながりをいい加減に並べて小説にする手法だ。当然ながら、だれもまともに通読できない。

 だがその中でかれが常にテーマにしていたのは、探偵小説にあこがれた子供時代の思い出とノスタルジー、そして自分が何か「悪しき霊」に操られているという強迫観念、大切なものを自分の手で破壊してしまった深い喪失感。その喪失感は、かれが最後まで小説で採りあげることのなかった、自らの手による妻の殺害であることを、バロウズは何度か告白している。

 ある意味で、かれはこの映画のフィンガーリング/トップシー・クレッツそのものと言ってもいい。  そしてかれは、23という数字にとても執着していた。

 その理由ははっきりしない。かれは小説のネタとして古い雑誌の切り抜きなどをスクラップブックにたくさん保存していた。そしてその中の、特にアル・カポネ関連の各種記事や資料を漁る中で、なんとなく気になる数字として浮かび上がってきたようだ。

 中でも20世紀初頭から特に1920年代に大流行した、「23スキドゥ!」ということば――当時の記事にも頻出した――がバロウズはずいぶん気になったらしい。これは「さっさと逃げ出せ!」「ではおさらば」くらいの意味だけれど、なぜこういう言い回しになったのか――なぜ23なのか、この「スキドゥ」というのが何なのか、諸説はあるが定説はない。

 そしてなぜそれが流行ったのかもまったくわからない。一部ではこれは、アメリカ初の無意味な流行ことばともされる。

 そしてアル・カポネをはじめとするギャングの死には、しばしば23が登場したという。機関銃で23の弾痕をあけられて死んだ大ボス。病室番号。車のナンバー。そこからバロウズは、あちこちに登場する「23」という数字に注目するようになる。鉄道事故の日付。爆破事件の死傷者数。倒壊した建物の地番。かれはこの映画の人々のように、足したり掛けたりたりして無理してでも23を導きだそうとはしなかった。単に生の形で23が登場するのを記録していただけだ。何かある、とかれは思った。そしてそれを、小説の中で何度も使っている。23という数字には、不吉なものがある。いやむしろ23という数字がこうした災厄を呼び寄せているのではないか?

 かれはそれ以上、23についての考察を深めることはなかった。かれはモロッコ時代の「経験」から、魔術や呪いというものが本当に効くと信じていて、人に悪事をはたらかせてしまうような力がこの世にはあると広言していた。「悪霊」「呪い」「瘴気」――23という数字も、かれにとってはそういうものの一つ、ではあった。

 そしてかれは、そういう発想にすがりたくなる理由があった。自分が(明確には)意図せずにやってしまった、とりかえしのつかない悪事がバロウズにはあったからだ。

 それはもちろん、奥さんの射殺だ。

 かれは、奥さんの射殺を最後まではっきり見据えることはなかった。自分はあのとき、何か悪い霊に操られていた、という主張を最後の最後まで(真面目に!)繰り返し続けた。自分がやったのではない、何か悪しき力が自分を通じて発揮されただけだ――そう主張するためには、何かその「悪しき力」がなくてはならなかった。23というのも、バロウズにとってはその一つの候補だったのだ。

 だからかれにとって、悪の数字23は、不吉であると同時に、救いでもあった。自分の罪をかたがわりしてくれるかもしれない数字ではあった。かれは最後までそれに(そして他の不吉な候補たちに)しがみついた。

 これと比べたとき、この映画の最後で行われる選択の意味は明らかだろう。あなたにはどういう選択があるだろうか。バロウズもこの映画も、それを問いかける。

 ちなみに、かれが思うより深く23はバロウズにつきまとっていたのかもしれない。かれの主著『裸のランチ』はなんらまともな推敲をしていないにもかかわらず、(「ナンバー23」と同じく)23章からなる。そしてかれの生家は、セントルイスのパーシング4664番にあった。ここにひそむ23の影を見て取れるだろうか。単なる偶然だろうか? その判断は読者/観客のみなさんにゆだねたい。

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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>
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