ナボーコフのサイン?

(2002.1.16, Update を 2004.9.2 に加筆, Update2 を 2005.5.9 に加筆. ほぼ謎解決.)

 昔、古本屋で買って置いてあった、ナボーコフのインタビューとエッセイと書簡集がある。Vladimir Nabokov Strong Opinions (1973, McGraw-Hill, New York) だ。ハードカバーなんだけど、こいつには変な書き込みがあって、それで値段もずいぶん安かったように記憶している。1,000 円くらいだったかな? 確か駒場の裏にあった古本屋で、大学時代に買ったのだ。もう 20 年近く前になるのかな。内容的には、インタビューは玉石混淆(アルヴィン・トフラーによるナボーコフへのインタビューなんてのがあって、予想通り話しがあんまりかみ合っていないのがおもしろかったりはする。「AT: あなたは精神分析を受けたことがありますか? VN: わたしがなんですってぇ?」という具合)、その他の雑文は、雑誌へのいろんな抗議文が多くて、そういうのが好きな人には結構たまらんですが、純粋にナボーコフの文章が楽しみたい人には向かないかも。

Strong Opinion inscriptionで、この「変な」書き込みにはこうある。

Author's Copy: Please

return to

Vladimir Nabokov
Palace Hotel
1820 Montreux
Switzerland

 Author's Copy? なんで著者の本が日本なんかにあったんだろうか? ちなみにこいつには、ユニ・エージェンシーのハンコが押してある。たぶん、版権取得の判断のためにどっかの出版社がエージェント経由で取り寄せて、東大の先生に下読みしてもらって、その人が返すのを忘れて売り払ったんじゃないかな。だけれど、そもそも著者の本がなぜエージェントの版権打診用のコピーとして出回るのかは謎だ。だれかが「本が手元にないからナボコフさん、ちょいと貸してくれませんか」と頼んだわけ? そんなバカな。出版社から送らせればすむ話だと思うんだけれど。あるいはナボーコフが手持ちを貸したにしても、この一冊にこんな書き込みまでして「返せ!」とこだわる理由はないような。

 まあとにかく、そう思ったのでぼくは長いことこれはエージェントか出版社の人間がやった書き込みなんだろうとは思っていた。他人の書き込みがある本を著者が喜ぶかどうかはわからないけれど、あえて著者がこんなことを書くシチュアシオンというのが想像つかなかったのだ。まあ、他人が書くシチュエーションが想像つくかといえば……つかないけど。

 でも、最近ある古本屋のカタログに、ナボーコフのロリータ初版サイン入りの写真が出ていて、ナボコフのサイン入りの本は珍しいというのでそれがアップになって掲載されているんだが……なんか似ているような気がするのだ。Nabokov の N の右上肩のにょろにょろとか、Vladimir を Vladi mirと切っているところとか、その最後の mir の感じとか。
Strong Opinion inscription Strong Opinion inscription Lolita inscription
(左から、ぼくの手持ちのサイン部分拡大、ロリータへのサイン拡大、ロリータへのサイン全体)

 一方でちがうような気もするが、でも下のロリータへのサインって、結構急いでやったような感じで、一方ぼくの手持ちのやつはもっとゆっくり書いているから、そこからくる差もありそうだ。どうだろう。うーん。これってひょっとして、本人自筆? だとしたらこれって実は結構お値打ちもの? いかがでしょ。もしほかにナボコフのサインとか、その他筆跡鑑定のできる人がいればご意見賜りたく。なお、上の各画像は、表示がかなり小さくなっているので、画像だけ表示させるともっと大きくなるぞ。

その後……

 その後、このページを見た人が、これはナボーコフの奥さんのヴェーラ・ナボーコフの字である可能性もあるぞ、と指摘してくれた。うん、確かにその可能性はある。でもさすがにヴェーラ夫人の筆跡とかサインまではわかんないから……と思っていたら、なんたる偶然、ヴェーラ・ナボコフのサインが出てきてしまった。出所は文芸総合誌『海』発刊記念号 (1969年6月)。ここに、世界のブンガク者に、日本文学をどう思うかとか、日本をどう思うかとか、そういうアンケートをかけたものがあって、ぼくはウィリアム・バロウズ目当てでこれを買ったんだが、なんとその中にナボーコフも入っているのだ。そして、実際にその回答用紙を返送してきたのは「夫の書いた回答をわたしが清書しました」というヴェーラ夫人なのね。それぞれの回答の下には、その人のサインが入っているんだけれど、ここに挙がっているのは本人のではなく、その送付状と回答を書いたヴェーラ・ナボーコフのものなのだ。それがこれ:

Vera Nabokov Signature

 これまでのと比べて、大きな特徴が、Nabokov の頭の N だ。いままでの、活字体のNにひげをはやしたみたいなのではなく、全体が傾いて装飾が文字と強く連続している。それと、Vera の V がすごいな。上の Vladimir の V とはまったくちがう。するとおそらく、上のあれはヴェーラ・ナボーコフのものではないんじゃないか。サインの装飾的な文字と、この本の実用的な文字との差というのはあるだろうけれど。するとやはり……(2002.1.18)

付記。

ちなみにぼくがなぜ、通常のナボコフという表記をしないでずっとナボーコフという表記にするかというと、この Strong Opinions の中にかれが自分の名前の発音について書いているところがあるのだ。そしてそこでかれはだれかの書いた献辞について、「Nabokov を love と韻を踏ませたのには驚いた、おれの名前は第二音節の「ボ」にアクセントがあって、音としては talk of the town の talk of と韻を踏むように発音するのが正しいのである」(pp.301--302) と述べている。あとどこかで「アメリカのバカな連中がおれの名前を、ナにアクセントを置いてバコフと発音するのは許し難い」という発言もしていた。それになるべく近い表記をと思ってのこと。


Update! Curiouser and curiouser!

このページ、これ以上の展開は期待していなかったんだが、 2003年の6月にふとメールがまいこんだ。ドイツの Dr. Dragi Antonijevic ドラギ・アントニエヴィッチ博士、ですか。かれもまた、同じ書き込みのあるナボコフ本をお持ちだそうで。かれのは『ベンドシニスター』だ。

ふむ。ということは、あれはぼくのやつ一回限りのものではなかったわけだ。明らかにナボコフだかその周辺のだれかが、ナボコフの本のほとんどにああいう書き込みをしたわけだ(とはいえ、二冊では統計的に有意ではないけど。他にあれば情報求む)。それが後に、何者かに売られて、世界中に出回った、と。

しかしなぜそんなことをするかな。ぼくは自分の本にそんなことをした試しがない。貸した本が返ってこないのに怒ったのかな? でもふつうはそういうときは、そもそも本を貸すのをやめるだけだ。だいたい、こうやってあちこちに流出しているってことは、かれの戦略はうまくいかなかったようだし。

あと、アントニエヴィッチ博士がこの本を買ったのは、ユーゴのベオグラードなんだって。ベオグラード?(あそこではいまでもある種の犯罪者をラショーモンと呼ぶのかしら) そして東京? なんで? アントニエヴィッチ博士の推理;

シナリオはいろいろ考えられます。たとえば、ベンドシニスターの書き込みに書かれた日時に、ナボーコフは本当にそこにいました。そして1977年に他界するまで住んでいました。ひょっとして、死後にヴェーラが置き忘れて、それをホテルがどこかに寄贈した? 等々。わかったらおもしろいですね。

いやまったくです。別に文学史上の謎がとけるわけでもないし、戦争を防いだり人命を救ったりする謎でもないけど……いやどうかな。国際的陰謀とのつながり! 旧ユーゴ秘密警察がナボーコフの本を使って日本の革マルと連絡を! あるいはもっと現実的には、「ベンドシニスター」の「1974 年 3 月 31 日以降にここに返せ」という記述は、それを書いた時点ではまだそこにいなかった、ということを示唆しているので、引っ越しの際になくならないように書いておいた、ということなのかな? (付記: いや、それはあり得ない。ナボーコフは 1974 年のかなり前からこのホテルにいる。すると、なんでだろう。はやめに届いたってホテルが喜んでキープしといてくれるだろうに。わざわざ「以降」を指定する意味は? それとこの日付は、この記入がすべての本に一様に行われたのではなく、ある特定の状況に対応した一回限りのものだったことを示唆している。なんだろう?)


Further Update! And I think the picture is getting clearer.

さらに驚いたことに続報。インターネットはすごいなあ。2005 年 4 月、アメリカ在住のマーシャルよりタレコミあり。ここを見るとおもしろいよとのこと。行ってみるとポーランド語でのけぞるんだが、ページ中程に、ヴェーラ・ナボーコフのパスポートが出ている (右の画像、クリックで拡大。しかしどっから見つけてきやがった、こんなもの)。vera nabokov passportそこに出ている彼女のサインを見ると……うーん、これはぼくの手元のやつと大変に似ている。V の字も、「海」のサインとはまったくちがったものになっているし。これを見たら、確かにヴェーラのものだと言われても納得するなあ。ちなみに「海」のやつとの差は、おそらくはビジネス用のサインと、もっと社交的な場で使う装飾的なサインとを使い分けてるんだろう、とのこと。なるほど。実印と三文判の差みたいなもんですな。

もう一つの情報源は、このネタをナボーコフメーリングリストに投稿した人がいて、するとディミトリー・ナボーコフがコメントをつけたんだと。「あれは母のだ」とのこと。ただ、ディミトリー・ナボーコフは著名人の子孫にありがちな、オレ様がなんでも正しい、的な尊大さが漂ってるのと、かれは父親のすべてを神秘化したい動機があるので、完全には信用していなかったのだ。でもこれでほぼ確定。

というわけで、残念。ナボーコフのサインではなかった! あとは、まあこれがどうして流出したのか、ということだが、それ自体としてはそんなにおもしろい話でもないし。もうこれ以上の展開はさすがにないかも。

Back to My Top Page


Valid XHTML 1.0! YAMAGATA Hiroo (hiyori13@alum.mit.edu)