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ノーベル賞のえらさ

山形浩生

(毎日新聞 2008年11月3日号?)

要約:ノーベル賞は、それを選考する人たちがちゃんとぶれない評価軸を持って選考しているのがえらいのだけれど、しょせんは毎年数に制限のあるお遊びのようなもので、それをもとに政策方針なんかたてちゃいけない。それは自分にまともな評価尺度がありませんと認めているに等しい。実際ないんだけどね。


 ノーベル賞が創始されてすでに百年以上がたつ。その間にノーベル賞は、世界で最も権威ある賞の一つとして揺るぎない評価を得ているのだが、そのご威光が強すぎて、変な使い方をされるようになっているのは残念なことだ。たとえばノーベル賞X人を政策目標に、といった使われ方だ。あらゆる賞と同じく、ノーベル賞も基本的にはお遊びの一種なのだから。

 ノーベル賞の権威は、とりもなおさずその選定者たるスウェーデン王立科学アカデミーの鑑識眼を見事に示すものだ。もちろん人間のやることだから、完璧ではない。だが細かい批判はあっても、その選考は地味なものから派手なものまで、それぞれの分野における重要な業績をかなり拾えている。

 しかもすごいのは、既存の評価にとらわれず、独自の判断で重要性を評価できることだ。たとえば二〇〇二年の田中耕一。他の賞を考えてみるといい。修士号すらない一企業研究者にすぎない田中耕一など、他のどんな賞でも候補に挙がるまい。ノーベル賞受賞者は、自動的に日本の文化勲章をもらえる。でもノーベル賞がなければ、田中耕一は生涯文化勲章とは無縁だっただろう。それは文化勲章の不見識を照明しているのだ。

 また経済学賞は、必ずしも主流でなかった業績に脚光を当ててトレンドを作る先駆的な役割も果たしているとされる。まあ平和賞は例外だが、流行と関係なく重要なものを指摘する能力こそが、ノーベル賞の権威にもつながっているのだ。

 というわけで、そういう鑑識眼に裏打ちされた賞を日本人がたくさん受賞したのは、とてもめでたいことだ。だがノーベル賞は完璧に学問的業績を網羅するわけじゃない。この人にあげないのはおかしい、といった議論はいつも出るし、同じ賞は三人までという人数のしばりもある。だからこそ、それはお遊びの一種だ。ノーベル賞をもらえたらすごい。でも、もらえなかったらすごくないという性質のものじゃない。

 だからノーベル賞受賞者数を政策目標に使うような発想は、ぼくは歪んでいると思う。それは、自分では評価できませんという無能ぶりを告白しているに等しい。だからぼくは日本に必要なのは、ノーベル賞受賞者そのものより、研究や業績を王立科学アカデミー並の見識と主張をもって評価できる人や組織の育成じゃないかと思うのだ。日本でも、何かノーベル賞に比肩するような世界的な賞を作ってみてはどうだろうか? 業績に対するきちんとした評価が存在するとなったら、日本の研究者だってもっと張り切るのでは?

 もちろん……おそらく無理だろう。日本ではそんな賞はすべて地位と経歴と学閥内の力関係で決まり、下馬評は事前にだだ漏れとなり、受賞目当てのロビイングが横行、結果としてだれも見向きもしないつまらない賞になりはてるだろう。それが日本の問題なのだ。そしてそれが逆に、百年以上も強い独自性と権威を保ち続けているノーベル賞のえらさを物語っている。

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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>
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