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論点:高校生と教養――出題範囲はいらない

(『毎日新聞』2006年11/18号 13面「主張 提言 討論の広場」)

山形浩生

要約: 試験に出ない科目は必修でも授業で教えない高校があって騒がれているけれど、高校生に必要な教養のあり方を考えたとき、そもそも試験範囲とか出題範囲とか決めずになんでもありにしてしまえばいい。最近の教養低下は、教育が合理化してピンポイント的なノイズのない教え方が可能になったせいで、未履修問題も、そのピンポイントのなれの果てなんだから。




 教養ということばには、何となく二種類の意味がある。一つは、たとえばピタゴラスの定理も知らないとは無教養な輩だ、といった一般常識的という意味での用法。そしてもう一つは、バッハを知らんとは教養のないやつめ、といった実用と離れた文化的素養の有無を指す用法。

 さて、かつてはこの両者は結びついていた。何か実用的なことを調べようとしても、必ず余計なノイズ情報がついてきた。バッハについて知りたければ、昔は百科事典や「クラシック音楽の歴史」とかいう本を見るしかなくて、その過程で否応なくベートーベンやワグナーについても知識を得ただろう。それが教養だった。

 それに価値があったのは、実用性とも関連した定番の知識体系を前提として、その体系をどれだけ知っているかを計る指標になったからだ。文学という体系なら、村上春樹と言っている子はベストセラーくらいは知ってる。ガルシア=マルケスまで知っていれば、ノーベル賞クラスはおさえているな、という感じ。残雪がどうしたとか口走るやつは、ちょっと尋常でないマニアということになる。

 入試だって「Aを知ってればこのあたりのことも当然知ってるはず」という想定に基づいている。スリランカの首都を知っている子は、そこが島国で準内戦状態が続いているくらいの漠然とした知識はあるはずだ。金正日を知っている子は、北朝鮮の悲惨な状況も知っているだろう。でも、いまはちがう。チャート式とグーグル検索とパワーポイントの資料で、ノイズ抜きに純粋にAのことしか知らない連中が一般化してきた。

 それが結局は教養の衰退だ。それは情報探索や勉強に伴うノイズが減り、学習が合理化・純粋化された裏返しでもある。でも純粋培養はひ弱になりがちだ。人々は何となくそれを危惧している。

 さて本稿のテーマは、高校生に必要な教養とは、というものだった。でも以上のような理由から、必要な教養は一覧にはできない。それはオマケ的な付随ノイズの集積だからだ。そして履修問題でも、本当の問題は履修自体ではなく、そのレベルの知識体系修得の有無だ。その内容は昔なら日本史でも地理でも当然他の勉強の過程で知ってるはずだった。それが期待できないから、話が面倒になっている。

 じゃあいかにして学習の合理性に抵抗して勉強にノイズを増やすか? もし学生が入試に出ることしか勉強しないんなら、入試で出題範囲を決めなければいい。ぼくの高校の歴史の先生は、定期試験のたびに「きみたちが生まれてこの方学んできたすべてが範囲です」とのたまった。それをやればいい。別のやり方が、一時はやったトリビアだ。実用性と離れた知識がトリビアとして価値を持つという認識がもっと共有されればいい。が、それがどこまで可能か。そして長期的には、結局今みたいな体系としての教養のあり方を見直し、ネット時代の知の共有方法をうちだすべきなんだが……それがどんなものやら、ぼくにさえ皆目見当がつかない。

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YAMAGATA Hiroo<hiyori13@alum.mit.edu>
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