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解説:我一介の滑稽なり

大室幹雄『滑稽』(2001、岩波現代文庫)解説 pp.378-385)

山形浩生

 まずは基本的な情報から。本書は、古代中国を徘徊していた遊説知識人たちについて分析・論述した本だ。遊説知識人と言ってわからなければ、孔子とか、孟子とか、荀子とか、あなたのさぼっていたつまらない漢文の授業(いや、最近の「ゆとり教育」と称する衆愚不教育のもとじゃ、もう選択科目にすらなってないのかもね)にでてきた、いろんな「子」のつく名前の人たちのことだと思えばいい。そうでない人もちょっと入っているけれど、まあそれについては中身を読んでくれ。
 本書はそういう本だ。

 たぶん、これだけで買い気をそそられる人はあんまりいないだろう。あの「子曰く」とかの世界を思い出すだけで、多くの人は睡魔の猛攻にさらされるからだ。でも、慌てて本書を置く前に、もうちょっとだけ話をきいて欲しいのだ。理由は二つある。孔子とか孟子とかは、一般に哲学者(場合によっては宗教家)だと思われているのだけれど、本書を読めばまったくちがう存在としてかれらが浮かび上がってくる、ということ。本書でクローズアップされる遊説知識人たちのありようは、いまの企業や社会で活動している知識人やコンサルタントたちとまったく同じだ。本書を通して、かれらの活動した古代中国の世界が、まったく別の迫力をもって目の前に浮かび上がってくる。そしてもう一つ、そうした遊説知識人たちの存在や活動パターン、そしてそれが社会・世界・都市において果たした役割を見ることで、逆に現代の知識人やコンサルタントたちの存在意義や根性、社会的なメリット、デメリットがくっきりとあらわれてくる、ということ。これは古代中国についての本でありながら、古代中国の歴史的なおさらいにとどまらない。もっと普遍的な、内容を持った本だ。本書はいまをさかのぼること十五年前に、ぼくの古代中国に関する目を変えると同時に、現代を見る目をも変えた。そしてそれは、あなたの目をも変えるだろう。
 さて、これでちょっと先を読む気になったかしら。

 ではまず最初の点から。孔子や孟子やら荀子やらあの手の人たちは、親を大事にしなさいとか、先生の言うことはききましょうとか、目上は敬えとか、法律はきちんと守ろうぜとか、勉強しろとか、なんかそんなお説教をいっぱいやっている。でも、この人たちは別に街角で人々にこういう道徳話をしていたわけじゃない。かれらは、各地の為政者に対して国家の運営方針の一貫としてそういう道徳話をしていたわけだ。孔子は、昔あった理想国家周の旗をふって、その理念に戻って国家運営を行うことが繁栄への道だ、と主張していた。礼節っていうのは、別にマナー教室じゃない。理想の国家運営をするための手段だった。
 そして、遊説知識人たちはそれぞれ独自の(あるいはだれかの受け売りの)理念を掲げて、それを各地の為政者に売り込んで歩いた。自分の主張する理念(と政策)を採用すれば、御国の発展まちがいなし! 国家安泰、子孫繁栄! もちろん、実際にその理念を採用してみても、国はいろんな原因で不況になったり戦争で負けたり滅びたりする。でも遊説知識人たちは、それが自分たちの理念がまちがっているせいだとは絶対に認めない。繁栄すれば、オレが正しい。衰亡すれば、それはその為政者がきちんと自分の理念を実践しなかったせいだ。こうしてかれらは、自分たちの理念を採用してくれる(つまり自分のクライアントになってくれる)為政者を捜して、世界をうろつくわけだ。
 これはまさに、現代の経営コンサルタントと称する連中のやっていることと同じなのね。あっちへ行っては「IT化をはからなきゃいけませんよ」と能書きをたれ、「リストラと合理化こそ企業発展の道です」と説いて回る。そしてその説いている中身も、いまも昔もほとんど変わらないのがげんなりするところ。インセンティブの明確化、権限の集中(または分散)、指令系統の明確化、不合理部門の切り捨て、国民(社員)の意見に耳を傾けよ――ないのはIT化の推進くらいかな。そして、自分を高く買ってくれるクライアントを求めて世界中をうろうろするところもいっしょだ。ついでながら「変革はトップから始めなくては」と言って必ず国/企業のトップに取り入ろうとするところもそっくり。そして分不相応なくらい高いコンサル料をまきあげるところまで。一部のコンサルは、本当に自分の主張を信じているし、また一部は完全にその場しのぎで、言うことをコロコロ変えて、とりあえず手早く金を稼げればいいと思っている。それもまた、古代中国でたっぷりと見られた現象だった。もちろんいまのコンサルは、自分では何もしない。かつての木片のかわりに報告書を上奏し、演劇的な弁舌にかわってパワーポイントでプレゼンを行い、でも実際に何かをする段になると「それはあなた自身がやらなくてはいけません」と言ってケツをまくる。その点、昔の知識人は自分でそれなりに政治に首をつっこんで、あちこち使者として活動したりもした。でも、その性根は二千年の時を超えてまったく変わっていない。この本のさまざまな知識人たちの描写を通じて、その変わらなさぶりには呆れるというか驚くというか。

 でも、このくらいのことなら他の本にだって書いてある。一時の『プレジデント』誌だってその手の特集は何回かあった。「諸子百家に学ぶ、乱世を生きる覇者の道とは」とかなんとか(もちろんそこではこの知識人たちの主張が完全に真に受けられていたのだけれど)。この本のおもしろさは、その遊説国家運営コンサルタントたちの位置づけにある。古代中国においてかれらは「滑稽」――つまりピエロの一種だった。のべつまくなしにしゃべりまくり、常人離れした記憶力をもとに屁理屈をこね、白を黒と言いくるめる――こうした能力は、ニワトリの鳴き真似をしたり、イヌの真似をしたりする芸人や軽業師の芸とほとんど同じ扱いだった。各国の為政者は、食客と称してこうした変な芸のある連中をいっぱい養っているのがいわば甲斐性みたいなものだった。知識人たちも、大半はそうした芸人集団の一部、でしかなかった!
 もちろん、そうじゃない知識人もいた。権力の懐に食い込んで、金と力を欲しいままにした人たちも少数ながらいた。でも、その人たちでさえ、かれらの成功の鍵となったのはある意味でその芸人たちに通じる滑稽としての才能だった。それは、ある種の情報収集能力、プレゼンテーション能力と心理的な操作能力といったところだろうか。そして同時に、その知識人/滑稽がまともに堅実な商売や事業を行う人々ではなく、社会にとってはなくてもどうってことのない、なにやら周縁的な存在でしかないということ、そしてそれ故に、かれらが常に社会的に疎んじられていたこと――まさにそれこそが、かれらの成功にとって不可欠な要素だった。
 この記述自体は、知識人たち(当時もそうだが、いまはなおさら)にとっては、おもしろくないものだろう。インテリは昔から、プライドばかり高くて、自分こそは世界に不可欠な存在であり、肉体労働や実業に精を出す人たちよりも知的労働に従事する自分たちのほうが優秀で人間としてのレベルが高い、と思いこんでいるものね。
 でも、実はそうじゃないのかもしれない。本書はそれをじわじわと教えてくれる。
 いまの人々も、実はそれを薄々とは知っている。日産自動車の経営改革にカルロス・ゴーンが呼ばれてきたように、大きな改革をしようとするときになるべくその組織にとって外部の異人を使おうとするのは常道ではある。
 でもその一方で、現代の社会はあまりにこの知識人の滑稽としての位置づけに鈍感でもある。現場で接している人は知っているだろう。経営コンサルなんてのが役にたつことはほとんどないこと、経営コンサルの多くは、自分でまともに事業を切り盛りできやしないのに、他人には指図ができると思っている夜郎自大な連中だということを。でも見てご覧。テレビにも新聞にも雑誌にもありとあらゆるところに、現代の滑稽たちが顔を出してはしたり顔で、ああだこうだと能書きをたれている。あらゆる国たちの政府には、学者やコンサルや通俗評論家がびっしりと入り込んでいる。それは本書で描かれている、滑稽の体制化の(二千年後の)結果ではあるのだけれど。そして本書は、その滑稽たちを登用した皇帝たちについても多くの紙幅を割いているのだけれど、そこでのメッセージはある意味で、滑稽を使うにはその皇帝たちもさらに上手の滑稽じゃなきゃならない、ということだ。趙の武霊王、殷の紂王、そして漢の武帝――かれらの滑稽ぶりに匹敵するほどの大滑稽が、いまの知識人を使うはずの機関のどこかにいるだろうか?

 これまで説明してきたのは、この本の比較的わかりやすい部分だ。でも本書の射程は、こんなものではすまない。こうした知識人/滑稽たちの存在と、そしてそれに対する皇帝たちの位置づけをを描きながら、本書はかれらの活動した古代中国の世界観や宇宙観にまで話は広げってしまう。かれらの「遊び」と「パフォーマンス」こそが、一つの大きなステージだった世界をも規定している! この飛躍しているようで実に堅実な論理構築は、とてもこんな解説ごときでまとめ切れる代物じゃないない。でもこの大風呂敷こそは大室幹雄の真骨頂とも言うべき部分だし、そしてそれはいまの世界のありようにも、なにがしかの光を当ててくれるものではある。この大室幹雄という著者の常として、決して明るい光ではないのだけれど。そしてそれは、大室のライフワークとも言うべき化け物シリーズ『劇場都市』を予告する光でもある。
 以上が最初に述べた、この本の効能だ。どうだ。こんな小さな本にしちゃあなかなか大した効能だろう。そろそろ本文を読もうという気になってくれただろうか?

 実は……冒頭には書かなかったけれど、本書にはもう一つ効能がある。本書は古代中国への目を変え、そして現代の世界への目も変えるだろう、とぼくは書いた。でもそれ以外にもう一つ。この本は、少なくともぼくにとっては(そして読者のかなりの部分にとっては)自分自身への目をも変えるものでもある。

 十五年前にこの本を初めて読んだとき、ぼくはまだ学生だった。いま、ぼくの本業の肩書きはコンサルタントだ。あるいは副業の肩書きだって、泡沫ヒョーロンカでしかない。気がついてみたら、こうしてぼくは自分自身が現代の滑稽の一人となり果てていたのだった。しかも、世界の中枢にすら入り込めていない、無数の泡沫食客滑稽コンサルの一人に。
 これはある意味で、いやな認識ではある。コンサルタント自身(つまりぼく自身)は、自分が滑稽だとは思っていない。きちんとしたリサーチに基づき、合理的な分析を行い、有効性の高いソリューションを顧客に提供しているんだと思いたい。社会にとって有用な役割を果たしていると思いたい。
 が。
 いまこの本を読み返すと、そこには鏡のように自分自身が映っているのが見える。そしてその自分自身の鏡像は、なにやらニヤニヤとこちらをあざ笑って眺めている。おやおや、悦に入って滑稽の話を読んでいるつもりが、そこに描かれているのはまさにおまえ自身じゃないか。しかも、おまえなど卑しい滑稽としたってまだまだ三流じゃないか。本書はそう語る。そしてまた、本書を読むであろう知識人またはその予備軍、そして大なり小なりある種の情報プレゼンテーションに関わり、都市的な文化の中に生きる多くの人たちも、いつのまにやら本書の中に、自分の姿が描き込まれていることを見いだすだろう。この本は実はぼく自身についての本でもあり、あなた自身について書いた本でもある。あなたにはそれを認めるだけの覚悟があるだろうか。初読から十五年たって、ぼくはやっとこう言えるような気がする:我一介の滑稽なり。
 あなたはこれが言えるだろうか。
 さあ、準備はできた。そろそろ本文にとりかかってほしい。

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