山形浩生 Microsoftとオープンソース関連インタビュー記録  (7/24/98 16:00~)

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山形浩生氏

山形氏は、翻訳業の傍らLinux Communityにも参加しており、Linus TorvaldsやRichard Stallmanへのインタビュアーとして知られる。



ポイント

――Linus TorvaldsやRichard Stallmanに直接インタビューした人として…

山形: ひとついっておくと、ぼくもLinus Torvaldsに直接会ったわけではなくて、あれ(インタビュー記事)は専ら電子メールを通じて、やりとりをしていた。あと、Richard Stallmanは、「キーボードは手が痛くて打てない」って言うんで(笑)、電話でやった。彼とはMITに留学していたときに顔は合わせているんだけれども、向こうはエライ人だし、顔を憶えていただくとかそういうレベルの話じゃなかったので。

――そうですか。

山形: ただ、フリーOSとかオープンソースとかの連中というのは、すべてほとんど直接顔を合わせることはないといってよくて…

――メールが当たり前…

山形: だってこないだまでLinus Torvaldsなんてフィンランドにいて、誰が行くんだっ?っていう感じだったから(笑)。

――なんでこの世界に入ってきたのか?

山形: 最初は、簡単なプログラムを…。コンピュータとの付き合いは古くて、78年とか80年とかその頃(8ビット時代)から、自分でハンダごて握って作ったり、そういうものに興味はあった。それは中学生とか高校生としての興味という話で、実際の専門分野というのは、建築よりの都市計画だったわけなんですね。大学にいってそういう構造計算とかでコンピュータとか使う機会はたくさんあったし、それこそEmacs使わなきゃいけないとか、UNIXいじらなきゃいけないとかいうのはあって…。で、MITに留学させてもらったんだけど、当時これからインターネットっていうときで…

――何年くらいの話?

山形: 93年から95年まで。ちょうど、アル・ゴアが「情報ハイウェイ!」とか言い始めた頃。で、これは面白い、と。Mosaicが初めて出てきたころで、そこでいろんなNewsgroup見たりしていくと、なんかどうもLinuxっていう変なものがあるらしい、っていうウワサになって、「えっ、タダなのぉ?」(笑)、で、最初はダウンロードして使おうとするんだけど、どうやったら使えるのかぜんぜんわかんなくって、そしたらそのうち、ちょうどいいタイミングでCD-ROMが入っている本が出回るようになっていて、「じゃあ使ってみようか」ってやったら、あっさり動くと。
  で、(だいたいこの世界に入る人はそうなんだけれども)、使ってみるとすぐつまずくので、Mailing ListとかNewsgroupとかで、質問する。それで、だんだん(Communityに)入ってくるようになって、そのうち、「はい、動いた」。
  設定もなんとかまがりなりにできるようになって、次に「日本語を使いたいんだけどな」という話になってきたときに、ドキュメントがあるようなないような…。で、一方、自分でも答えられるような質問をするやつが他にいっぱいいて、「いやそれはこうこうだよ」、と書くと結構感謝される。そんなうちに、なんとなく身内意識っていうか、「あ、おれもいっぱしの人間かな」みたいな意識がでてくる。そうこうしているうちに、「おまえ日本人だろう」「そうそう」、「これで日本語使ったりするってできんの?」「できるらしいよぉ」「教えてよ」って話になってくると、最初は見よう見真似で教えているけれども、よく見るとドキュメントが全部日本語でしかないから、「これ、英語に変えちゃろうぜ」っていって英訳をする、というような作業がでてくる。逆に日本の方でもLDPのプロジェクト、Linuxのドキュメントを全部整理しようというプロジェクトがあって、これを日本語に直すというのが、人手が足りんと。「あ、そう。じゃ少しやろうか」、という具合に参加するようになっていった、ていうのが実状です。

――例えば、パッチを作ったときにそれを採用するかしないかはどのように決まるのか?

山形: 使う側が勝手に決めればいい。まず、それがポジションその一。別に、例えばLinuxならば、Linus Torvaldsが、「俺がこうと言ったらこうなんだ」といって決めていくラインがある。あと、Emacsならば、Richard Stallmanが、「死んでもUnicodeを使うんだ」。それに対して、もう1個別のラインを設けて、例えば電総研の半田さんたちがMuleを一生懸命やって、やがて、Richard Stallmanがそれを無視できなくなって、「じゃ、それを一本化しましょうか」という話になる場合もあるけれども、基本はその、プロジェクト仕切っている人間が決める。で、例えばぼくが、「Muleってこういうとこがやだな、おれならこうする」って「Stallmanがどう言おうとそうする」っていうのがあって、それは自分でつくる。で、それを例えば、「これは非常にいい加減なパッチだよぉ」と宣言して、「使いたい人は使ってぇ、でもおれ保証はしないから」というかたちでばらまくことは充分可能。ただし、それを見ていいなと思ったら今度はそれをStallmanは次のリリースに採用するかもしれない、しないかもしれない、というのを決めるのは彼。

――開発をコアと周辺にわけると、キーマンはだいたい何人くらい?

山形:会社組織のように動いているわけではないから…。

――コアに関っている部分は10数人で動かしていると聞いているが?

山形: なにをコアとするかなんだけれども、Linuxくらいデカくなってしまうと、いろいろサブグループに分けて、「ファイルまわりちょっとやってくれ」とか、「入出力まわりちょっとやって」とか、部分ごとにわけて、その部分ごとの責任者というかたちでならば、それは10人とか20人とかいう世界になると思う。で、ただ、それ以外の人がそんなに貢献していないかといえば、そんなことはなくて…、何人とも言い難いな…。

――ものすごく有機的に動いているっていうこと?

山形: ぱっと見て「あっ、ちょっと違うぅ!」って言ってそれを一生懸命シレっとパッチ書いて送る、それだけ、っていう人も結構いるし、ま、たくさんやれば認められるっていうか有名になるし、少なければ、でも一応「ありがとう」ぐらいの明示もでるし。それは、広がったり小さくなったり…

――最初の印象は?

山形: そうだなぁ、月に一度ぐらい、「Linuxはすばらしいぃ!」って言う人と、「Linuxなんてもうダメだよ!」なんていうやつがバッと入ってきて、「てめえ、なにを言うかこのバカやろう」(笑)、ってみんなでボコボコにするっていう、それが延々と繰り返していて、ていう感じなんだけれども、ただ、一方でその、そうねぇ、だから意識的にある段階から・・・

――やっているうちに、自然にどんどん入っていっちゃって…

山形: 実際読んでいるだけなんですよね、やっていることっていうのは。俺にも答えられるとか、俺知ってるとかいうのには返事だすっていうそれだけの話なので。それからぼくは実際にソフト書けないので、文書を見て「ここんとここういう説明足りないからこういうのつけたら」という意見を書くとか…、そういうのから入ってくるうちになんとなく、「おれも一味だな」みたいな感じになってくる。

――いちばんの利点は開発のスピードが速いことという理解でよいか?

山形: いいんじゃないかしら。いちばん簡単な例として、NT4.0のパッチというかバグフィックスというのは、まあ、サービスパックと称する代物が三つほど出たのかな?そのぐらいの頻度でしかでないけれども、Linuxの場合、何かあったら24時間以内に誰か何かしら結果出すよっていう、そういう意味では速い。たぶん、そこには一つ、役割分担のさせ方がうまい、というのも当然あるんだろうと思う。それはおそらく、LinuxがベースにしているUNIXのアーキテクチャがきれいにできてて、だから「ここんとこおまえね」とか、「ここんとこちょっと直せる?」とか、こっち直すとあっちの方に波及するとかあんまりなしに、分担できるっていうようなメリットも多分あるんだろうとは思う。
  NTの中身がどうなっているかは我々の預かり知るところではないけど(笑)、たぶん、もうチト汚そうだなという印象はかなり持っていて、どうもこっちを直すとあっちが直らないとか、バグの流し方もあんまりキレイとは言えない、いくつかどうもきちっと考えられていない、と思うところもある。
  おそらく、新しいアーキテクチャーでOSを最初っから、まあ最初からじゃないのかもしんないけど、かなり低いレベルから作りだした故の欠陥みたいなものを、NTは抱えているんだろうと思う。それ故に、非常に根っこの部分をどうする、という問題を常に走りながら考えなければならない辛さがある。
  LinuxはUNIXという基盤のアーキテクチャーがあったんで、それにのって非常にうまく作業を進められたという部分もたぶんあるんだろうと思う。あと、信頼性という意味では、例の「伽藍とバザール」にもあったけれども、まあ、いろんな人がいろんな環境で使っているんで、その中の人がさっき言ったみたいに、「ハードじゃうまく動かなかったからこう直したらうまく動いた」というのを、たくさんやっているうちに、まあ何かしら非常に堅牢性の高いものができた。
  で、実際問題として、それがちゃんと動くというのは、かなり驚くべきことで、あの「伽藍とバザール」というのは、ある意味でほんとにその分野に長いこといたハッカーが、驚きながら、その驚きをちゃんと書いているという意味で貴重な文章なんですけれども、確かに言われてみれば、「よくもまあうまくいっているもんだな」というところはある。
  で、それがなぜかというのは、いまだにきちっと分析はされていないし、ひょっとしたら運が良かっただけかもしれないという見方も(笑)充分あると思う。あらゆる時点で無数のプロジェクトがあって、「Linuxアナウンスメント」というNewsgroupに行けば、「俺始めた」とか「こういうのしたい」とか、で、あの、とりあえず趣意書だけ書いたとか、そういうアナウンスって山ほどあって、それは次々に消えていくし、だからひょっとしたら「下手な鉄砲も数打ちゃ」という世界なのかも知れない、その辺はまだ誰にもわかっていない。

――アーキテクチャの開発(優秀な小人数のプログラマー)とバグフィクスのプロセス(膨大な参加者による迅速な対応)を分けて整理することは可能か?

山形: これも「伽藍とバザール」に書いてあった話しだし、実際僕らがドキュメント作るときもそうなんだけれども、アーキテクチャを作るときには確かにある程度小人数の方が、決めやすいというのはあります。ただ、それも一人がゼロから決める必要はなくって、「あっちにこういうのがありまして、それをベースにして、これはここをこういうふうにしたほうがいいと思うから」、っていうかたちでいい。
  Linuxだってゼロから考えたわけじゃなくって、 Andrew TannenbaumのMinixをベースにして、それをまあパクるというわけじゃないけど、これだと386は使えないから、使えるように変えました、というのが最初。Minixは、もともとあったUNIXをベースに、これをIntelで使えるようにするにはこれくらい削って、っていうんで作ったわけで、多分最初のベースとなるアーキテクチャの部分というのは、一時に10人から20人かかってできるもんじゃないというのは正しいと思います。
  ちょうど今仕事でITS(Intelligence Transport System)のアーキテクチャをどうしようかという話をやっているんだけれども、アメリカ人やイギリス人が言っていたのは、アーキテクチャの基本的なところを決める段階というのは、せいぜい作業できるのは2人とか3人、一応全貌が分かっていないと話ができないなと。それに対して、いったんできあがったら、それに対してコメントをもらうのはたくさん人数そろえた方がいい。たぶん、オープンソースの場合も同じ事が言えてるんだろうと。ただ、そのアーキテクチャはゼロから始まる必要はなくて、少数の人が、「おれはここまでやった」、じゃあそれを次いで次の人がそこまでやった、というかたちで持ってきて、で最終的にこういうOSならいろんなことができるなというのが見えた段階でワーっと人が集まってくる、そういう話だと思います。

――このような動きはインターネットが引き金をひいたと考えてよいか?

山形: ある程度はいい。でも、最初の頃のLinuxとかFree BSDの配布ってどうやってたか知ってます?

――いいえ。

山形: いろんな人がですねぇ、Floppyを30枚くらいあるものを送ったり、あとDiskとかTapeの回覧っていうのをやっていたんですよ。いろんな大学とかグループ毎にTapeが1本あってそれを回覧してくんですよね、物理的に(笑)。送ったりして、自分のところでコピーしたりしてそこに入れて、っていう。それからあと、狭い日本だからできたって話しもあるんですけど、たまにユーザーグループの集会みたいのがあったときに、「新しいDistributionが来てましたっ!」ていうんでみんなガーっとコピーするっていうね、そういう世界で、今ほどはインターネットはすごくなかったんだけど、ただメッセージのやりとりとか、連絡とりあうとかいう意味では非常に大きな要因だったと思う。

――リーダーとしてLinus Torvaldsがやっていることは?

山形: 彼がやった一番偉いことっていうか、このテのプロジェクトでうまくいくためにまず一番最初に必要なのは、兎にも角にもベースのところをつくって、「あっ、ひょっとしてこれ、もうちょいつつけばなんかものになるんじゃない?」ってみんなに思わせなきゃいけない。
  Linus Torvaldsはうまいことそれをやって、しかもタイミングが良かった。Minixは386で動かなくて、Linusはたまたま386の動く機械を持っていて、それのメモリ管理とかちゃんと使いたいな、っていうんでLinux作りました、と。で、彼一人でうじゃうじゃ作っているうちに、なんかプロンプトや、基本的なI/Oぐらいはできるようになった、しかも386で。ちょうどPC互換機の大勢が286から386に変わるタイミングとマッチした。
  Linuxが出たときに、Minixを作ったTannenbaumとすさまじい論争があった。「Linuxのアーキテクチャは古くさい」って話がTannenbaumの最大の批判で、確かにその通りだと。Linuxは最新鋭のアーキテクチャを使ったカリカリのOSではないんですね。古くさいといえば古くさいんだけれども、でも動くと。あと、もう一つは、「これは386がなきゃ動かないじゃないか、我々貧乏人は386なんかもってないんだ」(笑)。と、いう批判をやりとりしている時期が1,2カ月続いたんだけれども、「我々は持っていない」というのが、少数派になるというのが見えてきた時期だった。彼は別に計算してやったわけじゃないし、たまたま運が良かったというのも大いにあると思うけれども…。あと、もう一つは、BSD系のFree BSD とかNet BSDとかいうのが続くのか続かないのかよくわかんない状況だった。こういう、うまい時期にコアとなる、もう少し伸ばせばいいものができるというものを作り上げたのが彼の第一の功績。第二の功績は、他の人からの「ああいうのくっつけた」「こういうのくっつけた」というのを採り入れていって、ちゃんとそこにはクレジットをあげつつ…、実はぼくも現場にいたわけではないのではっきりとはわからないが、彼はどう見ても強いリーダーシップがんがん出してとかそういうタイプではないのね。

――なぜLinuxは分裂せずうまくいっているのか?

山形: 分裂しているのかどうかというのは、外的な要因の作用というのが大きくて、日本でFree BSDがなぜデカいかというと、98用にはFree BSDしかなかったというのが歴史的にみて非常に大きな要因だったので、どっちかというとLinuxよりFree BSDの方がデカいかもしれない、っていう状況になっている。BSD系は、BSDの本流というのがありながらそれがかなり動きがなかった…、4.2か3を出すときにライセンスを出す出さないでごちゃごちゃしたり、家元の争いがあったというのも一つ原因があるでしょうね。逆に本家本元がいま消えてしまったから(4.4以降はないと決まったから)そうすると、じゃあもう何でもあり、ていう状況になっている、というのは言えると思うのね。Net BSDはもう消えたといえるのかな…、Open BSDが出てきたし、これはこれで面白いんだけれども、どれが主流かわからない。本家がゴタゴタしたのと、もうやらないと宣言されてしまったので、分裂しているという面はある。

――アーキテクチャの新旧と信頼性には相関があるか?

山形: 信頼性がどこからでてくるのかというのは非常に難しいところで、アーキテクチャがよくても実装がタコだったら、ぜんぜんモノはダメなわけで…。ただ、アーキテクチャの古い新しいっていうのは何を言っているのかっていうと、いわゆるマイクロカーネルを使っているか使っていないかっていう話。マイクロカーネルっていうのはメインの一番ちっちゃなのがあって、そいつが必要に応じていろんなモジュールをとってきたり、もう要らないってやりとりをする。Linuxはそれをしないで、一つのモジュールですべてOSとしてやることはやってしまう。最近ではI/Oの部分だけとかはモジュールでつけたりはずしたりできるようになってきたけど、マイクロカーネルみたいに「あぁ入出力すんの?じゃ入出力ユニットもってきて」とか「あぁ記憶に書き込むの?、じゃこっちとってきて」とか、「計算するならこっち」とかOSの基本のところを出したり入れたりはしない。それによって、オーバーヘッドが減っている、だから信頼性が上がっている、というのは言えるでしょう。

――そこはNTと一つ違うところだと。

山形: そう。あともう一つはなんでマイクロカーネルになったかというと、もともとはカーネルがどんどん大きくなりすぎたから、っていう問題意識があって、Linuxは今でもFD1枚に収まるから、「そんな面倒くさいことしなくていいじゃん」、ていうのは大きな要因。そもそも新しくする必要性がないというのと、それからあと、出し入れするためのオーバーヘッドが少ないというのは信頼性に結びついている

――バージョンアップの履歴はどのようにまとめられているか?

山形: 新しいDistributionごとにHistory Fileっていうのが全部ついていて、で、どこが直ったかっていうのは全部書いてある。History File とか読むと、「I/O関数のポインタのハンドリングを変えた」(笑)、「よくわかんないんですけど」ってカンジなんだけれども、Linus本人も完全には把握していないだろうって言われていて、それぞれの責任者が、「俺に関係しているところは見ている」。Linusは、関係者同士がうまくやっているかどうかっていうのは見てる。それから、彼自身がやっている部分っていうのはいくつかあってそこは見てる。決定的な判断の例としては、カーネルが1.Xから2.Xに代わったときにファイル形式が変わって、そのときにはいくつか動かなくなるソフトがでてきて当然、みたいな状況があった。ただそれをやっておくことで後々すっきり見通しがよくなったんで、彼はそういう決断はできる。「俺がやるって言ったらやるんだ」(笑)。それからLinuxのかなりの部分はFSFの作ったGNUのソフトウェアに依存しているんだけれども、あれのCライブラリは今バージョンアップしたばっかりでちょっと混乱が生じている、でもこの新しいやつでいくっていったら、もうそれはそうなる。インタビューでLinus本人が言っていたのは、BSDではそういったあたりはいろんな人が頭を突き合わせて、「これはあのBill Joy様の作ったBSDの精神に合っているであろうか」(笑)という相談をさんざんしたあげくでないとできないけれども、Linuxは「あ、俺やる」って言ったらそれで終わりだと、そういう良さはあるんだ。で、それを「ヌーアスフィア」では「優しい独裁者モデル」といっていたけれども、まあそういうことはできる人らしい。また、めったにやらないけれどもやるときにはちゃんとやるという意味では、リーダーシップは発揮できているとは言えるな。

――Benevolent(優しい)は何を指して優しいと言っているのか?

山形: あぁ、あれは大概、人が何してもあまり文句言わないわけ、彼は。あの、さっきLinuxはマイクロカーネル使いませんて言ってたけども、実はマイクロカーネルを使ったLinuxを作っちゃった人もいるわけで、アプリオのMK-LinuxっていってこれはMac Linuxなんだけど、それはマイクロカーネル使ってそれの上にLinuxのインターフェイスをつけてるっていう代物で、「えーこれLinuxって呼んでいいのぉー」ってカンジだったんだけれども、「よしよしいいよ」みたいな…。

――ここまでは許す、という基準がある?

山形: どこまでが彼の分かわからないけど、彼は彼として「ここはこうしたい」という考えを持っているのは事実。「優しくない独裁者」っていうのは例えば、リチャード・ストールマンみたいな人(笑)。彼はいろんなところに乗り込んでいってケンカを売るしねぇ、あのすぐになんかこぅ…

――インタビュー記事は面白かった。

山形: あれはもうツラかった(笑)。

――字面だけで想像できる…

山形: 彼も全部方針は自分で決めると。彼はその、「伽藍」形式の人で、彼に「フリーソフト」っていう思想がなければ、デビッド・カトラーみたいな人になったんでしょうねぇ。「俺はこうやる」と。で、それに反するやつはもう追放、とは言わないけれども…。

――ソースコードがオープンであることと、インターフェイスのみがオープンであることとは何が違うのか?

山形: 具体的には、例えば、「これは画面の入出力部分のインターフェイスです」、で、そのインターフェイスにあわせて、「アプリケーション作ってね」「はいはい」ってアプリケーションを作る、で、作ってみたんだけどどうも遅い、っていう話になったときに、インターフェイスのAPIの部分だけ公開されてます、っていうんだと、インターフェイスのこっち側の部分は俺がなんとかするんだけれども、何やってもどうも遅い、こっから向うに問題があるんじゃないかって話しになったときに、手が出ない…。オープンソースの場合だったら、「こっちなにやってんの?」「ここの関数のハンドリング遅いんじゃないか?」っていうところまで入り込めるというのがひとつ。それからあとは、もちろんそれに伴ってバグが出てくるのでそれをすぐ直せるというのがもう一つ、あとはソースがあることで、勉強できるというのがすごく強くて、Linuxがいま、注目されてるっていうか、便利に思われているのは教育の分野で、コンピュータ・サイエンスを教えるってなると、このOSの中身はこうやって動いてるんだっていうのはソースがわかんないと、何とも言えん、と。

――ディストリビューターやサポーターの動きをどう評価するか?

山形: 「パッケージができて簡単になったのは、素晴らしい」という話にはみんな合意していて、おそらくRed Hatが出る前のSlackwareというのがなければ、たぶんLinuxはここまでデカくならなかったでしょう。Debianは企業じゃなくてボランティアグループ。あと、Red Hatが出てきたことで、一応商用だけれども、きちっとこのパッケージいるとかいらないとかできるようになったのは非常にありがたいことだとみんな思っていて…。ただそれを邪道だとする考え方もあります。日本では、「いわたにひろし」って人がそういう見解の急先鋒、というほど先鋒でもないんだけれど彼は・・・。いろんなことを自動化してしまうことで、「結局これはウィンドウズといっしょじゃないかよ」っていう、見解。でも、一方では確かにソースが公開されているほうがうれしいけれども、ソースを公開しないで、Linuxの人気に乗っかるというビジネス戦略もあるであろうし、また、それは、嫌うべき話でもないし、止めるべき話でもないし、うん、Linuxが普及するにあたっては必要なことだと見られているね、いいんじゃないかな。

――商用にするときにソースをクローズにしてもかまわない?

山形: もちろん。いろんなものがそうなってます。オラクルが自分のところのデータベースをLinux対応にしているというのは、バイナリーとしてあげてそれで、走りますよって話で…。

――Linux自体はオープンだけどLinux対応のApplicationはクローズでかまわない?

山形: そう。例えば、ソフトを配るときにUnixで細かなソフトがたくさん必要になるので(Macintoshみたいに一つピッと動かして終わりじゃないから)、このファイルあっちやってそっちやって、っていうのを全部自動化するためにパッケージをつくりましょうっていうのがRed Hatのやったこと。そこの部分に関しては公開する必要は、ない。ただその、Linuxそのものについてはもちろんソースコードは公開する必要があるし、そのCD-ROMそのものはつけなくてもよこせっていったら渡せるようにしないといけない。

――ここまで広がった最大の要因は?

山形: 「Microsoftキライ」というのはそんなに大きな要因ではない、とは思う。確かに「Microsoftキライ」というのは冗談というか仲間内の合い言葉みたいなものではあるけれども、だからLinux使うかっていうと、まあそんなことはないだろう。むしろあるのは、選択肢が増えたっていうのと、安定してていろいろ使い道が出てきたのと、あとWindowsに対抗するといったところで、まだまだこれからわからないけれども、今のところサーバーの世界だよね、だからある程度技術的にもののわかった人たちが使う環境にいたからだと。で、もちろん無料ならば、試しに使ってみて捨てることもできる、というメリットもあるし、要因が絡まってるとしか言いようがない…。

――「これだっ」ってものではない…。

山形: うん。

――クルーグマンの論文(ホワイトカラー真っ青)に対する意見は?

山形: 難しいところで、確かにそういう面もあるんだろうとしか言いようがなくて…。そこまでいくかどうかもわからないですねー…。ただ、いってもいいんじゃないかとは思う。それから、もう一つは、この論文に入っているみたいなかたちでのEric Raymondが言っているような話として、ほんとムチャクチャを言うとすれば、そうね、たぶんそんなものの価値を測る基準がひょっとしたら変わるかも知れん、というのはあって、それは例えば、2世紀前のひとだったら、おそらくその人の持っている幸せとか豊かさとかそういうのは多分摂取カロリーと寿命で測れたに違いない。ていう気は、する、でしょ?で、それが多分今はそれではできないだろう。今はカロリー減らそうとしてがんばってるし(笑)。そういう意味でカロリーよりはお金がいい尺度だなって意味では出てきて、で、そうするとそのお金というのは一つの経済システムっていうか市場というシステムで希少財をやりとりするような世界だよと。でそこから次の何かというのは、あるのかも、知れん。で、それが何になるのかっていうのがよくわかっていなくて、ひとつにはそんな名声というようなものになるのかもしれん、仲間内での評価、うん。それはフリーソフトの世界では、彼は知らないだろうけど、だれ知らぬもののないなんとかなんだっ、ていう話になるのかもしれない。で、そのときに、クルーグマンが考えているみたいに、その評判を使ってお金を獲得しようという方向に気分が動くだろうか、そこまで行くかちょっとわからない。それってひょっとしたら前世紀の遺物なのかもしれないし、なんとも言えないとしか言いようがない…。

――Microsoftは最初からライセンスを意識してた?

山形: してるに決まってるじゃないですか!(笑)だってBill Gatesって昔から、あの、人からパクったBasicもってきて、「これー、なんかみんなコピーしてるって許せんばかやろー!」ってそれで大きくなってきた人だし、それはもうよく知ってるはずで。

――著作権の問題はどうやってクリアするか?

山形: GPLはどうつながるの?

――コピーするメリットを知覚すると著作権を認めなくなるというブレークスルーはあるか?

山形: これはインタビューでStallmanから「つまんねぇ話だ」って言われてたやつなんだけども、ソフトそのものではなくて、配布する手間とか、あとそれに対する付加価値とかそういうふうなもので、商売するというのは一つできるわけで、おそらくGPLとか出てきた瞬間にそれそのもので商売するというのは無理でしょう。自由にコピーするのは邪魔しちゃいかん、という話なんだから。ただ、誰でも洗濯機もってて洗濯できるんだけどクリーニングが成立するように、そういうところの手間を負担してくれる業者というのはバリューアデッドリセイラーというやつとして、成立する余地はあると思う。

――ソースコードのオープン化はサンクコストの分散になる?

山形: ソースコードそのもので商売をする方法がないわけじゃあない。例えば企業として、「LinuxはまだリアルタイムOSじゃないよ、リアルタイムが大事なんですっ」、って話になったときに、Linus Torvaldsのところに行って、「お金払うから、そこのところ先にやってくれないか?」。StallmanのFSFなんか現実にそれをやってるけど、その代わり「できたものは公開するよ、OKならばそこのところ先にやってやるよ」。企業としては公開されようとされまいと必要とする機能がきちっとしたかたちで実装されれば、その部分の時間コストで元がとれる。そういうかたちのビジネスモデルはあるかもしれない。

――明確に範囲を設定できれば…

山形: たぶん仕様のところでは当然ああだこうだって、「それは俺はつけられん」だとか、いろいろあるんだろうけども、Stallmanとしての方針に反していなくて、いずれやってもいいリストのなかに入っていたものであって、しかもその後再配布に制限つけないというものであれば、先に開発してあげてもいいという話。だから、ソースの開発というところで商売しようとしたら、もし今後またLinusみたいな人が出てくるとか別のソフトの動きがあるとしたら、おそらくNetscapeなんかでも、それはできるんじゃあないかな…。Netscapeだって既にコアはあるから、こういう機能だけつくてくれって。ある程度コアができれば、NetscapeとしてWindoows98でやったようなアクティブデスクトップみたいなやつやってよっていう話で、「今回ソース公開するけどいい?」「いいよ、そっちの企業で1日も速く使いたいだけなのよ」ていう話でやってもらうってのはあるかもしれない。

――話が来るのは評判の効果?

山形: たぶんイメージなさっているビジネスモデルに近いのかもしれない。それが、ものすごくデカくなるかっていうのは別の問題だけれども。

――クルーグマンの論文の流れでいうところのOSの希少性とは?

山形: 希少性というのは、このイスをつくるのに材料と手間を投入してっていう話ですよね、それが希少だから、それをイスにつぎ込もうか机につぎ込もうかテーブルにつぎ込もうかってところで、市場原則がはたらいて、値段で、じゃこれはテーブル作りますって話で、そういう希少性は通用しない。ただし、OSやソフトに関らず希少なものってなにかというと、それはソフトを書く能力なり才能っていうもので、その希少性をどう振り分けるかっていう課題は残る。で、フリーソフトが解決しようとしているのは、そういう希少な財をどうやって配布できるか、っていうことですね。

――希少性でビジネスするってことは?

山形: 考えてません、ということしかない…。

――消費者の意識が変わるということは…?

山形: それについてみんなが期待しているのは、Windows 98が出てもそんなに乗り換えはでないだろう、というのがみんなの予測していることで、実際そうなるでしょう。で、そうなってきたときに、いつも新しいものをいれなくても動くというのが理解されるのかな。もうひとつは、どんどんソフトのバージョンが上がるにつれてハードウェアへの要求がどんどんキツくなっていって、何十万もするものをこんな1、2年で買いかえるのはかなわん、ていうときに、もう少し非力なもんでも動くんですよ、っていう宣伝文句が効いてくるかもしれない。それからあともうひとつは、それこそOSとアプリケーションは鶏卵という話になってくるんだけれども、Excelあるの?って話になったときに、いまだとApplixwareが出ました、使ってくださいって、あれはなかなかいい(笑)

――いい?

山形: Excelのファイルちゃんと読めるし、数式も残ってるしねぇ、おぉーって感じ。Wordも読めるしねぇ。いいじゃん(笑)って非常に喜んでいるんだけれども(笑)。それで思い出した、ソフトで商売できる可能性というのは、Applixwareがやってるみたいに、新しい分野に早めに入ってって、でフリーソフトがでてくるまでその部分をつぶすっていうか、一応抑えるってやり方はたぶんあるだろうと思います。今フリーソフトで、MSのファイル形式と互換ができて使えるソフトを作ろうって動きは、ここ1、2年生まれては消えているんだけど、そんなに乗ってこないっていう。でも…

――のってこないっていうのは?

山形: みんな、いいぞやれやれ行こうやろうって話はするんだけれども、実際叩けるコアができないと、話ができないっていう。Editorに毛を生やせばワープロになるわけでそんなに難しいものではないんだっていうのはみんなわかっているんだけれども、ただそこまでニーズがないっていうか、まだHackerの美意識としてEditor使いましょうってなっているのもあるのかなぁ(笑)。でも徐々にフリーのプレゼンテーションソフトとか結構いいのがでてきたし、それ以外にもいくつかあるので、ある種それをうまく組み合わせるとか、うまく作り直す方法がみつかったら、office分野もフリーソフトで何とかなってしまう日が来るかもしれない。それまでのリードタイムでとりあえずApplixwareが売って商売する、ってかたちではできるかもしれない。
  X-Windowシステムっていうのがあって、これは無料のやつもあるんだけれども、有料でやってるところもある。フリー版もがんばっているんだけれども、有料版の方が対応しているハードウェアも多いし、速いって優位がある。フリーソフト版だと、ハードウェアメーカーと交渉して、「おまえたちこのハードウェアの中身を私たちに教えなさい。そうじゃないと、おれたちソフト書けんよぉー、書いたらオレそのソフト公開するからね!」、と言うわけですよね。そうするとハードウェアメーカーとしては、「じゃあそのおれたちのハードの中身もかなりわかっちゃうわけ?」、「そうだよ」。「それは困る」、っていっているところもかなりある。
  一方、商用版つくっている連中というのは「公開しません」。じゃあ、ノンディスクロージャーアグリーメントちゃんとやって、「ソフト書いてね、協力するよ」っていうことで対応してるハードが多くなる。で、そういう公開できないメリットを活用するっていうのがあって、これはいずれ世の中でフリーソフトが用意されればなくなるメリットかもしれないけど、まあしばらく、そういうところでメリットだしてくれる…。
  今のプログラマー、例のEric Raymondの議論は、なんで贈与文化なんてものが成立しうるかっていうと、「みんな食うには困らんからだ」という話になるわけだけれど、困りかけているようなプログラマーって結構いるし(笑)実は彼がそこで言っていることっていうのは、そんなには当たってないかもしれない。優秀なプログラマーで、ソースコード公開でもいいから金くれるの?ていう人だってたくさんいるだろうし。で、そういうソフトがなくなるわけでもないし…。そこんとこでオープンソフトですべてが制覇されるみたいなEric Raymondの書きぶりというのはちょっとやりすぎ、だからフリーソフト的な部分、それは、ぼくがStallmanに言って怒られたところだけれどもやっぱり社会のある程度豊かな部分にたかってる(笑)ってあれだけれども、そのなかで成立しているひとつのサブ・システムであって、完全に乗っ取るかっていうとそれはまた別の話だとは思う。

――いきなり変わりはしないだろうと?

山形: うん。著作権の専門の人とこないだ話していて、ヘタをするとフリーソフトを違法にしようという動きがでてくるかもしれない、と(笑)。いや、かなりマジな話で、いくつかそれこそなんだ、ゲームソフトの再販制に反対している弁護士連とか、もう一歩進めば言いそうなことだねぇ。要するにソフト書いたりして出すっていうのは、市場での公正な競争というのがあって初めて成り立つ活動である。で、そのためには努力に見合う報酬があるというのが前提になるんだけども、フリーソフトっていうのはそういう正しい市場の働きを壊すものであるからして、ていう話をできますねぇって話をしていて、ま、そこまででかくなるかなぁ…

――見返りを求めない行動は反市場的か?

山形: それがすべてにはならんだろう。これはEric Raymondの翻訳をしているときに少し話しをして、彼はいずれあらゆる分野でフリーソフトが優位を占めるという考え方。一方でやっぱり商業ソフトの方がいいんじゃないかっていう考え方もあって、そこらへんはわかりませんというしかないなぁ…。

――コピーしちゃいかんが、ソースコードは公開するという方法は?

山形: ありますよ。X-WindowsのGnuシステムのソフトとか、個人用には使ってよろしい、ソースを見せます、ネットワークでも公開してます。ただしこれを、市販のCD-ROMとかに収めてそれを売ったりしてはいけません。なぜかというと、それは俺達のをつかっておまえらが儲けようとしてるわけでしょ。別にもうけようとしていない場合でも、そことの境界線が非常にあいまいだからダメ。で、それについては賛成反対いろいろあって、言いたいことはわかるよ、って話と、でもそれだと本当に再発行の自由とか制限されちゃうし、基本的な精神に反するからやんない、このバージョンは使いませんという判断をするところもあるし、模索中。全体的にはそういう方向は好まない傾向にある。

――対応しようとするApplicationの数が増えるほどOSが大きくなるという傾向はあるか?

山形: それは難しいというか、どこまでがOSっていう話もあるので。でも、必ずしもその必要はないはず。

――FD一枚に収まるのが純粋な意味でのOS?

山形: そこまでは言わない。それこそなんだ、MacintoshのOSだってどんどんでかくなってるし。ただ効率の悪い書き方をしているのかもしれない。それはNTの場合もそうだけれども、変なかたちで集中的な分業をやっているよという言う方はあれだけれども、プログラマーがトップダウンで何百人にも分かれて、いろいろやっているって方式がまずいのかもしれんとは言える。その辺はなんとも言えない。


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Daisuke Shudo (1/20/99)