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スーツ族の見たインドなど。

(仲能 健児『インドにて』(幻冬舎文庫, 2003) 解説、2003年10月)

インドにて 山形浩生



 インドの山奥で修行をすると、なんかすごいらしいというのを小学校のときに知ったのが、インドというところにあこがれめいたものを抱いた最初のことだったろうか。その後だったかその前だったか(前だな、どう考えても)、父の友人のインド人家庭にお呼ばれして、とんでもなく辛いカレーをたくさん食べさせられて、どうもインドっつーのはすさまじいところらしい、と子供心に思い、そしてある意味でぼくの人生を変えた清水潔『インド・ネパール旅の絵本』を読んだのが、あれは受験勉強なんてので図書館にいた中学生の頃。それはインドのバックパッカー旅行の絵日記みたいな本で、東京とニューヨークしか知らなかったひ弱なガキだったぼくは、こんな世界があるのか、こことは全然ちがう、あの色と味と日差しに満ちた、こんな不思議な世界があるのか、そしてこんな旅の仕方があるのか、と。

 それはこの『インドにて』に描かれているそのままの世界だった。一方で妙にのんびりした人々。一方で目先の小銭に目の色を変えるセコイ人々。ガンジス川の火葬風景。インチキだかそうでないんだかよくわからないサドゥーたち。ガンジャ。二等車の長い長い鉄道の旅。手で食べるカレー。そしてそこであてもなく何ヶ月も暮らす暮らす旅行者たち。自分のいまやっている受験だのとはぜんぜんちがう、こんなオープンで自由な世界があるのか!

 もちろん当時のぼくは、まだガキだったこともあるし、それに七〇年代初期のアメリカでヒッピー運動だのベトナム反戦運動だのの最後の名残をちょっと味わっていたこともあって、なんかバックパッカー的なライフスタイルについて、多少の夢とあこがれを抱いていたのだった。いつか、いつか自分もこういうことがしてみたいなあ、ガンジス川のほとりで人が焼かれるところを見たり、タージマハールだのカジュラホだのを見てみたい。手づかみのカレー、チャイとかいうミルクティー。最小限のものしか持たずに、札束で横っ面を張るような大名旅行ではなく、地元にとけ込んで現地の人々と対等な関係の中、本当にそこにしかない暮らしを体験し、さらに知らない人と語り合い、情報交換をして助け合いながら、物質的な豊かさにとらわれない生の世界に触れる――そんなことができたらいいなあ、なんてことを夢見たりもした。

 それからはや数十年。ぼくは未だに仕事以外でインドに行ったことがないのだった。

 バックパッカーの端くれみたいなことはやった。本書に描かれたのと似たようなことも、一通りはやっている。長い長いバス旅で、目標手前でカウントダウン始める経験は、あったあった。あれはモンゴルと、ペルーだったかな。二等鉄道の夜は、ベトナムのラオカイ国境からハノイまででやった。適当にだまされてぼられるのは、タイを皮切りに数えきれず。ガンジャは、うーんとカンボジアとかアムステルダムとか、あっちとかこっちとかむにゃむにゃ。街頭のミュージシャンや変なパフォーマーは、モロッコやら中国やら。うんうん、あったねえ。本書を読みながら、そういうバックパッカーみんなが(失敗を通じて)学ぶいろんな体験が、懐かしくよみがえってくるのをぼくは感じていた。ああ、いいなあ。またあれに戻りたいなあ。

 一方その過程で、バックパッカーというのがそんな友愛と仲間意識にあふれたオープンで自由な人々ばかりではないことも、思い知らされてきた。内輪のセコイ(しかも誇張とウソだらけの)自慢ばかりしたがるバカ、人種偏見まみれで現地の人間をあしざまにののしり、そいつらをいかにひどい目にあわせてやったか得意げに話しているクズみたいな連中、大した金も出せないくせに、はした金でお客様ヅラして威張り散らす権利があると思っている傲慢な連中、助け合いどころか他人に迷惑かけて平気な連中、身勝手で独善的な連中も山ほどいた。そして情報交換の面でも、どんな世界も本当に有能な人は少ない。バックパッカーの世界でも、まともに有益な情報を提供してくれる人はそんなにおらず、たいがいは知ったかぶりだけいっちょまえの、無知なおのぼりさんでしかないのだった。

 さらに自由で自主的にバックパッカーをしている人に交じって、多数の沈んで淀んで腐ってしまったような連中もいっぱいいて、その人たちは単にもう、肉体的・精神的にそこから抜け出せなくなっているだけだった。どうしようもないごろつきやジャンキーや犯罪者まがい、それも他のバックパッカーたちを食い物にしているような奴らもうようしていることも、自ずとわかってきた(本書にも、そういうのが何人か登場する)。そしてなんと言っても、バックパッカーというのはどこまで行っても、ひたすら消費するだけの存在でしかなく、地元の人々とは決して対等な関係なんかにはなれないこと、まさにバックパッカーとして、何も生産せずに長期に旅行できるということ自体が、死ぬまで働き続けるしかないであろう途上国の人々と比べて自分たち(いや自分たちが寄生している本国の経済力)がいかに恵まれ、いかに豊かかということをまざまざと示しているのだ、ということも思い知らされるのだ。そんな当たり前のことに気がついたのが、モロッコのザゴラの熱波に中だったか、それともボリビアの安宿でのことだったか、ぼくはよく覚えていない。

 が、それはさておき、インドの話だ。この手の貧乏旅行なら一つの定番ともいうべき目的地のインドに、ぼくは仕事でしかいったことがないのだった。

 仕事ででかけて、スーツを着て見るインドは、ここに描かれた世界とはちょっとばかりちがう。インドの電力事情はどうだとか、バンガロールのハイテク産業集積の現状についてとか、太陽電池を使った遠くの村の連中とか。そういう田舎の現地視察はちょっとはおもしろいのだけれど、でも政策だとか財政だとかの話になると、話はすべて大都市のお役所と企業相手。そしてそれは世界中でもうどこでも同じビジネスの世界だ。世界中代わり映えのしないオフィスビルにお役所。そこは世界のほかの国と寸分変わらない。そして調査団は(えらい人がついてくればくるほど)世界中どこでも同じ退屈な高級ホテル暮らし。外を歩いたり公共交通を使ったりすると「日本人は狙われて危ないから」とのことで、どこへ行くのもタクシーやハイヤー。食事は「現地のものは危険だから」とか称して、日本と比べてすらバカ高い超高級レストランばかり。

 アホくせえ。ぼくもバックパッカーくずれの意地があるので、隙あらば抜け出しては、そこらの屋台で飯を食うのだった。それに食費は会社からは出ない。大して出張手当もつかないし、そんな高い飯を毎日食ってられるか。やがて同じ飯に飽きた他の調査団員たちに「つれてってくれ」といわれて、一人、また一人と屋台組が増えていったっけ。

 そして、ある日えらい人のお供で高級レストランに連れて行かれたある日。何やら民族舞踊まがいが始まったのをろくに見もせずに食っていると、何やら入り口方面がざわついている。何事かと思って見ると、そこに入ってきたのは、だれあろう、あのスティーブン・ホーキングなのだった。かの車いすの物理学者。うひゃあ。

 だからぼくにとってのインドは、屋台カレーと、バンガロールのハイテク地域と、太陽電池の立ち並ぶ変な村と、そしてスティーブン・ホーキングが入り交じった国なのだった。自分がバックパッカーとして旅したいろんな場所とは、なんとなく結びつかないところがある。

 とはいえ、そうでなかった可能性もある。仲能がインドにいたのは、一九八八年だったそうな。もしぼくがあのとき、カンボジアに行くかわりにインドに行くことにしていたら、ぼくはかれと出会っていたかもしれない。そこまで行かなくても、かれの見たような、ここで描かれていたような(あるいはかつて『インド・ネパール旅の絵本』で読んだような)インド像を見ていたかもしれない。そしてもしかすると、そのまま別の人生へ向かった可能性だってある。そのまま決して、いまぼくが知っているようなインドを知らずに終わった可能性だって。本書を読んでいると、ぼくはそんな感慨にとらわれる。こんなインドを知っていたら、果たしてぼくの人生はどうだっただろうか、と。いい意味でも、悪い意味でも。

 というのも、いまのぼくだからこそ見えることもあるのだ。それはかれがこのマンガで描いている感動のポイントというのは、ある意味で、すべて貧困なのだ、ということ。豊かな家庭はどれも似たり寄ったりだが、貧しい家庭はみなそれぞれにちがっている、と述べたのは、あれはトルストイだったろうか、それともウラジーミル・ナボーコフだったろうか。当時、日本はバブルの絶頂。世界一の豊かさを誇っていた。そうして似たり寄ったりになった日本が、まだ多様に貧乏な(そしてその多様さにおいては他の追随を許さない)インドを見物にきて、そして感動している。その後、ねこぢるが『ぢるぢる旅行記 (インド編) 』で見て、感動していたのもまったく同じポイントだった。冒頭の『インド・ネパール旅の絵本』でのポイントも。インドは、この数十年ほとんど変わらずに貧しいままだった。そして日本人は、何度もそこにでかけて、その貧しさに同じように感動して見せている。感動はしないまでも、少なくともそこに何か記録するだけの価値があると思っているのだ。

 だからって、別にいまの日本の豊かさは偽りで、インドにこそ本当の(たとえば心のとか生のとか)豊かさがあるのだ、なんていいたいわけじゃない。日本が豊かになる過程で失ってしまった何かがインドにはあるのだ、なんて言いたいわけじゃない。いや、確かにあるんだけれど、それを別に惜しむべきだとは思わない。そしてぼくは開発援助の仕事をやっている以上、そんなものよりもはるかによいものを豊かさはもたらすんだ、と言わなくてはならない。ならないんだけれど、でもふとそう思いたくなることもある。ぼくが見落としている何かがある、そんな気がこのマンガを読んでいると、ふとしてしまうことも、ないわけじゃないのだ。

 さていま、インドは数十年の停滞を経て、少しずつ貧困から抜け出そうとしている。最近は、昔よりちょい高めの成長が続いているのだ。それが続く保証はどこにもないけれど。このままうまく行くと、清水潔が描き、中能健児が描き、ねこぢるが描いた、いつまでも変わらなかった悠久のインドは、こんどこそ本当に変わってしまうかもしれない。かれらが驚きをもって眺めた貧困は、ゆっくりとはいえ失われてゆくのかもしれない。援助関係者としては、それは喜ぶべきことではあるんだけれど……でも不謹慎ながら、そうならないんじゃないか、という気が少ししないでもない。たぶんあと数十年して、ぼくが(仕事でなく)死ぬ前にいつか戻ろうと思っているかつてのバックパッカー旅行でインドにでかけると、そこにはまだこの『インドにて』の世界がそのまま残っているかもしれない。さて、それを見てぼくはどう思うのだろう。自分のやってきた援助の仕事が(豊かさをもたらさなかったという意味で)無駄だったと思って落胆するのか、それともそれが(実は本当に重要なものを破壊する行為だったという意味で)無駄だったと思って落胆するのか。それとも……この『インドにて』を読んだときに感じるような、そこはかとない幸福感のようなものを感じることになるんだろうか。

 そういえばインドというと、必ず思い出す一人の人物がいる。最初のインド出張のとき、ニューデリーのホテルを出たところで、必ず声をかけてくる靴磨きがいるのだった。「おい、靴が汚れているぞ」と言ってそいつが指さすのを見ると、確かに不自然な形で、ねちょっとした泥かウンコがこびりついている。でも変だな。そんなところを通ったおぼえはないのに。その日は無視したけれど、その翌日またそいつが「おい、靴が」という。見ると、昨日とまったく同じところに、まったく同じ形で泥がついている。どうやらそいつはピッと靴を指さす、その同じ動作で靴に泥を投げつけているのだ。その熟練ぶりは見事で、まったく同じ動作で、靴のまったく同じところにその泥が投げつけられる。すげえ。こんなくだらない技能に熟達してしまった、そんな人がいる世界なんだ、ここは。

 その泥の洗礼を毎朝(六日続けて)受けながら、ぼくはかなり感動していたと言わざるを得ない。その泥をぬぐいつつ、ぼくは向かっていた先で、いつもインドの経済発展の見通しについてあれこれ議論していたのだった。でも議論しつつも、ぼくはときどき、あの泥投げおやじのことを考えていた。ぼくが絵に描いているこの餅、もとい発展が、あなたに届くのはいつになるのでしょう、と。

 かれはいまも、人の靴に泥を投げつけ続けているのだろうか。そしてぼくがいつか、インドへのバックパッカー旅行を果たすときにも、あのおっさんはまだいて、同じように泥を投げているのだろうか。

マニラにて
山形浩生

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