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InterCommunication 2006夏

感情なき宇宙的必然の中で:スタニスワフ・レムを読む

(季刊『InterCommunication』2006年夏号)

山形浩生

要約: レムの小説観は非常に狭苦しくとんちんかんであり、おそらくそれはかれの社会性の欠如からきている。レムの作品に一貫するのは人間嫌いと社会の不在であり、それはかれのぶっとんだ小説のおもしろさの源泉であると同時に一つの限界でもある。



しばらく前にぼくは、レムの SF 評論のすさまじい偏狭ぶりを指摘したことがある。

 一読して驚かされるのは、レムのSF論の異様なまでの堅苦しさと偏狭さ だ。レムにとって正しいSFの方向性は一つ。種としての人類や社会に科学 や知識や進化がどう影響を与えるか、厳密かつ論理的に検討すること。それ 以外は上っ面だけのまやかしでしかない――。

 えー、そんな勝手な基準を勝手に作られましてもねえ。(中略)レムのSF 論は、こうしたピント外れな議論だらけで一般性のかけらもない。[8]

 この意見はいまも変わらない。いや、本稿を書くにあたって、主要な邦訳 ・英訳の小説論を再読してみたけれど、その観は一層強まるばかりだ。もち ろん、主に『高い城・文学エッセイ』におさめられた邦訳・英訳のあるレム の小説論は、1960 年代から 70 年代に書かれたものだ。40年前の論文に対して 今の時点から批判を加えるのは、ずるいと言えばずるい。だが、その偏狭さ の根源にあるものは、その後も一貫して変わることはなかったと思うし、そ の偏狭さにこそある意味で、レムの本質があるのだ。

 レムの各種評論を読んでまず気がつくのは、そのものすごい堅苦しさだ。 レムはすぐに、SF はこうでなくてはならない、というまったく一般性のない ドグマをふりかざす。たとえば「SF の構造分析」でレムは、SF というカテゴ リーを勝手に定義したあげくに、そうしたカテゴリーの区分を無視しちゃい けないのだと述べる。「それが時代の精神だから」[3, p.202]と。SF は、科 学的に可能性のあることに集中しなくてはいけない! 「宇宙旅行が夢想の 対象でしかないような時は、技術手段として何を使おうと違いはない。(中 略)しかし、宇宙旅行が現実となってしまった時、もはや現実以外の好き勝 手な手段を選ぶことはできない」[3, p.203]。えー、なんで? その少し前 には、技術的に不可能な宇宙船を使っても有益な社会経済的考察のあるSFは 可能だと述べているのにその舌の根も乾かないうちにこの調子だ。

 そしてかれの SF というのは、現実の技術や政治経済、社会に関する考察に 貢献するものでなくてはならない(そうでない場合は純粋な形式の遊びとし て厳しい制約条件を満たさなくてはならない)。沼野充義は、レムが読者に よる自由な読みの可能性を認識しており、構造主義の限界を乗り越えようと していた、と評する[1, p. 53]。でも、ぼくにはそうは思えない。『高い城 ・文学エッセイ』所収のどのエッセイも、構造的な分析を非常に重視してい るし、「メタファンタジア」を読んでも、読者の自由な読みとか解釈とかい う部分については(存在は認めながらも)あまり積極的な評価をしようとい う意志は見られない。それどころかアンチロマン等への批判などで、むしろ 勝手な解釈にゆだねるような作品については否定的だ。

 そしてかれの「構造」というのも、現実との対応関係をやたらに重視した ものとなっている。それも、それがどう対応づけられているかという問題、 つまりは表現についての記述が異様なほどない。それがもっとも端的にあら われているのは、「ロリータ、あるいはスタヴローギンとベアトリーチェ」 という一文だ。これはもちろんあのナボコフ『ロリータ』についての評論と なっている。それも絶賛書評なんだが……

 ナボコフの小説というのは、『ロリータ』を筆頭にその言葉が最大の魅力 となっている。語呂合わせ、頭韻や脚韻、アナグラム、そしてそれらすべて を含めた審美的で重層的な構築――そうしたものを抜きにナボコフを語ろう とするのは、おそらくその価値の七割、いや八割を無視するに等しい無謀な 試みだ。少なくともそれは、そもそもナボコフのなんたるかについての一般 的理解とは完全に解離している。そんな無謀なことをやった人間は、ぼくの 知る限り(『ロリータ』をポルノとして見た検閲官を除けば)二人しかいな い。

 一人はリチャード・ローティ。すべてを実用性で評価しようと主張したプ ラグマティストのかれは、小説にも実用性に基づく価値を求める。ナボコフ の小説には細部がいろいろあって、人はそれに気がつけない自分のうかつさ とその残酷さを認識するから教育的効果があるというのがローティの苦しい (頭痛がするほど強引な)議論だ。

 しかしレムによるナボコフ論は、さらにものすごい。レムの手にかかる と、『ロリータ』の価値はそれが文化規範を破壊していることにあるそう だ。しかもそれは、ロリコン的な意味ではなく、少女が男を誘惑するという 役割の逆転に価値があるんだと。そしてこのロリータ論で展開されるのは、 ナボコフ当人が見たら卒倒するであろう主人公の精神分析! 主人公が最後 に真の愛に目覚めたのがすごい! いや、ぼくはこの結論自体まちがってい ると思うし、あの小説を読んでそんなところに着目すること自体が謎だ。途 中の記述で、何やら文体やら審美的な話をしたそうな様子もあるのに、なぜ それを押さえ込むんだろう?

 さらに言えば、概念を偏狭、つまりは厳密に定めるところからくる切れ味 の鋭さというのはある。だがレムの場合、その偏狭な視点にこだわりすぎた ために、議論が一般通念から解離するばかりではない。かれは時々、そもそ もの事実関係すらかれはねじまげてしまう。

 たとえばかれは、ウェルズの『宇宙戦争』を絶賛する。でもそのすごさは 現在ではもう不可能だという。「『宇宙戦争』の執筆とわれわれとを隔てる およそ九十年足らずの間に、文明の状態は一八〇度転換した(中略)。ウェ ルズが執筆活動をした社会はすっかり硬直し(中略)その状態が続くことを 信じて疑わなかった」[3, p. 308]。一方、現代は変化が常態となっているか ら、外部の力による破壊を描いても衝撃性はないんだ、と。

 でもそんな馬鹿な。ウェルズの時代が安定し停滞していた? 19世紀末か ら 20 世紀初頭、技術革新が次々に登場し、社会的にも社会主義が台頭してき てきな臭い空気が漂いはじめた、技術的にも政治経済的にもまさに世界激動 の時代だったのに。そしてレムがそれを知らないはずはないのに。レムは、 単にウェルズの描写が真に迫っていて感動した、と書けばいいのに、それを 捏造してまで隠さなくてはならない。

 そしてその一方で妙に道徳的なコメントを混ぜたりする。小説の創作方針 をいくつか挙げる中で、かれは「禁制からの自由」を挙げ、ナボコフ『ロリ ータ』を文化禁制の破壊だとほめたあとで、同じナボコフの『アーダ』の近 親相姦をとりあげて「この近親相姦禁忌の基本原理までは受け容れるわけに はいかぬ。(中略)近親相関関係は不妊性のものである。故に「ともあれ何 も生み出すことはなかったと思われる」からである」[3, p.230]という変な コメントをする。近親相姦は別に不妊じゃないんですけど。要するにレム は、これが道徳的に許せないと思っているのだけれど、それが道徳感情的な 判断だとは認めたくないというだけなのだ。

 こうした評論の変な部分をまとめてみると、レムは感情とか感性というも のにどうしても触れたくないのだ、ということがわかる。自分の感情、自分 の道徳観、自分の耽美的な感性ですら(しっかり持っているのに)疑似科学 的に説明しなくてはならなかった。かれは感情というものがいま一つ理解で きておらず、自分のものですらあまり認められずにいる。自伝小説『高い 城』の叙情性はかなり高い水準だし、かれが「メタルギア・ソリッド3」の ブックレットによせたソ連の思い出話だっていい味わいを出しているのに [9]。それどころかかれは、かれは実は、現実に対する考察を一向に深めない バカ SF のおもしろさだって知っている。川又千秋はレムが映画「スターウォ ーズ」を二回も見るほどおもしろがりながら、それを批判したことに注目し ていた[5, p. 461]。

 もちろんこれは作品世界にも大きく影響する。レムは感情が大きな役割を 占める社会の仕組み、ひいてはインセンティブ構造にきわめて疎い。評論で は社会経済的影響云々とは言っているが、当人の社会的認識は実にトホホな 代物でしかない。急激な知能増大と喪失を経験する少年の喜びと悲しみを描 いた名作『アルジャーノンに花束を』評で、レムはこの小説が知性向上技術 の社会的な影響を考慮していないから駄目だ、とのたまう。みんなが大学教 授級の知性を身につける技術が普及したら、掃除や運転手といった仕事をす る人がいなくなるから社会が崩壊するので、そんな技術は受け容れられな い、といって[3, p.242]。あのー、知性って相対的なものだから、みんなが 頭よくなったらその分だけ知力の希少価値がなくなり、全体が底上げされる だけしょ。あるいはアシモフ「運河労働者」批判に登場する、「現代におい て家政婦といったら、家族の中でもほとんど最高権威者の位置におり、いか なり気まぐれを言おうと尊重されるほどに、ちやほやされる」[3, pp. 240-241] というのは……なに、これ。ポーランドではそうだったの? レム はこの変な認識をもとに、だから社会的に不可欠な仕事をしている人の社会 的地位が低いなどというアシモフの設定は駄目、と論じるんだが、これは明 らかにアシモフに分がある。

 おそらくはこのせいで、レムの小説にきちんとした社会描写というものは 登場しない。他人の著作の社会背景にはえらく厳しいのに、当のレム小説の 社会背景は二〇世紀先進国とまったく変わらない社会に、宇宙船や高機能コ ンピュータをつぎはぎしたものでしかなく、新技術による社会変化はほとん ど描かれない。例外的に『星からの帰還』ではかろうじて未来社会が登場す るが、それはまるっきり得体のしれないものだし、また『浴槽の中で発見さ れた手記』に登場するペンタゴンも、まったく理解不能で理不尽な存在にし かなっていない。レムの変な社会認識では説得力のあるものが書けなかっ た、というのはあるだろう。だがレムには実際の社会もそう見えていたんじ ゃないかと思えてならない。

 同様に、レムの小説では人間関係もないに等しい。職能で決まるチーム的 な役割分担はかろうじてあるものの、それが作品の中で変化することもまず ない。もちろん、人間ドラマを求めてレムを読むやつもおるまい、というの は事実ではある。しかし、唯一の例外であるあの『ソラリス』が、一方でレ ムの最も人気ある作品だというのは皮肉なことではある。『ソラリス』に人 気があるのは、そこに例外的にメロドラマが存在するからだ。ロマンスらし きものがあり、そしてソラリスの介入を受けた人々が示す感情的な反応があ る。レムの他の長編には、まともな意味でのロマンスや、友情、親子親族感 情に近いものすら一つたりとも存在しない。

 スティーブン・ピンカーは、小説を含む芸術の意義として、人間の持って いる進化的な特性とそれが引き起こす悲喜劇の描写を挙げる。「私たちを芸 術作品に引きつけるものは、単なる媒体の感覚体験ではなく、情動的な内容 や人間の条件への洞察である。そしてそれらは、私たちが生物として抱える 永遠の悲劇に関係している」([2]下 p.263) ピンカーがここで念頭において いるような意味では、レムの小説はまったく意義を持たない。

 しかし一方で、レムの小説はピンカーがおそらくまったく予想していなか った形で、人間の条件への洞察と、生物として抱える永遠の悲劇を描き出し ている。ピンカーは、人が遺伝的な特性にどのような形で縛られているかを 念頭においている。遠近法、性差、錯覚、言語、そういったものがどのよう に制約に関心があるわけだ。でも、レムの場合は、人が遺伝的な特性を持つ こと自体、人が遺伝子の産物であること自体を人間の条件と見ており、そし てまさにそのこと自体が永遠の悲劇なのだ。

 それはレムの当初からのテーマだった。人間であることには限界が存在す るのだ、という主張。もちろん、レムにあっても、それは段階的に発展して きた議論だった。習作として当人の否定する『金星応答なし』ですら、人間 (というか金星人)の扱いきれない力への警鐘だったけれど、これは核拡散 条約くらいでなんとかなる代物だ。続く『砂漠の惑星』『エデン』、そして もちろん『ソラリス』も、人間の理解を超えた知性を中心に据えた物語だっ た。人間の知性や科学にも限界があり、まったくちがった知性や文明の形が あり得る。

 だが、それだけなら、いずれはわかるようになるかもしれない。たとえば 『砂漠の惑星』の分散創発型機械/生命体は、少なくとも小説の中で原理くら いはわかる。『ソラリス』の最後の一文も、無限のフロンティアの可能性を 語ったものとして読むことも可能だろう。でも、レムは「わからない」こと の根拠を求める。それが情報だ。情報はいかようにも解釈できる。『天の 声』では、なぞのニュートリノ通信が解読されて、エネルギーの瞬間移動装 置などいろいろ変なものができる。だが、それが正しい解読かどうかはさっ ぱりわからない。かつてのソラリスからの信号は、ハリーちゃんという形 で、少なくとも正しく解読はされていた。わからないのはその目的だった。 『天の声』では、目的も情報そのものもわからない。

 ちなみに『浴槽で発見された手記』はあまりおもしろくない小説で、その わからなさを組織や社会一般に(かなり粗雑な形で)広げただけだ。だがそ れをもうちょっと緻密な形でやろうとしたのが『捜査』『枯草熱』だ。人口 が多く、その相互のやりとりも増えてきた社会では、これまでならほとんど 絶対あり得なかった、ありとあらゆる可能性がどこかで実現してしまう。新 しい病気、新種の犯罪――人は「その原因は」と因果律を求めるだろう。だ が、そこには何の因果関係もない。

 その後、『完全な真空』『虚数』で使われた、架空の本の書評や、架空の 本の序文という方式は、何やらメタフィクション的な仕掛けとしてもてはや されていたし、またレム自身も従来のSFの成長プロセスを一通りたどりきっ てしまったので従来型の小説はもう書けない、といった発言をしてはいたの だが、実際にはレムがキャラづくりとか舞台となる社会の描写とかが苦手だ というのも大きかっただろう。それにレムは、自分の作品を一つの発展史の 中に位置づけていた。社会での因果関係を否定してしまった後では、もはや 普通の意味での小説は書きにくかったにちがいない。

 『虚数』のすごさは別のところでも述べた。「この本すべてのテーマは、 生物と機械を一本つらぬいている進化と知性の未来ということなんだ。進化 のプロセスの中で、知性の誕生は必然的だったのか? 機械は知性を持てる か? レムはそれが必然であり、もちろん機械は知性を持てて、しかもそれ は生物学的な制約を持つ人間ごときをはるかに上回る水準に達するであろう と語る。この本の後半の『ゴーレム XIV』は、その人間をはるかに上回る知 性を持った機械が、下々の人間たちに行った講演録になっている。その中で この機械は、進化の中での知性の位置づけと、その将来の発展の道筋を説い てくれるのだ」[6]。

 この「ゴーレム」で、レムは本当にむちゃくちゃなところまできてしまっ た。ゴーレムやその兄弟コンピュータは、あるとき自意識を獲得し、人間の 水準をやすやすと超え、人間の理解をはるかに超えた情報処理を独自に進め るようになる。そしてやがては、自分が生産する情報エネルギーが消費エネ ルギーを上回るようになり、自給自足の純粋思考存在となる。ゴーレムの内 部で行われている情報処理は、人間にとってまったく意味を持たない。だが それは、アリにとって人間の書物が意味を持たないのと同じことだ。だれも いない森の中で倒れた木の音は存在するのか、という問題がある。レムにと って、それはもちろん存在する。それを認識できないのは人間の問題なの だ。

 これはもちろん、ソラリスの海の誕生でもある。人間にはまったく理解不 能の純粋知性体。レムはこのプロセスで、自分の作品史に登場するものをす べて統計的な必然性のプロセスの中に入れた。宇宙開闢以来続く情報のたゆ たいの中で、人類は一瞬だけ浮かび上がり、そしてやがては機械/ソラリスの 海を作り出し、それに主役を引き渡してその使命を終える。それを引き継い だ次の知性は、宇宙そのものを作り出す存在になるのかもしれない[7]。だが 人がそれを理解することはない。レムが見ていた人間の悲しさはそこにあ る。人間が人間であるが故に持つ限界――それはピンカーが想定していた、 人間的な弱さの話とはまったく別のものだ。にもかかわらず、それはまさに 本当の意味でわれわれの限界となる。

 かれはその先の世界も書き続けていた。『宇宙創世記ロボットの旅』や 『ロボット日記』で描かれた世界は、人間にかわってロボットたちが宇宙の 主役となった世界だ。それは科学ネタのジョークがかったおとぎ話ではある のだけれど、おそらくレムはかなり真剣にそうした世界を夢見ていただろ う。同系統の「赤鉄王子と水晶王女の物語」には人間が登場するが、そこで の人間は<白子>と呼ばれるおぞましい存在で、ベチャベチャの水だらけの 肉体を持ち、自分のなんたるかにも気がつかずに無意識に進化に踊らされ て、筋の通らない再生産を繰り返すだけの存在となっている。たぶんそれ は、レムが本気で感じていた人間嫌いの一端なんだろう。そしてレムは、そ の人間の次の機械存在に果てしないあこがれを感じていたんだろう。

 さようなら、人間嫌いのレム。死んで、水のつまったべちゃべちゃの醜悪 な肉体から解放されたあなたは、機械に生まれ変われたでしょうか、それと も情報の炎を放つ星になれたでしょうか。もうしばらくして人間の時代が終 わり、宇宙の主役が交代して機械となったとき、その機械たちにあなたの慧 眼が伝わりますように。もっとも……あなたが正しければ、おそらくぼくた ちは、その交代が起こったことにすら気がつくことはないのでしょうけれ ど。でもその一方で、かれを悼む人々に対してレムなら平然と言い放つだろ う。悲しむことはない、と。『枯草熱』のように偶然が支配し、すべては統 計的な確実性しか持てなくなったこの時代にあってすら、死だけはその未だ 確実性を失ってはいないのだから、と。したがって、自分の死も一つの必然 でしかないのだから、と。

参考文献:



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YAMAGATA Hiroo<hiyori13@alum.mit.edu>
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