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橋本治vs山形浩生対談

山形浩生

『atプラス04』2010年5月 特集:エコノミストはなぜ経済成長の夢を見るか?

要約:経済成長は本当に必要なのかどうかとか、それが要るのはわからなくもないが、橋本治は個人としてはなくてもかまわないとかいう話。


——橋本治さんは『大不況には本を読む』(中公新書ラクレ、二〇〇九年)の中で、「いるんだかいらないんだかわからないものを買って経済を拡大させる」という、成長が前提となった産業革命以後の体制にブレーキをかけ、「自分のものは自分で作る」という、経済タームでは「保護主義的」と呼ばれるあり方を、人間のあり方に立脚する立場から「自立」として提案されました。しかも、「我が身のありよう」を考えるのも大事なら、現実生活を維持するために働く「金稼ぎ」も大事であり、これは二者択一の問題ではなく、両者は両立して存在すべきだと書いていらっしゃいます。だからこそ、「大不況」という経済の話と、人のありようを書いてきた「本」を結びつけられたと思います。
 また、山形さんは、野村総研の開発コンサルタントであると同時に、評論家、翻訳家として「本」に関わり、特に翻訳では、ディック、バロウズからクルーグマンまで、それこそ、経済と橋本さんの言い方では「文学=その他」を両立するお仕事をしていらっしゃいます。また、橋本さんの熱心な読者でもいらっしゃいます。
 今号の『atプラス』の特集は、「エコノミストはなぜ経済成長の夢を見るか?」というテーマですが、経済成長についての二者択一的な議論だけでなく、それこそ、私たちのありようを考える前提とは何なのか、どうやって生きていくか、ということも含めた議論ができればと思います。

橋本 「エコノミストはなぜ経済成長の夢を見るか?」って、エコノミストはそもそも経済成長を前提としている人たちでしょ?

山形 前提としているわけではありません。ただ、人にはもう少し良い生活をしたいという欲望が基本的にあります。それを実現していこうと考えると経済成長が必要なわけで。もし人々の中で、それこそ橋本さんがおっしゃるように、もう何もいらない、生活を切り詰めます、というのが主流になれば、経済学はそれに応じた理屈なりやり方なりを当然考えるわけです。

橋本 でも、経済というのは膨らんでいかないと取り分が出てこないわけだから、縮小させていくというのはある意味で嫌な決断なわけでしょう。

山形 ただ、その決断をするのはエコノミストでもなければ政治家でもない。そこら辺の人がもう少し良いものを食べたいとか、サボりたいとか思うわけじゃないですか。それが全体として集まると経済が成長する。経済成長というのは、みんなの欲望をかなえるということなんです。

橋本 テレビのニュースやワイドショーもそうですが、要するにどうすれば景気が良くなるか、という話しかしないわけですよね。それは、そこら辺の人が半分エコノミストになったつもりでそう言っているのか、そこら辺の人がエコノミストに働きかけようとして言っているのか、知りませんが、本来は、そこら辺の人とエコノミストの間にはかなりの距離があると思うんですよ。でも経済を論じはじめると途端に、そこら辺の人が全部エコノミストになったような気分で、経済成長の夢を見ようとしている気がするんですけど。

山形 エコノミストといってもさまざまです。通俗的な経済評論家という意味だと、経済成長をという話に当然なってくる。ただそれは、多くの人が成長したいと思っていて、その意見を代弁するという立場でもあるわけですね。一方、経済学者という意味だと、経済成長の理論も作るし、縮小していくとどういう世界が描けるかという理論も作る。後者の理論は、作った学者を見たことないですけど、でも作れるはずだと思います。

橋本 でも理論ができても、納得する人がいるかどうかの問題でしょ。納得しない人が多かったら、それは適用できない。

山形 理論として納得はしても、じゃあ、その世界に住みたいかって言われたら、嫌だと言う人は多いと思いますが。

橋本 九九パーセントは嫌だと思います。経済は基本的に成長するというのが正しいあり方だと、私も思うんですけれど、ただ、それが自然な成長なのか、促成栽培の過剰な成長なのかが問題で。注射を打つような形で大きくして過剰な成長を目指したことで、無茶が生まれて、歪みができて、ぶっ壊れたというのがリーマンショックだと思うんです。だから、あってしかるべき成長はどれくらいかという議論をしないで、ただ闇雲に景気がよくなればいいというのは、他の選択肢が見えなくなるし、妄想でしかないという気が私はするんですけどね。

山形 おっしゃるとおりです。リーマンショックなどの一連の金融危機の発端になったサブプライムローンですが、確かに需要はあったんです。貧乏な人も家が欲しいと思っていて、それに対応する商品を作ったという意味では。しかし、結果的にそれは、返せないものを人に買わせることになってしまって、良くなかったということに落ち着いた。

橋本 返せない人に貸すのは良くないということに、どうしてもっと早くに気がつかなかったのかというのが、私の単純な謎なんですけどね。返せない人にも貸せば経済が成長して、それによって返せない人も返せるようになるという理論なんでしょうが、それはあまりにも危なくない? という考え方をなんでしないんだろう。というか、経済成長を前提にすると、それができなくなって、それしか道がなくなる。自分のやっていることを振り返ることができなくなるんでしょうね。

山形 それは現在、世界中の人が自問していることです。個々人は自分の所だけしか見ていないので、ヤバイものが来ても他所に回せるからOKだと考えてしまったのが、今回は非常に大きかった。結局、その回していた他所が、実はすぐ隣の人だったりして、お互いにそれをやり合い続けて、一蓮托生で倒れてしまったという話なので。だから、もっとこう広く考えなきゃいけないということを言いはじめて、じゃあそれはどうやって広くすればいいのよっていうのをみんな結論でなくて困っている。もっと情報公開しろとか、全体の量をだれかが規制しろとかいう話になりますが、だれにそんなものを信用して任せられるかというと、これまで信用していた人や組織が総倒れですから、どうしたもんか……

橋本 まさか、それを私に聞こうっていうんじゃないでしょうね(笑)

山形 いや、もし答えが出せるのであれば出していただきたいですが。

橋本 それはないですよ。私はリーマンショックが来た段階で、もう経済のことを考えなくてもいいんだと思った人間ですから。私がそれまでやっていたのは、金が金を生むような状況はヤバくない? 稼ぎに寝首とられて引きずり回されるのは嫌だ、という話でしたから。リーマンショックが来たら、やっぱり駄目だったでしょう、というだけで、別に経済と付き合わなきゃいけない理由もなくなった。ただ、世界中の経済を動かしていたつもりの人が、このままじゃいけないと考えはじめた、その答えが出てくるのを待っているだけなんですけどね。

——橋本さんは、「大不況に見舞われる」のではなくて「世界の安定のために進んで不況にする」という選択肢もあると書かれ、「不景気の中で生き続ける」システムを考える必要性を指摘していらっしゃいます。

橋本 あれは言葉の勢いで、進んで不況にするなどという選択はありえないですけど、山形さんがおっしゃったように、小さいなら小さいなりにやっていくという方法もあるというのでしたら、それは進んで不況にするという考え方に近いと思います。
 ただ、進んで経済を縮小し、不況にすると、当然景気の外にはじき出される人たちができるわけでしょう。そうした人も昔だったらなんとなく生きていく術があったと思うんですね(●その生きていく術の例があれば、入れてもらえますでしょうか)。でも現在は、生きていく術がない。つまり社会保障しか術がなくて、その社会保障を成り立たせるものが、景気のパイの拡大によって生み出されるものだから、縮小してしまうと社会保障の金も少なくなるわけで、はみ出してしまった人は救い手がない、ということにもなりかねない。派遣切りもその一つの形だと思います。

山形 そのとおりです。実は、今、進んで不況にするということを日本銀行がやっているというのが、僕や一部の学者たちの主張です。日銀はバブルを起こさないために、とにかく経済を押さえようという本末転倒なことをしている。経済をまわすのに必要なお金の量をなるべく減らして、経済を貧血状態にして停滞させることで、それを実現しようとしているんです。だから、派遣切りが起き、若い人が就職口がなくて苦しむという状況になっている。

橋本 不景気のときに進んで不景気にさせるというのは無茶な話で、私が言っているのは好景気のときに、なぜ進んで不景気にさせるという発想をしなかったんだろうという話なんですけど。でも好景気のときに、進んで不景気にしようなんて発想は誰もしないですよね。

山形 そうなんです。僕が会社に入ったのがバブル期でした。その当時、ホテルなどの事業計画を作らされたんですが、収入が毎年一〇パーセント上向きになるという絵を描かされていた。「すみません、これだと二〇年後にホテルが一泊二〇万とかになってしまいますが、大丈夫ですかね?」とか言うと、上司が、「大丈夫大丈夫、日本経済は安泰だから」って。本当かなーと思いましたけれど。まあ、上司が言うことだからと放っておいたんですが、今にして思えば馬鹿でしたよね。

橋本 だから、反対論を自分の頭から次々に消していって、経済はどんどん成長するんだぞ、ということに特化していった結果、起きたのがバブル崩壊だったし、リーマンショックだったわけです。ただ、特化していった人が元に戻るのは、絶望的に難しいと思う。私は人間のあり方に対して恐怖心を抱いているんですよ。経済がどうこう言うよりも。

山形 一〇パーセントの成長と言っていた上司は、今は当分ゼロだと言っています。両極端なんです。僕は、一〇パーセントは当然無理ですが、今のゼロが永遠に続くという設定もでもなく、その間くらいのどこかじゃないのかということが言いたいんですが。

橋本 ゼロが続くなんてことはありえないでしょう。経済は、そもそも上がったり下がったりの曲線を描くものですから。第二次世界大戦以降、下がるということは駄目なことだと決めてかかっているから、経済が振幅するものだということを忘れてしまったんじゃないのかな。それと、振幅ですから、バブルのように極端に上がったら、当然下がるときはドドンと極端に落ちてしまうわけで、そのショックで足腰が立たなくなるという大怪我を負う。それが今の日本の状況で、あとは成長の夢を見ることぐらいしかできない。だから、好景気のときに、あえて不況にするという選択をしたほうがいい。下がる振幅を小さくするためにも。ただ私の言っていることは無茶な理想論だということは重々承知しているんですけどね。

山形 いや、まさにそのとおりで、戦後、確かに平均では少しずつ右肩上がりになっていますが、それでも波を描いています。また、バブルで極端に上がった後の反動が大きいというのもそのとおりです。たとえば、バブルでビルを建てたりすると、不況になったからといって壊せないのでずっと空き家で残ってしまう。落ちた分を取り返すのに非常に時間がかかるんです。

橋本 私は、公共事業をするのなら、失業者を集めてビルを壊すことをしたほうがいいと思っているんです。昔の公共事業は、ダムを作るとか、何かを作ることでしたが、今は壊すということに公共事業をシフトさせたほうが将来的には役に立つんじゃないか。厚生年金で巨大な施設を作ってしまって、売りに出しても買い手がつかなかくて、いつか売れると思っているうちにお化け屋敷になって、そのときには金も底をついて、壊すに壊せなくなってしまうんだったら、今のうちに失業対策事業で壊したほうが利口なんじゃないかな(笑)。

山形 それは面白い(笑)。ありかもしれません。今度提案してみます。

橋本 ただ更地にすると、今度、その更地をどう利用するのか、という考えがまた出てきてしまう。とりあえずそのままにしとかない? というような持ちこたえ方がどうしてできないのか、不思議なんですけど。
 昔、自然というのは金にならない土地のことだったんです。金にならないから野放しにしてあって、それが自然ということだった。樹木を植えて、材木にして金にするぐらいはできるかもしれないですが、基本は金にならない土地なわけですよ。ただ、そうした金にならない土地を持っていることが、ある種生きるためのバックボーンでもあり、豊かさだった。ところが、(●バブルの時代に)リゾート法を作って、空いているところを開発しようとなって、自然は金に換わりうるものになった。今は地球上のすべての土地は金に換わりうると思っているんじゃないの。だからここで、もう一度、自然は金にならないものだから放っておくという考え方を復活したほうがいい。放っておいて、昔やっていたようなセコイ利用の仕方を考えるというのが、人を落ち着かせる最良の方法じゃないかと思うんですよ。

山形 今の橋本さんのお話は、不動産経済学の教科書にそのまま書いてあります。不動産経済学では、真ん中に利用度の高いところがあり、あるところから先はまったく価値のない土地になり、それが増えたり縮んだりするというのが基本です。そしてもっとも端にある価値がゼロ以下の土地は何をしても意味がないので、そこにはこだわらないようにという話なんです。

橋本 だから巨大施設を壊した後の更地は、そのこだわらない土地だと考えて放置しましょうと。でも、私は不動産経済学の教科書なんて読んだことがないのに、そこに書いてある基本が分かって、それで学んだ人にそういう発想がまったくないのはどうしてですか?

山形 それは、バブルが一〇年なり一五年なり毎に起きるのはなぜかという話と同じですね。実際に自分が火傷をしたら二度と忘れませんが、教科書でいくら火傷の話を学んでも身につかない。リーマンショックも、アジア通貨危機から一〇年して起きました。それは、アジア通貨危機の教訓を忘れてしまった人が起こしたというのが定説です。

橋本 じゃあ、現在の日本は、みんな、とにかく景気回復だと、一億総エコノミストみたいな感じですが、その人たちにきちんと火傷をしてもらうというのはどうでしょうか?

山形 火傷はしたんじゃないですか? それがすでに三〇年間くらい続いている。今の経済水準は八〇年代くらいに戻ってしまっています。

橋本 つまり低温火傷ですね(笑)。でも低温火傷はなかなか致命傷にまで至らないので、あと五年くらい続くんじゃないですか。嫌な言い方ですが、そうでもしないと、自分で考えない。成長一本槍では危険だということを身体に焼き付けるためにも、それぐらいの痛い思いが必要なんじゃないかな。

——先ほど、現在、日銀がやっているのは、進んで不況にする政策だという話がありましたが、山形さんは、一〇年以上前になりますが、クルーグマンのインフレ期待による景気回復説を日本で最初に紹介されました。これはインフレを宣言することで、将来インフレになってお金の価値が目減りするから、いらないものでも取りあえず買おう、という気にさせ、みんながお金を使うようになり、需要が増え、景気が回復するというものでした。まさに「いるんだかいらないんだかわからないものを買って経済を成長させる」手法です。山形さんは、これが経済学的には有効だとする一方で、みんなが無駄な買い物までするようにインセンティブをゆがめるのは、本当に望ましいことなんだろうか? と疑問も呈していらっしゃったと思います。その疑問と経済成長はどう折り合いをつけていけばいいでしょうか。

山形 折り合いは最近ついてきました。つまり、いる/いらないはデジタルに決まっているものではなく、この一線を越えればすべているもので、超えないものはすべていらないという話ではないということですね。人がモノを欲しいと思う理由には、いろいろな要素があります。たとえば、今日は雨が降っているからなんとなく(●本が)欲しいとか。いらないモノというのが明確にあって、いらないモノだから買わなくていいという話には必ずしもならない。
 日本ぐらい豊かになれば、次に何が欲しいかと聞かれても明確には答えられないですが、途上国では欲しいものがはっきりしています。つまり、昔の日本人が欲しがったとおりに、まず冷蔵庫が欲しいと。ところが、冷蔵庫の次に何が来るかというと、最近ではカラオケセットです。これには困っています。日本がODA(政府開発援助)を使って電気を引きましょうとなって、じゃあ、電気が来たら何が欲しいですか、と聞くと、カラオケセットが欲しいと。カラオケセットを買うために、日本の税金を使って電気を引くのかと。それでは、国会は通りませんから(笑)。

橋本 だから、いる/いらないから、欲しい/欲しくないが基準になったことが問題なんです。欲しいけど、いらないモノもあるじゃないですか。それは言ってみれば子どものわがままでしょう、なぜそれが欲しいのかといったら、みんなが持っているから、というのは。そうした日本的なメンタリティーが途上国にもどんどん広がっているということでしょうか。

山形 いや、それは世界中の人間が持ってるメンタリティーだと思います。これは、メキシコの例ですが、電気も来ていない村なのに、電気がある隣町の人が持っているから、冷蔵庫が欲しいとか。そういう訳の分からない欲望は山ほどあります。

橋本 なるほど。それでは私が異常ですね。いらないモノは欲しくないですから。服だって、年をとると流行を追う必要がなくなります。若いときの一〇年は、人格が変わるぐらいの変化をするから、季節ごと一年ごとに服の好みも変わる。しかし、年をとるとそういう必要がなくなって、むしろ自分の獲得したレベルを維持させてくれる服のほうが楽なんです。だから一〇年、二〇年と同じ服を着る。あるいはシーツだって、新しく買うのは、端的に破れたから。洗濯しつづけていると、布地が薄くなって、自然に破けるんです。
 さらに、私は機械というものは半永久的に持つものであるという信仰があるので(笑)、壊れるまで買い替えないわけですよ。現在、私が使っている洗濯機は一九八〇年頃に買った二槽式です。三〇年くらい使っています。買うときに東芝はモーターが丈夫だからお勧めですよ、と言われて、モーターの丈夫さで洗濯機を買ったから一向に壊れないんですよ(笑)。
 また、先日、テレビを買い替えたのは、半年以上も前から調子が悪くて、画面が全体的に黄色っぽくなっていたんですが、それが赤と緑の二色になって、これは危ないと思ったからです。それで電気屋が来る朝にテレビのスイッチをつけたら、プチって音がしてそれきり動かなくなった。

山形 美しいですね。

橋本 だから、モデルチェンジの度に買い替える意味が分からない。八八年に『大辞林』が発売されたときに、意見を聞きたいから使ってください、と送っていただいたんですね。使っているうちに馴染んできていたんですが、九五年に第二版が出て、また送ってくれて、ご意見を、と言われたんです。でも、第一版の使い方に慣れているから第二版で新しくなると、正直言って使い勝手が悪い。だからモデルチェンジをしないで欲しかった。つまり、より便利になったと言われても、こっちにはこっちの都合があります。年寄りは大体そうですが、頭ではなくて、今までの習慣が大事だから、突然システムが変えられると分からなくなるんです。私がベースにしている世の中のあり方というのは、みんなが忘れ果ててしまったようなもので、原稿を描く際にも、ワープロもたまに使いますが、ほとんど手書きですから。

——ワープロ?

橋本 書院です。

——書院を今も使っているんですか? 二〇〇三年には生産中止していますよね。

橋本 四台くらい壊して、助手が予備で買っていたものを譲り受けて使っていますが、一〇年は壊れないでくれよと思いつつ。

——それは筋金入りですね。話は変りますが、橋本さんは、『乱世を生きる——市場原理は嘘かもしれない』(集英社新書、二〇〇五年)では、「世界経済が破綻したらどうなるか」について知りたいと思っても、エコノミストは知らないし、そもそもそうしたことを考えていないと書いていらっしゃいます。山形さん、もし説明できるならお願いします。

山形 経済全体が破綻するということは、まずありません。サブプライムローンの仕組みが破綻した、あるいはその破綻が波及して金融システムが破綻したといったような言い方はしますが、経済全体が破綻したというのは、単に不況になりましたということを言い換えているだけの話ですね。金融システムが破綻したらおしまいだという人もいますが、実際は、一般の人たちは関係なく普通に生きています。金融経済が関係あるのは上のほうの話です。

——金融経済が破綻しても実体経済は回っていると。

橋本 実体経済は常に回っているわけでしょ。その回り方が小さいと不景気で、大きく回ると好景気というわけですよね。だから、多くの人を吸収できるような実体経済の大きな回り方が今後あるのか、ということが、もっともやっかいなところなんじゃないですか。

山形 そのとおりです。先日、マレーシアは金融危機で大変じゃないか、金を貸したらどうだろう、ということで調査に行ったんですが、調べると不動産業界などのバブリーなところは困っていますが、中層から下はまったく困ってない。むしろ上層が外食する際に使うレストランのランクが下がってきて、かえって外食産業では中層が経済的に潤っていたりする。なので、お金を貸してもしょうがない、という結論になりかけているんです。それでは、上のほうを回す方法があるのかというと、分からないですが。

橋本 そもそも上のほうを回す必要はあるんでしょうか。今の話で、バブルがはじけた日本の九〇年代前半を思い出しました。つまり、建つはずのビルが建たなかったとか、テナントが潰れてオフィスビルが空きだらけになるとか、困った人たちは確かにいました。でも、普通の人はそんなに困っていなかった。その証拠に、ブランドブームが起きたのはバブル崩壊後、九〇年代前半からでした。みんながヴィトンを買うところから始まって、さらにシャネル、エルメスとブームが広がった。むしろ、大衆化して、マーケットは大きくなった。
 いる/いらない、欲しい/欲しくないでいうと、ブランド品はいらないモノだけど欲しいの最たるものですね。必要性からいうと、バッグをそんなに持っていてもしょうがないのに、欲しいと。そういう形で、消費を煽って疑似インフレーションを作り出して、経済を成長させ、景気を回復するというのは、術としてはあると思うんですが、それをどこに着地させるのか。というよりむしろ着地させない方向、つまり、もっと疑似インフレーションを作り出せるという方向にいってしまうのが問題です。着地点を考えるというのは、なんのためにそうするのかを考えることです。それが全部抜けてしまったような気がするんですよね。

——この二〇年間で実質の成長率は一%ほどで、ほとんど成長はなかったという時代ですが、橋本さんは別に困ってないと。

橋本 私はずーっと困っていますよ。借金を返さないといけないから。毎月一〇〇万円ずつの返済があって、働けど働けど消えていきますから。

山形 月一〇〇万!

橋本 あと一〇年続きます。だから、経済の末端ではこのような不合理が起きているということは我が身でわかっているんですよ(笑)。

——それはバブル時代にできた借金ですか?

橋本 バブル期に銀行が言うんです。絶対に上がるって。私はそれに対して絶対に上がりつづけるということはあり得ない、と思ったわけです。じゃあどちらが正しいかということで、一億八〇〇〇万円を賭けたんです。一年たって半額になったから、「ほら俺の勝ち」という話です。一億八〇〇〇万で言論の自由を買ったようなもんで、さすが作家のお買い物(笑)でしょ。経済は、やっぱり参加しないとわからないですから。自分の言っていることがどれだけ正しいか確かめるために、毎月一〇〇万円の借金を払うという苦役を負っているようなもので。突拍子もないんですよ、私は。だから、私を基準にして物事を考えるのは間違いなんです(笑)。
 でも、個人と社会とのあり方を考えるためには、それくらいの突拍子のないことをしないと突破口にならないと思っているんです。そうしないとシステムの外に出られない。そこが今の日本人の苦しいところなんじゃないか。もちろん、システムの中で選択肢はたくさんあります。でもそのシステムから外れるという選択肢はないんですよ。システムがそれを許してくれない。
 昔だと人がそれぞれ独自にシステムを作っていたんですよ。たとえば、水道水を通す際も、家によっては「別に井戸でいい」というところもあって、その独自のシステムの寄せ集めみたいな感じで上水道のシステムが成り立っていた。ところが今は全部が一律の上水道システムに統合されていて、その上に乗っかるしかない。だから、システムから降りて何かをするとなると、不毛の荒野で何をするんだということになって、相当な危険を覚悟の上でしなくてはならない。今、ドロップアウトだ、脱サラだ、とやってしまうと、どうなるか分からないでしょう。

山形 印象ですが、橋本さんは当初、欲望を肯定する人でした。『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』や『青空人生相談』で「現状はこうなんだからあきらめろ」というのに対し「でもそんなのあたしはいやだ」という若者たちの欲望を肯定しつつ、いやなんだけれど何をしたらいいかわからない、という人々に対して示唆、あるいは編み物といった具体的な活動を提示する、というのが橋本さんの基本的な議論でした。しかし、それが『乱世を生きる 市場原理は嘘かもしれない』の中では欲望を否定している。世界経済のフロンティアは欲望しかなく、「いるかいらないかわからないものを欲しい」と思う欲望と、必要に基づく欲望を経済は区別できない以上、我慢という現状に抗する力が必要だと。いつから欲望は橋本さんにとって否定されるべきものとなったのでしょうか。

橋本 当時も欲望を手放しで肯定しているつもりはなかったんですが、私が欲望を肯定するというのは、新たな理想を構築しようとしても、自分の中にある欲望なり、快感原則の類をしまい込んでいると材料が足りなくなるから、その材料は肯定してもいいんじゃないか、という意味ですね。つまり、自分が好きなものを取り込むことで、自分の頭で考える、まともな回路が作れるんじゃないの、ということです。借りものの理論で考えてもカラ滑りするだけだから、自分の中にあるものを出さない限り、どうすればいいかは出てこない。その件に関しては私はずっと一貫しているんですよ。自分で考えるってことですね。
 先ほどのシステムの話がありましたが、そのことで言えば、システムの中で考えるのではなくて、その外に出て、どう生きていくのかを考えるということです。大人になること自体が、システムから出るということに近いんじゃないかな。

山形 難しいですね。普通は大人になるというのは、社会のシステムのルールが一通りわかって、そこから外れないようになるということが、一般的な理解ですよね。

橋本 例えば会社で部長クラスだと、そこそこの地位もあり部下もいるわけで、大人だとされる。でもその人が、会社が倒産したときに、自営業を起こしてやっていけるかというと全然別問題ですよね。その万一潰れたときに、自分がアタマになることはできますか、というのが、私にとっては、大人の条件であるような気がする。私は、いつも非常事態を想定しているところがあって、それが起きたときにも対処できるということが大事なんです。
 それと、大人であることの条件に関連することですが、最近思っているのは、人間には裏があってしかるべきなのに、いつから裏を認めなくなったのかということですね。つまり、理想と現実、経済の話もそうですが、ブレていることを重要視したいわけですよ。自分と世の中との間には当然ギャップがあり、そこを持ちこたえて、ブレるというのが人間のあり方だと思うんですが、いつの間にか世の中に対応して生きるのが人間であって、それの背後にある裏はないようにしようとなった。それは、現実の中で自分を持ちこたえる能力がなくなってしまったからかもしれないですね。
 腹芸という言葉があるように、歌舞伎だと内面の心情と、外側に対処している自分との二つがあって、その間でジレンマを起こすというドラマは当たり前にあるわけですよ。そのジレンマを持ちこたえる力を腹があると言う。それがないとき、腹が薄いと言います。今は芝居もそうですが、みんな腹が薄い。台詞通りにやれば全部OKとなる状況があります。腹があれば、台詞でイエスといっていても実はイエスといっていない、ということはおうおうにあり、受け手もそのブレを持ちこたえて、それにどういう意味があったのかを考え、最終的に単なるイエスとは違うもっと豊かな判断する。昔はそれは当たり前だったんですが、それがいつのまにかなくなってしまった。
 もちろん、人間に二重性があることは言われるし、本音と立前といった言い方もされていますが、表の立前はウィークデーで、裏の本音は週末の休み、というように今はきれいに分離されてしまっている。本音の上に立前の自分が乗っていて、その二重構造の中で人間はいつもブレているはずだという、人間の複層が忘れられている気がしますね。

山形 確かに、裏と表を一致させなくてはいけない、裏があるといけないというのは、今の発想ではありますよね。なるべくその両者を一致させていこうという話が精神医療も含めて、あらゆる分野で起きています。

橋本 でもそんなに一致できるのかな。むしろ、その一致させないといけないという抑圧が、かえって人の心を病ませるというケースも多いんではないのでしょうか。機能的な社会人になりすぎていて、不純物を含んだ社会人になっていない。その不純物を含んだ社会人が大人なんじゃないかなと、私は思いますけどね。

——俗に言う清濁併せ呑むということですね。

橋本 そうです。しかし、清濁併せ呑むといったときも、清と濁をフィフティー・フィフティーにしなきゃ、みたいな(笑)。濁を七くらい呑んだら、これだと自分が汚れるから清の部分を三ほど呑んどいて、濁をはき出したときに生きていけるようにしようとか。清濁併せ呑むというのは、そういうフレキシビリティーを当人に任せているものであるってことを考えないのね。

——経済政策でもそういうところがありますね。一つのことをやるときに一〇〇パーセント良い政策はないわけです。三割は不都合があるけれど、七割は良いからやろう、とか。そういう価値判断をせざるをえないというところがありますよね。

山形 経済学者は、基本的には経済政策の提案をする際には、これはこういう悪いところがあるけれども、と留保をつけて、あとは政治家に任すと。その政治家が上手くあちこち押さえてやってくれるというのを普通は期待するんですけどね。

橋本 たとえば子ども手当の議論があります。あれは、子どもは社会で育てましょうという、総論としては悪くないんです。でも、子どもは社会で育てるにはどういう選択肢があるかという議論抜きに、、社会で育てる=お金をあげます、となるから、各論になるとそれしかない。すると、経済的なつじつまはどうして合わせるの? と疑問を出すと、いきなり、子どもを社会で育てることに反対なんですかとなってしまって、検討ができない、ということが、今の悲しさだと思いますけど。

——橋本さんは、農業が主流であった時代、「限界」を前提として生きることは当たり前で、産業革命以降それが失われた、と書いていらっしゃいます。同じように、経済学の歴史を見てみると、成長は必ずしも前提にされていなかったことが分かります。古典派経済学には、「収穫逓減」という発想もそうですが、「自然的制約」が色濃くあります。特にミルなどは『経済学原理』で、富の増加は無際限ではなく、停止状態を避けることはできないと明言しています。あるいは、モノの価値にしても、土地や労働などの自然的要素、つまり市場外の要素から説明されていました。ところが「限界革命」を経て新古典派経済学になると、価値は効用にとってかわり、それは市場内部で決定されるものになりました。つまり、市場が自然から独立したわけで、そうした前提があればこそ、経済成長が夢見られることになったと思います。しかし、今また、地球という有限性を意識せざる得ない時代に入ると、成長より持続可能なあり方を考える経済学が必要な気がしますが、お二人のご意見はいかがでしょう。

山形 僕は、自然環境は騒がれているほど悪化しているとは思えません。確かに温暖化は本当ですが、二酸化炭素を減らせば温暖化にストップがかかるというのもあやしい議論だと思います。温暖化の被害は、あるけど限定的だし、それに一〇〇年単位の問題は一〇〇年単位で対策をすればいい。今やろうといわれていることをやっても実際にはたいして意味はないから、そういう無駄なことをやろうというのは止めようぜというのが私の立場です。

橋本 成長とは関係ない、底辺でも生きていけるシステムの構築があればいいんじゃないか、とは思うんですが、多分、こちらにそういうシステムがあるから、みんな来ませんかと誘っても、嫌だと言う人が多いと思います。また、それはすごく困難な仕事だからみんなやりたがらないんだろうなとも。
 ただ、私が気になるのは、どうしてそんなに理論が万能だと思ってしまうのかということです。モノ作り経済に日本が一人勝ちをした後、欧米はモノを作るより投資をしてよその国にモノを作らせる方向にどんどんシフトして、アメリカから新しい経済理論が出てくるわけじゃないですか。それは理論というより、ほとんど数式に近いようなものだったわけですが。その理論にすがればなんとかなると思って、それが過剰に頼ったサブプライムローンが生まれ、リーマンショックにまでなってしまった。だから、理論で全部を割り切る考え方に対して若干距離を置いたほうがよくない? というのが私の考え方ですね。そのほうがまともな理論が生まれるんじゃない。

山形 『アニマルスピリット』(ジョージ・A・アカロフ/ロバート・シラー著、山形浩生訳、東洋経済新報社、二〇〇九年)に書いてあることですが、今の経済理論は、一〇円と一〇〇円ではどっちが欲しいかと聞いて、一〇〇円と答える、じゃあ五〇円と一〇〇円ではと聞いて、やっぱり一〇〇円、じゃあ九九円と一〇〇円、では九九・九九九九九円と一〇〇円だったら、というような、最後には普通の人であればどっちでもいいという話にすら、選択を迫るわけです。そうやって突き詰めていくことが原因で訳の分からない話になり、人がそんなに細かく考えることを前提としていることでおかしくなるというようなことが書いてあります。先ほど橋本さんが、裏表の話をされましたが、ブレてる局面で、この時点でお前はどっちなんだ、この時点でお前はどっちなんだと細かく言いはじめると、ブレがあるという話そのものが段々なくなってきて、この時点ではブレはないんです、常にブレはない、という感じになってしまうんですね。

橋本 私は、子どもの頃からそういう理論に従うということがよくわからないんです。例えば一〇円と一〇〇円でどっちが欲しいと聞かれたときに、一〇〇円もらうと大それたことになるから、一〇円でいいや、という選択する子なんですよ。で、九九円と一〇〇円だったら、面倒くさいからどっちもいらない、という選択をしてしまう。でも、そういう可能性は理論の統計をとる段階で、あらかじめ排除されているじゃないですか。それを入れてしまうと全然別の理論ができあがるわけで。その理論は理論という割には全然役に立たない変な理論になるんだろうとは思うんですけど。

山形 いや、それがちゃんと説明できれば役に立つと思いますよ。なんでわざわざ得なほうをとらないの? ということは説明しにくいですから。

橋本 私の場合は、一〇〇円貰って母親にバレたら怒られるという、ペナルティーがついてるんです(笑)。
 だから、理論だけで物事が上手くいけばいいですが、現状はそうじゃない。理論からはみ出した部分を「それぞれなんとかやる」という曖昧さがあったからこそ、日本は戦後見事な復興を遂げたわけで、曖昧な良さを拾わないで、理論の緻密を追い求めるようになってからどんどん駄目になってきたと、大ざっぱには思っているんですね。だって、五〇年〜六〇年代に頑張った中小企業に国家がどういう政策をくれたのか、ホンダが世界のホンダになるために国家が何をしたのかというと、銀行がやってきて「お金貸しますよ」といったのがせいぜいのところでしょ。その「お金貸しますよ」と言ってきた銀行も別に国家が新しい事業に投資しなさいと言ったから貸したわけではない。そうした理論から外れた現場にいる人の直感が、繁栄と呼べるものを作ってきたのです。そのブレというかフレキシビリティーが動かなくなった段階で、理論という名のサブレットを与えて活性化させようというのはちょっと無理な話じゃありませんかと。

山形 それはあるんですよね。理論は実際に起こったことを検証して、もう少し合理的にできるとか、もう少し上手くできると伸ばそうとするもので、必然的に後付になります。だから、状況が変わると、逆にどんどん外れてしまうということはあります。

橋本 だから、人の視点から経済を考えるというあり方しかない気がします。さきほどの一〇円と一〇〇円話でも、経済は人のことを考えているようで、あまり考えてくれない。たとえば、世界中の貧しい子に何かを与えて、経済が発展するというようなことがあるじゃないですか。それは昔からあります。オードリ・ヘップバーンの『麗しのサブリナ』で、仕事ばかりやっているハンフリー・ボガードが自分の仕事の夢をサブリナに言うときに、世界中の人にちゃんと靴を履かせるようにしたいという。私はうっかり、靴を履きたくない子はどうするんだろうと思うような人なんです。結局ハンフリー・ボガードは世界中の人に靴を与える仕事を選ばず、それは弟に任せて、自分はサブリナとの恋に生きる。それで、あの弟はひょっとしたら強引にみんなに靴を二足ずつはかせるかもしれないぞって、私は思うわけです(笑)。

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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>
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