実体としての本、情報としての本

(白水社の PR 誌。2008年3月頃)

山形浩生

要約: 本をやたらにあがめ奉るフェティッシュは不健全だと思う。本なんか実用品として、破り、書き込み、折り、投げ、自由に加工すべきだ。ぼくはそういう跡がある本のほうが好きだ。そしてそれは、物質としての本からもっと情報に注目する立場でもある。



 ぼくは本をめぐるある種のフェティシズムが好きではない。本なんてしょせん、数ある情報収集手段の一つでしかない。テレビ、ネット、口コミ――情報を得る方法は他にもたくさんあって、それが目の前の本という形をとっているのは、ほんの偶然にすぎない。ぼくはそう思っている。本そのもの、物理的な実体としての本にこだわりは持ちたくないし、また持つべきでもない。そこに入っている情報だけが重要だし、それをどう吸い上げるかだけが大事なことだ。

だからぼくは自分で本を読むときにも、書き込むし折るし、重要なページだけを破り取って後は捨ててしまうようなことを平気でやる。ぼくの読書場所は、移動中が多い。通勤電車の中、出張の乗り継ぎ町のバスターミナルや駅、そして空港と飛行機の中。汚れた本が好きだ。その中で、おもむろに本からべりべりとページを破り取り、残りをゴミ箱に放り込むと、まわりの人が、ほとんど冒涜行為を見るかのような、絶句した表情でそれを見守り、ときにずいぶん非難がましい目をこちらに向けたりするのはなかなかおもしろい体験だ。もちろんそれは、移動中の手荷物を軽くするというプラグマティックな意味合いもあるのだけれど。

 同じように、本屋でよく平積みの本を下のほうから抜き出して買う人がいる。ぼくはてっぺんの、みんなが手にとって少し汚れているかもしれない本が好きだ。ぼくの前にだれが何度読もうとも、本はそこに入っている情報の価値しかない。ぼくの前にだれかが、そこから多少なりとも情報の一部を吸い取り、それでも情報はもとのままそこにある――そんな感じがするからだ。古本でも、書き込みや傍線、折り込みやのたくさんついた本のほうが好きだ。だれかがそこから徹底して情報を吸収し(あるいは少なくともその努力をして――というのも、書き込みの多くはかなり間抜けなので)、そしてもはやそれ以上の情報がないとわかったらあっさりそれを手放した――自分と同じ、こだわりのないプラグマティックな態度の人がどこかにいたのだ、ということがわかるからだ。そしてそれこそが、そこにある本の本質である情報の不変性と不滅性を示しているように感じられるからだ。

 それはちょっとお札にも似ている。ぼくはピン札より、使い古されたボロボロの紙幣のほうが好きだ。なんど使われても、そこにこもった価値は変わらない。でも何人もの人が、そこにこもった価値から何らかの効用を引き出してきた――その証拠がそこにあるからだ。本もそうだ。本に対する変なこだわりは、お金をそれ自体として偏愛する、いわゆる守銭奴といわれる行為と何ら変わらないように思う。

 そうは言いつつも、ぼくはずいぶんたくさんの本をためこんできた。ジャック・アタリはかつて、人がそうやって一生かかっても読めないほどの本をためこむのは、そうするだけの時間がいつか自分にできるという幻想を維持するための手段であり、ある意味でそれは時間をため込む行為なのだ、と指摘していた。でも、40歳を過ぎたあたりで、もうこの先絶対に読まないことが明らかな本が山ほど出てきた。いつかきちんと勉強しなおそうと思ってとってあった、大学時代の構造力学の教科書は……もうやらないよ、どう考えても。かつて少し買ってあったポストモダン系の哲学書も、もはや自分にとって意味がないことが明らかになってきた。そういうものをとっておいても、もはや時間をため込めているという幻想が成り立たなくなってきている。

 そして――最近では、それが本からもう一段あがって、情報のレベルにまで到達しつつある。本を読んだところで、情報を得たところで、その情報が何かを変えない限り、それにはまったく意味がない。いったいその情報をどうするか、その情報にどう意味を持たせるか――最近この疑問が以前に増して大きな意味を持つようになってきたのだけれど、その話はまたいずれ。


雑文インデックス YAMAGATA Hirooトップに戻る


YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>
Valid XHTML 1.1!クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
このworkは、クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
の下でライセンスされています。