小説の効用分析とその未来を考える。

(月刊『群像』2003年10月頃)

山形浩生

要約: 小説の効用というものをまじめに考える必要がある。実質所得は上がっているのに、小説からの効用は上がっていないし、他の新種の娯楽との相対比較で比べればかえって下がっている。キングのように長くする手はあるし、それ以外に自動化にも可能性はあるかもしれない。



 こないだ書いた『たかがバロウズ本。』で、ぼくはウィリアム・バロウズ小説の効用関数を定義してみた。そしてそれをもとに、文化活動全体にその効用関数を拡張したうえで、ブンガクと称するものの操作的な定義をし、それに基づいてなぜ文学や小説が衰退しつつあるのか、という議論をした。それは要するに、日本の所得が急激に上がったからだ、というのがぼくの議論だった。

 簡単に説明しておこう。人が小説を読むことで得られる効用は、ある文章のかたまりが持っている価値と、そしてその読者がその文章を読む速度、さらにはその読者の時給で定義される。ある小説を二時間かけて読んで「読んだ甲斐があった」と思ってもらうためには、その人がその二時間でできたはずの他のことから得られる価値――つまり機会費用というやつ――を上回る効用を、その本が与えなくてはならない。さて、通常その機会費用は、その人の時給で測定する。そうなると、日本人の平均的な時給(つまりは平均的な所得)が上がれば上がるほど、本、または小説が提供すべき効用も高くなるわけだ。

 じゃあ、どのくらい高くなるべきなんだろう。一九五〇年代に比べていまの日本の一人あたりGDPは40倍くらいになっている。ただし物価水準が6倍くらいになっているから、実質ベースだと差し引きで7倍くらいと考えようか。さて、本や小説が与える効用は7倍になっているだろうか?

 本そのものの値段は、まあおおむね物価上昇率に近いくらいの上がり方、と思っていいのかな。たとえばバロウズ「裸のランチ」の邦訳は、一九六〇年代頭に出たときには四二〇円。それがいまだと二九〇〇円。ほぼインフレ率と同じ。すると問題は実質効用だ。それが7倍になっていなければ、小説という分野が相対的に見て、経済的な存在感を低下させるのは当然のことだ。文化娯楽的な経済活動のパイは拡大するけれど、それを取り合う他の活動も増える。テレビ、ゲーム、ケータイ。テレビは一九五〇年代に比べるとカラーになったりして、かなり実質的な効用を増しているだろう。ゲーム、ケータイは今更言うべきにも非ず。そしてこれらは、たぶん着実に効用を高めていると思う。そりゃもちろん、FFの最新作がテトリスの何倍高い効用を与えているか、というのは議論の余地のあるところではある。でもぼくはかなり高まっていると思う。それに、総量を考えてごらん。かつてテトリスが与えてくれた感動は、今もある。いまの子にテトリスをやらせても、それなりにはまる。

 さて小説はどうだろう。ぼくはそれが七倍になったとはとても思えない。ぼくが今、バロウズでも三島由紀夫でもいいから読んだときに得られる感動と、むかしの、一九五〇年頃の貧乏な人たちがそういうものを読んで得た感動とを比べて、七倍もの差があるだろうか。ねーよ、絶対。たぶん感動の総量からいえば、昔の人のほうが感動量は多かっただろう。いまの子は、昔の人が三島由紀夫を読んで感動したようには感動しないのだ。

 あるいは、新しく生産されるものの感動を比べてみようか。昔の人が川端康成を読んで得ていた感動と、いまの人が、うーん、たとえば同じ川がつく川上弘美の新作を読んで得ている感動とを比べてみよう。どのくらいの差があるだろうか? アドレナリン等の分泌量をきちんと測定した研究をぼくは見たことはないけれど、でもおそらくそこに7倍もの差があるとは思えない。テトリスとFFの差と比べても、かなり小さい差にしかならないだろう。

 ということは、小説が衰退するのは仕方ない、ということだ。経済の発展に応じた効用の増加を果たし得ていないんだから。過去の小説からくる効用はだんだん目減りして、新作の効用はそれを補いきれていない。これは小説に限った話ではなく、書物とか文字文化すべてにも適用できる議論だ。

 それに対して「それは読者の責任だ」とか言い放って超然としている、という考え方もある。でも生産者側がそれを言うのは、通常それは殿様商売と言われてあまり立派なこととは思われない。そして実際、いくつか生産者側としてできる手段はある。本というものの効用を高め、その比較優位性を高めるための方法論は存在する。たとえばスティーブン・キングとか、アメリカの小説の多くはそれに対して思いっきり長くする、という手を取った。京極夏彦なんかも同じ手をとっている。ある種の(理屈っぽい)観念性をこめ、映画なんかとの比較優位を確立する。そんなやり方もある。そしてぼくは、いまの小説や文の多くは、そういう努力を怠っているように見えるのだ。自分の商品としての立ち位置や、顧客に与える効用というった考え方があまりにないように思うのだ。

 いずれ、長くする、あるいはちょっとした書き方の工夫には限界がくるだろう。もし小説が生き残るなら、そこからさらに生産性を上げることが必要になる。ぼくは、それに対する答えとして、いずれ創作の自動化をまじめに考えなきゃいけないと思っている。それには二つの方法がある。圧縮と創作の自動化、ということを考えている。それはバロウズのカットアップ手法が指し示した道ではある。既存の文章あたりの情報密度を高める手法としてのカットアップ、さらには自動的なテキスト生成手法としてのカットアップの両方が考えられけれど、そのどちらも、不可能じゃない。ネックは、効用を具体的に数値化して評価するためのシステムではある(ここがいちばんむずかしいところでもある)。それが実現したとき、作家というのは本当の意味で消滅するんだが、それはまた別の話だ。そしてそのとき、本誌のような雑誌もまったくちがった代物と化すんだが……最近の人工知能の研究状況を見ると、うふふふふふ、案外生きているうちにそれが実現しそうな気もするのだ。



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YAMAGATA Hiroo<hiyori13@alum.mit.edu>
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