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熱風2010/7

iPad の未来はどこにある?

山形浩生

『熱風』2010年7月号、(スタジオジブリ)

要約:iPad はおもしろい部分もあるが、現時点ではこれといってできることもない。将来的なアップル戦略の布石ともいわれるが、結局まだ位置づけがはっきりしない商品と言えるのではないか。


 鳴り物入りで世界的な注目を集めたiPad だが、発表前の異様な熱狂ぶりがそろそろおさまって、物珍しさがそろそろ鎮まったところで、ようやく多くの人が我にかえり、当初から考えておくべきだった問題に直面している。すなわち:

 これって何に使うの?

 初期のレビューを見ると、液晶がきれい、反応がはやくて画面がぬるぬる動いてすてき、デザインがいい――そういったハードウェア的な部分については絶賛だが、ソフト面となると、とたんに話が薄くなる。今のところ、大したアプリケーションがないからだ。

 電子ブックリーダーとして本を読むのに使う、というのが当初喧伝された使い道だ。でも、もともと多くの人はそんなに本を読まない。その人たちにとって、本を読むためのアプリケーションがそんなに意味を持つだろうか。一方、本を読む人にとっては、読みたい本で電子ブックになっているものはあまりに少ない。

 新聞や雑誌の電子配信というのも、当初の大きなセールスポイントだったが、これも現状では各メディアのサイトが見られるというレベル。日本ではソフトバンクによる雑誌配信サービス「ビューン」が鳴り物入りで始まったものの、ふたをあけてみたら実は配信される雑誌は紙版のダイジェストのみで利用者の不満爆発、さらにサービス開始直後に配信停止となり、執筆時点では再開のめどすらついていない。さらに、かなり本体が重いし、あまりになめらかな外形は持つところがなくてとてもすべりやすく、本や雑誌のように通勤途中で手軽に読むとはとてもいかない。

 メール、ツイッターなど、表示が大きくなるのは嬉しい一方で、片手で読んで字が打てるという点では携帯電話のほうに圧倒的に分がある。すると、他の使い道がない。これなら電話が出来る分、iPhoneのほうがいいという声さえ聞かれる。

 さて、ぼくはiPadが本国で発売された頃にはベトナムにいたのだった。アメリカの人気のため、他の国では未発売だったはずなのに、ハノイではすでにあちこちの店にiPadが並んでいた。最初はパチもんかと思ったが、明らかに本物だ。

 もちろんアジアですから、ケータイは必需品だ。そこらの坊ちゃん嬢ちゃんでも、iPhoneを含め高級そうなケータイを平気で持ってはいる。でもケータイは、使い道もあるし、できることもいろいろある。その点iPadはどうだろう。ベトナム語のウェブサイトはたくさんある。でもベトナム語の電子書籍がたくさん出回っているわけでもないようだ。買ってどうするの?

 ところが。四月末日、帰国前にうちあわせを終えてちょっとよいレストランで昼ご飯を食べていると、何やら大家族がどやどや入ってきた。そしてあれやこれやとでかい声で注文し、こっちが先に注文しているのにあれやこれやで先に料理が出てきて、しかも昼間っからみんなでガーガーとワインを何本も空けている。そしてそのご一家のお子様方三人は、四才から七才というところだが、躾も何もあればこそ、傍若無人の極みでベビーシッターに付き添われてやりたい放題だったのだけれど、ぼくはかれらが手にしているものを見て目を疑った。

 そう、それはiPadだったのだ。それも一人一台ずつ。

 むろん貧乏な国でも(いや貧乏な国であるほど)金持ちは金持ちなのだ。公務員何ヶ月分かの給料に相当する値段のものでも、かれらは子供におもちゃとして平気で買い与えられてしまう。知識としては知っていたが、まのあたりにすると改めて感心させられた。

 だがその子たちはもちろん、単に目新しいおもちゃとしてそれをいじっているだけだ。当然ながらiPadでメールを打ったり電子ブックを読んだり、なんていうことは一切していない。なんだか別にiPadでなくてもよさそうな、スーパーマリオのできそこないみたいなゲームをしていただけ。うーん。

 ちなみに、iPadが使える環境はそこそこ整っている。携帯電話の3G回線などは必ずしも十分に浸透しているとは言い難い。でもハノイやホーチミンの多くのカフェ(といっても、路上にまではみだした喫茶店だが)では、無線LANが無料で使える(ちなみにそれはその店のADSL回線につながっている)。ローミングの高い料金はいやだし、現地で携帯回線を契約するわけにもいかない人々にとって、インターネットへの接続は東京よりはるかに容易だ。これはベトナムだけではない。最近ぼくが出かけた国、カンボジアやラオス、あるいはエチオピアやモロッコでも事情は同じだ。外国人旅行者を引き込むにはネット接続が効くのはすぐにわかる。そして現地の人々も使うようになっている。

 だが、ネットの使われ方を見ると、基本はメールであり、ウェブサイトのブラウズだ。そのウェブサイトも、明らかにエロサイトを見ているやつはご愛敬として、他にはフェイスブックなどのSNSであり、ブログ更新であり、ツイッターだ。また、古典的なインターネットカフェは、オンラインゲームのための場となっていることが多い。

 ちなみに、電子メールの利用は決して多くはない。特にアジア諸国では、SMS、つまりケータイメールが使えないと、ほとんどまともに仕事にもならないくらい普及している。それにくらべて電子メールは中央官庁の人々ですら、ヤフーやgmailですませていることが多く(役所のアドレスはあっても、サーバの管理が劣悪でダウンしていることが多い)、それも一日に一度読むくらいのものだ。

 さてそうした環境の中で、iPadが活躍できるニッチというのは、少なくともぼくには思いつかない。ちなみに、そのベトナムでiPadをあてがわれていた子供たちは、十分ほど遊んだらもう飽きたらしく、それをベビーシッターに投げるように渡して、またあたりを駆け回りはじめていた。他のiPad入手者は、ベトナムでいったいそれを何に使っているのだろうか。いま、二ヶ月後にまたベトナムにきてみると、iPadへの興味は以前よりかなり薄れているように感じられる。

 むろん、そんな新しい利用がすぐ思いつくようなら、ぼくは今頃もっとお金持ちになっているだろう。iPadはまだ出たばかりだし、それに向けてのアプリケーションもまだまだこれからの状態だ。数年したら、iPadなしにはビジネスが成り立たないようなキラーアプリが登場し、山形がまた寝言を言っていたよ、ということになるのかもしれない。一部の企業は、会議の資料流出を防ぐためにiPadで資料配布、というのをやっているとのこと。個人的にはあまりピンとこないが、そんなのがひょっとしたらいいのかもしれない。

 また、iPadをそれ自体としてあれこれ論じるのは愚かである、という議論もある。iPadは、コンピュータ利用のクラウド化と、それに伴う利用者囲い込みの道具なのだ、というものだ。クラウド化とはつまり、あらゆるデータを中央のサーバ(クラウド)にあげて、利用者は端末を通じてそこから必要に応じてデータを送ってもらう、というモデルだと思えばいい。まさに六十年代の大型中央マザーコンピュータの復活のようなものだ。iPhoneやiPadを通じて、写真、ビデオ、メール、連絡先、その他ありとあらゆる個人データがアップルのサーバに蓄積されれば、その人は他のプラットホームには移行できなくなり、利用者は決して逃げられなくなる、と。

 確かにそれは一理あるかもしれない。だが、これに近いことを少しでもやってみたことのある人ならわかるが、現状ではあらゆる場所で完璧なクラウド接続は期待できない。家と職場と携帯のデータがばらばらになるのに飽きて、アップルやグーグルのデータ管理サービスを使ってみても、あのファイル、あのメール、あの電話番号が今すぐいるという肝心な時に限って、ネットに接続できなかったりする。二、三度そういうことがあれば、人は懲りてクラウドにすべてを預けるような愚かな真似はしなくなる。すべて手元にあったほうがいいと思う(と、やがてマシンがクラッシュしてデータがすべて消え、やはり外部保存したほうが、と思い始めるのだが)。ついでに、多くの会社ではファイルを勝手に外部のサーバに流すわけにはいかない。

 さらに、そうした囲い込み状況に至るには、まずそうしたデータを明け渡すよう利用者にうながす必要がある。グーグルもアップルも、それを便利なソフトやサービスによって実現しようとしている。でも、iPadにはその特筆すべき便利なサービスが見あたらない。iPadを使うと、ついつい個人情報をアップルに渡したくなってしまうようなサービスというと……ぼくは思いつかない。クラウド戦略に到達する以前の段階で困っている状態だ。

 となると、しばらくはやはりアップルの思惑通り、電子ブックなどを堅実に使ってもらう、ということになるのかもしれない。そして確かに、アマゾンの電子ブックリーダー、キンドルは売れているとのこと。それにあやかることは可能だろう。

 ちなみに伝聞ではあるが、キンドルの実際の売れ行き状況を見ると、かなり意外な結果となるそうだ。電子ガジェットだから、若者に人気があるのかと思いきや、実際にそれを買っているのは高齢者層なのだという。ズームで文字を拡大できる機能が非常に評判がいいとか。つまり、大活字本の一種として電子ブックは売れているとの話だ。そういう用途でなら、iPadも優位性を発揮できるかもしれない。

 だがその一方で、電子ブックの持つ潜在的な怖さというものもある。それを如実に示す事件がしばらく前にあった。アマゾンの電子ブックで、ジョージ・オーウェル『一九八四年』が発売された。だがそれを買ってダウンロードした人々は、数日後に驚かされることとなる。手元にあったはずのファイルが、忽然と消えていたのだ。その本が著作権を侵害していることがわかったので、アマゾンが(断りもなく)読者がすでに購入したものも含め、すべて削除したのだった。

 自分がすでに購入して手元にある本に対し、本屋が何のことわりもなく手をのばしてきて、勝手に削除したりできる! 消せるなら、当然改変もできる。ちなみにアマゾンは、その後この一件について謝罪に、今後は二度と行わないと確約した。だが多くの人は、そもそもそんなことがあり得るとさえ想像していなかった。それが起きた本『一九八四年』が、まさに中央による情報改変で人民をコントロールする管理社会を描いたものだったというのは、歴史の皮肉というべきか。

 もちろんアマゾンやグーグルやアップルがそんなことをする、というのではない。ただ、こうした電子ブックやクラウドといった、iPadなどが切り開くとされるサービスの持つ危うさの一端を、この一件は示している。

 確かに、アップル製品の多くは少し時代の先を行っていて、普及までに少し時間がかかる。マッキントッシュも、当初はこれという画期的な利用形態がなかったが、数年してレーザープリンタによるDTPが一気にマックの活路を開いた。iPhoneも、確かに当初はあれこれ文句も聞かれ、本格的に利用されるまでには数年かかったように記憶している。

 でも、このいずれの製品も、買ってとりあえずこれができる、というものはあった。iPadは、うーん。

 みんながこれだけ騒ぎ、なんだかよさげだ、と思っているのは、まったく根拠がないわけではない。みんな、ネットブックやラップトップでは重すぎて、携帯電話では足りないような製品分野は絶対にあると思っていた。なんかできそうだ。だって実際、ラップトップや携帯電話でもどかしい思いをすることはしょっちゅうあるんだから。でも、それが実際に出てきてみると、その製品分野でできることがよくわからないのだ。

 すると、どうだろう。iPadの未来はどこにあるんだろうか。

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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>
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