Esquire 2006/02

タルコフスキー『惑星ソラリス』:悪しき現実逃避映画

(『エスクワイヤ』2006 年 2 月)

山形浩生

要約: 惑星ソラリスは、愛が世界との関係の比喩になっている映画の一つだが、タルコフスキーは最後の最後でそこから逃げる。それはタルコフスキーという人間が実生活でも持っていた、現実との直面を妄想との置換で逃げるやりかたのあらわれでもある。



 映画の中の恋愛というのは、往々にして世界との関係の隠喩でもある。多くの映画の主人公は、ラストで抱えていた問題が一掃されると同時に、パートナーを手に入れる。まあこれだけだと、単なるそこらの色と出世のサクセスストーリーだが、もうちょっと気取った映画となると、何らかの理由で世界から孤立して暮らしている人物がいて、その人の前にふとした偶然で相手があらわれる。それが、世界の差し出してくれた関係修復のための蜘蛛の糸になる――そんな映画はたくさん思いつく。たとえば『ブレードランナー』なんかを考えてもらえばいい。もちろんこれも一歩間違えると、自分では何もしない怠惰なおたくのところに、労せずして美少女が勝手に宅配されてなついてくれるという、ただの卑しい願望充足話になってしまうので、それを避ける工夫は必要なのだけれど。

 その一つのやり方は、そこで登場する蜘蛛の糸たる相手を、何か受け入れがたい変なものに仕立てることだ。『ブレードランナー』はそれを、自分の倒すべきネクサス6型アンドロイドにしたことで実現した。あの映画の長期的な価値は、その仕掛けがきわめて上手に構築されたことからもきている。

 そしてタルコフスキー監督の『惑星ソラリス』では、その相手はかつて自殺した妻の複製品だ。

 知性を持つらしき惑星ソラリスの海は、近くにやってきた人間が内心に抱いている世界との断絶の根本にあるものを探り出しては再現するという性質を持っている。主人公の場合、それは自殺した妻だった。

 そうやって世界が、考えもしなかったような形で差し出してきた存在に対して、主人公はどう振る舞っていいかわからない。いまでも奥さんのことは忘れられないけれど、でも一方で彼女の自殺の原因は自分にあるので、彼女の姿は傷口に塩をすりこまれるような苦痛だ。耐えきれずに一度はそれを殺してみるし、またどうも自分が変な存在でうとましがられているのに気がついた当の複製奥さんも、自殺を試みるけれど、生き返ってしまう。

 『惑星ソラリス』は、そんな変な生き物とゆっくりと折り合いをつける過程の話となっている。そこにある逡巡やとまどい、葛藤――それはまさに恋愛で、『惑星ソラリス』はそこにあまりロマンチックな要素を持ち込まないことで、逆に精神的な深みを出し仰せていた。

 いたんだが……『惑星ソラリス』はその最後の最後のところで、あさっての方向を向いてしまう。主人公の脳内情報を投射されたソラリスの海は、奥さんもどきをあっさり消してくれて、かわりに昔の家とお父さんを復活させ、再会ごっこまで演じさせてくれる。この時点ですでにソラリスの海は、おたくのビデオデッキまがいの都合のいい妄想再生実現マシーンになってしまっている。その奥さんもどきをどうするか? そこにこそ、その恋愛――そしてそれまで映画が積み重ねてきた問いかけ――の意味があったはずだったのに。

 それはまた、タルコフスキーが常にやってきたごまかしでもある。NHKがタルコフスキーについてのドキュメンタリーを放送したことがあって、そこにかれの妹が登場した。そして、お兄さんの映画についてどう思うかと尋ねられたとき、彼女は吐き捨てるようにこんなことを述べたのだ。

 「大嫌いです。冷たくて人工的で。だいたい兄は映画で、家族への思慕を繰り返し描きますが、実際には実家にも全然帰らず、まったく家族に会おうとすらしなかったんです。あんなの全部、口先だけのインチキです」

 ぼくはこれを聞いて、タルコフスキー映画を見る目が一気に変わってしまった。かれの描いていた家族への郷愁がまがいものなら、かれが晩年になってますますしつこく押しつけがましく描くようになってきた神だの世界の救済だのといったものも、やっぱりまがいものでしかないんじゃないか。それはかれが現実の家族をまったく顧みずに脳内家族に萌えていたのと同様、本当の神様でも本当の世界でもない、脳内の物欲しげな妄想でしかないんじゃないか。

 そしてそれはかれの恋愛の描き方にも出ている。『ノスタルジア』でもそうだ。主人公は世界のさしのべてくれた実物の愛を無視して、世界を救うとかいう妄想への耽溺を選ぶ。それはたぶん、世界の頭でっかちたちの間でのタルコフスキーの評価を高めた選択でもあるんだろう。でもそれは、結局かれが各種の愛や、世界との和解を手に入れられなかった原因でもあるんじゃないか。だがそもそも、かれは現実にそれを求めていたんだろうか。


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