わかりやすさは、ただの表現技術の問題ではないのだ。

(『ダ・カーポ』(2002 年 4 月, ダ・カーポ)p.21)

山形浩生

 いま、日本はいろんなところで閉塞感がただよっている。それは各種の領域で、人々が自分のことば世界に閉じこもっているのも一因だ。官僚は官僚語だけで話し、そこから出てこようとしない。外交コミュニケーションの下手さ加減は言うべきにも非ず。オープンなはずの学問の世界まで、変な学閥と権益でタコツボの巣窟だ。それじゃあダメだ。これはすべて、極端な話、わかりやすい説明ができないことからきている。同じことばで、同じ中身が何百回も繰り返されるだけで、それがだんだん腐り、あるいは縮小均衡に陥る――もういたるところで見られる現象だ。もうちょっと各領域に、自分のなわばり外に対してわかりやすい説明のできる人がいれば、これはだいぶ変わるだろう。そう思わないだろうか。そこからもっと何か新しい芽も出てくるだろう。

 わかりやすい説明なんて簡単だ。単に、いくつかの条件をクリアすればいいだけ……なんだけれど、多くの文はその「だけ」ができていない。それともしない、のかもしれない。

 わかりやすく書く最大のポイントはなんだろうか。それは自分が本当にわかっていることを書くこと。わかりやすく説明できないことは、自分でもわかっていないこと、なのだ。

 一見あたりまえのようだけれど、多くの文章は、明らかにわかっていないことやそもそもわかるはずのないことを平気で述べている。しばらく前のIT革命談義を思い出してほしい。コンピュータも通信も、そして生産性の定義も知らない人が「ITは生産性を飛躍的に向上させます」と述べていた。そんなデータはどこにもなかったのに。

 なぜそうなるのか? 人は見栄っぱりだからだ。何かをわかること自体より、わかったような顔をして見せるほうが大事だったりする。それにははやり言葉をたくさん使って、できあいの結論になんとなくつなげればいい。そしてそうした文は、わかるべき内容がそもそもない。それを隠すためにいろんな小細工が使われる。たとえば「〜は言うまでもない」と書かれていたら、その半分くらいは単に書き手がうまい説明が思いつかなくてごまかしているだけだ。まずは、そういう見栄を捨てなきゃいけないのだ。

 わかりやすい文の次のポイント:だれに対して説明しているのかを意識すること。つまり、具体的な想定読者を頭に置くこと。これができていない文があまりに多い。具体的な読み手を持っていないので、往々にして自分一人のための文章になっちゃうのだ。それじゃダメだ。

 そしてこれをやるときにすごく役に立つのが、しゃべるように書く、ということ。資料をつくって、上司やお客さんに渡すと必ず「説明しろ」と言われる。だったら、最初からその「説明」みたいな文章を書けばいいじゃないか。相手を見て、相手に会わせて言葉を選んで……それを文章でもやればいい。だからぼくは、口語に近い文で書く。

 そしてもう一つ大事なこと。本当にわかりやすい文章には、「これを伝えたい!」という論点がある。文章の各パーツにも、その最終的な論点を構築するための明確な役割がある。ところが多くの文章は、世間話の域を出ない。だから漠然としたムードしか伝わってこない。だからわかりにくいのだ。さらには、何かを伝えない、わからせないための文章だって山ほどある。

 石川淳は、「文学では結論が出るだけでは市が栄えない」と書いた。これはほかの分野でもそうだ。コンサルタントや学者や評論家は、一発で答えを出したらそれでもうお座敷がかからなくなる。「自分じゃわからないからこいつに頼もう」と相手に思わせて、はじめて仕事がとれる。そういう文章はひたすらむずかしく、わかりにくく、えらそうなほうがいいんだ。それが必ずしも悪いわけじゃない。ただ、やるならきちんと意識しよう。あなたは本当にわかりやすい文章が書きたいんだろうか? それともこけおどしがやりたいんだろうか。

 そして……そもそもあなたの伝えたいことって何だろう。コンピュータの話をするとき、著者は別に読者に計算機科学の全貌を理解させようとは思っていない。ある理論の一部の、そのエッセンスを伝えられればいい。で、華道や茶道や各種武道を習った人は、「型」を習っただろう。型こそがエッセンスだとされるよね。そしてその型を何百回も繰り返させられる。多くの人は、この発想にはまる。そして文章でも「型」を重視する。公式をシャラシャラと書けるとか、業界ジャーゴンが自在に使えるとか、「型」でわかったつもりになるようだ。そして、その「型」だけを愚直に繰り返して伝えることが文章の大きな目的だ、と考える人がいる。

 でも、それは大きなまちがいだ。

 たとえばニュートン物理学は要するにF=maという公式の壮大な変奏だ。でもこの公式(つまりは型)を何万回書いたところで、何もわかりゃしない。それをいろんな場面にあてはめて変形する――それで初めてこの式の意味が見えてくる。型そのものよりそれをどう変奏するかに意味がある。ときには、極端な仮定をおいて自分のねらう変奏以外の部分を大胆に切り捨てることも必要になる。

 それは同時に、自分自身が理解し直すプロセスでもある。えらい人が、下々の人間に幼稚なぬるい文を投げるのがわかりやすい文章というわけじゃない。本当にわかりやすい文章というのは、往々にして書き手自身の発見がベースになっている。ぼくの文章の多くは、書き出し時点では別の結論を想定していた。書くことそのものを通じて新しい発見があり、意外な結論に到達する。そしてその意外な結論を自分自身に納得させなきゃいけないからこそ、それはごまかしの効かない、結果的にわかりやすい文章になる。わかりやすさは、理想的には、既存の型や既存の表現を敢えて捨てて、新しい型の表現を独自に組み上げることから生じる。新しい結びつきを見いだすところから始まる。わかりやすさは、新しい表現なんだから。そしてその新しい表現から新しい内容が生まれることだってある。

 その意味で、わかりやすさは器用な解説屋さんの小手先テクニックじゃない。もっともっと本質的なものだ。そしてうまくすれば、それがいまの日本の閉塞感を多少なりとも崩せなくはない。ぼくはかなり本気でそう信じているのだ。



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