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カットアップ・シティ

『速度都市 Tokyo '90』(都市デザイン研究所)収録 (1990年9月)

山形浩生




 「装飾と建築の波は、さまざまな様式を層状の地理的な広がりとして残していった。世界のどんな場所でも、このマラケシュで見つからないところはない。セント・ルイスの町並み、メキシコの酒場、あっちはイギリス直送の家、山にはアルプス風山小屋、書き割りが絶えず変わり続けている広大な映画のセットだ。都市はあらゆる方向にスプロールして、東はアトラス山脈の上、南はサハラ砂漠、西部は海岸沿いの町、北は工業地帯にまで至る」

――ウィリアム・S・バロウズ「ワイルド・ボーイズ」より

 極度にスプロールし、ありとあらゆる時代や地方の建築様式がスクランブル・スーツのように入り乱れる都市。時間も空間も、ここではすでにほとんど意味を持たない。あるいはこう言ったほうがいいだろう。ケヴィン・リンチの言う意味での「都市のわかりやすさ」は、時間的にも空間的にも、ここには存在しない、と。そこはたとえば、東京のような場所かもしれない。

 名前はついている。タンジール、ニューヨーク、メキシコ・シティ。あるいは時代も指定されているかもしれない。でも、ひとたびそこに入りこんでしまえば、そこには明快なランドマークなど何一つない。そこの住民にしかわからない、細かな都市のディテールだけが人を導いてゆく。われわれはわけもわからずに、ガイドの後に従って、まわりの風景以上に、うろんな人間や存在がこちらに迫ってくるのにおびえている。

 ここがウィリアム・バロウズの都市だ。フィジカルな要素について、それなりに細かい描写がなくはない。具体的なディテールの説明だってある。それしかないと言ってもいいくらいだ。けれど、それが都市全体の空間構造を浮かび上がらせることはない。いわば、地図に落とすことのできない、相互の位置づけを欠いた断片のみが、ページの上に(したがってわれわれの意識の上に)はりつけられてゆく。

 すでにわれわれは、都市を俯瞰する視点に慣れすぎている。だが、現実のわれわれの都市体験は、俯瞰的な視点とはほとんど相入れない。現実の都市体験とは、たとえばこんな感じだ。ニューヨークのマンハッタンに行くと、こんなアドバイスを受ける。「ここは物騒だから、人を見たらその頭上に信号を描いて見ること。こいつは赤か、青か、という具合に」。そして、これが無意識のうちにできるようになるまでの半日、びくびくした意識は変な緊張を強いられ、異様にビビッドな風景と同時に、その信号器と、相手との距離感と、音や気配や匂いがわれわれの世界を支配するようになる。

 お望みなら、これをサンプリングと呼んでもいい。外部の刺激は、約16ヘルツでサンプリングされ、意味から切り放された情報理論的な意味での情報として並置される。統一的なパースペクティブにおさまる暇もないうちに、ベタベタとスクラップブックにペーストされてゆく。サンプリングされたディテールの意味など、われわれには知りようもない。それが多少なりともわかるのは生活者だけだし、こっちにはそんなことを聞いている精神的余裕などあるわけがない(もちろんしばらくするうちに、われわれの意識は徐々に、鈍重な、だが親密な生活者の都市像を感得してゆくのではあるけれど)。

 ニューヨークに限った話じゃない。慣れない環境に放りこまれたときに、われわれみんなが経験しているはずのあの過敏な意識状態が、ウィリアム・バロウズの都市では常に継続している。この世界が、チュツオーラの描くジャングルと同じ恐怖の世界だ、というのは永田弘太郎の見事な指摘だ。そして、チュツオーラの主人公たちに与えられているジュジュ(お守り)は、こちらの世界には存在しない。われわれはいつまでも不安な旅人として世界の中に放り出されている。だが、「旅人だけが、真に都市を見る視点を持っている」とはイ・フ・トゥアンの言う通り(ちなみに、生活者には視点はない。彼のにとっての都市は、それ以外の何かである)。

 ありとあらゆるテキストからの材料を、ランダムに組み合わせた都市空間。これはフィジカルな形態の多様性、といった話ではない。コリン・ロウとデビッド・ケッタラーは「コラージュ・シティ」という一見カットアップ・シティと類似したタイトルを冠した書物の中で、単一の原理が抑圧的に支配するユートピアの都市に対し、さまざまな原理の断片的ユートピアがせめぎあって共存するコラージュの都市について語っている。

 「ありとあらゆる世界軸を調和させることで、コラージュの技法は、ユートピアの政治性をの気恥ずかしさに苦しまなくともユートピアの詩情を味わえるようにしてくれるかもしれない」(「コラージュ・シティ」より)

 だがここで考えられているのは、いわば地図的にとらえられた、俯瞰的にながめられた都市の全体像だ。「ありとあらゆる」ということが、現実的に絶対ありえない以上、ここで語られている「調和」とは、せいぜいが有限個の軸(とそれをとりまくゾーン)のバランスをどうするかという、ゾーニングの問題になってしまう。都市の全体像は変わらぬまま、「一極集中構造から多極分散構造へ」という(観念としては)面白くもない図式が、ここでもまた語られているだけ、ということになりかねない。

 カットアップ・シティはそうした全体性を指向することはない。描かれるのは都市のマクロな全体像ではない。ひたすらミクロな、われわれ個人の都市体験の全体像(あるいは個体像と言うべきだろうか)だけ。

 外界の見知らぬ都市空間が、緊張した意識の張りつめた表層に迫る。だが、これはカットアップ・シティの半分でしかない。その緊張のなか、なにかを契機に(それとも契機など何もなくとも)、その緊張のないぬくぬくとした状態の記憶の中へ、意識がストンと落ちてゆくことがある。それはたとえば「お茶漬けが食いたい」とかいうだらしないノスタルジーとしてわれわれが経験するものだと思えばいい。旅行者の都市に対する、生活者の都市。それはほとんどいつも、視覚よりは味覚や聴覚や嗅覚や触覚に根ざした記憶だ。過剰な外部情報だけで構成される圧倒的な恐怖の都市と、そこに(ごくたまに)みえかくれする、親しい記憶だけで構成された歓びの世界。カットアップ・シティは、この二つを極とした意識の動きとして存在する。

 われわれすべてにとっての都市も、こうした意識の動きとしてのみ存在する。だから、われわれは日々、このカットアップ・シティに生きているのだ。故にあらゆる意味での都市計画や都市デザインも、究極的にはこのカットアップ・シティをめざす。おそらく誰もが、その存在を知りつつも、直接的な形では決して描けないものと思っていたこの都市。それがこうして(いかに読みにくくとも)露骨に描かれてしまったことに、われわれはもっともっと驚く必要があるはずだ。


前略、

 おそくなりまして、申し訳ありません。今一つ、オチのつかない尻切れトンボな文ですが、とりあえずこんなところでご勘弁を。
 なにか問題がございましたら、社の方へでも、自宅へでも、ご連絡いただければさいわいです。
 以上、要件のみにて。

草々

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