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「文学」に屈した「映画」 クローネンバーグの「裸のランチ」

銀星倶楽部(クローネンバーグ特集号)

山形浩生

 「裸のランチ」を観て、ぼくはとりあえず頭をかかえてしまった。だって、まさかクローネンバーグが本気で「文学論」なんかをやるとはだれが予期しただろう。もちろん、クローネンバーグが昔からのバロウズファンなのは知っていたし、この映画のクランク・イン後に各種のインタビューが出て、「昔は作家志望でバロウズとナボーコフが好きだった」という話は読んでいたけれど、そういう数十年前の青臭い部分をここまでストレートに出してしまうとは!

 「裸のランチ」映画化という噂を聞いて、みんなそれなりの期待はしていたけれど、一方で不安もあったはずだ。クローネンバーグの映画というのは、基本的にはすべて明晰な映画だ。因果律は非常にしっかりしている。電送実験で、ハエと人間が混じってしまった! SMビデオに、脳腫瘍を起こす信号があって、腹にオメコができるんだ! 双子の医者がいて、女をめぐってアイデンティティが混乱するんだ! ところが、バロウズの小説というのは、ほら・・・何と言っていいのかわからないけど、あの調子でしょう。クローネンバーグなら、という期待の一方で、ホントにクローネンバーグが? という不安は、今にして思えばあったような気がする。

 その不安は、(仮にあったとすれば)的外れではなかった。できあがった「裸のランチ」は、結果として単純さと単純でない部分のおさまりの悪い、どっちつかずの映画に仕上がっていた。

 基本的な核は、クローネンバーグらしく非常に単純にしてある。「裸のランチ」そのものの映画化というよりも、「わたしはいかにして作家となって、『裸のランチ』を書いたか」。平和な害虫駆除業者だったリー(つまりはバロウズ)が奥さんを殺してしまい、妄想のなかでいろんな作家連中とのつきあいを経て、最後に作家としてのアイデンティティを手に入れる話だ。そして、作家としてのアイデンティティというものに対するクローネンバーグの認識も、単純明解。つまり、現実の出来事を語り直すのが作家という者なのだ。ラストシーンで、リーは作家であるという証明を求められ、もう一度奥さん殺しを再現して見せる。それによって、アネクシアの国境警備員はかれが作家であることを認める。これが映画「裸のランチ」のすべてだ。最初の奥さん殺しにしても、できるだけ単純な因果律の中に収めようとする意図が明白だ。あのシーンは、ケルアックと奥さんがセックスしているのを見た少し後に置かれている。はっきりとは述べられないけれど、あそこでは、一種の嫉妬で奥さんを殺した、というストーリーが暗にほのめかされている。

 しかし、こういう単純さも、その他のわけのわからない部分の印象でほとんど完全に埋もれている。あのジュリアン・サンズは、なんで鳥籠に入って男の子をかじったりしてたのかしら。なんでロイ・シャイダーはあんな女の皮をかぶってたのかしら。いろいろ疑問符が頭の中を飛び交っているうちに、ラストの射殺シーン再演がやってきて、こちらは収拾つかなくなってしまうのだ。

 ここでバロウズに関する伝記的なデータを多少知っていれば(そして/あるいはかれの小説をそれなりに読んでいれば)、見えやすくなる部分はある。AJコーエン社での害虫駆除員としての生活、ケルアックやギンズバーグとの付き合い、ウィリアム・テルごっこによる奥さんの射殺。「おかま」に出てきたあのエピソード、「裸のランチ」のこのエピソード。しかし、クローネンバーグがそういった素材をもとに、バロウズと同じ小説作法で映画をつくろうとしているのはわかっても、それは映画そのもののわかりやすさには結び付いていない。バロウズ・ファンへの目配せにはなっているけれど、逆に注意をそらして全体を見えにくくする方向に機能している。

 この、単純な因果律の見えにくさを始めとして、「裸のランチ」はクローネンバーグのこれまでの映画作法をほとんど完全に裏切っている。まず、発端からの段階的発展、あるいは段階的な究明というプロセスはほとんどない。「ヴィデオドロームとは何か」「ハエ男は次第にどうなっていくのか」「スキャナーたちを殺そうとしているのは誰か」。これは先に述べた、明快な因果律というテーマとからむ。中心となる因果律が徐々に解き明かされることで、観ているほうはそれなりの盛り上りを体験することになる。

 ところが映画「裸のランチ」は、最初から最後まで同じようにウダウダしている。原作がそうだと言ってしまえばそれまでだが。バロウズの小説には深みはない。人間心理的なひだに分け入ることもない。感情が麻痺したような記録者の前を、さまざまな人や出来事が通過する。それぞれの出来事や人のあいだに、何のつながりや意味があるわけでもない。布施英利の言うように、そこに意味やつながりを読み取ってしまうのは、見る側の人間(の脳)なのだが、バロウズの場合、その脳の働きは非常に希薄だ。映画もその希薄さを再現しようとしている部分はある。が、それは必ずしもいい結果を産んでいない。むしろ、散漫な感じだ。しかも最後になって、やっぱり多少はヤマ場があったほうがいい、とでも思ったのだろうか。いきなり、謎解きをするかのごとく、「実は私はドクター・ベンウェイ!」とロイ・シャイダーが出てくる。でも、そんな聞いたこともない謎を解かれても、こちらはとまどうだけだ。

 それと、クローネンバーグ映画で必ず指摘される、テクノロジーとの関り。これまでのほとんどのクローネンバーグ映画では、何らかのテクノロジーが、先に述べた因果律の中心に据えられていることが多かった。「デッド・ゾーン」の予言能力も、広義のテクノロジーと捕らえることができる(「戦慄の絆」は唯一の例外かもしれない)。

 しかし、「裸のランチ」にはそれがない。何かテクノロジーが話の重要な要素として登場するだろうか。正確に言えば、登場しないわけではない。それは、タイプライターだ。「書く」テクノロジーの象徴としてのタイプライター。リーが出会う作家たちはみんなちがうタイプライターを持っていて、それがそれぞれの作家のスタイルを規定しているらしいのだ。逆にタイプライターに書かされているきらいすらある。しかし、そのテクノロジーの具体的な成果は見せてもらえないのだ。カナブン型のタイプライターや、マグワンプ型のタイプライター、セックス・ブロブ型タイプライターなどによって、そういった文体の差を何とか視覚的に表現しようという試みは見られる。が・・・それが何を言わんとしているものなのかは、家に帰ってうんとこさ考えてやらないと思い付かない。

 もともとはロケの予定が、湾岸戦争のために急遽オールセット撮影になってしまったという。これもクローネンバーグにとっての不幸だった。クローネンバーグは(ずっと低予算監督だったせいもあるし)圧倒的にロケが多い人だった。ヌーヴェルバーグやミケランジェロ・アントニオーニの影響が顕著な、初期の「ステレオ」や「未来の犯罪」などでクローネンバーグが評価されたのは、そのモダニズム建築の空間の使い方のうまさだった。この映画の最後で一瞬だけ、森の中を走る箱バンのシーンでロケ撮影が登場するが、あの部分はホッとする(その直後に終わっちまうので、だまされたような気分になるのだが)。しかしそれ以外のところはどうしても狭苦しい。セットの腕の見せ所は、そのセット以外の部分があたかも存在するかのように思わせる技術にあるのだが、「裸のランチ」の場合、あの市場兼マグワンプ窟のセットの外側というのはまったく想像できない。

 SFXの化け物も、形で見せようとして失敗している。『ヴィデオドローム』とか『ブルード』とかの化け物の場合、形じゃなくて質感で見せていたでしょう。こう、身体中にできた子宮を自ら食い破って、あの変なガキどもを産み落とすところとか、血管が浮いてあえぐテレビとか、グチョグチョのビデオカセット(ちなみにあのビデオはベータなんだよ)とか。「裸のランチ」の場合、むしろ形の面白さで切り抜けようとしている。このため、いろんな模型がそのまま白日のもとにさらされてしまう。アラが見えちゃうから、SFXは決して明るすぎるところでやってはいけません、とH・R・ギーガーも言っているではないか。

 結局、この映画の困難は、クローネンバーグがこれまで一貫して愛用してきたSF/ホラー/心理サスペンス映画の枠組みを、あらゆる点で放棄しているところにあるのではないか。「裸のランチ」という文学の映画化、ということで、映画そのものも、あまり勝手のよくわからない文芸映画たろうとしている点に失敗の原因があるのではないか。

 かつて「ソフトマシーン」の解説でも述べたとおり、バロウズの小説には視覚的イメージがありそうで、実はない。あるとしても、遠近法の構図におさまるようなイメージではない。それは徹底して文字の水準にとどまり、単語との一対一対応で存在する意味を中心に存在するイメージだ。ストーリーがないという点もさることながら、バロウズの作品が映画化困難であるのはこのためなのだ。今回の「裸のランチ」は、その困難を回避しつつ、文芸映画としての一線を守るべく、クローネンバーグ自身の文学観が導入されている。すなわち、「書くとは何か」という、考えようによっては非常に青臭い問いを持ち込み、しかもそれに非常にシンプルな答えを出そうとしてしまっているのだが、これは「文芸映画」的な意識がクローネンバーグになければまず考えられなかったのではないだろうか。つまり、原作が持つ威光に対してクローネンバーグが不用意な譲歩を重ねすぎたためにできてしまったのが、この映画「裸のランチ」なのだ。クローネンバーグが自分の土俵を離れたために失ったものはあまりに大きかった。この意味で、「裸のランチ」は映画が文学に屈した残念なケースであると言える。

 この「裸のランチ」にもいいところはある。オープニングがぼくは好きだ。あの、いかにも天然色じみたタイトルの感じ。あのジュディ・デイヴィスのアゴの感じ。彼女がゴキブリに息をかけるとそのままゴキブリが死んでしまうあたり。そして何よりも、ぼくはこの映画がやろうとして果たせていない部分が好きだ。現実のできごとを再現するのが作家である、というクローネンバーグにとって、バロウズが奥さんの射殺について「邪悪な霊の仕業だ」と逃げをうっているのは、許しがたいことであるはずなのだ。「ほんとの作家なら、あのことも小説にしてみろよ」というバロウズに対する強烈な批判が、本来はこの映画にはこめられているはずだった。タイプライターをめぐるいろいろな陰謀からのがれ、最後に奥さんの射殺という最大の事件を語り直す、映画のリーこそが真の作家と言うものだ!  ところがバロウズは、かつての陰謀史観を一部は放棄しつつ、まだ「悪霊のしわざだ」なんて言っているではないか!

 最近、滝本誠が「クローネンバーグがバロウズ・ファンなのは、自分にできなかった奥さん殺しを実地にやってしまった人だからだ」という説を展開している。この説の真偽は確認しようがないけれど、もしこれが正しければ、なおさらバロウズの煮え切らなさはいらだたしいものであるはずだ。ラストでジュディ・デイヴィスを二度目に殺す銃弾は、バロウズに対して「あんたはまだ十分に作家じゃない」と言い放つ、強烈な批判となるはずだった。それがうまく機能していないのは、クローネンバーグのファン心理のなせる業だろうか。あるはバロウズのカリスマ未だ強し、と言うべきだろうか。一九九一年の時点で、クローネンバーグはまだバロウズを乗り越えられてはいない。

 クローネンバーグの次回作は、バラードの「クラッシュ」だと言う。「裸のランチ」をイマイチにしていたさまざまな条件は、ここではすべていい方向に作用するはずだ。もちろん、一流の映画は一流の原作からは産まれない、という映画の鉄則はあるけれど、この「クラッシュ」だけは例外になる、かもしれない。 ******************************** 前略、

 やれやれ、なんか書きました。真ん中へんがくだくだしいですね。でも、一応はクローネンバーグの話にもなってますし、バロウズの話にもなってますし、ご期待には添えたかと存じます。

 ではまた。 山形浩生

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