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日本での「反マイクロソフト」?

――消費者運動とフリーソフト/オープンソース
(日経バイト 1999 年 2 月号)

山形浩生



 アメリカでの動きに対し、日本ではマイクロソフト占有率の高さにも関わらず、同様の消費者運動は生じていないし、また一方では Linux や Apache ほど普及したフリーソフトも産み出していないように見える。

 しかし、そもそもアメリカでの動きについても一くくりにはできない。特にラルフ・ネーダーが展開している消費者運動と、フリーソフトのような動きとは、たまたま同時期に目立ってきただけであり、運動としてはまったく別物である。

 まず消費者運動。日本でマイクロソフトに対する消費者運動が起きていないのは、多くの消費者がそれを問題だと思っていないからである。

 消費者運動とはいっても、アメリカでだって別にマイクロソフトが OS やオフィススイート市場を独占したところで、大した害は(ユーザの部分的なフラストレーションはさておき)生じていない。かつてラルフ・ネーダーが自動車のリコールで一世を風靡した頃には、自動車の欠陥を指摘して改めさせるのは人命に関わる議論の余地のない重要問題だった。しかし現在のネーダーによるマイクロソフト叩きについては、アメリカ国内でも全面的に賛同されているわけではない。最近出番の少ないネーダーのスタンドプレーという見方もそれなりにある。

 マイクロソフトによる市場の「独占」は、長期的には害をもたらすかもしれないけれど、それはあくまで可能性でしかない。現在だってほかの選択がないわけではないし、マイクロソフトの細かい取引行動には問題はあっても、かれらがそれだけで市場シェアを維持しているわけではない。それなりに優れた点もある製品をそこそこの品質で提供しているわけだ。

 司法省が独禁法でマイクロソフトを叩いているのは、長期的には競争がないと産業がのびなくてよろしくないという価値判断のためで、単純に消費者を保護したいからではない。ある意味で、マイクロソフトはたまたま大きくなりすぎたがために、その価値判断の犠牲にされているかわいそうな立場とすらいえる。

 このように、そもそも消費者運動として成立するか不明確なのに加え、日本ではもともと独占を問題視する意識が低い。たとえば公共事業や機器納入で、談合や受注の持ち回りは形式的には違法だが、実際にはかなり広範に行われているのは、周知の事実である。また通信をはじめ多くの産業分野では、「国民の混乱を避ける」と称して行政指導や規制を通じ、独占・寡占が奨励されている傾向さえある。そしてそれがある程度は、揺籃期の産業育成という面で有効だったことは否定できない。多くの日本人は、独占が問題であることすら理解できないし、問題だという人も、多くはその理由を説明できない。したがって、消費者運動としてのマイクロソフトたたきは日本ではおそらく生じ得ない。

 一方、フリーソフト・オープンソースソフトは、別に欧米でもアンチマイクロソフトで生まれたわけではない。MS 対抗馬の多くのソフトがジリ貧の中で、たまたまこの時期に Linux や Apache などが目立って勢力をのばしているため、有力候補としてまつりあげられているにすぎない。いずれも活動としてはずっと以前から活発に続いてきている。もちろん反マイクロソフト的な気運は確実にあるけれど、それはむしろ当面の仮想敵といった位置づけであろう。

 さらに日本では、確かに Linux も Apache も生まれていない。しかし日本にフリーソフトやオープンソース的な活動がないわけではない。それどころか、かなり活発に展開されている。

 たとえば万能エディタ emacs のマルチリンガル版として日本の電総研で開発されたmule は、すでに emacs 本体にも統合されており、一傍流から本流の一部となっている。

 あるいは Ruby。Perl や Python などのスクリプト言語の一種で、オブジェクト指向を重視したものだが、非常に評価は高く、熱心なユーザも増えていて、世界的に広まっておかしくない。

 また X-Window System で TrueType を使えるようにする X-VF や X-TT の成果は、おそらく X Window そのもの(あるいはその周辺パッケージ)に標準的に含まれるようになるだろう。もちろん、X 自体に含まれる k14 フォントや kterm もすでに国際標準だ。

 さらに Wnn や Canna などを筆頭に、かな漢字変換のフリーソフトでは日本の独壇場といっていい。

 Unix 系やフリーソフト・オープンソース以外でも、mule for windows、JW-CAD( CAD ソフト)や lha、六角大王(ポリゴン式モデリングソフト)などはだれの目にも優れたソフトであり、いずれ世界的にユーザ層を広げるだろう。

 そもそも、だれでも貢献できるフリーソフトの世界では、国籍はあまり問題にはならない。発端からいうなら、 Linux はフィンランド発だし Python はオランダ発で、Perl や Apache はアメリカ発だが、成長する過程でありとあらゆる国籍の人間が協力しており、それぞれもはやどこの国のソフトともいいがたい。GNU は本拠の FSF がアメリカだし、OpenBSD は暗号規制を逃れるために敢えてカナダにいるが、どちらも別にアメリカ製、カナダ製とは意識されていないのである。

 確かに、これまでの日本の動きは国内のローカルな運動にとどまり、日本以外への訴求力が今ひとつ弱かったということはいえる。

 しかしこれは、適性や国民性といった問題ではない。これまでの対外的な影響力の弱さの原因は、一つにはこれまでのフリーソフト活動のある程度の部分が、日本語化に向けられていたことがある。

 プログラマのストックや既存ソフトの蓄積から考えて、国内よりはその他世界のほうが圧倒的に大きいので、これは合理的な方針ではある。たとえば Linux 関連の日本語文書を整備するプロジェクト JF でも、自前の文書よりは翻訳が主体となる。

 それはそれで重要な活動だし、98 系に FreeBSD が移植されたことで日本でのフリーソフトは大幅に普及したが、対外的な訴求力には欠けるかもしれない(ただし FreeBSD は、インストーラなどでも多国語対応を積極的に進め、それを強みにしている面さえある)。

 さらにフリーウェア/オープンソース文化の強い UNIX 環境が限られていたために、これまで多くの人にはフリーソフト文化にふれる機会が少なかった。技能的な問題ではないことは、DOS や Mac での PDS やシェアウェアの隆盛をみても明らかだろう。

 それと関連して、インターネットのような便利なメディアの普及が遅かったことがあるだろう。このため最近までは、一部の大学や企業、研究所以外では、ネットを通じて多数の人が開発に貢献するというフリーソフトの開発体制がなかなか整わなかった。

 言語の問題も当然ながら大きい。言語帝国主義といわれようと、英語の到達力は強い。日本語でやりとりしている世界だけでは、どうしても開発者やデバッガの数も限られるし、英語のドキュメンテーションがなければ、優れたソフトでも日本語圏以外に出回るチャンスは大きく制限されてしまう。

 そして最後に、コンピュータ文化がこれまではどうしても欧米中心だった点が指摘できる。この市場ではマルチリンガル化や 2 バイト対応などの分野のニーズが小さく、関心も低かった。

 しかし、これらの条件はすべてここ数年で大きく変化してきた。

 まず「日本語化」という面については、かなり環境が整ってきた。これまでの国内の活動が実を結んできたのと同時に、世界のソフト作者たちが国際化対応に気をつかうようになってきたこともある。( Unicode 自体に批判はあるが、ソフト作者が 2 バイト対応を意識するようになった意義は大きい)。

 また Linux や FreeBSD が普及するにつれて、フリーソフト文化に対する認知度も高まってきており、同時にインターネットへのアクセスも飛躍的に向上している。

 言語の壁も下がってきている。日本人の英語力も高まり、また日本語ニーズのある外国人が文書を英語で書く場合もある。 Linux での日本語利用についてネット上でもっとも詳しいのは、クレイグ小田の「 Linux と日本語」ページ(英語)なのである。

 そして、そうしたソフトの恩恵をもっとも受ける、非アルファベット文字文化圏にも急速にコンピュータが浸透しつつあるし、安価で高性能なフリーソフトの普及は著しい。今後、特にアジア圏を中心としてマルチリンガルソフトへの関心は必ず高まる。すでに Wnn は朝鮮語やシナ語に対応しており、ユーザは必ず増えるし、それ以外のソフトもじょじょに注目されるであろう。

 すでに条件は整った(そしてその条件が反マイクロソフトとはほぼ関係ないこともお気づきだろう)。今こそがスタートラインかもしれない。国産フリーソフトが今後数年で大きく普及し、普遍化する可能性が、いまや現実のものとなってきているのである。

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