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おやつ中心、主菜不在――『オーディション』の不思議と村上龍の作家としての特性に関する純粋小説論的な考察。

(『群像)』)
山形浩生

 小説としては失敗作。が、読み物としてはそこそこの出来。これが本書『オーディション』の不思議さだ。その原因は、まずは村上龍の小説家としての慣れである。腐っても村上龍、何を書いてもそれなりに読める。しかしそれが逆に、最初に述べた小説としての拙さの原因でもあるのは皮肉なことだ。

 もう一つの原因は、村上龍のスタンスである。かれは日本の小説家には珍しい勉強家だ(というか他の物書きどもが不勉強すぎるのだが)。村上龍の小説は、想定読者よりかなり高い水準の知識・認識を前提とするのだ。だからかれの小説の大部分は、まずその知識・認識を読者に説明する。それが浮くと『コックサッカーブルース』のような小うるさい代物になるし、成功すれば『愛と幻想のファシズム』のような傑作となる。本書はその点で、成功してしまっている。小説としてのダメさを、説明が救ってしまっているのだ。

 まず、本書はそれなりにスイスイと読める。伏線の張り方もいい。なにげなくあちこちで挿入される足とその切断のエピソード。それが効果的にナラティブの表面に浮かびあがるように書かれている。犬やナイフの置き方もきれいだ。これは見事。

 しかし初歩的なストーリーづくりの点で、本書はえらく粗忽だ。たとえば手に汗握るラスト、主人公は麻酔薬を盛られて指一本動かない。気ばかり焦る主人公。読者も全身を硬直させ、はらはらしつつ読みすすむ……と、主人公はいきなりリモコンを手に、ホイホイとステレオの音量をあげて相手の気をそらし、さらにリモコンを隠して時間をかせぐ! へ? おまえ、全身硬直してたんじゃねーの?

 山崎麻美の行動の引き金もよくわからん。息子の存在が許せないって、なんで? その根拠はまったく説明なし。この種の恐怖小説ではサイコキラーの行動に、歪んだとはいえ何らかの論理が必要だ。その一筋の論理に、読者はサイコキラーと自分との接点を見いだす。恐怖は一層高まるし、最終的にそいつが殺された時にも多少の同情がわく。山崎麻美には、そういう論理がない。わけわからんだけ。怖いには怖いが、ラストで殺されても野犬が射殺された程度の感慨しかない。ついでながら、主人公の息子の重彦くんは、ただの高校生のくせにあっさり彼女を正確に刺殺し、平然としている。人をナイフで殺すのは、肉体的にも精神的にも大変なのに。このために、エンディングはきわめて血の気の薄い現実感のない投げやりな印象となっている。

 どうも、村上龍は十分に構想を練ってこの小説を書いたとは思えない。足を切断するアイデアは最初からあっただろう。それは活きている。が、それ以外の部分は、構成を考えずにその場の思いつきで書きとばしたようだ。それを可能にしたのは、かれの小説家としての小手先の技量だし、それで行けるとかれに思わせ、結果として小説としての出来の悪さを生んだのもその技量なのだ。連載時には、一号ごとにはつじつまがあっていたし、テンションも維持できた。しかしまとめると、あらが目立ちすぎる。しかも一読すれば気がつくこんな欠点を、単行本収録時に訂正しようとすらしていない。エンディングの投げやりな印象から考えて、連載中にかれ自身も本書が失敗と悟ったのではないか。だから単行本化にあたっても、読み直しや加筆訂正の手間をかけず、義理と契約を果たすために単純に連載分をまとめたのだろう。かわいそうな本だ。

 本書はまた長い。ほぼ二百ページだが、クライマックスに向けたストーリーの組織は、ひたすら右肩あがりだ。主人公が偽装オーディションを通じて山崎麻美と出会う。あとは彼女との関係の深化と、疑念やヒントや暗合の増大とが比例しつつ高まり、そのまままっすぐに最後の山場に突入。テーマも語りも一本。本来なら、これは中編として処理すべき構成だ。前半は不要。タイトルのオーディションすら不要。懐石料理談義もいらない。たとえばカルロス・フエンテスなら、同じテーマを三〇ページで書ききる。

 しかし本書にはそうした説明が必要だった。それは前述の通り、村上龍が説明を要する作家だからなのだ。前出のフエンテスは、カップルが懐石料理を喰う時に、懐石料理を説明したりはしない。自分の読者は懐石料理の趣旨を知っており、それが登場する意義を理解できる知識人だという前提がかれにはある。村上春樹だってそんなことはしない。それはかれが知的な理解を期待していないからで、懐石料理の雰囲気がわかるヤツだけわかればいいと思っているからだ。だから村上春樹は非常に日本的な、気分に基づくなあなあ共同体に依存した小説家なのだ。そしてもちろん吉本ばななには、そもそもそんなことを考える能力すらない。

 村上龍は、それを説明する。かれは読者に共通の知識・認識のベースを要求しない。かれは他人とのコミュニケーションを真剣に考えているし、それを描くだけでなく、実践しようとする。だからすべて説明せずにはいられない。だから本書には、小説の各種設定について余計な説明が山ほどつめこまれるのだ。女優のなんたるか、訓練の重要性、日本の女の生態云々。そのそれぞれは、読み物としてそこそこおもしろい。そしてそれが、小説としてはダメな本書を救っている。小説としての構成がもっと緊密でしっかりしていれば、そんな説明はわずらわしかろう。幸か不幸か、本書の構成は非常に散漫だ。したがって、こうした余計なはずの説明がじゃまにならない。むしろ構成の弱さから注意をそらす目くらましになっている。食事前にポテトチップを食べる感じで、次から次へと説明を読むうちに、なんとなく腹がふくれる。

 比喩的にいえば、メインディッシュは貧相で手抜きで、だまされた気分にはなるが、とりあえずおやつで腹もふくれたし、ちょっといいとこもあったし、まあ怒るのも大人げないかな。本書『オーディション』はそんな本だ。で、それが嬉しいかといえば……あまり嬉しいとは言い難いような気もする。文庫になったら買い。が、今の千六百円の単行本となると、うーん……あなたがぼくくらい熱烈な村上龍ファンなら、ね。

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