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Art IT 16

ネットの未来

山形浩生

(『月刊アスキー』 2008年8月号?)

要約:ネットは自由だというのはもちろん幻想で、管理はいろんな形で強化されるだろう。それは悪い政府やビッグブラザーや企業がやるんじゃない。市民たち自身がバカなことをやり、お互いから自分を守るために管理を求めることになるのだ。


 インターネットでは、だれもあなたが犬とはわからない、というのは初期インターネットの定番ジョークだった。でも現在、この認識はまったく変わってきている。ネットはみんなが思っているほど匿名じゃない——それは日本でもすでにはっきりしつつある。そしてもう一つ。多くの議論は、ネットの匿名性が自由のためにとても重要だと論じることが多い。でも本当にそう言っていいのかは、いまや必ずしも昔ほどはっきりしなくなっている。

 それはいまや、ネット上でみんなが目にする光景からも明らかだ。今日もまた匿名掲示板に「XXを殺す」と(冗談のつもりで書いたバカが、たちまち身元をつきとめられて逮捕されてしまう。今日もまたちょっとブログで不用意なことを書いた人が、瞬く間にありとあらゆる個人情報を漁り尽くされ、プライバシーを一切はぎとられて実家や職場や学校に想像を絶する嫌がらせをされている。もちろん、やろうと思えば匿名性を守ることはできるけれど、それだけの手間をかける人は、それなりの理由——それも必ずしもよい理由ではないかもしれない——を持った人だけだ。

 望ましい匿名性とは、本来であれば善意の軽口くらいは細かく詮索されず、本当に悪いやつだけが天網恢々でつかまるようであってほしい。ところが結果としていまのネットの中途半端な匿名性は、善意の人のプライバシーはないも同然、悪意がある(それ故用心する)人物は匿名で逃げおおせるように機能してしまっている。

 そして……その一般人のプライバシー欠如も、当初考えられていたものとは全然ちがってきている。かつてプライバシーといえば、しみんをだんあつしようとする、わるーいせいふがやるものだった。あるいはしみんをさくしゅしようとする大企業がやるものだった。そして当初のプライバシー論者があれこれ問題にしていたのは、そういう政府や企業からの保護であり、かれらに対する匿名だった。

 ところが、いまのネットはちがう。そういう左翼っぽいお題目はもはや通用しなくなった。ネットでいま、他人のプライバシーをだれよりも喜々として詮索し、正義漢ヅラしつつ(そしてしばしば匿名性のかげに隠れて)陰湿な嫌がらせの限りをつくしているのは、当の「市民」たち自身だ。政府や企業ではあり得ないような暴力が平然と行われ、そして政府や企業とちがってそれを規制する手だてもほとんどない。

 大きな力には大きな責任が伴う、と言われる。ところがネットは人々にすさまじい力を与えた——情報の収集力、分析力、発信力も——それなのに、それに伴う責任がまったくないのがいまのネットではないか。ネットが中途半端にしか管理できない現状は、かえって悪気のない善意の人々に負担を強いる仕組みになっているのではないか? もっとネットを管理したほうがいいのでは? 管理されていること、発言も行動もすべてチェックされていることをみんな理解している場にしたほうがよいのでは?

 ネットの規制を強めろ、もっと管理しろ、という声は昔からある。ネット上の各種の活動を管理したがる政府はそれを求めるし、知的財産保護や各種課金を容易にしたい企業もそれを求めるだろう。そしてそれは様々な形で実現しつつある。たとえば中国やインドのネット規制。グーグルやアマゾンなどの利用者行動情報収集。有害サイトのフィルタリング。これをかなり早い時期から明確に指摘したのは、ローレンス・レッシグだった。そしてその動きがいまやほとんど止めようがなくなっていて、今後ますますネットは完全な管理に向けて進むだろう、とかれは述べた。

 そしてそれに対し、かれはネットの管理の不完全さ——管理のできない部分——が持つ価値を指摘した。匿名性は言論の自由の保証ともなる。著作権が管理しきれないのは、逆に作品の自由な利用やイノベーションを可能にする。いやなものをフィルタリングしきれないのは、逆に社会問題にいやでも人の目を向けて改善のインセンティブを作る。登録しなくてもソフトをインストールできてサービスを提供できることが、新しい産業発展の原動力となっている。かれの議論は、最終的には市民たちがもっと賢い議論をして、各種の規制と管理に対抗すべきだということだ。

 でも、その市民たちはそんなに信用できるのだろうか? そして実はそうした管理と検閲を望むのも、当の市民たちだったりする。最も感情的になってむちゃくちゃをやりやすく、それ故最も管理されなくてはならないのもその市民たちだったりするのだ。

 そうなったとき——ネットの管理強化を避ける道は、おそらくもうほぼない。話は、企業や政府の横暴から人々を守る話ではなくなる。自由放任だとむちゃくちゃをする市民たちを抑えるための仕組みをどう作るか、ということになる。そして人々は、それをむしろ歓迎するかもしれない。だがそのとき、何が失われるのだろうか? ぼくたちの一人一人がそれにどう答えるか次第で、ネットの将来は決まってくるだろう。

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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>
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