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世界のフラット化できない部分とは

月刊『アスキー 2006/11月?(復刊一号)

山形浩生

要約:フリードマン『フラット化する世界』は原書刊行時に、粗雑で中身がない、と批判を受けている。かれのフラット化は、自分の旅している豊かな部分だけの話であって、それ以外のかなり広い世界は、眼中にない。9.11の真の教訓は、人はそうした見ていない、見えていない部分に復讐されるということだったが、フリードマンにそれが見えているのかどうか。


 『フラット化する世界』の原書が初めて出たとき、イギリスの The Economist にかなり否定的な書評が載った。基本的にこの本は、世界がIT技術その他で昔より小さくなり、グローバル化が進展しつつあってその流れは止まらないんだからどうやって利用するかを考えなさい、というだけの話を、数百ページにわたりひきのばしただけで、その記述も(そもそも「フラット/平ら」というのを思いつくきっかけになった発言にしても)非常に粗雑なまとめかたがされている、というのがその趣旨だった。

 その粗雑さについて、同誌の書評はおもしろい指摘をしている。冒頭で、フリードマンはかつてコロンブスが地球が丸いことを示した、という記述をしている。それに対して自分は地球が平らになりつつあることを示すのだ、と意気込んで、フリードマンは現代のコロンブスを気取って世界各地への大名旅行を展開する。でも、コロンブス自身は地球が丸いと確信してはいたし、それを実証したつもりではいたものの、実際にはアメリカ大陸についただけで(本人はインドについたつもりだったけれど)、地球が丸いことなんか示していない。世界一周を実現してそれを証明したのはマゼラン一行だ、というのは、本誌の読者諸賢なら百もご承知だろう。もちろん、大したまちがいではない。でも、しょっぱなから見られるこの粗雑さは全編をつらぬいている、と。

 さて、上にあげたフリードマンの主要な論点はまちがっているわけじゃない。地球は丸いと考えたコロンブスがまちがっていなかったように。そしてそれは確かに止まりそうにないし(とはいえ、二〇世紀初頭にいまと同じくらいグローバル化していた世界は、その後の政治経済状況の変化に伴っていとも簡単にグローバル化されない状態に逆戻りしたけれど)、だからそれに反対したり文句をいったりするよりも、それをどう利用するか考えたほうがいいのも事実ではある。だが、そこにばかり目を向けることで、かえって見えなくなるものもあるのだ。

9.11 を知らない人々

 本書は現在の世界にとって重要な記念日として9.11を挙げている。これが何の日かは言うまでもない。フリードマンはその認識が、世界のすべてで共有されていると思っている。中国、バンガロール、中東の一部、かれはいろんなところの例を挙げて、世界の各地がいかに密に結ばれているかを強調する。

 それはそれでまちがいじゃない。でも実は世界には、9.11のことなんか何も知らない地域はたくさんある。実はぼくは、あの貿易センタービルが破壊されたその日、マラウイに向かっていた。香港の空港で、アメリカ人たちが「フライトがキャンセルされた」と大騒ぎしていて、くだらんことで騒ぐ馬鹿な連中と思って、ギリギリの乗り継ぎでそのままマラウイに入り、奥地に行ってしまったので、一体何があったのか全然知らなかった。

 さて、マラウイの奥地では、そんな遠くのニュースは新聞にものらないのだ。当時の新聞の一面トップは、干ばつでアフリカゾウが出てきて畑を荒らしている、というニュースだった。「これってどうするの?」ときいたら「アフリカゾウが暴れているときにどうもこうもしようがあるか! 黙ってみてるしかないよ!」と怒られたっけ。もちろん、そんな奥地にはテレビもインターネットもない。ラジオくらいはあったかな。でも、国際ニュースなんか全然流れないんだそうな。

 さて、どうだろう。そういう人たちにとって、9.11という日付にどこまで意味があるだろうか。

 ちなみに、ぼくが事件の全貌を知ったのは、二週間くらい後のことだったろうか。帰りの飛行機で隣にすわったインド人と話をするうちに、「ニューヨークの貿易センタービルがなくなったのはショックだ」と向こうが言い出して、あんなでかいものがなくなるわけないだろうに、ギャグにしてももうちょっと考えろと思って「そんな馬鹿な、ありえん」と言ったら、まわりのシートの三人くらいから一斉に「おまえはあの事件を知らんのか!」とほとんど怒鳴るように言われたのだった。その頃には、もうつっこむところの動画はテレビでは自粛されるようになっていて、ぼくは未だにその映像を見ていない(スチル写真は各種の本や雑誌で目にしたけれど)。

 ぼくがいたような地域は、世界でそんなに珍しいわけじゃない。世界のかなりの部分は、9.11がそんな記念に値する日だとすら思っていないだろう。それは単に知らないというだけじゃない。知っていても、畑を荒らすゾウほどの重要性もない代物としか思えないのかもしれない。

 でも、日々ネットに接し、CNNとBBCを眺めていると、人はそれだけで世界の重要なニュースを把握できたような気になる。もちろんそういう中からだって、これまで見えなかったところが新しくグローバル経済に加わる様子はまざまざとうかがえるだろう。バンガロールの台頭。インドのコールセンター。確かにおもしろい現象だ。日本のコールセンターは中国にあるし、いろんな勢力や機能の分布図が刻々と変わる様子は実にわくわくするものだ。でも、それだけじゃない。実はそういう脚光を浴びられるようなところは、かなり運のいい例外的なところなのかもしれない。そしてそういうところが脚光を浴びれば浴びるほど、その他の部分には目が向かなくなるのかもしれない。で、「その他の部分」というのは?

グーグルアースはフラットな世界の陥没をとらえられるか

 フリードマンの世界はフラット化しているかもしれない。でも、よく見てごらん。そのフラットに見える表面にはいたるところに深い陥没が空いている。それは必ずしもはるか遠くの僻地にあるわけじゃない。ごく身近にもある。今年のはじめ、知り合いがアメリカのカトリーナ台風被災地の支援ボランティアにでかけた。今頃? その時点で、台風の来襲からもう半年以上もたってるんだから、もうとくに一通り片付いてやることないのでは? とぼくは思った。でも現地でその知り合いは、廃屋の取り壊しをずっとさせられていたという。取り壊し??!! 再建にすらかかってないのか! 実は繁栄するフラットな部分のどまんなかに、こうして見捨てられ放置される穴がたくさんある。

 そうしたところは、マスメディアで報道されるまで認識されることはない。そしてマスメディアが報道するところ――あるいはフリードマンのようなジャーナリスト/通俗作家が記述するところというのは、実はかなり狭い。人によっては、ジャーナリストは熱いシャワーとケーブルテレビのある都市からの日帰り圏内しか報道しないよ、とさえいう。でも、あらゆるところがすでにメディアでカバーできる、カバーされているという発想は、人々をそうした報道されない部分に対して盲目にしてしまう。

 いやそんなことはない、という人もいる。グーグルアースをごらん。地球上のどんなところでも、いまや人工衛星とネットの力で見られるようになっているではないか、と。そうした穴も次々に見つかって、やがて埋められるだろう、と。マスメディアがそこに到達しなくても、カメラ付きのケータイを持った人々がその状況を次々に伝えるようになり、そうしたメディア報道の限界も乗り越えられるだろう、と。

 そうかもしれない。が……ぼくは必ずしも楽観視はしていない。カメラ付きケータイの到達範囲にすら、おそらくは偏りがあるということも挙げられる。が、それ以上にそうしたところがあまりにおおすぎて、人々がそれをすべて(あるいは十分な数すら)把握することができないだろうと思うのだ。いわば人間の情報処理量の限界が、地球のフラット化に歯止めをかけるんじゃないか。そしてぼくはその兆候が出ていると思う。

人間の限界

 日本では、ミクシィの大躍進(とその後のごたごた)が話題になっている。なぜミクシィが流行ったのかといえば、2ちゃんねる的ななんでもありのクソもミソも同じ平面で並ぶフラットな情報世界がいやになった人々が、お友だちのつながりを経由した、フラットでない差別化された情報世界を求めたからだ、という説明がされることが多い。

 そしてぼくは、世界の各種事件などへの関心がまさにそれと同じ構造をたどっているような気がする。世界の問題を扱う場合でも、多くの人の関心は、お仲間経由のきわめて単一化されたものとなっている。生物多様性のことしか気にしない人、なにがなんでも風力発電がいいと思ってる人、とにかく児童労働さえなければいいと思ってる人。世界はフラットになるかもしれないけれど、それに対する人の関心は、狭い地理的な広がりに限られるか、あるいは狭い分野に限られるかのどちらかなのではないか。世界は実はフラットになりつつあるのかもしれない。でも人は、そこまで広い平面をとらえられない。個人の認識、社会の認識の中では当然、濃淡が出てくる。それがどういう結果を生むのかはわからないけれど。

 9.11の教訓の一つは、人は往々にして自分の見ていないものに復讐されるのだ、ということかもしれない。グローバル化がまちがいなく進むと確信する中で、人々はその手の及ばないところを忘れてしまう。そしてそうした部分が何らかの形で、今後20年以内にまったく予想もしなかった形でぼくたちをまた脅かすことになるだろう。それに対してできるのは、グローバル化の恩恵をなるべく広めようと努力することでしかないのだけれど。でも一方で、まさにその努力こそが、取り残されるところを生んでしまうのかもしれないというところに、歴史の皮肉はある。



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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>
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