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存在しない別世界:メディアをめぐるオカルト趣味

(キヤノンアートラボの年鑑かなにか用の没原稿。1992年くらいのはず)
山形浩生


 メディアアートの展覧会とか言うと、だいたい何を期待すればいいかは見えていて、おそらくは暗い中にポツポツとモニター(おもにソニーのプロフィールかシャープの液晶テレビ)が並んでいて、得体の知れないビデオが流れているのである。そのビデオの中身が何やら意味ありげだとか、あるいはそのモニターの転がし方が目新しいとかで、そいつの「アート」としての評価がさだまる(もちろん、そうでないものはたくさんある。何でもそうだが、最上のものはこういうステロタイプを喰い破るのだから)。

 これ自体はよくもなければ悪くもない。そういうものだ。白南準はその典型だし、岩井俊雄だってそうだし、ゲイリー・ヒルだって、インゴ・ギュンターだって、大なり小なりそんなのばっかだ。モニターはいろんなものが映せるから、使い易くて便利だし、家具としてもそれなりに味がある。つけたり消したりすると、ブラウン管がパチパチいって気持ちがいい。液晶も、反応がちょっと遅れるような、ヌルリとした感じの動きがゾクゾクする。問題は、その次だ、というか創作の過程では、その前だ、ということになるのだろうか。そのモニターは何をしているのか。

 これには大きくわけて、二つの方向性がある。一つは、モニターの向こうの別の世界をのぞかせる窓として機能しているもの。もう一つは……えーと、その他である。敢えていうなら、この現実を暴くための、一種のツールとしてそのモニターなり映像なりが存在している場合だ。

 前者の例としては、最近ワタリウムで開かれたゲイリー・ヒルのインスタレーションが挙げられる。モニターに映し出されたからだのパーツと音の群れ。それはもう、客なんかいてもいなくてもいいような、閉じた世界を構成している。あるいは、ビル・ヴィオラの各種作品でもいい。その多くは、見る者とは無関係に循環しつづけ、完結した世界を形成する。モニターは、そのビデオの内部の世界とこちらの世界を結ぶ、唯一の窓だ。

 後者は、その他なので、いくらでもあるのだけれど、ここでは最近ぼくが一番感心したインゴ・ギュンターの「Exhibition On Air」を挙げておこう。物は何もない。空間を電波だけが満たしていて、それを客はアンテナを抱えて追ってまわる。アマチュア無線のフォックス・ハンティングの楽しみだよね。ここには、客と無関係に存在する閉じた世界はない。「作品に手を触れないでください」もない。外の空間とまったく同じように、電波というメディアは、いま、その時にわれわれを取り巻いている。それは展覧会場にいてもそうだし、その外でも(電波の中身こそちがえ)同じことだ。でも、通常はわれわれは、それに対して常に受け身な存在でしかなかった。それが、あんなふうにすくい取るものとして直接的に表現されたことはなかった。フォックス・ハンティングの場合でも、電波がここまで濃密に空間を満たすものとして意識されたことも、ほとんどなかっただろう。客の持つアンテナとモニターは、自分が立っているまさにその空間の特性をつかみ取るために存在する。いま、この世界を暴き出すための装置として機能している。

 前者は、それがこちらの世界に何らかの力を及ぼす場合にのみ役にたつ。たとえば、藤幡正樹の「禁断の果実」。あるアルゴリズムによって向こうの世界に生えた「果実」が、もいでこられる。そこにあるのは、この世界のアナロジーでもなければカリカチュアでもない。それは、これまでのわれわれの美学体系の中にはなかった物体だけれど、それが現実にそこに現れてしまったことで、その体系も変わらざるを得ない。

 それ以外の、ビデオの向こうの自足した(幸福な、あるいはこの世界のできの悪い複製の)世界をのぞかせるだけの作品は、無力であり、何の意味もない。そして、その自立したビデオの向こうの世界が「ネットワーク」と称するものと結合すると、これはもうダメだ。だが、今後増えるのはこうした作品なのではないか。少なくとも、今後バーチャル・リアリティが妄想としてさらに広まり、「この世ならぬ世界を自由に作って、その中に入り込む」、といったつまらないアイデアが浸透するにつれて、その世界を表現しました、という安易な作品は確実に増加してくる。

 似たような例として、小説におけるサイバーパンク、特にそのサイバースペースというアイデアの受容プロセスが挙げられる。ここではそれをとりあえず、「あっちの世界」と「こっちの世界」と呼んでみよう。生身のわれわれには到達できない、「あっち」の世界。人間はモニターを通じて(あるいはサイバースペース・デッキでもいいけど)しかそれにアクセスできない。でも、その「あっち」の世界には、こっちの世界では決して得られない自由と懐かしさと美しさがある。そして、そこにイメージされているネットワークというのは、何やら実体を持たない輝くグリッドが無限に広がるようなイメージの空間で、知らないうちに異世界を結び付け、そこを(輝点で表現される)情報が縦横に行き来する。その時、そのネットワークそのものが究極のメディアと化す。そして同時にそれは別の意味でのメディア(霊媒)となり、いつの間にか巨大 AI や神の住まう怪しい世界が呼び出されて接続されてしまうのだ。

 でも、ぼくにとってのメディアというのは、そんな抽象的なものじゃない。いつの間にか世界が黙って結び付けられているような、そんな「目に見えない」世界じゃない。目には見えなくても、ある物理的な実体と、経済的な契約関係で成立している、もっと具体的なものだ。実際に自分でハンダごてを握ってコンピュータやラジオをつくっていたぼくには(そしてたぶん、いわゆる理系の人々の多くには)、ネットワーク上にどう信号が乗っかり、どう変調され、どういう経路をたどって向こうにそれが届き、それがどう復調されて再符号化されるのか、まざまざと想像できてしまう。そのイメージがあるからこそ、ギブスンの持ち出したサイバースペースというアイデアは非常に魅力的なものに映った。しかし、それがヴードゥーの神さまの世界との交信だの、アルデバラン星系のナントカだの、物理的につないでもいないようなところと接続されてしまうと、もうできの悪いオカルト趣味でしかない。
 しかし、既存のメディア(アート)論の多くは、このオカルト趣味なのだ。それは、このコンピュータなりテレビなりの向こうを、完全なブラックボックスとしてしか認識していないことによる。

 たとえば「InterCommunication」2号では、伊藤俊治がこのようなオカルト趣味に基づく理解で「ヴァーチャル・ピアッツア」紹介を行っている。紹介されていた範囲で見る限り、この「ヴァーチャル・ピアッツア」というのは、テレビ回線を併置したマルチメディア的なパソコン通信と考えていい。カッセルでのドクメンタ9の企画の一部だというから、たぶんエレクロニック・カフェでも使用された ISDN 回線を使ったのだろう。ファックスや、プッシュホン、コンピュータのデータ転送などによって、世界各地から人が参加して、メッセージや作品を交換し、時にはコラボレーションを行う。話題の広がりに応じて、それ相応のフォーラムがつくられる。「マーケット・プレイス」はエレクトロニック・モールに近いものだろうし、「仮想議会」は電子会議だ。「ロンリー・ハーツ・クラブ」は、掲示板だと思えばいい。

 ここにあるのは、何ら質的に新しいものではない。むしろ「こんなに離れた人たちと声を/メッセージをかわせる!」「地球の裏の人と共作/共演できる!」という、非常に素朴な喜びが、ここでも再現されているのだ。これは従来のコミュニケーションモデルに完全に準拠したものである。自分が、メディアを経由して、向こう側の人と交信する、というきわめて単純な話だ。ところが伊藤俊治は、これをこう評する。「ヴァーチュアル・ピアッツアの美学とは、デジタル・イメージがつくりだすもう一つの『自然』の体系に依存している」。してないって。ここにあるのは、美学じゃない。むしろ、はじめて自転車に乗ったときの、あるいは高度な電話機を手にした子供の純粋な驚きとはしゃぎぶりなのだ。「19世紀の光学にもとづく美学ではなく、次世紀を念頭においた、新しい、より巨大な光学にもとづく美学である」。どうしてマルチメディア的なネットワーク上のコミュニケーションが、光学に還元されるのだろうか。「電子世界のなかで活発に動きまわっている、インターアクションの、相互性の視覚象徴言語の世界だといって言い(ママ)だろう」。よくない。何が何を象徴しているの? たとえば電話で会話をしながらファックスで図面を送りあうのと、ここでの事態は何一つ変わっていないのだ。

 そして、これに基づいてかれはこう結論する。「我々以外の世界は常に内部の観察者である我々には気づかれない方法によってその存在を隠蔽されている。(中略)我々がその世界を一瞬、知覚するのは、その透明な母体に生じた新しい亀裂(インターフェース)としてなのである。(中略)ぼくはその事実を繰り返し、心に刻みつけようとしていた」。つまり、その「相互性の視覚象徴言語の世界」というのが、ここでかれの言う「我々以外の世界」で、「ヴァーチャル・ピアッツア」に参加した時だけその「我々以外の世界」が知覚できるってこと? 冗談じゃない。ここでかれが「我々」と呼んでいるのがだれのことなのかは知らないけれど、ここには「我々以外の世界」など皆無だ。さっきの電話とファックスの中に「我々以外の世界」があるか? パソコン通信に「我々以外の世界」があるか? そこにあるのはすべて我々の世界、人間の世界なのだ。

 「ヴァーチュアル・ピアッツア」でも同じこと。そこで起きたことは、すべて人間の行為に還元できる。ぼくはその「ヴァーチュアル・ピアッツア」に参加した人を直接知っているわけじゃない。でも、賭けてもいいが、だれ一人としてそんな「我々以外の世界」をのぞきこんむことに喜びを見出していたのではないだろう。それはむしろ、ぎくしゃくとしたテクノロジーを経由してのことであっても、自分が拡張され、他人の領域と交わるような喜びだ。そしてそれは、マクルーハンの「人間拡張の原理」でじゅうぶん説明がつくことなのだ。変わったのはあくまでこちらの、われわれの世界だ。われわれのからだだ。

 それはまるで、よくマンガに描かれるような光景と似ている。タイムスリップしてきた原始人が、ラジオをつついて、不思議がっている。「おお、得体の知れない声が出ている」「小人が入っているんだろうか」「いや、神さまの世界が聞こえてきているんだ」。もちろん、ラジオの向こうには、人間が作り上げた巨大なシステムが存在している。それをわれわれは知っているから、これはマンガのネタとなり得る。だが、多くの抽象的なメディア論は、この域を脱していない。そして、(どれとは言わないけれど)そうした抽象的なメディア理解をバックにしたメディア・アートと称するものの多くも、このマンガの原始人たちがラジオを祭壇に祭り上げるような表現しか行っていない。これは滑稽を通りこして、物悲しいことですらある。先にあげた伊藤俊治をはじめとするそういった評論を読み、そういったアート作品を見るたびに、ぼくは思ってしまう。「子供の科学」を読みなさい、と。あるいは、自分の電話やパソコン通信の課金をじっくり眺めて、それが何を意味しているのか考えてごらん、と。

 もちろん、原始人的なラジオやテレビへの驚きは、決してばかにしていいものではない。白南準(ナムジュン・パイク)のテレビを使ったピラミッドだのチェロだのは、そういう驚きや興奮をそのまま形にしたような、楽しい作品だ。でも、かれの「グッド・モーニング・ミスター・オーウェル」をはじめとする「風呂敷天下」の一連のテレビ局動員イベントは、そんな無邪気な認識ではおさまらない(というか、それではテレビ局は動かないだろう)。必ずしも番組として面白いとは言いがたい。もともとの意図とは相当にずれたものになったと、浅田彰も証言している。でも、そういうズレと番組のつまらなさにこそ、ガチガチの収益団体であるテレビ局をどう動かすか、という苦闘がはっきり出ているのではないか。そこにこそ、白の一連の企画の「メディア」アート性があるのだ、とぼくは思っている。

 ところで、前出の「InterCommunication」誌は、NTT 出版の雑誌である。この雑誌には、伊藤俊治以外にもこの情報ネットワーク神秘主義ともいうべきものを支持する人が非常に多い。この事実はいろいろなうがった見方を許してくれる。というのも、その「あっちの世界」が住まうはずのこうした巨大情報ネットワークの一つを物理的/経済的に所有しているのは、まさにNTTなのだから。NTT は、自分の所有しているネットワークが匿名のブラックボックスでいてくれたほうが、商売としてはありがたいはずだ。すると、この「InterCommunication」という雑誌の持つ政治的な意味も、なんとなく見えてくるような気がする。キヤノンのアートラボへの支援にも、これと似た腹づもりがひょっとしたらあるのではないか。が、これは考えすぎかもしれない。粉川哲夫ならなんと言うだろうか。

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