ショーン・レナード, Massachusetts Institute of Technology <http://web.mit.edu/seantek/www/>
翻訳:山形浩生 <http://cruel.org>
原著2004年4月29日、翻訳期間2004年8月10-29日- Ver.1.1
© 2003, 2004 by Sean Leonard and 山形浩生
本作品はクリエイティブコモンズ の Attribution-NonCommercial-ShareAlike ライセンスを採用している。
pdf 版は http://cruel.org/other/animeprogress.pdf
日本アニメという媒体はオルタナティブなエンターテイメントの世界における大原動力となっている。日本の著作権保持者たちはアメリカ市場を見捨てていたが、ファンによる改宗活動がアメリカにおけるアニメ運動に火をつけた。本研究は、20 年にわたる少なくとも一つの事例においては、ファンたちの継続的な著作権侵害こそが商業と技芸の進歩を引きおこしたのだということを実証するための歴史的・法的分析を提供する。
「ファン流通と字幕付けの法的分析」を除いて、引用・参考文献のサイテーションは脚注つきの MLA スタイルに従っている注A。「ファン流通と字幕付けの法的分析」では、引用・参考文献のサイテーションは Bluebook スタイルに従う注B。
日本語の英語音声表記は、例外や異同だらけである。日本語の固有名詞については、本分析では当人の好むローマ字表記があればそれに従っている。もしローマ字表記が知られていない場合には、本文席はアニメ関連の文脈でよく使われているその人物の名前を尊重している。多くの場合、名前は西洋式に、名が先で姓があとになっている。その人物に対する二度目以降の言及は、その人物の姓だけを使っている。
日本のアニメの題名は、文中ではその時期での主流英語表記にしたがっている。たとえば、この文では、Space Battleship Yamato と表記し、Uchu Senkan Yamato 宇宙戦艦ヤマト, Star Blazers などの表記は使っていない。ただし、文がその翻案を個別に指している場合には Star Blazers という表記を使っている。日本語の原題と英語の慣用、および商業リリース時のアメリカ題名に大きな異同がある場合には、その題名の最初の登場時に、章末注に日本語題名と英語題名をすべて記述した。(訳注:翻訳にあたっては、すべて日本語原題に戻した。ただしアメリカでの翻案を個別に論じている部分については英語表記のままとしている。人名についても調べのつく範囲で日本語化した。)
本文書のバージョン 1.0 は、MIT 講義6.806:「電子フロンティアにおける倫理と法」の修了要件を部分的に満たすべく 2003 年 12 月 10 日に書かれた。指導教官はハロルド・エイベルソン教授とダニエル・ワイツナーである。二人の指導、支援と激励に感謝する。
注 A:Gibaldi, Joseph et. al. MLA Style Manual: Second Edition. New York: Modern Language Association of America. 1999
注 B:Harvard Law Review Staff. Uniform System of Citation: The Bluebook. Cambridge, MA: Harvard Law Review Association. July 1996.
日本アニメへの関心とその消費は過去 10 年で世界的に急激な伸びを見せた。アニメと関連キャラクター商品販売額は、2002 年には 9 兆円となったが、10年前の販売額はこの1割以下でしかなかった注1。他の市場では、鉄鋼や製造業や重機械などの分野をはじめ日本の売り上げは下降気味だが、最近のウォール・ストリート・ジャーナル紙も述べたように「日本は文化輸出によってその低下分を余裕で埋め合わせている注2」また小泉純一郎首相は、平成十五年国会の開会式辞でアニメを賞賛した。『千と千尋の神隠し』を代表例としてあげつつ、小泉はアニメが「日本文化の救世主」になったと主張した注3。これほどのもてはやされぶりを前にして、こう尋ねてみよう:かつては日本の子供向けに生産されて消費される製品と思われていたアニメが、どうしてグローバルなメディア市場でこれほどの勢力を持つようになったのか?
答えは、アニメが国際的に他の国から求められたから、であって日本側がそれをプッシュしたからではない。1960 年代から 1970 年代に、まさに「ジャパン・アズ・ナンバーワン」のスローガンが日本の一般意識を変えつつあった時期に日本で学んだり従軍したりして、アニメやマンガに興味を持つようになった国際的な人々の波があったのだ。アメリカに戻った人々は、アニメやマンガを友人たちと共有したいと思った。1975年にアメリカと日本の大衆市場にビデオデッキが入り込んだことで、これが可能になった。初めてファンたちは番組を録画して、アメリカの知り合いに見せられるようになったのだった注4。それ以前は日本語と英語のことばの壁があったために共有はむずかしく、ファンたちは SF 大会の奥のほうで、すばらしい映像と得体の知れないことばが観客を襲う中で、ごくかいつまんだアニメの筋書きを説明するのがせいぜいだった。もっとひどい場合には、読者は日本語の読める友人を横に、「後ろから進む文字や絵」を格闘するハメになった。当時についてヘンリー・ジェンキンズはこうコメントしている:「あれが何を言ってるんだかさっぱりわからなかったけれど、でもすっごくクールに見えたんだよ注5」
新しい技術と新しい流通ネットワークのおかげで、ファンたちはアニメの福音をすぐに伝えられるようになった。続いて生じたのはファン流通の誕生だった――全国に広がる巨大なアングラネットワークでアニメ番組が流通するようになったのだった。ファンダムの構成が変わるにつれて、「ファンサブ」、つまりファンによるアニメビデオの翻訳と字幕追加が1990年までには流通プロセスに追加されていた。大学を卒業したファンの多くはアニメ会社を設立し、今日の業界リーダーとなっている。
アニメのファン流通ネットワーク――1970 年代から 1990 年代初期にかけて、アニメを輸入してアメリカの広大なアングラネットワークで流通した日本アニメファンたちのネットワーク――は「改宗コモンズ」、つまりある特定の目的を推進するためにメディアやアイデアが自由に交換できる空間となっている。このネットワーク上で多くの人は富を築き、そしてもっと多くの人々が、日本アニメについての知識と情熱をアメリカのファンたちに広めた。これはインターネットの広範な採用以前の話だ。こうした拡大は、グローバル化というのがアメリカの文化帝国主義だという説を嘲笑するものだ。というのもこの場合にはアメリカ人たちが別に日本の業界から恫喝を受けたわけでもないのに、大挙して日本の文化産物を自ら引っ張り込んでいるからだ。アニメの草創期には、翻訳、再構成や再製作は、収益の達成に反するものではなかった。むしろこのファンによるプロセスこそが、アニメの広範な商業利用の前提となる財とサービスとして機能したのだった。ファンたち、流通者たち、製作者たちはみんな、後にこうしたファンによるプロセスが必要だったということを否定したがる。著作権による制限に真っ向から抗して、アニメのファン配信は 1970 年代から 1990 年代にかけて花開き、やがて国内産業を生み出す原動力となり、技芸の推進をもたらしたのだった。
本論は以下のように構成されている。第二章では、「アニメ」「マンガ」「ファン流通」「ファンサブ」といった、本分析で多用される用語になじみのない読者のための説明を行う。第三章では、アメリカでのアニメに対する関心拡大と関連したアニメファン現象の歴史を詳細に記述し、1976 年から 1993 年の主要プレーヤーたちのプロセスや動機を明らかにする。この歴史は独自のインタビューや一次情報源に基づいており、最終的にはファン流通が経済的には正規ライセンス作品が商業的に成立する前提財として機能したということを明らかにする。第四章では、ファン配信とファン活動の法的分析を示し、検討している期間中の日米の著作権法と、関連する著作権施行条例などを検討する。そしてファン配信が自分たちの目標を実現するためには著作権侵害を冒すしかなかったということを明らかにする。最終章では、こうした分析を組み合わせて、現存する著作権制度が否定したはずの経済活動領域が生み出されて、それがアニメ消費の急速な拡大に貢献し、結局はすべての関係者がそれによって利益を得たのだ、ということを主張する。
注 1:大韓民国政府調査, 2002.
注 2:共同通信。Wall Street Journal. 17 Apr. 2003.
注 3:"The Hollowing Out of Japan’s Anime Industry." Mainichi Interactive. 25 Feb. 2003. <http://mdn.mainichi.co.jp/news/archive/200302/25/20030225p2a00m0oa024000c.html> 8 May 2003.
注 4:"1975: Sony Betamax Combination TV/VCR Released in the U.S." CED Magic: Pictorial History of Media Technology. <http://www.cedmagic.com/history/> 8 Dec. 2003.
注 5:Jenkins, Henry. 個人インタビュー. 28 August 2000.
「アニメ」というのはアニメーション(動画)のフランス語式短縮形で、日本人はこれをあらゆる動画に対して使うようになった。アメリカでは「アニメ」といえば日本製品だけを指すもので、単数形も複数形も同じ「Anime」だ。初の日本アニメ映画は、1917 年に下川凹天が製作した『芋川椋三 玄関番の巻』だ注6。戦前や戦中期には多くのアニメが製作されたとはいえ、目先の変わった変なものという扱いが続いていたが、1958年にアニメスタジオの東映動画が『白蛇伝』注7を公開した。これは初の長編カラーアニメ映画だった。ほとんどの史家は、アニメ産業の誕生を1963年としている。この年、有名な漫画家にしてアニメ作家の手塚治虫が『鉄腕アトム』注8を発表し、アニメとマンガの長期的な結びつきを確固たるモノにして、何百万人もの日本の若者たちを本物の少年と同じ姿と行動を持つスーパーロボットとの恋に陥れたからだ。
アニメは日本では三つの公開形式がはっきり別れている。テレビ、劇場公開、ビデオ公開(OVA:オリジナルビデオアニメ)だ。OVAは押井守の1983年の『ダロス』から発展し、1980年代半ばから1990年代半ばまで実験的・前衛的アニメはOVAが主体となった。アニメは、多様だとも言えるし、そうでないとも言える。毎週テレビで上映されるアニメは80本以上ある。この数字は劇場公開アニメやOVAは含まない。これを含めると、130本近くなるだろう。だが一部のアニメーター、たとえば宮崎駿は、アニメ産業が急拡大しすぎたせいで、業界が行き詰まっていると苦情を述べている注9。
アメリカでの日本アニメに対する関心は、何度かの波となって発生している注10。その波ごとにアニメファンたちが目覚めて台頭し、ハリウッドや他のアメリカ大衆文化にかわるものとしてアニメというメディアの優秀性を訴えるのだった注11。最初の波は 1960 年代に『鉄腕アトム』 (1963) と『マッハGoGoGo』 (1968) によって生じた。『宇宙戦艦ヤマト』がアメリカに上陸したのは 1978 年 (日本では 1974)、続いて1985年に Robotechが登場 (1982 年以降の3つの番組を組み合わせたもの)。『アキラ』(Akira)は1988年に大カルトヒットとなった。最後に1990年代になって、作品数もアニメへの関心もすさまじい上昇を見せた。筆頭格としては『美少女戦士セーラームーン』(Sailor Moon, 1995), 『ドラゴンボール/ドラゴンボールZ』(Dragonball/Dragonball Z, 1995)、『ポケモン』(Pokémon, 1998)、『もののけ姫』(Princess Mononoke, 1999)がある。
注 6:Clements, Jonathan and Helen McCarthy. The Anime Encyclopedia. Berkeley: Stone Bridge Press, 2001. p. 283.
注 7:22 Oct. 1958. データ出所:"Anime News Network - Hakujaden (movie)." Anime News Network Encyclopedia. 2004. <http://www.animenewsnetwork.com/encyclopedia/anime.php?id=655> 28 Apr. 2004.
注 8:Astroboy 1. "Tape One: Birth of Astroboy; The Monster Machine." 演出. 手塚治虫 and Fred Ladd. 配給. The Right Stuf, Inc. 1963, NBC Films; 1991, The Right Stuf, Inc.
注 9:Kitano, Masayuki. "Miyazaki says Japan animation faces dead end." Japan Today. 20 Feb. 2002. <http://www.japantoday.com/> 15 Mar 2002.
注 10:Omega, Ryan. Anime Trivia Quizbook, Episode 1. Berkeley:
Stone Bridge Press, 1999.
注 11:Napier, Susan. Anime: From Akira to Princess Mononoke. Hampshire, England: Palgrave Press, 2001.
ファン流通は、1976年から1993年にかけてファンたちがアニメをコピーして広めた各種の手法すべてを含む。
ファンサブとはファンによるサブタイトル(字幕)つけの略、あるいはファンが字幕をつけたビデオの略だ。ファンサブはほぼすべてアニメを対象としている。ファンサブがアメリカに登場したのは、コモドール社のアミーガとマッキントッシュが消費者に広く出回った 1989 年以降だ。このマシンはハードウェアを追加すると、ビデオストリームの上に字幕を重ねることができた。1989 年から 1998 年にかけてのファンサブ用必携ハードはジェンロック、またはジェネレータロッキングデバイスだ。このデバイスはテレビのようなビデオ装置が、同時に二つの信号を受け付けられるようにする。ジェンロックを作動させると、ビデオ入力信号とコンピュータ出力とが同期できるので、字幕をリアルタイムで重ねられる。このジェンロックからの出力が別のビデオに録画されて、巨大なファンネットワークで流通する。多くのファンサブ屋たちは、時間同期式の VHS や S-VHS デッキをファンサブシステムに導入した。1990 年代半ばには、こうしたシステムのおかげで字幕と実際のせりふとがほぼ完璧な精度で同期できるようになった。
ビデオに字幕をつけるファンはファンサブ屋 (fansubber) と呼ばれた。ファンサブ屋のチームがファンサブグループと呼ばれる。ファンサブグループは、通常な翻訳家、編集、タイプセッター、タイマー、一次流通者をそれぞれ一人以上含む。ファンサブ屋たちは自分の作品にクレジットをつけたり独自のマークを入れたりするけれど、でもほぼ例外なく偽名を使っていた。これは法的な理由からだ。ファンサブ屋たちはさらに、「非売品、レンタル禁止」とか「ランセンス版が出たら流通を停止すること」といった注意書きをつけて、自分たちの作品がライセンスを受けておらず、自分のファンサブ作品を金銭的にやりとりしてはならず、ライセンス版が出てきたらそっちを買うべきだということを明示していた。多くのファンサブ屋たちは返信用封筒による流通を使っていた。この方式は金銭のやりとりが不要だ。ファンたちは、自分の住所を書いて切手を貼った封筒と生テープを依頼書につけて送る。そしてそのテープに番組が録画されて戻ってくる。一部のファンサブ屋たちは、もっぱらテープ代と郵便代をカバーするために少額を要求することもあった。
多くのファンサブ屋たちは、日本や日本文化、あるいはそのアニメについてのトリビアに関する説明字幕や追加画面もつけて、番組の中のわかりにくいほのめかしなども理解できるようにしていた。
本分析は1993年までを対象としており、ビデオファイルに組み込まれてインターネットで配信されているファンサブは扱っていない。これは別名デジサブ (Digisub) とも呼ばれる。デジサブが最初に登場したのは、1990年代後期になってからだ。
ここではアメリカにおけるファン運動の独自の歴史を提示する。この歴史は、多数の個人的なインタビュー、ファンの作成物や他の一次資料からまとめて確認したものだ。この時期について知られている参考資料については、適切に出所を示してある。
日本アニメは1975年以前にアメリカに輸入されたが、それは大なり小なり改変されたものだった。アメリカで配給された映画として記録がある初の作品はPanda and the Magic Serpent (白蛇伝) で、これは 1961 年 3 月 15 日に始まっている。続いてMagic Boy (『少年猿飛佐助』) が1961年7月8日に始まり注12、Alakazam the Great (『西遊記』) が1961年7月26日に始まっている注13。アメリカのプロデューサーたちは、映像面では画面に出ているものにそこそこ忠実でなければならなかったが、ストーリーのほうはアメリカの子どもたちの趣味と思われているものにあわせるため、かなり変えられた。アメリカ版の『鉄腕アトム』(Astro Boy, 1963)、『鉄人28号』(Gigantor, 1965)、『ジャングル大帝』(Kimba the White Lion 1965)、『マッハGoGoGo』(Speed Racer, 1967)をプロデュースしたフレッド・ラッドは、名前を変えたり注14ストーリーを編集したりするので悪名高かった。Astro Boy 以前には、ラッドはベルギー製作の現代版ピノキオ、題して『大宇宙のピノキオ』に関わっていた。NBC が 1963 年に『鉄腕アトム』の権利を買ったとき、同社はそれまでの仕事を見て『鉄腕アトム』に似ていると思ったので、ラッドに連絡をとった。でも、両者の相似はよくいっても表面的なものでしかなかった。アメリカの製作会社は、外国製品を完全にアメリカ化してしまうのに慣れていて、非アメリカ的な発言をすべて取り除くと同時に、もとの日本の製作チームに関する言及は最低限しか残さなかった。
でもこうした番組はアメリカ人に大好評で、だからラッドが1960年代の短命な日本アニメの成功に貢献したことは間違いない。それでも、1970 年代にアメリカで起きた子ども向けテレビ浄化運動に並行して、日本アニメの暴力描写と性的内容は急激に増加した。これはもっぱら永井豪の『デビルマン』(Devilman, 1972)、『マジンガーZ』(Mazinger Z, 1972)、『キューティーハニー』(Cutey Honey, 1973) の影響が大きい。アメリカのネットワークは、マンガ番組を平日のゴールデンタイム――もともと『鉄腕アトム』『マッハGoGoGo』や、古典の『原始家族(フリントストーンズ)』『宇宙家族ジェットソンズ』が上映されていた時間枠だ――から土曜朝に移行することにした。そしてその頃、各種の保護者団体がネットワークに圧力をかけて、アニメ番組の一層の浄化を求めた。ラッドに言わせると「(1970 年代初期には)日本のアニメ番組はもう流せなくなってたんだ注15」
日本のマンガのいくつかは、実際にアメリカにまともに入ってきたので、触れておく価値があるだろう。『ガッチャマン』(Battle of the Planets, 後に G-Force と改題) は 1978 年に入ってきた。前者はかなり上品に加工され、どっちもあまり人気が出なかったので、アメリカのテレビ放映は続かなかった。『宇宙戦艦ヤマト』は1978年に、ごくわずかな改変を加えただけでStar Blazersと題して放映されたが、こちらはもっと人気が出た。でもその人気は東海岸に限られたもので、Star Blazersファンダムが東海岸に集中しているのはそのためだ。最後に、 1984-1986 年にかけて、アメリカの子供市場にVoltron注16がかなりの侵入を見せた。この子ども向け編集の程度は、Star Blazers と Battle of the Planets の中間くらいというところだろうか。だがこのいずれの場合にも、番組が日本製だと示すものは一切排除された。日本アニメへの関心は80年代になって復活するけれど、それを動かす市場はまったくちがったものだった。こんどはファンのミクロ市場がそれを牽引していたのだ。
注 12:演出 藪下泰司, 大工原章. 25 Dec. 1959. US Distr. MGM. 22 Jun. 1961. データ出所: Beck, Jerry. "Animated Features 1." CartoonResearch.com. <http://www.cartoonresearch.com/feature.html> 4 Dec. 2003. また "Anime News Network - Shonen Sarutobi Sasuke (movie)." Anime News Network Encyclopedia. 2004. <http://www.animenewsnetwork.com/encyclopedia/anime.php?id=1501> 28 Apr. 2004.
注 13:演出 白川大作, 手塚治虫, 藪下泰司. 14 Aug. 1960. US Distr. American International. 26 Jul. 1961. データ出所: 上に同じ. "Anime News Network - Alakazam the Great (movie)." <http://www.animenewsnetwork.com/encyclopedia/anime.php?id=631> 28 Apr. 2004.
注 14:ただし Harvey Deneroffによるインタビューによれば、手塚自身はラッドの制作チームが提案してきた名前の変更に大喜びだったという。
注 15:Deneroff, Harvey. "Fred Ladd: An Interview." Animation
World Network. 1996. <http://www.awn.com/mag/issue1.5/articles/deneroffladd1.5.html> 22 Feb. 2003.
注 16:『百獣王ゴライオン』『機甲艦隊 ダイラガーXV』演出: 田口勝彦, Kazuyuki Okaseko, Kazushi Nomura, Hiroshi Sasakawa. 製作: 東映動画, 東京12チャンネル. テレビシリーズ、全125話. 1981. 出所: Celements, Jonathan and Helen McCarthy. The Anime Encyclopedia: A Guide to Japanese Animation since 1917. Berkeley: Stone Bridge Press, 2001.
Astro Boy以降のアニメの浸透は、1972 年 11 月に初のビデオデッキが発売されてから3ヶ月以内にアメリカに広がった。1976 年3月には、アメリカの日本人社会向けテレビ局が字幕付の巨大ロボットアニメ、たとえば『ゲッター・ロボ』などを放映しはじめた。こうした放送局はそれまでにも日本アニメを放映していたけれど、それまでは幼児向けが中心だった。ビデオデッキ普及のおかげで、SFファンやマンガファンはこうした新番組を録画して、友達に見せられるようになった。
アメリカ初のアニメクラブ創始者フレッド・パッテンは、その体験を詳細に語ってくれた。パッテンが初めてアニメに出会ったのは1976年、ロサンゼルスSF協会 (LASFS) でのことだった。週ごとの会合の中で、パッテンは早い時期にソニーのベータマックスを手に入れたファンと出会った。そのファンが「日本のSFアニメマンガの録画をしたんだけど、これは絶対見なきゃ」と言って、協会の会合でそれを上映したのだった。
その後一年ほど、そのファンは日本の巨大ロボットアニメに英語字幕がついたものを次々に協会に持ってきた。また、他にも何人かのファンが在米日本人向けテレビの録画を持ってきて、各種のファンイベントで上映した。当時、ファンたちは日本のアニメがアメリカに比べてはるかに大量の暴力描写をしていることに驚いた。日本のアニメの典型的なあらすじを説明すると、たとえばヒーローのお父さんが悪者に殺され、都市が丸ごと焼け野原となり、そしてヒーローは荒廃した世界の中で生き延びなくてはならない、といったものだ注17。マンガ自体に具体的な流血が登場するかはされおき、何十万人もの人々が殺されたことになっているのは明らかだった。1976-1980年のアメリカのマンガでは、冒険アクションマンガやスーパーヒーローものと呼ばれるマンガでさえ、だれも死んだりけがをしたりはしなかった。アメリカの悪漢たちは、せいぜいがちょっと顔をしかめる程度ですんでいたのだった。
1977 年には、パッテンを含む少数のファン集団はあまりに日本アニメが気に入ったので、別のクラブを作ることにした。そうすれば一般ファン会合で変な時間に見るのではなく、定期的にアニメを見ることができる。一般ファン会合では、日本アニメの支持者がアニメを見ようと提案するのだけれど、でもアメリカ製の作品を好む多数派によってその支持者――普通は男――の提案は却下される、というのが普通だった。1977年5月、こうしたファンたちがマンガファンタジー組織 (Cartoon/Fantasy Organization C/FO) を結成して、毎月第三土曜日に定期的に集まることになった。
1977年11月、ロサンゼルスの C/FO メンバーたちは、全米の他の日本アニメファンと交流を開始した。他の都市でも日本アニメは放映されていたけれど、その中身は必ずしも同じではないことに気がついた。ロサンゼルスとニューヨークで放映されているものはちがっていた。たとえばニューヨークでは『サイボーグ009注18』と『銀河鉄道999注19』をやっていたが、これはロサンゼルスでは放映されていなかった。結果として、ファンたちはテープのやりとりを始めた。
当時、多くの LASFS メンバーは世界中の SF ファンたちとペンフレンド関係を続けていた。ほとんどは英語圏の相手だったが、一部は日本にも相手がいた。結果として、 C/FO メンバーたちは『スタートレック』『宇宙空母ギャラクティカ』を欲しがる日本ファンとビデオの交換を始めた。C/FO メンバーは、ロサンゼルスで放映されていない日本製SFアニメに興味があったし、ファンたちにとっては、アメリカと日本でテレビ放送に同じNTSC方式が使われていたのは偶然とはいえ幸運だった。同じビデオが両方の国で使えたからだ。
もちろん、ファンたちが日本から受け取ったテープにはまったく字幕はなかった。1970年代後期には、日本アニメのほとんどはきわめて単純なので、ふつうの視聴者は映像を見ているだけで、だいたいのあらすじはわかった。たとえば『宇宙戦艦ヤマト』(1974) や『宇宙戦艦ヤマト2』(1978) などがそうだ。他に手がなかったので、ファンたちは翻訳なしの番組でも喜んで見た。1979 年には、もうSF活動とは完全に独立した運動となったファンや集団は、anime という用語を使うようになっていた。
この頃になると、アニメクラブは C/FO 以外にも誕生していた。たとえばボストン、ニューヨーク、フィラデルフィアにはかなり大きなファンクラブがあった。『宇宙戦艦ヤマト』の悪役(ガミラス)から名をとったガメラン大使館 (Gamelan Embassy) という活発なグループが東海岸にはあった。ガメランたちは、日本アニメをニューイングランド地方や大西洋中部地区の SF 大会やコミック大会で上映することに熱意を注いでいた。1980 年以来、かれらは SF 大会のホテルの一室でアニメを上映していた。ガメランたちは、こうした大会で「日本アニメを見たければ XYZ 室へどうぞ。オールナイト上映!」というチラシを配っていた。
注 17:『未来少年コナン』あらすじ。演出: 宮崎駿、製作: 日本アニメーション、NHK. 制作: 本橋浩一. テレビシリーズ. 1978-1979.
注 18:Cyborg 009 原作:石ノ森正太郎. 製作: 東映動画、サンライズ. テレビシリーズ、全26話(白黒). 1968. テレビシリーズ, 全 50 話 (カラー). 1979. 出所:
Celements, Jonathan and Helen McCarthy. The Anime Encyclopedia: A Guide to Japanese Animation since 1917.Berkeley: Stone Bridge Press, 2001.
注 19:Galaxy Express 999 原作: 松本零士. 監督: 西澤 信孝, Masayuki Akehi, Kunihiko Yuyama. 製作:東映動画、フジテレビ. テレビシリーズ, 全 114 話. 1978. 出所: 上に同じ
この時期、ビデオテープに収録した日本アニメを、日本企業からの許可なしになんでも上映するのは、社会的に問題がないとされていた。日本のスタジオでアメリカに出店を持っているところはほとんどなかったからだ。アメリカオフィスを持っていた少数の企業――東映動画 (現東映アニメーション)、東京映画新社 (TMS, 現TMS Entertainment)、タツノコプロダクション――は、許可を求めても機械的に断るだけだった。現地職員はこうした利用に許可を与える権限を持っていなかったからだ。それに、アメリカのガキのファンたちが、マンガを他のファンに無料で見せていいかどうか、なんてことをわざわざ東京に問い合わせる手間もかける気はなかった。アメリカの職員たちは、東京からの答えがどうなるかはっきりわかっていた:絶対ダメ、と言われるに決まっている。
当時、パッテンは公式にこうしたアニメスタジオと関係を持ち始めた。本節では、パッテンの関与を詳細に描き、日本がアメリカ市場にアクセスできなかったのは、参入障壁が高すぎると考えたせいだ、というのを明らかにする。
1978年に東映動画は北ハリウッドに初の常設オフィスを設置した。東映は、10年近く何もしなかった後で、西海岸に自社のアニメを売り込もうと考えたわけだ。東映はC/FO について知ると、そのメンバーたちに市場調査を手伝ってくれないかと尋ねた。東映はサンディエゴのコミック大会で、テストマーケティング用の初のマーチャンダイズを提供した。この大会では、パッテンがアメリカファン大会初のディーラーテーブルを持って、そこにアニメ商品がたくさん並んでいた。東映はそこで、かれらが少年少女向けのテレビ番組と考えたもののサンプルを提供した。少年向けは『宇宙海賊キャプテンハーロック注20』が中心で、少女向けは『キャンディキャンディ注21』ばかりだった。少年向けの商品は飛ぶように売れたけれど、少女向きのものにはだれも見向きもしなかった。東映社員のHozumi女史は、当時のかれらのテレビ番組の、パイロット版16ミリリールをたくさん持ってきた。『宇宙海賊キャプテンハーロック』第一話、『キャプテンフューチャー注22』第一話、巨大ロボットアニメ各種の第一話、そして少女マンガアニメの第一話。ファンたちは、こうしたマンガがアメリカのものとまるでちがっているので魅了された。Hozumi は大会で起こったことすべてを詳細に記録して、東京に送った。
ハリウッドでは、1979年にタツノコプロはファンたちに「われわれはあなたがたアメリカのファンたちが、無許可でわれわれのマンガの一部を上映しているのを知っており、これを公式には許容するわけにはいきません。ところでこうしたマンガの一部をハリウッドの重役たちに見て欲しいと思っているんですが、あなたたちのコピーを見せてあげてくれませんかね?」と告げた。日本のスタジオ――少なくとも東映、TMS、タツノコプロ――は、ファンたちが無許可配布や上映をしていることは十分承知していたが、それに対する考え方はかなり錯綜していた。原則としてこうしたファン活動は支持できないのは、かれらが権利をランセンスしたがらなかったことからも明らかだけれど、でもファンたちがこの活動で利益を得ているわけでもなく、スタジオ側としては無料で宣伝してもらっているようなものだ、ということもわかっていた。
翌年、TMS は『ルパン三世:カリオストロの城』字幕付 35 ミリ版を 1980 年の世界SF大会ノースシーコンII (ボストン) で上映した。パッテンは、大会のボランティアたちといっしょに上演時にアンケートを行った。アンケートは「この映画は気に入りましたか」とか「アメリカ人に受けると思いますか」といった質問が載っていた。パッテンは観客に、会場を出る前にアンケートに回答してくれと頼んだ。そしてその結果をTMSに送り返した。
でも 1982 年頃には、日本のスタジオもアメリカ市場で成功の見込みがないことに気がついた。例外が一つだけあった。東映/TMS/タツノコプロとまったく無関係なところで、1982年にSea Prince and Fire Child (『シリウスの伝説』1981) がサンリオコミュニケーションから RCA/Columbia にライセンスされて、劇場公開なしのビデオだけのリリースとなった注23。あまり評判にはならなかったが、少数のアメリカのファンの間では語り継がれている一作だ。最後の商業的なプッシュは、東映動画が『銀河鉄道999』の初の劇場版をアメリカのメジャー映画スタジオに売り込もうとしたときだった。東映はまたも C/FO メンバーを雇って、ワーナーブラザーススタジオから2ブロック離れたバーバンクで試写をするのにハリウッドのスタジオ代表者たちを招いた。でも、ハリウッドの重役たちはだれも顔を出さなかった。
1982 年末までに、東映は『銀河鉄道999』をロジャー・コーマンのニューワールド・ピクチャーズに売った。同社は低予算エクスプロイテーション企業として悪名高いところだった注24。ニューワールド・ピクチャーズは『銀河鉄道999』を大幅に改変し、その複雑に編み込まれたストーリーを破壊して、幼児向けの失敗作に仕立てた。東映は大いに失望した。そして C/FO に「これまでいろいろどうも。現時点ではこの路線をこれ以上追求しないことにしました」と告げて、アメリカ事務所をたたみ、日本に帰った。
その後 1980 年代には、日本のスタジオとアメリカのファンとの間にまともなつながりはもう生まれなかった。が、いくつか小さな例外はあった。1987 年に日本のギャガ・コミュニケーションズという会社(日本の大規模劇場・テレビマーケティング企業注25)が、各種の日本映画プロモーションを担当することになった。かれらは1987年には各種の映画やオリジナルアニメビデオ (OAV) をロサンゼルスのコミック大会でプロモーション上映した。そこに『ガイバー』『妖獣都市』が含まれていた。こうした作品をファンに見せるだけでなく、ギャガはハリウッドのスタジオ代表者を招いた。こうした代表者を、願わくば非常に熱狂的なファンたちで囲ませようというわけだ。そうすれば、こうした映画がアメリカのティーンにどれほど人気があるかわかる。だがここでも、この試みは何の成果も生まなかった。
でも少なくとも 1988 年に、ギャガは『妖獣都市』をストリームライン・ピクチャーズになんとか売った。ストリームラインは、カール・マセックとジェリー・ベックによる初のアニメ専門企業だ。マセックとベックはギャガ・コミュニケーションズをよく知っていて、定期的に会合を持った。が、ストリームラインについてはまた後出(\pageref{streamline}ページ参照)。
注 20:Captain Harlock 原作: 松本零士.演出: りんたろう, Kazumi Fukushima. 製作: 東映動画, テレビ朝日. テレビシリーズ, 全52話. 1978. 出所: 上に同じ
注 21:Candy Candy 原作: 水木杏子, いがらしゆみこ (係争中). 演出: Yugo Serikawa. 製作: 東映動画, テレビ朝日. テレビシリーズ, 全115話.1976. 出所: 上に同じ
注 22:Captain Future. 原作: 松本零士. 演出. Tomoharu
Katsumata, Hideki Takayama, Noboru Ishiguro, Yasuo Hasegawa. 製作: 東映動画, NHK. テレビシリーズ, 全52話. 1978/7/11-1978/10/30. 1979. 出所: 上に同じ, Anime News Network <http://www.animenewsnetwork.com/encyclopedia/anime.php?id=1237> 28 Nov. 2003.
注 23:Williams, Leilani. Sea Prince and Fire Child. 2000. <http://www.kokololio.com/seaprince/> 30 Nov. 2003 を参照。また以下も参照: Ettinger, Benjamin. Pelleas.net | Masami Hata Filmography. 2002. <http://www.pelleas.net/hm/> 30 Nov. 2003.
注 24:ニューワールド・ピクチャーズは、悪名高くはあったが、同時にコーマンの経営下ではその――いかに低予算とはいえ――先駆的な映画と黒字体質によって、映画研究者に高く評価されている。Morris, Gary. "Notes toward a Lexicon of Roger Corman's new World Pictures," Bright Lights Film Journal 27号. Jan. 2000所収. <http://www.brightlightsfilm.com/27/newworldpictures1.html> 30 Nov. 2003.
注 25:GAGA
COMMUNICATIONS INC. 2001 会社沿革を参照 <http://www.gaga.co.jp/about/index.html> 30 Nov. 2003.
日本企業が1982年にアメリカ市場から撤退した翌年、アメリカ人フレデリック・L・ショットがその重要な著作Manga! Manga! The World of Japanese Comics注26を発表し、英語で初めて日本におけるマンガの活発さと浸透ぶりを紹介した。この時期、ショットは日本の流儀を熟知していた。かれは 1970 年代に日本語を勉強していた、アメリカの軍と関係ない数少ない民間人であり、手塚治虫をその完璧な日本語で驚かせて、かれの友達になった注27。手塚博士は、Manga! Manga! の序文に、日本の外でマンガの受容が遅いことについて、短い選び抜いたことばで語っている:
だからこそ、印刷物は失敗したのに、日本のアニメ――吹き替えられ、読者がどっちから「読む」のか混乱しなくていいもの――は世界に対して日本マンガの扉を開けることに成功したのです。ことばの問題を克服したアニメは、幅広い魅力を持ち、日本の優れた親善大使となりました。これは西洋だけでなく、中東やアフリカ、南米や東南アジア、そして中国ですらそうです。その入口は常にテレビです。フランスでは、子どもたちは『UFO ロボ グレンダイザー』が大好きです。『ドラエモン』は東南アジアや香港で大ヒットしています。中国の若者たちはみんな『鉄腕アトム』主題歌を歌っています注28。
手塚博士のことばは、1983 年当時に知られていた情報からすればきわめて性格だった。が、これを手塚治虫がまさに書いているそのとき、まったく別の「入口」が西洋に生まれつつあった。それが組織化されたアニメファンダムのネットワークだった。
日本企業が1982年にアメリカ市場から撤退すると、ファンたちがお互いにテープをコピーして流通させるのを止める、道徳的・法的な勢力はまったくなくなった。1970 年代後半から、あちこちの都市に支部を持つような全国組織や国際組織を作ろうという動きがあった。その最初の一つが Cartoon/Fantasy Organization だった。またもっぱらStar Blazers(アメリカ版の『宇宙戦艦ヤマト』) ファンで、他の番組にもちょっと興味を持った人々で組織されたEarth Defense Force (地球防衛軍) もあった。こうしたクラブはどれも、各地の都市に支部を持っていた。理屈からいえば、そのほうがずっと効率よくアニメを盛り上げられるし、支部同士が中央組織を通じて団結すれば、各地の支部はそれだけ見られるアニメが多くなる、というわけだ。
全米でファンが増えるにしたがって、流通するテープの質は劣化した。というのもファンたちは孫コピーやひ孫コピーに頼るようになっていったからだ。C/FO メンバーたちが日本からのテープを受け取るようになって、一年目はビデオもかなり高画質だった。でも1980年代初期になると、 C/FO メンバーは 15世代目とか 20世代目のコピーなども目にするようになっていて、これはひどい画質だった。ファンたちは、お互いのテープの画質を比較するのが通例となった。あるファンが『うる星やつら』第一話のテープを持ってきたら、別のファンが同じ番組のテープを持ってきて、両者はどっちが明らかに画質がいいかを比べる。上映されるのは、画質のいいほうだ。
また多くのファンは、1980年代初期から1990年代にかけてファンダムが成長するにつれて、主義主張の面での対立にも直面することになった。たとえばパッテンはこう書いている:
1980年代初期には(C/FO内部の)一部のファンたちとかなりきつい論争もしたよ。向こうは、もう日本アニメを盛り上げるのはやめようというんだ。小さなエリート集団だけに限るべきだってね――自分たちだけが知っているすてきな秘密、というわけだ。ぼくはずっとこれに反対してきた。
1985年には、Gamelan Assembly が解散宣言をした。アニメはもう十分に人気が出てきて、各地の大会でふつうに公式アニメ部屋が用意されるようになったからだ。もう目的は果たされたので、自分でやる必要はなに。でも圧倒的多数のファンたちは、アニメはアメリカ社会のもっと多くの部分に広まるべきだと考えていたし、それでファンダムの構成が大幅に変わってもかわまないと思っていた。たとえば一部のファンは、未翻訳のアニメ番組につける翻訳ブックレットを書いて、クラブや大会で配布するようになった。翻訳ブックレットは通常は25-30ページで、映画全編、または番組数本分のせりふすべてを含んでいた。翻訳者たちはブックレットを、ファンジン形式(ファンのサブカルチャー向けアマチュア製作雑誌注29) で売った。こうしたブックレットは、翻訳者の製作コストを回収するために一部2-3ドルで売られた。
初の有名な翻訳ブックレットは、高橋留美子の『うる星やつら』劇場版『うる星やつら オンリーユー』のテキストを紹介したもので、トーレン・V・スミスが1985年6月に作ったものだった注30。本気で興味があれば、だれでも映画を見ながらこのブックレットを読める。翻訳ブックレットの作者は他に少なくとも三、四人はいた。一人は五大湖の近くにいて、二人は東海岸、そしてもう一人は炉産座ルスのデヴィッド・リデック。トーレン・スミスは、やがてこうしたブックレット刊行から離れ、スタジオプロテウスを創設する。これはアメリカコミック本出版社のために専門翻訳をする会社だ。他のアニメファンといっしょに、デヴィッド・リデックは短命なアニメ企業US Renditionsを起業した。
あらすじ解説本もあった。こうしたブックレットは、アニメ映画のアクションについて、一ページであらすじを説明したものだ。アニメ映画を対象にしたものが最も多く、テレビのエピソードを解説したものもあった。こうしたあらすじブックレットは、80 年代半ばから後半のSF大会で、常設アニメ部屋を持っていたところでよく見られた。それはSFファンダムでも似たような習慣があったからだ。一部の大会――たとえばバルティコン――は、こうしたあらすじ解説ブックレットを刊行したが、中には 100 ページ超のものもあった。一部はブックレット形式をさらに推し進めて、宇宙戦艦ヤマト総合解説書を刊行し、アメリカのStar Blazers と日本版とをあわせて紹介したりもした。
こうした本の翻訳者や編集者は、自分たちの作業は日本で刊行されているロマンアルバムやアニメ専門本に相当するものだと考えていた。日本語でも「ロマンアルバム」と呼ばれるこうした本は、各種のアニメについて製作スチルや情報をまとめた本だ。コレクターはとびつく。翻訳やあらすじ解説本の著者たちは、一冊3ドル以上のものを狙っていた。かれらはアメリカのファンたち全員が欲しがるようなものを刊行するという、アニメファンコミュニティ内部での栄誉を求めていた。本の刊行という習慣は少なくとも5年は続いた。その頃になって、ファンサブ版アニメや商業アニメがもっと簡単に手にはいるようになってきたのだ。
1986年頃から、多くのファンはアメリカにも、日本にある各種のアニメ雑誌に並ぶくらいのプロ級のアニメ雑誌を作りたいと思うようになっていた。たとえば、ニュージャージー州のロブ・フェネリンは、『アニメージュ』『ニュータイプ』といった日本の月刊専門アニメ誌に相当するものをアメリカでも出版したいと思っていた。フェネリンは、ニュジャージーからAnimezineを3号か4号ほど出した。西海岸のファン二人、トリッシュ・レドゥックスとトシ・ヨシダはAnimagを刊行し、これは 12 号か 13 号ほど続いた注31。Protoculture Addicts はモントリオールで創刊された。この雑誌のほとんどはプロ級の仕上がりで注32、ほとんどが日本のスタジオとコンタクトして、プロ級の画像と出版許可を得ていた。でも、どれもきわめて小規模な活動で、ファンだけを相手にしていては、ほとんどが数号続けるので精一杯だった。ニューススタンドでの流通を実現するのは、小さなファン集団にとってはいまも当時もきわめてむずかしかった。数年かけてとてもゆっくりと成長してきたProtoculture Addictsを例外として、こうした雑誌のほとんどは、6号くらいからせいぜい12号くらいまでしか続かなかった。Viz とAnimerica (1992) が日本の大出版社の小学館の後押しで出てくるまで、アメリカの定期アニメ雑誌は確立しなかった。トーレン・スミス、デヴィッド・リデックなど80年代半ばの人々は、ファンプロジェクトをファンの範囲を超えたところに広げようとした。トリッデュ・レドゥックスとトシ・ヨシダは、VizとAnimericaで最終的に成功した。他の二人にとって、翻訳ブックレットの刊行はよい出発点となったのだった。
注 26:Schodt, Frederick L. Manga! Manga! The World of Japanese Comics. Japan: Kodansha. 1983 (1998再版).
注 27:"Frederick L. Schodt's Evolving Bibliography." Jai2: The World of Frederick L. Schodt. 2 Dec. 2003. <http://www.jai2.com/Mybiblio.htm#Film credits> 3 Dec. 2003.
注 28:Schodt, Frederick L. Manga! Manga! The World of Japanese Comics. Japan: Kodansha. 1983 (1998再版). Pg. 10.
注 29:"Dictionary.com/fanzine." Dictionary.com, from The American Heritage Dictionary of the English Language,
Fourth Edition. 2000. <http://dictionary.reference.com/search?q=fanzine> 28 Apr.2004.
注 30:Ledoux, Trish, Doug Ranney and Fred Patten. The Complete Anime Guide: Japanese Animation Film Directory & Resource Guide. Tiger Mountain Press. 1997.
注 31:Hahne, Bruce. "Part of the real ANIMAG story." オンライン投稿. 2 Oct. 1992. <news:rec.arts.anime> 28 Apr. 2004. Message-ID: <9210021629.AA27113@atto.ee.cornell.edu>.
注 32:MIT Anime Club資料室の資料より独自検証。
1980年代のビデオ業界や映画業界を説得して、日本アニメをアメリカで出させようとする試みは、にべもなくはねつけられ続けた。唯一の例外は、日本のマンガを買って、それを「お子様向け」マンガ映画に切り刻むつもりだとはっきり述べている少数のB級映画会社群だけだった。たとえばロジャー・コーマンが『銀河鉄道999』の権利を買ったときには、「色をつける」程度ではすまない加工をほどこした。あるいは『キャプテンハーロック』の吹き替えで、ニューワールド・ピクチャーズはハーロックにジョン・ウェイン式のアクセントを持たせた。1980年の悲劇としてもう一つ挙がるのは、セレブリティ・ホーム・エンターテイメントによるRevenge of the Ninja Warrior (1985, 『カムイの剣』、今ではDagger of Kamuiという名のほうが有名) のリリースだった。これは幸運なことに、最初のライセンスが切れたあとで、AnimEigoが権利を再取得して、きちんとした形で出し直した。『カムイの剣』は、1868年の徳川将軍時代の崩壊と、明治天皇下での日本の復興という変革期を舞台にした、一種の侍/忍者物語だ。セレブリティ・ホーム・エンターテイメントは、これを「はるか遠くの惑星を舞台にした」SFアドベンチャーに仕立てようとした。主人公のジロは、やがてアメリカに旅して、ネヴァダ州ヴァージニア市でマーク・トウェインに会うのに、である。セレブリティ・ホーム・エンターテイメントは、日本のオリジナルに忠実であろうなどとは一切思わなかった。単に好き勝手に脚本を書き換えただけだ。
でも改作の最も悪名高い例は、修正主義的な Warriors of the Wind (April 1986) だろう。これは宮崎駿の『風の谷のナウシカ』(1984) をもとにしている。ニューワールド・ピクチャーズは、この映画から30分を切ってしまった。到るところで経費を出し惜しみして、キャラクター名もほとんど変えた。宮崎駿も高畑勲もこれにはぞっとした。1992年に高畑はこの編集版についてこう語っている:
とにかくひどい! とんでもないむちゃくちゃな検閲でした。久石さんの音楽もカットして、もちろんせりふも変えてしまいました。スタジオ・ジブリの痛恨のまちがいで、それ以来外国には放映権を与えていませんし、今後も事前に条件を慎重にチェックしてからでないと、権利は二度と売りません。ちなみに、アメリカに売った『ナウシカ』の国際権はあと2、3年で切れます。こうした映画は日本文化に深く根ざしたもので、もともと輸出を想定したものではないんです。検閲するなんて、最悪の裏切りです注33。
こうした編集は、確かにひどいものではあったが、当時のアメリカ人の目に触れるディズニー以外のアニメの大半と比べて劣るものではなかった。こうしたアニメはすべて低品質だったのだ。それはだれかが日本のアニメ番組を改竄した場合にも、そもそも最初から安手に作られていた場合にも。後者にはFritz the Catからフランス映画『ファンタスティック・プラネット』も含まれる。『ファンタスティック・プラネット』は、インテリ層には受けた。でも前衛的で未来的なアニメ様式を使ったことで、この映画は単に使っているアニメ手法がきわめて限られているということを隠しているだけだった。でも一般に、アニメといえばお子様向けだったから、プロデューサーたちはストーリーを「バカ向け」にするべきだと思っていた。その切り刻む対象が Warriors of the Windだろうと Starchase of the Legend of OrinだろうとFelix the Cat劇場版だろうと何だろうと。ニューワールド・ピクチャーズがWarriors of the Windにあれだけ編集を加えても、たぶんほかの多くのアメリカで公開されたアニメよりは優れていただろう。それがひどかったのは、もとの日本版と比べればの話だ。
ニューワールド・ピクチャーズによる『ナウシカ』のひどい扱いにもかかわらず、ファンは宮崎駿の原作に刺激を受けた。これは 1984 年以降のファン活動を見れば明らかだ。パッテンによれば、『ナウシカ』の大きな影響のおかげでファンたちは 1986 年夏に、初の東京アニメツアーを組織して、宮崎の『天空の城ラピュタ』を見るとともに、アニメでかいま見ただけのランドマークを見物することになった。オリジナルの『ナウシカ』もアメリカに入ってきた。そしてファンの間に急速に広まった。アメリカでアニメ企業がたちあがると、ファンたちみんなが真っ先に欲しがったのは宮崎アニメだった。この証拠は、Usenetのアーカイブのいたるところにあるし、パッテン自身もこれを証言している。「ぼくが 1991 年はじめにストリームラインで働いていたとき、ファンから絶えず手紙が来て、電話も何本かかかってきたよ。『なんで宮崎映画をやらないの? おれたちが本当に見たいのは宮崎映画なんだ』ってね」
ストリームライン・ピクチャーズが初めて手にした劇場配給権は、『ラピュタ』の一年ライセンスだった。ストリームライン・ピクチャーズは、絶えず『ラピュタ』を大学やアートハウス系の上映に貸し出していた。一年が終わってストリームラインはランセンスを更新したがったけれど、徳間がそれを断った。1980 年代のあれこれと並行して、徳間がストリームラインに『ラピュタ』をライセンスしたのは、ストリームラインに自腹でこの映画をテストマーケティングさせるためだった。徳間は、1980 年代の先行アニメ企業と同様、小企業と取引したいとは思っていなかった。徳間は大アメリカスタジオのどれかと取引をしたかった。そして最終的には 1996 年に、ディズニーと手を組むことになる。これが最終的に有益なことだったかどうかはさておき、明らかな事実は一つ。それまでの日本のスタジオすべてと同じく、徳間も見返りが保証されない限り、大規模にアメリカ市場に投資するつもりはなかった。
これまでに述べた失敗例にもかかわらず、アニメは1980年代半ばに少なくとも一つ、忠実な――そして大成功をおさめた――商業分野への参入を果たしている。ここで論じるのは、Robotech プロデューサーのカール・マセックの動機だ。1981年に、マセックはカリフォルニア州オレンジ郡で、マンガと映画グッズ専門店を経営していた。間セックはまたこの時期に、映画 Heavy Metal のマーケティングとプロモーションも手伝っており、それが子供市場向けでないアニメの研究につながった。同時期、オレンジ郡で立ち上がったアニメクラブがあった。Cartoon/Fantasy Organizationのオレンジ郡支部だ。かれらは新しい会合場所を必要としていたので、マセックは自分の店で月一度会合を開くことに同意した。多くの会員は、かれのコミック本ショップの常連だったからだ。かれはアメリカ映画のアニメセルを販売していたので、追加の顧客を獲得する方法として、ファンと仲良くすることにずっと関心があった。こうした活動を通じて、かれは日本アニメと出会うことになる。しばらくすると、タツノコプロから日本のセルを輸入して店で販売するようになった。
マセックは、当時としてはアメリカにおける日本アニメのスペシャリストとなり、このためにハーモニー・ゴールドと接触ができて、Robotechの作成に携わるようになった。ハーモニー・ゴールド社の代表が間セックと接触し、多くの日本テレビマンガシリーズについて日本国外での世界権利を持っていると告げた。もっぱらヨーロッパやラテンアメリカでの販売用に権利を取得していた。そして、イタリア語、フランス語、スペイン語の吹き替えを作るつもりだった。アメリカでも投資から儲けを引き出せないか試すともりだったけれど、でもどこから手をつけるべきかわからなかった。この頃、He-Man and the Masters of the Universeが全130話できわめて人気が高かった注34。アメリカの系列テレビ局はすべて、65話以上続く長い似たようなテレビ番組を探し回っていたのだった。残念ながら、当時の日本の番組は短すぎた。
マセックは、ハーモニー・ゴールド社がすでにタツノコプロと関連した『超時空要塞マクロス』の権利を持っていて、タツノコプロには他にも似たような内容で似たような画風のSF番組を持っていると指摘した。するとハーモニー・ゴールドは、マセックが番組三つを持ってきてそれをいっしょに編集し、一本の番組にできないか、と打診してきた。この可能性のおかげで、ハーモニー・ゴールド社と接触ができて、Robotech との関係が生まれ、おかげでマセックはさらにアニメ専門家としての地位を高めた。かれは各種のSF大会に出席してファンとしゃべり、ファンの求めるものをつきとめることで、Robotech のプロモーションを始めた。こうしたイベントを通じて、かれは思春期やヤングアダルト層にアニメに対するカルト的な関心が高まっていることに気がつきはじめた。これはいままでの主流エンターテイメント業界が無視してきたものだった。当時のエンターテイメント業界の重役たちは、製品がマンガなんだから、売れるには幼児向けでなくてはならない、とまちがった発想をしていた。そして、日本のマンガは幼児にはあまりに暴力的でストーリーも複雑すぎるから、あまり売れないだろう、と考えていたのだった。アニメファンダムでの実体験をもとに、マセックは『超時空要塞マクロス』『超時空世紀オーガス』『超時空騎団サザンクロス』を編集して Robotech に仕立て、ものすごい商業的な成功を実現したのだった。
マセックは、Robotech サーガのために必要とされた大幅な再編集のため、すぐにファンコミュニティ内で悪評を買った。かれ自身は、三つの番組を組み合わせるという決定は最終的にはハーモニー・ゴールド社によるものだと主張していたけれど(そしてその決定は、最終的には当時の市場からくる判断だった)注35それでも、Robotechは当時の他の商業的な試みに比べると、はるかに原作アニメシリーズに忠実だったということは指摘しておきたい。たとえば、一条輝 (Rick Hunter)、リン・ミンメイ (Lynn Minmei)、早瀬未沙 (Lisa Hayes) の中心的な三角関係は維持され、日本版でもアメリカ版でも最初に登場する三角関係となっている。さらに、Robotech と、マセックの初期アメリカファンダムとの関係が持っている深い結びつきについても指摘しておく。この重要なアニメファンの「波」を作り出した人物は、当人からしてファンであり、当時発達していたファンのネットワークに大きく依存していたのである。
注 33:Littardi, Cedric. "An Interview with Isao Takahata," Issue #6, AnimeLand (フランスのアニメファンジン). 1992. 仏英翻訳 Ken Elescor, October 1993, 編集 Steven Feldman. Nausicaa.Net. <http://www.nausicaa.net/miyazaki/interviews/t_corbeil.html> 8 Dec. 2003. McCarthy, Helen. Hayao Miyazaki: Master of Japanese Animation. Berkeley: Stone Bridge Press. 1999. pgs. 78-79 も参照.
注 34:Tyree, Matt et. al. "FAQ." He-man.org. 2 Jul. 2003. <http://www.he-man.org/site_sects/faq.shtml> 1 Dec. 2003.
注 35:Schmall, Glenn and Kristyn. "An Interview with Carl Macek." Anime Tourist. Jul. 2000. <http://animetourist.com/article.php?sid=154> 4 Dec. 2003 を参照。
さてここで、1985年から1989年にかけてのCartoon/Fantasy Organization 絶頂期の活動に話を戻そう。当時、 C/FO はアメリカ全土に3ダース以上の支部を誇っていた。それどころか、日本の空軍基地近くに C/FO Rising Sun なる支部さえ持っていた。この時点で、C/FO は、未翻訳のテープをメンバー支部に流通させるためのすさまじい公式ネットワークを確立していた。1985 年では、ペンフレンド方式や日本にいる家族を通じて入手する以外のテープは、ロサンゼルスのリトル・トーキョーや、サンフランシスコのニッポンマチ、ニューヨークの日本人街など、日本からの輸入商品を販売している場所を通じて入手されていた。こうした場所はたいがい、パパママショップ的なビデオ店があって、オリジナル日本ビデオを売ったり貸したりしていた。さらに一部の商店主たちは、日本の親戚に番組の録画を頼み、テープを送らせてそれを貸し出していた。ファンはこうしたテープを買ったり借りたりして、コピーし、アニメファン・コミュニティに流すのだった。テープの多くはアニメ番組のコマーシャルや局アナウンスの休憩部分をすべて残していた。ネットワークが高度に発達したにもかかわらず、1980年代半ばには、小さなアニメファンダムの中にも二極分化が進み「持てる者」と「持たざる者」が別れた。アニメへのアクセスは、アクセスを可能にするような人を知っているかどうかにかかってきた。しかるべき知り合いさえいれば、品質はさておきどんなアニメでも手に入った。
でも日本では、別のファンネットワークが形成されつつあった。それを率いていたのはジェイムズ・ルノー注36とC/FO Rising Sun のファンたちだった。ルノーは、外国で育ったことでアニメに触れた。かれの父が軍人で、1960 年代から 1970 年代にかけて立川空軍基地と、後に日本北部にある三沢空軍基地にいたのだった。若い頃は日本人の乳母がつきっきりだったし、日本のテレビもたくさん見た。日本のペンフレンドとの興隆も深め、一家が空軍基地で初めてベータマックスを所有するようになってからは、かれらにアメリカのテレビ番組を録画して送ってあげた。
ルノーの階層では、1970 年代後期にはアメリカのペンフレンドたちとしょっちゅうテープを交換していたとか。自分が見るつもりのないテープでも、家族が他の軍人たちと交換したり、日本人で欲しがる人がいたりした。たとえば、アメリカのテレビシリーズ『ダラス注37』のファンは、三沢空軍基地ではそれを見る手段がなかった。ルノーは最新の"Who Shot JR?" テープを基地の他の人々に提供することで、他には不可能だったようなアメリカ本土との結びつきを作ってあげたのだった。
ルノーは、高校と大学を終えるためにアメリカに戻った。そしてアメリカのサンフランシスコで、パッテンやローリー・イーソン、ハニソン夫婦のような人々と出会った。みんな1980年代初期には、大量のコレクションを持っていた。1980 年代初期には、ルノーは C/FO の成長と拡大を目にはしていた。でも当時、アメリカファンダムとの接触はほとんどなかった。アニメの主要な入手先は、日本のペンフレンドたちだった。かれらは時々おもしろいテープを送ってきた。ルノーはたまに「すわって何時間もひたすらビデオを見続けた」が、毎日見るわけではなかったし、手元のテープすべてを見るわけでもなかった。
とはいえ、ルノーの日本人ペンフレンドは膨大だった。それどころか、そのペンフレンドたちの大半はやがてマンガ・アニメ業界そのものに入っていった。かれらは日本の基準からすれば変わり者だった。アニメをやりたいとか、アートをやりたいとか、テレビをやりたいとか、監督をしたいとか、映画を作りたいとか思って、実際にそれをやってしまったのだから。ペンフレンドの中には、園田健一、モンキーパンチ(かれはルノーの父親の親友だった。どちらも熱心なジャズのコレクターだったのだ)、永井豪がいた。こうしたアニメーターたちを通じて、ルノーはかれらの下で修行中だったり、あるいは他の形でスタジオと関係した人々にたくさんであった。こうしたコネを通じて、かれはアニメのほとんどを「源」から直接得ていたのだった。
ルノーは 1986 年に軍に入り、そして幸運なことに、育った三沢基地に配属された。こんどは街にいて毎日買い物にいけたので、昔の多くのペンフレンドと接触を再開し、もっとビデオを送るようになった。組織化されたファンダムに再加入したわけだ。その年の暮れ、C/FO Rising Sun 代表兼主導者のジョシュア・スミス注38なる人物に出会う。この支部は、マニアックなファン 6-7人で構成されていて、みんな軍人だった。ルノー、スミス、ヒラリー・ハッチンソン注39、ロナルド・デヴィッドソン注40、他数名がいた。ハッチンソンは、C/FOサン・アントニオ支部との主要な連絡担当となった。サン・アントニオ支部は当時、かなりの会員がいたのだった。デヴィッドソンは後に、アメリカ全土のアニメ大会いくつかの重要なプレーヤーとなる。
ルノーは週末ごとに三沢から東京にドライブして(訳注:これはまちがいではない)、買い物をしてはスタジオの人々に「ブツ」を届け、人間関係を深めて業界で何が起きているかを知り、日本のアニメ雑誌で読んだ話の続きをきくのだった。たとえば、かれは『バブルガム・クライシス』の最初のシリーズが作られている最中に、製作データの相当部分を知ることができた。アニメがどうやって作られるかも知り、後にそれをC/FOニュースレターのコラムで説明することになる。この手法を通じて、何が作られているかというニュースはアニメ雑誌がどんな形であれ刊行する以前にアメリカに届くことになった。前出の翻訳ブックレットと同じく、C/FOのニュースレターはおそらくアニメ雑誌以前には最も情報豊かな出版物だった。それを見れば、ファンたちは最新の番組のあらすじすべて、色とりどりのアート、そしてアニメの上映されるファンの会合やSFショーや、大会情報なんかが得られたからだ。
注 36:偽名
注 37:"Dallas: JR Ewings Shooting: `The World's Most Famous Cliffhanger.'\," Ultimate Dallas. 2003 (21 Mar. 1980放映のエピソードより). <http://www.ultimatedallas.com/episodeguide/shot.htm> 4 Dec. 2003.
注 38:偽名
注 39:偽名
注 40:偽名
ファンネットワークの草創期に、テープをコピーして発送する活動に関わっていた人の多くは米軍関係者だった。あるアニメが日本からきていて、日本人が発送したのでなければ、それを流通させたのはたぶん米軍の人だったろう。日本にいる軍関係者以外のアメリカ人は少なかったし、みんな仕事をしていた。もちろん例外はいた(たとえば翻訳家兼著者のフレッド・ショット)が、多くは別に日本の大衆文化にひかれて日本にきたわけじゃない。
軍人からのテープは、軍の輸送網を通じて送られ、国際郵便で送られたのではなかった。だから郵便局は、アメリカ向け郵便すべてに「San Francisco, CA, APO」という消印を押した。だからC/FO会員の多くは、Rising Sun 支部の連中はサンフランシスコ在住なんだと思っていた。Rising Sunのメンバーたちは、一日で小包をカリフォルニアまで送れたからだ。実はすべてのテープは、トラヴィス空軍基地向けの貨物便に乗って届いたのだった。
ルノー率いるC/FO Rising Sun は、米軍流通技術を自分たちの活動にとりいれた。スミスはフルタイムで受発注処理を行い、ルノーはパートタイムで供給側を担当していた。ルノーはその技術を、要求に応じてテープを作るのに使った。これにより週に 40 本以上のテープを生産できた。ルノーは1993年にファンサブ集団テイボク・ファンサブズ注41で活動したが、そのときにも物流知識をテイボクの配信活動に追うようした。この手法を他のファンサブ集団や流通グループに教え、みんなのテープのスループットが最大化されるようにした。
MIT アニメクラブの資料室を見ると、ルノーの証言が確認できる。『ダーティペア』テレビ版1-13話、14-26話、OVA 1-10話を含む各種のテープが見つかった。ルノーの情報に基づいて、それらの出所が確認できた――C/FO Rising Sunと関連のある、日本南部の空軍基地だ――そして『ダーティペア』テレビ版は 1990 年のかなり後まで日本語テレビで放映されなかったし、ビデオ化もされなかったことを考えると、そのおおまかな時期は 1985-1986 年になる。こうしたテープの流通チェーンには、テキサス大学オースチン校のアニメクラブが含まれ、そこから C/FO Rising Sun とは直接の流通関係があった。また MIT アニメクラブ創始者は、このテキサス大オースチン校アニメクラブの OB でもある。このチェーンにはまたC/FO サンアントニオ支部が含まれることもあった。ここはC/FO Rising Sunと公式な結びつきがあり、UT オースチンのアニメクラブとも非公式なつながりがあった。こうしたデータと、文献上の証言や口頭インタビューの内容を組み合わせると、C/FOはアニメ素材を国際的なファンネットワークを通じて広く流通させていたことを示す大量の証拠が得られる。
だが C/FO の材料は翻訳なしの日本語のままだった。これらのテープはアメリカで入手できる唯一のアニメと言ってよかった。少数の例外は、日本のコミュニティテレビで放映されるアニメだけだ。ルノーはこう語る:
人々は、手に入るものなら何でも目の色を変えてほしがったし、ぼくがやること、特に C/FO Rising Sun の支部代表をしていた頃のぼくの仕事は、アメリカに送る番組すべてのあらすじをつけることだった。そうすれば、その番組で何が起きているのかわかる。翻訳じゃなくても、ざっとあらすじを説明して、人々がそれを手に入れて見たときにストーリーくらいはわかるようにするわけだ。しばしば、日本人で基地周辺をうろついてるような連中に一話を完全に翻訳してもらったりしたけれど、これはかなり努力が必要で、まあたくさんアルコールを提供するとかその手の袖の下が必要でね!
ルノーは、テープ大量コピーにおける C/FO の動機について語っている。1970年代や1980年代当時は、法的な問題は一切なかった、というのも関係者はだれも法的な問題に何ら利害を持っていなかったからだ、と説明している。当時、アメリカにはアニメ産業はなかった。「ときどき、だれかがライセンスを取得してアメリカに番組を持ってきて、吹き替えて改変して云々、というのはやってたね。まあぼくたちは別にその番組を特に見たいとは思っていなかったけれど、オリジナル版がどんなものかは見たかった。それがぼくたちの動機だった。当時の動機といえば、アニメを大衆に届けるということで、その目的のためにはかなりのお金と切手代を注ぎ込んだものだよ!」
テープの品質は、この流通システムの大きな欠点であり続けた。ということは、このシステムの主要な経済・社会的長所は、とにかくアニメを見るということだったわけだ。1980年代中期から後期にかけて、(アメリカの)アニメ観客は日本のコマーシャルや不安定なビデオ、そして相変わらずのことばの壁にさらされていた。
アニメの海賊行為――つまりアニメテープを収益のために大量コピーすること――は、当時のアメリカには存在しないに等しかった。やろうとした人もいるが、でもそういう活動はすぐにつぶれた。手紙一本で、C/FO のような組織が喜んで無料で日本の未翻訳テープを送ってくれるのだから。海賊業者は、品質の面でも、価格の面でも、ビデオの種類の面でも、C/FO とは勝負にならなかった。C/FO の支部は、だれがほしがるどんなテープでも手に入れられた。そして向こうは、最低限の切手代だけでその番組が手に入った。
最終的には、C/FO、特に C/FO Rising Sun を通じたファン流通は、アニメをフリーにしておきたがったが、一方でアニメを C/FO 組織の組織内にとどめておきたがった。C/FO 支部は、アニメが本当にほしくて、それを他の親友たちと共有するであろう人々にしかテープを送らなかった。少なくとも、C/FO から見てそう思える人にしか。C/FO 支部はまた、クラブ間での取り決めをあれこれするときも、「フリーでありながらコントロールする」という哲学に準拠した。日本アニメ不況にために、友達みんなに見せてくれ、というわけだ。ファンがこのネットワークにアクセスできれば、出回っているアニメや関連商品にはすべてアクセスできた。
理論家ヨハイ・ベンクラーの言い方を借りれば注42、物理層(郵便システム)は多くの種類のメディアにとってコモンズとして機能したが、アメリカ法と論理層 (C/FO 組織) は物理層のコンテンツへのアクセスを規制していたわけだ。論理層 (C/FO 組織) はコントロールの下で動き、コンテンツ層 (アニメ) は特定の狙いをめざしたコモンズとして機能した。その目的とは、より多くのアニメを人々に届けることだった。1980 年代に存在したアニメのネットワークを、閉鎖型改宗コモンズと呼んでいいかもしれない。ローレンス・レッシグが初期のインターネットをイノベーション・コモンズと呼んだように注43、この改宗コモンズは創造性の世界――ちがったものの世界――をアクセス可能な人々に提供した。
このアニメ流通のコモンズは、インターネットの広範な普及より数年先に存在した。その後の数年で、多くの人々がこの改宗コモンズで一財産築いた。実際には、1980 年代半ばのコモンズは閉鎖型だった。プロバイダー中立性のエンド・ツー・エンド原理を採用しなかった注44。C/FO はコモンズにコントロールのモデルを組み込んだ。C/FO自身が全米最大のアニメ流通へのアクセスをコントロールできる、という想定があったからだ。この傲慢さのおかげでC/FOは凋落し、次世代は新しくオープンな改宗コモンズを築くことになる。
注 41:偽名
注 42:"iA Wiki: Yochai Benkler." infoAnarchy. 21 Oct. 2003. <http://www.infoanarchy.org/wiki/wiki.pl?Yochai_Benkler> 6 Dec. 2003.
注 43:Lessig, Lawrence. The Future of Ideas. New York: Vintage Books. 2002. 邦訳『コモンズ』(山形浩生訳、翔泳社、2003)
注 44:Saltzer, Jerome H. and M. Frans Kaashoek. "Chapter 4: The Network as an Application and as a System Component." Topics in the Engineering of Computer Systems. Cambridge, MA: MIT, 2004 を参照。また Lessig, Lawrence. "A threat to innovation on the web." オンライン投稿. 13 Dec. 2002. Farber, Dave. "[IP] Lessig: Coalition Asks FCC to Ensure End-to-End." Interesting-People Message.も参照。 14 Dec. 2002. <http://www.interestingpeople.org/archives/interestingpeople/200212/msg00053.html> 28 Apr. 2004.
知られている初のファンサブが C/FO Rising Sun の記録に残っている。それはブラックスバーグのC/FOヴァージニア支部の、故ロイ・ブラックが送ってきたものだった。ブラックはC/FO Rising Sunに、『ルパン三世』の一エピソードを、だれかがコモドール・アミーガでジェンロックして場面ごとに字幕をつけ、翻訳家に全エピソードを翻訳させたものの、4-5世代目テープのさらに孫コピーを送ってきた。ビデオは飛びが多くて粗かった。画質はそれまでの多重コピーで流れまくっていた。でもテープは革命的な跳躍の、足取りはおぼつかないながらも確実な一歩を示していた。初めてファンたちは、あるエピソードを見て何が起きているかを完全に理解できたのだ。
でも『ルパン三世』のファンサブは、結局は特異現象だった。平均的なファンにとって、ファンサブ用の技術はきわめて高価で (1986 年だと四千ドルくらい)、さらに一話に字幕をつけるための時間は 100 時間もかかった。 C/FO メンバーは、1986 年以降の近未来にこれ以上ファンサブが登場することはないだろうと考えたし、まさにかれらの考えた通りになった。それでも、かれらは「だれかがそこまでの辛抱強さを持っていたことに驚愕した。これは原始人に火を与えるようなものだった。それはつまり、さてこんなものが手に入っちゃったけど、これからこれで何をするのか考えなきゃ、というような感じだった」と報告している。
だがこのファンサブ事件とはまったく関係なく、C/FO は 1980 年代後期には衰退を見せ始めていた。1988 年暮れには、勢力のある支部同士が壮絶な政治駆け引きのあげくに、相互に交換も連絡もしなくなるという現象が見られた。あるグループのほうが会員数が多かったり、価値あるアイテムを持っていたりしたら、その集団は別のグループにそのアイテムを提供しないことでその希少性をつり上げて、相手から欲しいものを手に入れようとするのだった。しばらくすると、多くの支部は身動きがとれなくなった。あるファンの言い方では「ふん、あの連中はこっちにとって価値あるものを何一つ持ってないから、あいつらとやりとりしても無駄だよ」的手詰まりだ。
1989 年に、C/FO のトップで権力闘争が起きた。フレッド・パッテンは要するに、C/FO の指導者としてできることをやり尽くした。10 年以上もこの組織を率いて、もうこの長期職に疲れてきたのだ。組織とアニメが次の段階に進むには、自分が退くべきだとパッテンは感じていた。パッテンは絶えず遅れている C/FO ファンジンの原稿を書かずに一般紙向けの記事を書くようになっていたので、多くの人はパッテンを裏切り者呼ばわりした。パッテンとしては、ファン活動への参加がアニメ改宗者を増やしてアメリカでの知名度を高めるためのものであるなら、自分の書いたものをクラブの会誌に発表するよりは一般の文化雑誌に発表したほうがメリットが大きいはずだ、と説明していた。
つまり閉鎖的改宗コモンズの司祭長は、オープンな改宗コモンズの価値を認識していたけれど、閉鎖的コモンズの守護者たちはそれに対し、自由思想による裏切り者との烙印を押したわけだ。
パッテンは周囲の激怒の中で退任したが、はっきりとした後継路線を打ち出さなかった。さらに、郵便の遅さが通信面での困難を増幅することになった。電子的な通信は、ほとんどの C/FO 会員にはまだ手の届かないものだったからだ。多くの内紛が生じて、その内紛を通じて C/FO を自分たちの思い通りに変えようとする新しい指導者が権力を握った。かれらが就任すると、多くの会員たちはそれをののしり、大量の泥仕合と罵倒合戦が生じた。
C/FO は組織内部では何の生涯もないアニメへのアクセスを約束していたけれど、C/FO ネットワークへのアクセスを獲得するのは、普通考えるよりずいぶん難しいものとなった。アクセスするには、あるクラブは組織の会員でなければならず、そのクラブはC/FO中央(もともとロサンゼルスにあったが、後にサンアントニオに移転)の指揮に基づいてテープを受け取るしかなかった。C/FO は新しい会員を導入したけれど、でもしばらくすると中央本部はこうした会員たちに、テープを送らなくなってしまい、これが大きな不満を生み出した。多くの会員たちは文句を言った。「組織に加入して、会費も払ったのに、約束のものを送ってこないじゃないか。もう会費なんか払わないよ」というわけだ。
1980 年代後期はファンダム大荒れの時期となった。すでに確立していた団体、特に C/FO サンアントニオ、C/FO デンヴァー (C/Food)、C/FO サクラメントからテープを得るのが難しくなってきたからだ。多くの支部はC/FOから離脱し、C/FOは 1989 年 7 月注45に統括組織としての存在を解消した。1990 年になると、C/FO はその痛々しい終焉ぶりを嘲笑され、「Collapsing Fan Organization (崩壊するファン組織)」の略だ、などと言われることになる注46。
注 45:日付の提供は Tatsugawa, Mike による。"Re: Please help with anime fandom history!!" オンライン投稿. 21 Jul. 1993. <news:rec.arts.anime> 1 Dec. 2003. Message-ID: <1993Jul21.012418.5880@nic.csu.net>.
注 46:Pinzone, Gerard. "Anime Enquirer." オンライン投稿. 31
Oct. 1990. <news:rec.arts.anime> 4 Dec. 2003. Message-ID: <9010310259.AA14987@cwns12.INS.CWRU.Edu>.
C/FO がポシャった直後、技術が変わってファンサブが一般人の手の届くものとなった。ファンサブの興隆は、C/FOの崩壊とはほとんど関係がない。Animericaのジュリー・デイヴィスは、安価な字幕追加という技術革新は、ファンサブと専門アニメ企業の設立の現実性の両方を高めた、と主張しているが、われわれもこれに同意する。アニメイゴ社やU.S.レンディションズ社などが 1986-87 年以前に起業しようとしていたら、字幕付ビデオの製作コストが高すぎてすぐにつぶれていただろう。手元の証拠もこの説を支持している。ファンサブやアニメ企業はほぼ同時期に立ち上がっている。だがこの分析は重要な依存関係も明らかにしている。こうした企業は、急速な技術コストの低下と同じく、ファン基盤にも依存していたのだ、ということだ。
一般に出回った初の字幕つきアニメがファンサブだったか商業リリースだったかを決めるのはとても難しい。それは「一般に出回る」の定義によって変わってくる。1980 年代には、いくつか字幕追加の試みはあったが、記録はあまり残っていない。インディアナポリス・コミックブックショー (1989 年 8 月) に字幕付『ナウシカ』が上映されたという未確認報告があり注47、また 1990 年 1 月 20 日に字幕付『バブルガム・クライシス6』がデビュー注48、さらには 1990 年 1 月 23 日に『となりのトトロ』字幕版が上映注49、続いて『プロジェクトA子』や『Etrange (訳注:正体不明。戦国魔神ゴーショーグン 時の異邦人かな?)』が上演されたという。アニメイゴ社は、1989 年 9 月 1-2 日のワールドコンで『メタルスキンパニック MADOX-01』の先行上映を行ったけれど注50、実際にそれがビデオ流通にのるのは1990 年 4 月 4 日になってからだった注51。
アニメイゴ社のロバート・ウッドヘッドとロー・アダムスが1988年末に『吸血姫美夕』OVA1に字幕をつけたことは知られているが注52、この「ファンサブ」が流通にのることはなく、一般の目に触れるのは1992年の商業リリースを待たなければならなかった。さらに、USレンディションズ社のほうが、『トップをねらえ! (Gunbuster)』第一巻と『破邪巨星Gダンガイオー 壱』のプロによる字幕版を1990年1月にリリースしている注53ので、アニメイゴ社より3ヶ月はやい。 いろいろ証拠を検討した結果、初の広範なリリースを見た字幕付アニメは、『らんま1/2』第一話&第二話だろうというのがわれわれの結論だ。これは1989年5月のカリフォルニア州サンノゼのベイコンで開始された、「らんまプロジェクト」によるファンサブだ注54。らんまプロジェクトのメンバーたちは、日本語のレーザーディスクを買ってそれに字幕をつけたので、完全無欠なコピーができた。Usenetやインタビューの情報源によれば他の字幕プロジェクトもあったらしいが、らんまプロジェクトは全米にテープを首尾良く流通させた初の協調型字幕プロジェクトの代表であり、その成果はアニメコン '91 で、ホテルのビデオシステム上で放映までされた注55。それ以前の作品に関する言及を見ても、すべてはそれらがほとんど流通にのらなかったことを強く示している。いずれにしても、こうした「ファンサブ」はC/FO崩壊後にファン流通ネットワークが再構築されるまで、流通されることはなかった。
重要な点として、らんまプロジェクト支部の投稿を見ると、日本企業がまったく何もしなかったことについてのさらなる証拠と、ファンサブ運動を貫く考え方の核があらわれている:
> それと、話に出てきた字幕付のエピソードってどこかで手に入りますか?
いや。そこんとこで問題が出てくる。
こうした作品についてはどれも公式の権利を持っていないから、公開市場で「売る」わけにはいかないのです。たくさんコピーして配ったし、(受け手に)それをコピーしまくってくれとは言ったけれど、でもこれはきわめてグレーな領域。いつでもキティフィルムにやめろと言われるか(そのときはやめる)、それとも死ぬほどの損害賠償請求訴訟をかけられるかだろうと思ってる。もっとも訴えたりしたら、ここの潜在的な観客たちはかんかんになるだろうけど。(中略)
実際のところ、単にかれらとしてはどうでもよかったってことかもしれない。日本に長いこといた有名なコミック本作家(当然だれだかわかるでしょ)によると、いくつかのスタジオの重役たちと会って、アメリカでの「海賊版」状況について話したら、みんなアメリカで何が起きてようと知ったこっちゃない、と言ったんだって。これは為替レートのせいでアメリカでのリリースが儲からないせいなのか、それともわれわれのことをただの(キモい)アメリカ人たちだと思ってるせいなのか注56
もっと驚くべきなのは、このプロジェクトが字幕をつけて流通させるスピードかもしれない。レーザーディスク販売後ものの数週間で、プロジェクトのメンバーたちは字幕付のものを作って流通させた。らんまプロジェクトが活発だった頃には、『らんま1/2』の最初の2シーズン、『めぞん一刻』の一部と、その他各種タイトルあれこれに字幕をつけた。プロジェクトは1992年1月まで続いた注57。
ファンサブ興隆とアニメ産業の興隆は、ほかの社会的な変動とも並行していた。たとえば、ファンダムの構成は相当部分が大学生の年代となった。新しい大学アニメクラブがかれらのアニメへの関心を支持した。代表的なところとしては、テキサス大アニメが 1986 年、コーネル大学日本アニメ協会 (CJAS, 一時は CJS) が 1988 年 9 月 か 1989 年末と諸説あり注58、カリフォルニア大のカル−アニメージュ (Cal-Animage) が 1989 年 1 月、パーデュー大学アニメ部が 1990 年、MIT アニメクラブが 1990 年 9 月だ。この年齢的な変化とサンフランシスコのベイエリアにおける各種のアニメ関連活動の興隆に伴って、インターネット――特にUsenet――の利用がアニメファンの間で劇的に増大した。
また、これらの活動が冷戦後のグローバリゼーションと並行したものだったことも指摘しておこう。ロシアはすでにガタガタだった。海外駐留兵も帰国をはじめた。電気通信産業がのびはじめた。多くの世界的なイベントが同時に起きていて、世界でずばり何が起きているかを認識できている人はほとんどいなかったし、ましてこんなファンダムでのできごとはだれも知らなかった。でも、ここで起きていたのは、成就したアニメ番組がないがために支配的なアメリカに文化が引き込まれるという、「逆帝国主義」ともいうべき現象だった。ちょうど字幕技術がファンの手が届く値段になってきたとき、アニメ業界の指導者たちにとって、日本への出張を繰り返すことも安上がりで簡単になってきたのだった。セントラルパーク・メディア社のジョン・オドネル、アニメイゴ社のロバート・ウッドヘッド、A.D.ヴィジョン社のジョン・レドフォードは、ソ連からの侵略の脅威が消え、日本がアメリカの活発な貿易相手として称揚されはじめたことで、日本にずっと容易に出張できるようになったのだった。
だが初期のアニメファンサブ屋たちにとって、こうしたマクロな事象はどうでもよかった。かれらの主要な狙いはアニメをなるべく広く遠くに広めることだった。かれらは要するに、オープンな改宗コモンズを形成し、そこではだれでも歓迎された。この小節はでは、その初期の形成ぶりについて述べる。
ファンサブ集団は、通常は翻訳者たちの気まぐれで運営されていた。かれらが字幕をつける番組は、翻訳者たちが好きな番組だった。翻訳者への依存度が高かったということが、当時の多くのファンたちの抱いていた「なんで聖闘士星矢が訳されたの、なぜコレコレの作品が訳されたの?」という疑問への答えとなる。字幕版が製作されたのは、翻訳者がその番組が好きだったからで、別に市場が要求したからではない。らんまプロジェクトは、『らんま1/2』がファンに見せるだけの価値ある作品だけれど、でも絶対に商業的にリリースされないだろうという想定のものとで始まったプロジェクトだった。
字幕グループがもっと組織的に活動するようになって、ファンサブ屋たちの交流もはじまった。多くは大学にいたから、インターネットにもアクセスできた。1993 年頃には、ファンサブ屋 (こうしたビデオを「ファンサブ」と呼んだ初の例は1993年3月だ注59) たちはお互いに協力して同じ番組の翻訳が二種類リリースされないようにした。この協力のおかげでファンサブ集団たちはお互いをモニタできた。アニメファンサブ屋たちは、らんまプロジェクト創設からアニメコン '91までに集団ゼロ個からおよそ4集団くらいまでに発展し、その数はアニメエキスポ'92までに15くらいになって、その後2年ほど安定する。いくつかのグループはつぶれたが、かわりのグループがいくつかできた。1993年には集団数は増えはじめ、1990年代半ばまで増え続けた。
草創期 (1989-1990) には、ファンサブ屋たち自身が流通も行った。個人個人がテープをコピーし、依頼に応じてだれにでも送った。このモデルにかわって階層型流通システムがすぐに登場し、ファンサブの拡散もずっと広くなった。あるファンサブ屋は、週に12本も作れたら上出来だったと回想している。流通が大幅に増大すると、つまりファンたちがますますインターネットへのアクセスを手に入れて、他にいろいろタイトルがあることを知るようになるにつれて、流通への要望は爆発的に増えた。ときには、ファンサブ集団は分科会(通常は一人)を作って流通を一手に担当するようになった。でももっと多かったのが、大学のアニメ部など他のグループがファンサブ屋たちと手を組んで、他のクラブへの流通を行うことだった。たとえば記録によれば、らんまプロジェクトなどは大学アニメ部と密接な連携を保っていた。こうした集団は大学アニメ部の正式な一部となることはほとんどなかったけれど、ファンサブ集団たちのサービスのおかげで、大学生たちはまっさきにアニメに接することができた。
たとえば、初の主要ファンサブ流通者だったウィリアム・チョウを見てみよう。かれはカナダのバンクーバー日本アニメ協会に所属していた。かれの Arctic Animation 部隊は 1990 年 11 月には字幕付アニメのコピーを発送しており注60、1990年代半ばを過ぎてもそれを続けていた。チョウの取り柄はファンサブ集団とのコネで、かれは他の流通グループのずっと以前から関係構築をしていた。チョウは活発にこうした集団を探して、大規模な流通ネットワークと結びつけた。チョウは SASE (切手つき返信用封筒) ではなくテープ代を徴収するという方式にこだわったために、ファンコミュニティの中で多少評判が悪かった。この方式のせいでかれは海賊版業者のように見られることもあった。でも証拠を見ると、チョウや他の Arctic Animation の仲間たちは字幕活動でまったくといっていいほど儲けたりしていなかったし、ファンサブとファンの間の仲介というきわめて有益なサービスを提供していたため、当の Arctic が 1994 年には 1 年分の未発送受注を抱えるはめになってしまった。チョウはまた Arctic の初期から大学アニメ部にも発送しており、かれもまた新しい観客たちに「初の接触」機会を提供していたことがわかる注61。
注 47:Lovely Angels Fanatic Cult, aka Craig. "Subtitled Nausicaa (Was: Re: Laputa, nausicaa)." オンライン投稿. 20 Dec. 1989. <news:rec.arts.anime> 4 Dec. 2003. Message-ID: <8912200146.AA16296@jade.berkeley.edu>.
注 48:"Ca West." オンライン投稿. 20 Jan. 1990.
<news:rec.arts.anime> 4 Dec. 2003. Message-ID: <00006@citasim.UUCP>.
注 49:"Re: BayCon'90, Streamline, etc." オンライン投稿. 12 Jan. 1990. <news:rec.arts.anime> 4 Dec. 2003. Message-ID: <1990Jan12.060518.14047@agate.berkeley.edu>.
注 50:Woodhead, Robert J. "MADOX-01 Subtitled SNEAK PREVIEW." オンライン投稿. 31 Aug. 1989. <news:rec.arts.anime> 4 Dec. 2003. Message-ID: <850@biar.UUCP>.
注 51:Woodhead, Robert J. "MADOX-01 SHIPS!!!" オンライン投稿. 6 Apr. 1990. <news:rec.arts.anime> 4 Dec. 2003. Message-ID: <1048@biar.UUCP>. また MIT Anime Club マスターVHSライブラリーの MADOX-01 も参照.
注 52:"History ? About Us." AnimEigo. 2002. <http://www.animeigo.com/About/HISTORY.t> 4 Dec. 2003.
注 53:Starbuck. "Help! I can’t speak Japanese (long) (was Re: Laputa, nausicaa)." オンライン投稿. 18 Dec. 1989. <news:rec.arts.anime> 4 Dec. 2003. Message-ID: <Dec.18.12.16.31.1989.1157@porthos.rutgers.edu>.
注 54:
10 Feb. 1990. <news:rec.arts.anime> 4 Dec. 2003. Message-ID: <42581@ames.arc.nasa.gov>.
注 55:28 Aug. 1991. <news:rec.arts.anime> 4 Dec. 2003. Message-ID: <1991Aug28.071932.25274@nas.nasa.gov>.
注 56:上に同じ。
注 57:
23 Jan. 1992. <news:rec.arts.anime> 4 Dec. 2003. Message-ID: <1992Jan24.022343.6677@nas.nasa.gov>.
注 58:
Eng, Lawrence. "CJAS: Historical Information: 10th Anniversary." Cornell Japanese Animation Society. 1988. <http://www.cjas.org/?page=history_tenth> 4 Dec. 2003.
注 59:Yang, Jeff. "ANIMEIGO HAS RANMA?!?!" オンライン投稿. 4 Mar. 1993. <news:rec.arts.anime> 4 Dec. 2003. Message-ID: <C3CzA8.Frt@panix.com>. 特にかれの絶望的なエピローグを参照:「だれか、このキチガイじみた世界をなんとかしてくれよ……」
注 60:Gelbart, Dave. "Anime, O.R. Sub, 'zines, scripts." オンライン投稿. 12 Nov. 1990. <news:rec.arts.anime> 4 Dec. 2003.
Message-ID: <1PHJs2w163w@questor.wimsey.bc.ca>.
注 61:Chow, William. "Arctic Animation Update." オンライン投稿. 24 Apr. 1991. <news:rec.arts.anime> を参照。4 Dec. 2003. Message-ID: <o3NV13w164w@questor.wimsey.bc.ca>.
クラブや産業やファンサブ活動の興隆は、アニメ大会の発生につながった。これはファンや新人たちがいっしょに、日本アニメや関連企画に浴せる場所だ。こうした初期の大会の影響を、ファンサブ作品や正規ライセンス作品の流通との関係の点から検討してみよう。
アニメコン '91 (サンノゼ) は、アニメに関心のある多数の新旧ファンたちでにぎわったが、その多くが期待していた体験は、ここでは得られなかった。かれらはアニメ大会そのものには喜んだが、多くは自分の見ているものを理解できなかったので、大会に来ても理解はまったく深まらなかった。多くの上映された作品は日本語のままだったからだ。このため、日本アニメ振興協会 (Society for the Promotion of Japanese Animation, SPJA) はアニメコン'91 をアニメエキスポ'92 (ロサンゼルス) にする際に、字幕付上映でアメリカ観客の要望に応えようと計画した。
Ä-ni-mé: The Berkeley Journal of Japanese Animation の絶版号を見ると、少なくとも一人のファンの動機がわかる。そのファンとはマイク・タツガワ、カル−アニメージュ創始者で、アニメコン'91 議長だ。Ä-ni-mé Vol. 1 Issue II に載ったタツガワの「編集者コメント」にはこうある:
かつては SF ファンタジー大会の小さな浦辺やで上映されていた日本アニメは、いまや独自の大会を持ち、ファンたちは大好きな映画やビデオを 16mm や 35mm で見られるようになった。(中略)
アニメのファンダムが現在黙劇しているのは、真に希有な時期だから、みんなちょっとそのありがたみをじっくりかみしめてみよう――媒体が変わりつつあるんだから。(中略)いまやぼくたちは、自分のエンターテイメント源としてひ孫のそのまた孫コピーなんかで我慢しなくてもいいし、ビデオのあらすじを人づてに説明してもらう必要もない。(中略)Ä-ni-mé を 2-3 年前にやっていたら、日本の権利保持者たちに脚本を掲載する許可を求めようなんて考えもしなかっただろう。(中略)数年前のぼくたちの仕事は、どんな手を使ってでも日本アニメのファンダムの基盤を拡大することだった。いまやぼくたちの仕事は変わった。まだまだ多くのファンをアニメに引き込む必要はあるけれど、でもそのための手段は、ぼくたちの短い歴史のどの時点よりも増えた。ビデオの字幕付けは数年前はすばらしかったし、ぼくに言わせるといまでもすごいけれど、でもいまやぼくたちはアメリカ市場に拡大しようとする企業と協力しなければならない。(中略)アニメファンはそろそろゆりかごを離れて、アニメを主流にもってくるようこれまでにない努力をすべきだ。アニメの爆発が起きようとしている。唯一の問題は、ぼくたちがその結果を受け入れる用意があるかどうかだ」注62
アニメコン'91 で上映された番組の大半は日本のライセンス保持者から許可を得たものだったけれど、でも字幕はなかった。たとえばそこで上映された『オネアミスの翼』を見てやろう。『オネアミス』は複雑なせりふを持ち、映像を見ているだけでは推測のつかない典型的な映画だ。日本語を十分に理解できない観客は、完全に取り残される。見ながら勝手にストーリーを類推するなら、映画の各種アクションを元に、いろんな翻訳がでっちあげられてしまう。もちろんそうした解釈が完全にはまちがっていない可能性もあるけれど。ここから、SPJAはなぜ大会で字幕が必要かを発見した、と大会役員たちは述べている。そうしないと新人たちは、アニメを十分に理解できずそれにはまってくれないからだ。
とはいえアニメコン'91 では、字幕付アニメもいくつか上映された。ファンサブつきの『らんま1/2』と『めぞん一刻』、さらにいくつか業界がリリースした字幕作品あった。さらに、ガイナックスが『トップをねらえ!』第二話の字幕付フィルムを持ち込んだという証拠がある注63。観客の入りは不明だが、報告によればファンたちはファンサブつき作品に飢えたようにとびついたという。何人かのファンは、初めて「本当に」アニメに接したのは『らんま1/2』ファンサブを通じてだ、と書いたりしている。
これだけの活動にもかかわらず、日本企業は相変わらずアメリカの業界やファンダムを支援したがらなかったということは指摘できる。ガイナックスはアニメコン'91に公式に参加したし、その後もいくつかSF大会に参加はしているけれど、ガイナックスはむしろ例外で、かれらが参加したのも日本の業界のムードの反映ではまったくなく、ガイナックスのスタッフたちがファン活動に好意的だった結果にすぎない。
もう一つアニメコン'91の不幸なできごとは、U.S. Manga Corps が『みんなあげちゃう!』を上映したが、それが日本のライセンス保持者ソニーとのごたごたですぐにアメリカの流通から引き揚げられてしまったことだった。フォックステレビニュースとロサンゼルスタイムズは、「日本製ポルノ」のニューウェーブについて知りたいと思ってこの出来事に飛びつき、アニメというのはポルノ的な内容が特徴だというステレオタイプを創りあげてしまった。この一見はファンと業界の双方を怒らせた。そしてポルノ的でないアニメをファンサブのネットワークを通じてリリースすることでこうしたレッテルと戦おうとしたファン集団が少なからずあった。
こうした各種体験で武装したアニメ・エキスポ'92スタッフは、字幕付アニメを上映するために日米企業から許可を得るべく、すさまじい努力をした。未翻訳の作品については、AX スタッフは字幕を作って上映する許可を得た。ハーヴェイ・ジャクソン注64は、こうした活動はかれが関わっていたアニメ・エキスポ'92、アニメ・アメリカ'93 (サンフランシスコ)、アニメ・エキスポ'93 (ロサンゼルス) でも見られたとしている。ジャクソンがこれら大会のプログラミングを行っていたとき、かれはすべての会社と連絡をとり、上映許可を取り、そして大会としてこれらの作品を字幕付で上映していいという明示的な許可をとった。日本企業も前よりまともな対応をしてくれるようになり、アメリカ企業は大会開催までに完成製品ができあがらないのを知っていたから、事前上映は商品の事前マーケティングとしてすばらしい方法だと考えた。日本企業は、アメリカ企業が大会で最終的に使われる脚本を承認するという条件つきで、字幕をつけることを許可した。アメリカのアニメ企業が育ち、締め切りにも前より間に合うようになるにつれて、出来の悪い脚本が使われるというリスクを恐れるようになり、そして比較屋たちの生け贄になりたいと思わなくなったからだ。比較屋というのは、一部のファンが大会で、後に企業がリリースするよりも優秀に見える字幕を見たときに比較を行うことだ。1993年以降、アメリカ企業は弾圧を開始し、大会で何か上映するときには生の日本語バージョンだけにしろと制限をつけた。
だがアニメ・エキスポ'92は上映作品すべてに字幕をつける必要があった。カル−アニメージュ創始者にしてAX大会議長マイク・タツガワは、本気で人々にアニメを見てもらうには、英語字幕が必要だということを賢明にも認識したからだ。大会が動き出すと、上映されるほとんどすべての作品はファンが字幕をつけた。大会参加者は、地元ファンサブ集団が多くの大会上映作品に字幕をつけたことを知ると、みんなコピーをくれといいはじめた。アニメ・エキスポはコピーをあげられる立場にはいなかったけれど、各種ファンサブ集団は、アニメクラブ会員には喜んでコピーをあげる、と口づてに報せていた。このため、カリフォルニアには新しいアニメクラブがあふれかえった。多くの人は、単にアニメを手に入れるためだけにクラブを作ったのだった。
ファンサブ活動がファンダムと業界にどんな影響を与えたか理解するには、以下の例を考えてみるといい。アニメ・エキスポ'93の場合、キヲツケテ・スタジオ注65は『天地無用!』全6話すべて、その時点で公開されていた『ああっ女神さまっ』3話をすべて、『らんま1/2 劇場版2 決戦桃幻郷! 花嫁を奪りもどせ!!』、『機動戦士ガンダム』劇場版を2本、『ここはグリーン・ウッド』、『万能文化猫娘ぬくぬく』に字幕をつけていた。アメリカ企業はアニメ・エキスポ'93のすぐ後にこれらのタイトルの多くについてライセンスを取得した。大会での上映はどれも満員で、みんなこうした作品が正式にリリースされるのを望んでいた。一部のタイトルはすでに交渉が進んでいたが、他の作品については業界のだれもまったく関心がなく、あとからライセンス話が持ち上がったのだった。
こうしたファンサブ活動が、アメリカ企業にこれら作品のライセンス取得をうながしたかどうかは、大論争の種となっている。だがはっきりした事実として、1991年から1993年のアニメ企業は、ファンサブのない作品にくらべてファンサブコミュニティ内で流通している作品のほうをはるかに多くライセンスした、ということだ。そうしたライセンス取得がただの偶然だとすれば、輸入業者はアメリカ観客への人気を推測するのに、日本での作品の人気を根拠にしなければならなかっただろう。因果関係が存在するとすれば、これは大会参加者やクラブの興隆、ファンサブの消費、ファン指向の強い業界人といったもので計測できるアメリカファンダム内でのアニメ人気のおかげだ。われわれは後者だと考える。ライセンスを取得できる日本アニメは大量にあり、またアニメがアメリカ観客に対して持つ訴求力はまだ限られたものなので、初期のアニメ企業が利益をあげたければ既存ファン基盤に頼るしかなく、そしてそのファン基盤を育てる必要があった。そのファン基盤は、ファンサブの流通に依存していた。概念的にいえば、改宗コモンズが商業事業を形成したのであって、その逆ではない。以下に一例を挙げよう。この議論については、後出の「業界」を参照してほしい。
『ここはグリーン・ウッド』 (『Here is Greenwood』) の場合を見てみよう。1996 年に Software Sculptors 社がライセンスを受けている注66。『ここはグリーン・ウッド』は最初、少女マンガとしてリリースされた。日本では、原作マンガを読んでいるティーン少女以外にはまったくファンがおらず、この少女たちは少し少年向けになったアニメ版が大嫌いだった! キヲツケテ・スタジオがこれをファンサブしたとき、かれらはそれがふうがわりだけれど、実に可笑しいと思った。でもキヲツケテが『グリーン・ウッド』を流通させてみると、だれもほしがらなかった。キヲツケテは人々の興味をひくために、別のテープの巻末におまけのエピソードとしてつけなければならなかった。こうした人々は、これが少女マンガだとあれこれ聞かされていたからだ。でも人々が『グリーン・ウッド』を見始めると注67要望が高まって、この作品はライセンスを得るだけの価値を獲得した。『ここはグリーン・ウッド』は、結局はSoftware Sculptors社の救世主となった。というのもそれまで同社は手元に置く価値のあるものを何一つリリースしておらず、売り上げもその事実をはっきり示していたからだ。『ここはグリーン・ウッド』は楽しい全6話のアニメでみんながこれを気に入った。人々はこれを購入するようになった。ファンサブ源からはもうこの作品は手に入らなくなった。というのも『グリーン・ウッド』全話をファンサブした唯一のグループである キヲツケテがリリースをやめて、流通者たちにもそれを引っ込めるよう要求したからだ。
アニメ・エキスポ'93はまた、アメリカ業界代表者たちが、既存の流通作品が自分たちの利益を侵害していると公然と語り始めた時期でもあった。たとえばアニメ・エキスポ'92の上映作品の多くは商業リリースされつつあって、人々は 1993 年にはそれを買うようになっていた。当時、ジャクソンをはじめとする参加者たちは、業界関係者たちから、かれらの言うところの海賊業者たちが自分たちの利益を食い荒らしていて、何か対策が必要だという話を聞かされるようになっていた。
| ファンサブ | 海賊版 | |
|---|---|---|
| 開始時期 | 1986/1989 | 1600 (ロンドン外の印刷業者) |
| 品質 | 中-高 | 中-高 |
| 利益目的? | 非利益:返信用切手封筒、テープ相当代金 | 利益 |
| 目印表記 | 「非売品、レンタル禁止」 | なし |
| 経済的意図 | 相補財、必須財 | 代替財 |
| 明示的意図 | 「日本アニメ普及」 | 「ぼろ儲け」 |
| 流通 | 分離 | 統合/のみ |
| ライセンス取得? | なし | なし |
| 「法準拠手段」 | ライセンス版リリース後は流通停止 | 脅されれば消える |
ファンサブと海賊版とのちがいを慎重に見てみよう。その結果をまとめたのが表1だ。ファンサブがはっきり述べている意図は、日本アニメの認知度を高めることだった。かれらに対しては「すでに改宗した人々に説教しているだけ」という批判もあったが (たとえばカール・メックやジェリー・ベックによる批判注68)、本節での証拠すべてを見る限り、ファンサブ屋たちはポスト『アキラ』世代にこの媒体の多様性を見事に紹介してきた。最初期から、ファンサブ屋たちは作品がアメリカで正式にライセンスされたら、自分の作品を流通からひきあげた注69。最初期のものを例外として、ファンサブ屋たちはつねに『非売品、レンタル禁止』『ライセンス版発売の際には流通停止』といった字幕を自分たちのファンサブ集団名のあとにつけていた。また、ライセンス版が出たらそれを買うようにファンサブの観客に推奨していた。ウィリアム・チョウのテープは、こうした警告をキャラクターの対話の最中にまで含めたため、一部のファンはこれが目障りだと苦情を述べている。
だが海賊版業者は業界を犠牲にして儲けることしか考えていなかった。業界にも一理はあって、海賊版業者が自分の利益を食っているというのはその通りだった。というのもかれらは、アニメクラブのようなふりをして SF 大会やアニメ大会で海賊版――時にファンサブの海賊版さえ――を売るような、恥知らずな業者だったからだ。当時の一番有名な海賊版業者たちは、S.バルドリックやE. モンスーンという偽名で知られている注70。キヲツケテはもちろん、こうした海賊版業者とは知らずにテープをコピーしてあげるのだが、その業者はキヲツケテがすべてのテープの各作品の最初と最後につけた「非売品、レンタル禁止」とある部分を消す。キヲツケテ会員たちは、大会で自分たちの材料をたたき売っている海賊版業者を見かけるようになったため、他のグループへの流通に制限をつけはじめた。1995 年には キヲツケテ は作成コピー数に制限をかけ、それを受け取る人々がアニメクラブの会員だと証明するよう要求しはじめた。技術の進歩につれてキヲツケテはウォーターマークやオーバーレイ、そして番組の切れ目にはコマーシャルスポットまで入れて、グループを同定しやすくすることで、海賊版業者がキヲツケテ作品を複製しようとする場合のハードルをあげたのだった。
ここまで極端な流通制約をかけたのはキヲツケテだけのようだが、でもあらゆるファンサブグループは「非売品、レンタル禁止」の原則を掲げていた。でも、扱っているアニメ作品のライセンスを持っていない点では、ファンサブ屋も海賊版業者も同じだった。キヲツケテなど一部の限られた場合では、アニメ大会での上映用ライセンスは取得されていた。その頃でも、初期の大会ではファンサブ作品がすべてライセンスを受けていたわけではない。ジャクソンが説明したように、1989年から1993年のファンサブ集団たちは「まだ手のついてないものだけに字幕をつける。手がついていたらさわらない」という方針で活動していた。もしある企業が、番組への権利を獲得したことを発表しなかった場合には、ファンサブ集団は普通はこう考えた:「だって向こうが言わなかったし、こっちも知らなかったといえるし、それが周知のことになるまでは、字幕をつけて流通させよう」
最近の証拠では、らんまプロジェクトの会員たちはちょっとちがった考え方で行動していたらしい。かれらは『らんま1/2』が大好きで、みんなに見て欲しいと思った。でも、アメリカでライセンスを受けている数少ないアニメがメカ(巨大ロボット) ジャンルのものだったということから見て、これがアメリカで正式にライセンスを受ける可能性は絶対ないし、あってもローカライズの過程でむちゃくちゃに切り刻まれてしまうと思っていた。結果としてらんまプロジェクトは、この番組がいかにおもしろいかをみんなに示すべく、手当たり次第に字幕をつけて流通させることにした。Viz Communicationsが『らんま1/2』のライセンスを取得しようとしていることが知れわたると注71、かれらはすべてを中断させた。それは法的な配慮からだけでなく、サンノゼ周辺のきわめて緊密なコミュニティの中ではアニメ分野の人はみんな顔見知りだったからだ。みんなVizのトリッシュ・レドゥックスとトシ・ヨシダを知っていた。そうでなくても、Animag時代のレドゥックスとヨシダのことは覚えている人がほとんどだった。「こっちもVizには絶対に行くし、会合とかにも行くし、向こうもそこにいるし、こっちもいるので、だからそれだけの面倒を引きおこすだけの価値はなかった。だからみんな『わかった、トリッシュ・レドゥックスとトシ・ヨシダは友達だから、こんなことをして向こうの人生を惨めにさせちゃいけないよな』と思ったわけだ」
ファンダムと業界の強い結びつきは、キヲツケテ・スタジオの場合にも見られる。そのスタッフは、ほとんどが当時の主要大会のプログラミング担当だった。日本企業は、大会の専属スタッフが許可をもらって字幕をつけるのを知っていたが、その字幕版が大会以外でどうなるかについては明示されていなかった。キヲツケテは例外なしに、もしアメリカ企業がその作品のライセンスを持っていたらそれを流通させなかった。でも大会の後で、ライセンスなしの作品の字幕版があったら、キヲツケテ はまちがいなくほしがる人みんなにそのコピーを送った。キヲツケテの場合、「最初の流通」というのはプロ用のS-VHSビデオデッキ4台を備えた男二人で、それがみんなにコピーを作ってあげていたが、でもかれらがコピー流通させるのは暇なときだった。アメリカ企業がライセンスを受けたと知ったら、かれらはその作品の要求にはもう応じなくなった。
タイトルがライセンスを受けたらファンサブ屋たちは必ず共有を停止したが、流通担当のほうは必ずしも一貫していなかった。一部の歴史記述は、ファンサブ屋や流通者たちを「テープ交換者たち」といっしょくたに扱い、当時のややこしさを単純化している注72。ファンサブ屋たちとちがって、一部の流通者たちはテープの流通を(アメリカで正式ライセンス版が出た後も)続けた (だが一般に思われているのとは逆に、ウィリアム・チョウは「ライセンス以後は流通停止」の原則に従っていたようだ注73)。さらに他のファンサブテープを交換のためのエサに使うグループもあって、このため作品の流通は続いた。たとえばあるアニメクラブの部長は、自分が会員だった初期の時代には「クラブのライブラリからかなり大規模な(アニメビデオの)コレクションをコピーして、おもしろいブツをたくさん持っておかないと他の連中と交換できなかった」と証言している。
ファンサブは、正規ライセンスがおりた後でもアニメクラブでは上映されることもあった。別のキヲツケテ会員で、1993年に別の地元ファンクラブの役員でもあったある人物は、「クラブで上映したがために作品に字幕をつけたこともたくさんあって、そのためにいろいろ字幕をつけたけれど、でもそれは流通させなかった」と述べている。たとえば、キヲツケテと関係のある地域アニメクラブは、すでに字幕付『ああっ女神さまっ!』を何本か上映していたが、そこでアニメイゴが『ああっ女神さまっ!』は翌年商業リリースされると発表した。その発表後、キヲツケテは第 5 話と 6 話に字幕をつけて関連クラブで上映したが、大きなファン流通網にはそれは流さなかった。キヲツケテの関連クラブは、自分たちがアニメを「自分たちのために」上映するということを、アニメイゴのような企業にさえ通知していた。
こうした著作権侵害利用はあるが、でもファンサブ屋、流通屋、クラブを分けて考え、製作、普及、上映が別個に行われていたことを理解しておくことは重要だ。企業はこうしたできごとに決していい顔はしなかったが、このキヲツケテ 会員は、最大の目的がもっと多くの人々にアニメに関心を持ってもらうことだったことを指摘している。ファンサブ屋で、自分の作品から利益を得た人物はいない。自分のやった作品のために、アメリカのアニメ業界に就職できたファンサブ屋もいるが、それはむしろかれらの作品の品質の高さを示すものだ。一部の人にとって、自分にそれだけの能力があるということを業界に示す唯一の方法がファンサブだった。
ほとんどのファンサブ屋は、アニメが好きだったから字幕をつけた。会員はこう結論している。「ぼくがやったのは、(あらゆるところで)もっとアニメが見られるようにしたかったからだ。もっと多くの人が日本アニメを楽しむところが見たかったし、そのために、それこそがぼくの目標で、そしてかなり成功したと思うね」
注 62:Tatsugawa, Mike et. al. "Editor's Note."Ä-ni-mé: The
Berkeley Journal of Japanese Animation Vol. 1 Issue II.
Berkeley: Cal-Animage. August 1991.
注 63:Takashi, Alan. "AnimeCon postscript..." オンライン投稿. 17 Sept. 1991. <news:rec.arts.anime> 4 Dec. 2003を参照. Message-ID: <9540@ntmtv.UUCP>. From "Alan's archive: Notes from Baycon and AnimeCon '91." <http://www.tcp.com/~doi/alan/webguide/postings/trek.91.baycon.html> 4 Dec. 2003.
注 64:偽名
注 65:偽名
注 66:Lenna, Dmitri "Dmitheon." "Soft.Sculp has Greenwood." オンライン投稿. 25 Mar. 1996. <news:rec.arts.anime> 4 Dec. 2003. Message-ID: <4j7t3b$h1n@warren1a.its.rpi.edu> #1/1. また "Here is Greenwood: Vol 1 (sub)." 1 Oct. 1996. <https://secure.centralparkmedia.com/cpmdb/cfcpm.cfm?Cat=SSVS_9610> 4 Dec. 2003も参照.
注 67:たとえば"MIT Anime Showing History." MIT Anime Club. 9 Dec. 2003を参照. <http://web.mit.edu/anime/www/Showings/pastshowings.shtml> 10 Dec. 2003.
注 68:Chan, Jimmy. "Baycon (was Re: Cal-Animage)." オンライン投稿. 4 Jul. 1990. <news:rec.arts.anime> 4 Dec. 2003. Message-ID: <1990Jul4.185255.10375@agate.berkeley.edu>.
注 69:Yang, Jeff. "here it is, the village voice article." オンライン投稿. 12 Nov. 1992. <news:rec.arts.anime> 4 Dec. 2003. Message-ID: <1992Nov12.121449.21495@panix.com>.
注 70:12 Feb. 1995. Message-ID: <12FEB199514063544@uhcl2.cl.uh.edu> を参照.
注 71:インタビューによる。Usenet投稿によれば、AnimEigoが『らんま1/2』をライセンスするという噂が流れていた.
注 72:"Fans, Fansubs, and J.A.I.L.E.D." History of Anime in the U.S., Right Stuf International, Inc. 2002. を参照. <http://www.rightstuf.com/resource/us_fans.shtml> 4 Dec. 2003.
注 73:14 Jul. 1993. Message-ID: <1993Jul14.172239.17863@news.uakron.edu> を参照.
この小節では、アメリカの主要輸入業者4社を検討する: A.D. ヴィジョン (現ADV フィルム)、アニメイゴ、ストリームライン・ピクチャーズ、パイオニア LDCだ。読めばわかるが、この4例すべてにおいて、企業ごとに形や状況こそちがえ、ファン文化が企業の成立と初期の運営に大きな役割を果たしている。
ジョン・レドフォードとマット・グリーンフィールドは、アニメのレーザーディスクのレンタルと販売業で働いているときに出会った注74。レドフォードとグリーンフィールドは、1992 年にヒューストンでアニメクラブを運営しており、その間に――ファンネットワークを通じて――トーレン・スミスなど日本のマンガ業界で働いている人物数名と出会った。こうしたアーティストたちは、レドフォードとグリーンフィールドが日本にでかけ、ライセンスを取得してそれをアメリカにもってくればいいいんだ、と指摘した。レドフォードとグリーンフィールドは、お互いがアメリカにおけるアニメについてまったく同じ見通しを持っていることに気がついて、それを実行することにした。ジョン・レドフォードは貯金があったし、グリーンフィールドは映画学校の出身だった。かれらはA.D.ヴィジョンを設立して日本にでかけ、スタジオの代表と交渉してA.D.ヴィジョンの初のアニメ『銃夢』ライセンス獲得に成功した。
『銃夢』に字幕をつけてから、グリーンフィールドとレドフォードは 1993 年に初の予約受付を開始した。発表を 6 月 26 日金曜日に行い、土曜日にブースのテーブルを開くと、興奮したアニメファンの大群が押し寄せた。A.D. ヴィジョンはいくつも作品をリリースして成功させた。2002 年と 2003 年の二回にわたり、レドフォードは『ジャンルエンターテイメントで最強の 100 人注75』に選ばれた。重要な点として、A.D. ヴィジョンはファンネットワークから始まり、その初期の売り上げはファンネットワークに依存していた。後に ADV は、ストリームラインの作品あたり売り上げがADVの字幕付リリースをはるかに上回っていることに気がついて、ストリームラインと同じく吹き替え版をリリースするようになった。でもファンネットワークなしには、ADVはそもそもまったく市場基盤を持てなかっただろう。
アニメイゴの歴史は詳細に記録されているので注76、ここで改めてそれを語り直すことはしない。CEO のロバート・ウッドヘッドはファンではないが、同社の歴史は組織化されたファンダムと密接につながっている。共同創設者ロウ・アダムスはアニメの大ファンだった。1988年のコーネル大日本アニメ協会草創期にはしょっちゅう顔を出していた。重要な点として、アニメイゴがUsenetに行った最初の投稿は「アニメイゴはアニメファンの共同ベンチャーです」と述べている注77。ファンネットワークと、既存の未リリース日本アニメとの接触がなければ、アニメイゴは起業しなかった可能性が高い。
1986年、劇場版 Robotech製作中だったカール・マセックはジェリー・ベックと手を組んだ。ベックは――アメリカのアニメ分野では名高い――アニメファンでもあった。1980年代初期には、Cartoon/Fantasy Organizationのニューヨーク支部を運営していたが、その後ロサンゼルスに引っ越す。マセックもベックも、きわめて個人的なレベルでこの潜在市場について熟知していた。だれもそれを利用しないのなら、自分たちがやるまでだ、とかれらは思った。そこで1988年にストリームライン・ピクチャーズをたちあげて、『アキラ』(1989) をリリースし、その後1990年代に入手可能なアニメの典型的タイトルをいくつか出した。
フレッド・パッテンは、1980年代初期からマセックを知っていた。パッテンは、マセックの店でアニメ上映会に参加するファンの一人だったのだ。パッテンは後に、アメリカのファンジンAmazing HeroesやComics Journalでマセックにインタビューする。当時二人はかなり仲が良かったので、マセックとベックがストリームライン・ピクチャーズをたちあげると、パッテンも手伝おうと申し出た。パッテンは、アメリカでアニメの普及に役立つことなら何にでも賛成だったからだ。マセックとベックは、ファンに一番人気がある作品はどれか、とパッテンにしょっちゅうたずね、その作品の主な日本スタジオはどこかを尋ねた。そうした作品のライセンスを得ようと努力すべきかを決めるためだ。ヒューズ航空機社の技術司書だったパッテンが失業すると、マセックとベックはストリームライン・ピクチャーズで働くよう招いた。他の多くの人々と同じく、1990年にパッテンは趣味を仕事にした。パッテンは1990年代初期には、ストリームラインの活動をきわめて個人的に知っており、当時立ち上がりつつあった他のアニメ企業にも注意を払っていた。
ストリームラインは『吹き替えVS字幕』論争の矢面に立たされた。これは白熱した数年にわたるファン論争で、アニメビデオは吹き替えがいいのか字幕がいいのか、という論争だ。初期ライセンスビデオ時代、つまり1989年-1993年 (吹き替えVS字幕論争は1999年に吹き荒れた) からの古参ファンの多くは、字幕がいいという意見だった。字幕のほうが吹き替えよりずっと安上がりだし、吹き替えをやる声優が下手な場合が多かったから、字幕のほうが高い品質となるからだ。だがストリームライン・ピクチャーズは、吹き替えのみにこだわった。マセックとベックの主張では、一般大衆の多くはわざわざ字幕なんか読まないから、というわけだ注78。一般人は、声優がダメだろうと会話はちゃんと声で聞きたがる、というのが彼等の主張だった。
パッテンもわれわれも、第2の主張には賛成しかねるが、最初の論点については、マセックとベックがまちがいなく正しかった。アメリカでは、高品質で豊富な英語番組の長い歴史があったため、観客は字幕付ビデオや映画をわざわざ見たいとは思わなかった。アニメ企業の目標がアニメを普及させて人気を出すことであるなら、吹き替えが必須だ。マセックが述べたように「ストリームラインの目標は、とにかくアニメを広い観客に送り届けることだった注79」。1993年には、ストリームラインのテープは他社のものに比べてずっと売れ行きがよく、他の企業――特にA.D.ヴィジョンやUSマンガ社――も、儲けたいならすべて字幕を使うより、お金をかけて吹き替えをするべきだと気がついた。
結局、長期的には吹き替えよりももとのアニメのストーリーを忠実に保つほうが重要だったことが判明する。吹き替えが1980年代の切り刻み型アニメ輸入と切り離されるようになると、ファンの怒りはゆっくりとおさまり、売り上げも急速にのびた。ストリームライン・ピクチャーズでのパッテンの主要な仕事の一つは、作品のライセンスを取得したときにストリームラインが受け取る材料の正確さを確認することだった。ストリームラインは、自分たちがもとの日本語を忠実に翻訳しているということを強調しようとしたからだ。受け取る材料には、ネガ、効果音、日本語台本の直訳などがあって、それをパッテンたちは滑らかな英語に書き直した。ストリームラインの作業員たちは、ことばを調整して口の動きや他の映像キューに一致するようにする。だが日本の業界は、アメリカ企業が何もかも書き換えるものと思っていたので、ずいぶんひどい翻訳を送ってくる傾向があった。たとえば、登場人物の名前をちゃんと書くのではなく、男A、男B、男Cといった具合になっている。もっとひどい場合には、登場人物にはいい加減なアメリカ人名、たとえばチャーリーとかジョーとかつけられていて、アメリカのプロデューサー側が気まぐれにそれをピートとかボブとかなんとか変えられるようになっていた。だからパッテンの仕事はいろいろあったが、もとのキャラクター名を調べてそれを復活させる、というのも含まれていた。
すでに見た通り、ストリームライン・ピクチャーズはファンダムと密接に関わっていた。ストリームラインは、広い観客層を惹きつけたいとは思っていたが、もとの日本のストーリーにも忠実であろうとしていた。この発送はファンダムに深く根ざしたものであり、ストリームラインの初期の成功につながるものだった。
もっと大きなアメリカレーザーディスク社(これは日本のパイオニアに所有されていた)の一部が、パイオニア・アニメーションだった。同社はアメリカのアニメ業界に進出した初の日本企業だった。その参入が発表されたのは、1993年4月21日だ注80。パイオニアの最初のプロジェクトは『天地無用!』と『モルダイバー』で、どちらもレーザーディスクとVHSの両方でリリースされた。だがリリースに先立って、同社はアニメ・エキスポ'93で大きく宣伝をうち、自分たちの商品を展示して、それ以来アニメ・エキスポに参加し続けている。
パイオニアが市場参入を決めたのが、『天地無用!』ファンサブの存在と成功ぶりのせいかどうかははっきりしない。だがはっきりしているのは、1993年にはファン基盤のおかげで参入を正当化できるくらいの収益を見込めた、ということだ。パイオニアの『天地無用!』OVAリリースは業界標準となり、パイオニアがレーザーディスクで高品質なアニメを出し続たので、かれらのリリースはすぐに多くのファンにとって「必見」アニメの地位を確保した注81。アニメファンへの二通目の手紙で、パイオニアのマーケティング部長デヴィッド・ウォーレスはこう書いた:「パイオニアはこの作品を、ファンのために作っているのでしょうか、それとももっと広い観客をめざしているのでしょうか?/われわれはこの作品の最大限の観客を確保したいと思っています。ちょっとやりすぎかもしれませんが、でも成功できると思いますし、『hotaku』(ママ) たちに満足してもらいつつももっと一般の人々に見てもらえると思っています注82」。結論として、パイオニアはストリームライン・ピクチャーズと同じく、市場を育てようとしてアメリカアニメ業界に参入したが、やはり既存のファン基盤とかれらのその時点の趣味に依存していた、ということになる。
注 74:"Cinescape List Honors John Ledford During Company's Tenth Anniversary." 11 June 2002. <http://www.animenewsnetwork.com/article.php?id=4027>
注 75:上に同じ. また "Ledford one of genre entertainment's `most powerful.'\," 11 Aug. 2003 も参照. <http://www.animenewsnetwork.com/article.php?discuss=4027> 4 Dec. 2003.
注 76:"History - About Us." AnimEigo. 2002. <http://www.animeigo.com/About/HISTORY.t> 4 Dec. 2003.
注 77:Woodhead, Robert J. "MADOX-01 Subtitled SNEAK PREVIEW." <news:rec.arts.anime> 31 Aug. 1989. Message-ID: <850@biar.UUCP>.
注 78:Chan, Jimmy. "Baycon (was Re: Cal-Animage)." <news:rec.arts.anime> 04 Jul. 1990. Message-ID:<1990Jul4.185255.10375@agate.berkeley.edu>.
注 79:Schmall, Glenn and Kristyn. "An Interview with Carl Macek." Anime Tourist. Jul. 2000. <http://animetourist.com/article.php?sid=154> 4 Dec. 2003.
注 80:
Tatsugawa, Mike "Shogun." "Growth in the Anime Industry." オンライン投稿. 21 Apr. 1993. <news:rec.arts.anime> 4 Dec. 2003. Message-ID: <1993Apr21.020015.4982@nic.csu.net>.
注 81:"Pioneer's Animation Division." History of Anime in the U.S., Right Stuf International, Inc. 2002. <http://www.rightstuf.com/resource/us_pioneer.shtml> 4 Dec. 2003. MIT Anime Club Libraryとも相互参照.
注 82:Stude, Michael. "Pioneer News." パイオニアからの手紙の転送, November 17. オンライン投稿. 27 Nov. 1993. <news:rec.arts.anime> 4 Dec. 2003. Message-ID: <1331469918snx@izumi.DIALix.oz.au>.
らんまプロジェクトの最初の資料が物語るように、多くの日本企業はファンによる字幕付けのことを知っていた。1978 年頃にファン流通について気がついていたのと同じだ。だがかれらは、アニメ消費に対するしっかりした関心の発展において、ファン流通がどれほど貢献したかには気がついていなかった。その理由は、一部は合理的な無知ということで説明がつくだろう。日本企業はこの研究におけるインタビューで一貫してわかるように、この市場にはまるで関心がなかった。1993 年まで、アメリカ市場はかれらにとって何の意味もなかった。これは現在ではまったくちがう。アメリカではすさまじい収益があげられるからだ。でも 1976-1993 年にかけて、日本企業は娯楽財の分野ではアメリカに何も売れないと思っていた。アメリカは昔からあらゆる国際企業が参入したがる市場ではあったが、ワーナーブラザースやディズニーのようなハリウッド系のエンターテイメント大企業群は絶えず日本企業の進出を阻んできた。ほとんどの場合、日本企業は無視されるか(たとえば 1978-1982 年に上映にもこなかっったワーナーブラザース)、拒絶されるか (たとえば「いやあ、弊社はマンガを売ってるんですが、ディズニーの人たちはいつも、アメリカじゃうちの番組は売れないって言うんですよ」的な雰囲気) あるいは一例などでは剽窃されるだけだった (たとえば悪名高い『ジャングル大帝』VS『ライオンキング』事件注83。これについての詳細は本研究の範囲を超える)。
1993 年まで、文字通りの意味でも比喩的にも、すべては日本どまりだった。商品が台湾やフィリピンに向かうことはあった。中国に行くときは、それはむしろ「海賊船」や地下流通を経てのことだった。でも日本人は、アニメがアメリカで人気が出るとは夢にも思っていなかった。アニメイゴに初めてライセンス供与した企業は、アニメイゴが追加印税の小切手を切ると驚愕した。まさか追加の印税が出るとは思っていなかったのだ! また園田健一も、ルノーが 1980 年代後半に、アメリカで『バブルガム・クライシス』を知っている友人がいて「生まれてこのかた最高の番組だと本気で思っている」と話すと同じくらい驚いていた。高畑勲の反応についてはすでに述べた。『キューティーハニー』で限界を広げたアーティスト永井豪は、アニメ・アメリカ'94 出席に先立って、その年に MTVで 放送されたアニメのテープを見て驚愕した。そのテープには、Speed Racer (『マッハGo Go Go』) や永井豪自身の特集が入っていた。一部のアニメがアメリカでここまで人気があるとは永井は知らなかったのだった。『マッハGo Go