アルゴリズムとしてのアート

(季刊『InterCommunication』2004 年 2 月頃)

山形浩生

要約: アートというものは、人間の機能探索を主目的としており、それはある種のアルゴリズム探索であるとともに、それ自体がアルゴリズムともなり得るのである。



 そもそも、アートとは何なのか、ということから始めよう。最近邦訳の出たスティーブン・ピンカー『心の仕組み』では、あらゆることが進化生物学的な必然性の中で説明されていた。その中で芸術などがどんな必然性を持っているのか、そして人はなぜそういうものを作ってきたのか、という話も少ししている。それはある種のパターン認識やストーリー認識を行うことが生存において重要な役割を果たしたために、そうした認識を「だます」ことで成立している各種のアートや表現というものが、人々に受け入れられるようになった、という議論だった。宮代真司はかつて、男に比べて女が優れているのは、子供の頃からマンガをたくさん読んで、多様な役割に感情移入することでその役割になりきり、「これってあたし!」とばかりに多様な人格を体験することができるからだ(それに比べて男の読む少年マンガは、どれも話がワンパターンで、多様性がないためにロールプレイイングの練習ができず、だから男はある面でダメなのだ)という頭痛のするようなひどい議論を述べていたけれど、ピンカーの議論はそれとはちがっていて、具体的に何に感情移入するか(あるいは享受するか)というのはどうでもいい。むしろ感情移入したり、パターンやストーリーを認識したりする能力そのものが重要な役割を果たすのだ、ということだ。
 その中でピンカーが注目していたのは、いわゆるハイアートではなく、むしろ通俗的なアートだった。そしてかれは、ハイアート的なものはむしろ見栄の産物ではないか、他人と自分を差別化するために、得体の知れないものをほめるこ「自分はほかの低俗な連中とちがうのよ」というのをアピールしたがる意識の産物ではないか、という議論をしていた。
 もちろん、ハイアート的なものの称揚には、そういった見栄や、単に自分の小利口さをアピールするための口実という側面はある。本誌の読者(そして論者)の多くのハイアート的なもの翼賛にも、そういった面を感じることは多々ある。でも、それ以外のものも確実にあるはずだ。というのも、「通俗的」なアートの多くは、もともと通俗的ではなく、ある種のハイアート的なパイオニアの活動が徐々に普及する中で通俗化していったからだ。もちろん、見栄の伝搬、というのはある。トップの人がはじめた流行を、二段目の人が(トップの人々に近づこうとして)わかりもしないのにほめて見せ、それがある程度拡大すると、今度は三段目の人が、同じく特にいいとも思わないものを、見栄で「いやあ、すばらしいアートですなあ」とほめて、と言う連鎖がいちばん下まで果てしなく続く、という現象もあるだろう(そして一部のアーティストについては、たとえば画廊や雑誌がパブリシティを効果的に行うことで、そうした現象を意図的に作り出す)。でも、あらゆる人が実はわけもわからずに見栄だけで動いているというのは……長期的にサステイナブルだとは思えない。ピカソの絵を見て感動する人はそれなりにいる。多くの人は名所旧跡巡りのような感覚で「何だか知らんがあちこちで本に載ったり絵はがきにもなったりしている有名なピカソの絵を見た」ということに満足しているだけだというのは事実だ。でも、かつてはまったく受け入れられなかったものが(たとえばセザンヌの絵とか、ジャズやロックでもいい)急速に受け入れられて、通俗化する、という現象はまちがいなく存在する。ジャック・アタリが『音楽/貨幣/雑音』で見事に述べたように、それがアート的なものの重要な役割だ。それまではノイズとしか思われていなかったものの中に、新しい価値を発見し、それをいわば定式化すること。ノイズの中からモーツァルト、ジミ・ヘンドリックス、ナイン・インチ・ネイルズが立ち現れてきたり、あるいはそれまで単に辛いだけだったタイ料理が、やがてその辛さの中にも微妙な変化と多様な味わいをもって迫ってくるように。
 そしてそこに、アートというものの一つの本質がある。ある種の先触れ的な役割、プローブ的な役割を果たすもの、ということだ。だが、何の先触れ、何のプローブなのか?

 ここでもちろん押さえておくべきことは、布施英利がどこかで書いていたように、アートというのが見る(またはそれ以外の形で享受する)者の脳の中の現象だ、ということだ。真実は見る者の目の中にある、というけれど、美もまたそうだ。驚異は、写真や絵そのものにあるのではない。その写真や絵を見て、それが単なる絵の具のかたまりや印画紙上のグラデーションだとは思わすに、そこに顔だとか、霧に霞む山河だというのを認識してしまうということにある。一本の線でしかないものが、何かの輪郭に見えてしまうということにある。ピンカーは『心の仕組み』でランダムドット・ステレオグラムを挙げて、それがいかに脳による奇妙な情報処理のありかたについて多くを語ってくれるか、ということについて雄弁に述べている。人はランダムドット・ステレオグラムで、字や絵を楽々と(まあ現実にはかなりの苦労をするかもしれないが)判別する。ランダムドット・ステレオグラムを苦労して見るのが楽しいのは、そういう回路が自分の頭の中にあるんだ、といういままでまったく知らなかった事実を、それが明らかに教えてくれるからだ。そしてもう一段いうなら、その自分のまったく知らなかった回路を稼働させることに喜びがある。たまに運動して、使っていなかった筋肉を動かすと気分がよい(こともある)ように、自分の脳の中の知らなかった回路を動かすことにも快さがある。
 そしてそれがアートの重要性だ。ただの絵のかたまり、石や石膏や紙の山や束でしかないものが、何かに見えてしまう、あるいは何かの情動をもたらす、ということだ。だからこそ、ゴミの山をもってきて「アートでございます」と行ってみせるような行為も一応は正当化される。もちろん多くのゴミの山はゴミの山にすぎない。結果として多くの自称アート作品は、ただのがらくたでしかない。それをアーティストが作品でございと思うのは、そのアーティストの思いこみか、あるいはその人の再現できない個体レベルの偏差でしかない(そういう個体差を「個性」と称してありがたがるべきだという考え方もあるだろうけれど、ぼくはそんなものを誇示していただくことに何ら価値があるとは思わない。個人レベルの嗜好は個人レベルで対処すればすむ話だ)。でも、その中には、ある程度以上の人に共有される嗜好もあるだろう。それを掘り出すことが、アートの持つ機能ではある。
 それは「感動」とかいうものでなくてもいい。パトリシア・ピッチニーニのカーナゲットという作品は、プラスチックのかたまりに、改造カーで使われている模様やメタリック塗装やエンブレムなどをつけることで、人におもしろい情動をもたらす。人がつるつるの車の塗装を見るとつい撫でてしまいたくなるように、その彫刻も人に撫でたい気分を生み出す。と同時に、人はそれを見て「これは速そうだ」と思ってしまうのだ。実際には何も動くところはない。ごろんと転がっているだけで、エンジンも何もないのに速いわけがない。そんなことはバカでもわかる。でも、それが速そうに思えてしまう。ぼくたちの頭には、何やら「速そう」というのを認識する回路が、先天的にか後天的にか存在しているようだった。ピンカーならそれを、人間は生存のために、自分に追いつく可能性のある速い動物を見分ける必要があり、このために速い動物のもつ特徴――流線型やなめらかさ――をすばやく見分ける可能を持つことが進化上有利だったのだ、なんていう説明をするかもしれない。あるいはぼくたちが、車をガキの頃から眺め続けているせいで、そうした印象が後天的にできているだけ、なのかもしれない(それはそれで、ぼくたちが車のどこを見ているのか、というおもしろいポイントを指摘していることになる)。それはとりあえずどっちでもいい。でも、ハイアートの一つの役割は、そういう脳の新しい回路を指摘してくれることだ。アートは本来的には、脳のプローブであり、新しい回路発見の先触れとなる。そして、ハイアートが普及・通俗化するプロセスというのは、多くの人が自分でその新しい回路を見いだすためのプロセスだ。だんだん人がランダムドット・ステレオグラムの見方を学んで身につけるように、人は何らかのかたちで、自分のそうした脳内回路へのアクセス方法を学習する。その学習コストがあまりに高ければ、人は「これはおれにはわからん」とそうしたアート作品に関心を持たなくなるわけだ。それに対し、たとえば、ハイアートを薄めて補助輪をつけてやることで学習コストを下げる、というやりかたもあるだろう。また社会の変化にともなってそうした学習が別の刺激(たとえばテレビや車の普及)を通じて自動的に行われたために、改めてコストをかけて学習する必要がなくなり、これまで難解な前衛作品と思われていたものが、急に受け入れられるようになる、ということもあるだろう。この考えをつきつめると、アートや文学といったものを個人にとってのコストと便益をもとに分析することが可能になるはずなのだが、この議論はここではやらない。さらにもちろん、これ以外のアートの効用を重視したい人もいるだろう。たとえば、ピカソの「ゲルニカ」は反戦思想がこめられているのでえらい、とか、この作品はグローバリズム批判だからすごい、とか。ぼくはそういう考え方自体がまちがっているとは思うから、ここではそれは一切無視している。

 さて脳の回路、というのは、ある一定の刺激に対する一定の反応、ということだ。回路というとハードウェアっぽいけれど、それがハードウェア的に実装されているかどうかというのはまだわからない。刺激と反応の一定の関係ということで言えば、それをアルゴリズムと置き換えていいだろう。そしてアートというが脳の回路を刺激して(あるいは脳機能のモジュール説をとるなら、脳モジュールの変わった組み合わせを刺激して)それを人に気づかせることに価値があるのだとすれば、つまりアートというのはいわばこの脳のアルゴリズムを呼び出すための刺激発生装置だと考えていいだろう。
 もちろん、それはつつけば痛い、というような単純な刺激じゃない。能力的な学習状況など、かなり多くの条件に左右されることになる。そして、ピンカーが最初に述べた通り、ある種のアートや流行への反応ぶりが階級づけやランク付けの材料として使われるのは(結果として、一種の擬態じみた、わかってないのにわかるフリをする行動を誘発するのは)、そのアルゴリズムの作動状況が、そのアルゴリズムの依存している条件保有状況についてのかなり重要な判断材料となるからだ(あるいはこれまでなってきたからだ)、と言える。そして、これはカルチュラル・スタディーズが本来追求すべきだったものだ。ある脳内アルゴリズムの発動条件の一部は、当然ながら社会経済環境的に整備され得るものもあるだろう。それが何なのか、そしてそれが脳内のアルゴリズムとどう関連するのか、ということだ。それは本来は、現在のカルスタのようなくだらないロールシャッハテスト――それも社会に対するテストではなく、その研究者個人のロールシャッハテスト――まがいの、こじつけで自分の見たいモノを無理して読み取るおもしろくもない練習問題の果てしない連続ではなかったはずなのだ……が、これもここでの話題とはそれるので、また別の機会に。

 さて、アートとは、そうした脳内アルゴリズムを(それ以外の外的/内的条件とあわさって)励起するような刺激自体のことではある。だが、この考え方からすると、ある特定の作品をことさらに称揚すべき理由はない、ということになる。スーラの点描の絵をおもしろがる、というアートの享受(つまり脳内アルゴリズムの励起)を考えてみよう。もし、その脳内回路の確認に価値があるのであれば、それは何もその作品でなくてもいいはずだ。点描の絵はすべて、同じ回路に働きかける。ランダムドット・ステレオグラムの絵は、どれも同じ脳内アルゴリズムを使う。だったら逆に、点描の絵はすべて同じ(とはいわないまでも類似の)価値を持つという考え方もできる。もちろん、これが最初でした、といったパイオニアを賞賛するような意味で、ある作品に価値を置くという考え方はある。でも、それは本質的なものではないはずだ。逆に言えば……いま、コンピュータのペイントソフトは、画像ファイルを持ってきて、それを点描風にしたりできる。つまりそこには、ある価値を持つ「アート」を生み出すためのアルゴリズムが存在しているわけだ。うまく行けば、アートという脳への刺激を生み出す方法論を自動化できる。
 ある種のアーティストは、自分でまさにそれをやっている。典型的な例はエッシャーやマグリットだ。かれらの絵が、それぞれある同じ脳内回路に働きかけていることは容易に見て取れる。そしてかれらは、だんだん自分の取り組むべき脳内アルゴリズムに気がついて、それを励起させるための同じような(だが少しずつ異なる)試みを次々に展開してくる。
 そしてそれは伝搬可能なものだ。人はたとえばいまや、マグリットっぽい絵やエッシャーっぽい絵をいくらでも作れる。それはまだコンピュータ化できるほど定式化されたものではないかもしれない。でも人間同士である程度説明ができるくらいの内容にはなっている。また個人でなくても、あるジャンルという多くの場面ではそうした伝搬がいくらも見られる。ハーレクインロマンスは、あるパターンと描写の持つ脳内アルゴリズムアクセス力を徹底的に勝つようしている。グランジロックがはやれば、グランジっぽいバンドが次々に登場する。ジャニーズが、ちょっとハンサムな男の子を数人集めて飛びはねさせただけで婦女子の得たいの知れない回路にアクセスできるとわかれば、欧米でもボーイバンドが猛威をふるう。そこには、あるアート作品を作り出すためのアルゴリズムが存在している。
 ということは……今後おそらく、単一の作品でアート(または小説や詩やその他なんでも)が云々されることはますます減るだろう、ということだ。ある作品のエッセンスを抽出し、それをアルゴリズム化して、類似の作品をたくさん作り出す方法論は、いろんな分野でますます拡大している。そのツールの一つはコンピュータだし、もう一つはいま挙げたいくつかの例でもわかるように、収益最大化と市場原理だ。おそらく今後ますます重要になってくるのは、作品そのものよりは、その作品を作り出すアルゴリズムだ。アルゴリズムまで行かなくても、あるジャンルの根底に存在する原型だろう。それさえあれば、作品自体はいくらでも量産できるようになるんだから。
 これが、アルゴリズムとしてのアートの第一段階だ。作品それ自体ではなく、それを作る仕組みのほうが次第に重視される、ということ。それは、脳内の回路やアルゴリズムへのアクセスと対応して存在する仕組みとなる。
 だがそうなると、その次がどうしても出てくる。その原型なり、作品を作り出すアルゴリズムなりはどうやって見いだされるべきか、ということだ。これは従来通り、ある傑出した個人の能力に頼る必要があるんだろうか?
 もちろんそれに頼ることも可能だろう。いろんな個人に、ランダムなパターンを見せ、いろいろ材料を与えるうちに、だれか何かしら組み合わせて、目新しい作品じみたものを作り出すことだろう。人はランダムな点の並びにも物語を見いだし、パターンを見つけ出してしまう。たとえば星を見て、古代の人々が星座を作り、そしてその星座たちの物語を作り上げていったように。あるいは、ノイズの中からミュージシャンが音楽をわき上がらせたように。アメリカの憲法学者ローレンス・レッシグが『コモンズ』で主張したのは、新しい作品の生産効率を上げるために、ランダムなパターンや使える材料を増やそう、ということだ。そこから人がどうやって作品を生み出すのかは、わからないし、わかりようもない。でも、使える材料が増えれば、それを組み合わせたときのバリエーションも増え、新しい潜在的な作品――つまりぼくたちのまだ知らない新しい回路への刺激――の数も増える。だからこそ、かれは人が自由に使えるコモンズの重要性を訴え、著作権や知的財産権のいたずらな拡大によるコモンズの枯渇を批判するわけだ。  ぼくはこの議論には大賛成ではある。ただ、新しい潜在的な作品の数も増える一方で、組み合わせのバリエーションが増えれば、まったく無意味な組み合わせ(つまりノイズ)も増える。場合によっては、s/n比は下がることさえあり得るかもしれない。まったくの理論的な可能性だし、また人の創造活動は、材料をランダムに組み合わせるようなものじゃないので、単純な組み合わせ数の増加だけを云々するのは意味がないかもしれない。だが、一方で新しい組み合わせをいかにして作り上げるか、という方法論のほうも、検討しておいていいんじゃないか、とは思うのだ。
 そしてそこで登場するのが、ウィリアム・バロウズのカットアップ、なのだ。
 カットアップのアルゴリズムとしての特性については、すでに『たかがバロウズ本。』で書いた。カットアップは、既存のテキストを持ってきて、それをランダムに組み合わせ、出てきたおもしろいフレーズを拾い出す方法だ。それは必ずしも高効率なやり方ではない。ウィリアム・バロウズの作品で見ても、それなりに興味深いフレーズの出現率は0.05%(当社比)というきわめて低いものだ。でも、そのプロセスを自動化することで、単位時間あたりにかなりおもしろいフレーズを作り出すことは可能だ。すでに細馬宏通/evのドクター・バロウズなどはそれを行うし、またそれ意外にもジェイミー・ザヴィンスキーの各種ソフトは、テキストにとどまらず、ネット上の各地のウェブサイトに存在する画像を自動的にコラージュしたりして、おもしろい組み合わせを次々に作り出す。
 そしてこれはほかの分野にも適用可能だ。音楽では、サンプリングがそれに近いものとなっている。これらは、ノイズの中から、新しい組み合わせ、新しい脳内回路へのアクセス方法を自動的に次々に見いだしてくれる可能性を持っている。いわば、アルゴリズムとしてのアートの第二段階だ。おもしろいことに、こうしたアルゴリズムは似たような味わいの組み合わせを次々に作り出すほうにたけているので、実は第一段階的な意味でのアルゴリズムとしての要素をかなり持っているのかもしれない。第二段階の完全な実現にはまだほどとおいのかもしれない。でも、可能性はまちがいなく存在しているのだ。次の問題は、そこでノイズの中からたちあらわれてくる脳への新しい刺激を、それ以上に出てくるつまらないフレーズからどう選別するのか、ということではある。それが何らかの形で自動化できたとき、おそらく従来の意味でのアート(その本質はさておき、制度としてのアートや文学といったもの)というのはその歴史的な役目を終えることだろう。



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YAMAGATA Hiroo<hiyori13@alum.mit.edu>
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