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SF と東京の未来

パネラー

ナヴィゲーター


『真実は小説より奇なり』という言葉がある。

 物語的想像力は終わったといわれる現在、確かに現実の世界は一人の想像力を超えたところにあるのかも知れない。そのような現実のもとにある私たちの想像力に、はたして未来はあり得るのだろうか。

 この問いを「未来の物語= SF 小説」(本当は未来ではなく過去やパラレルワールドを語る SF 小説もあるのですが……)を通じて鋭い評論を展開している3人の賢人にぶつけてみた。しかも現実を離れた未来ではなく『東京の未来』という本号のテーマに限定して……

 ディック、バラード、バロウズなどの翻訳や論評で知られる大森望、柳下毅一郎、山形浩生の3氏が語る SF 小説の未来の東京。そして現実の東京と、 SF 小説が夢見た東京、そのお互いの関係を巡り激論が始まる。


東京を描いた小説はたくさんあると思いますが、それらの中で一番典型的な東京の未来とは何でしょうか。

柳下:今日話す事をいろいろ考えながらここに来たのだけれど……

大森:偉いね、いろいろ考えるなんて。

柳下:30分くらい考えただけだけど…… SF 小説だけでなくて、アニメやマンガも含めて話せば、手塚治虫の『火の鳥 未来編』があるでしょ。あの中の未来の東京って、わりあい良く知られている訳じゃない。『メガロポリス・ヤマト』とかいってるけど、あれは東京でしょ。でもあれって東京じゃないんだよね。何処でも良い。『メトロポリス』の未来と変わりがない。現実から断絶してて、ただ何処かにありそうな記号としての未来でしかないんだよ。

山形:そうじゃない未来ってあるの?

柳下:そういう現実感のない未来を変えたのがサイバーパンクなんだと思う。ギブスンの『ニューロマンサー』。あの舞台は東京ではなくて千葉、チバシティーなんだけど、現実と地つづきの未来なんだよね。いつかこうなりそうな、もしかしたら今かも知れない未来。ここからでしょう、未来が変わったのは。

大森:でも、メトロポリス的な東京と、サイバーパンク的な東京の間に、「破壊される対象」としての東京があったんじゃないかと思う。東京湾から上陸した怪獣が大暴れして、東京タワーとかを壊すタイプ。『ゴジラ』とか『ガメラ』とか『ウルトラマン』とか……。

柳下:最近のガメラは福岡ドームも壊すけど。

大森:まあ、ランドマークなら何でも壊すんだけど、やっぱり東京でしょ。

あのころの『ウルトラマン』などにはやはり時代が大きく関係してますよね。

大森:そう、公害問題なんかが背景にあって、とにかくこのままじゃダメだと。でも軌道修正はたいへんだから、怪獣なり天変地異なりで、東京の未来を一度チャラにしてやりなおそうという気分があったんじゃないか。

山形:そう言うと小松左京の『首都消失』なんかも同じタイプかな。

大森:『日本沈没』もそうだよね。あれは東京だけじゃないけど。そういうタイプの典型的な SF が、藤本泉の『十億トンの恋』という短編。これは東京と東京湾が恋をするっていう話なんだけど、厚化粧で見る影もなくなった箱入り娘の東京を、荒々しい海が強引に奪って、地上の建築物すべてを押し流してしまう。たんなる自然回帰じゃなくて、袋小路に入った都市問題を破壊によって解決したいという衝動がナマのかたちで出ている。

しかし、壊れてしまうともう東京には住めないわけですが、サイバーパンクの、例えば『ブレードランナー』のような東京の未来、あそこに現実に住むと考えるとどうなるのでしょうか。

柳下:僕はあれはあれでいいかなっていう感じがするんですけど。……。

山下:私はいやだね、住みたくもない。東京に住むということでは、怪獣は東京を壊したかもしれないけど、『ぴあ』はそうじゃなくて「それでもいいところもあるんだ」といった訳ですよ。それから80年代になって、観念的都市論というか、東京を読み直すという流れがあって、藤森照信さんなんかが出てきて赤瀬川原平さんなんかと、東京のトマソンを探すとかいって……。あれはもう未来は外にはない、現実を過去に置くことによって東京の未来に最後の名残りを惜しむという、そういう方法論な訳ですよ。

荒俣宏の『帝都物語』もその流れですよね。あれにはいっぱい勉強させていただきましたが……。

山下:みんなあれで勉強したんだよ。あり得たかもしれない東京の可能性みたいなものを……。

柳下:70年代の東京ってかっこ悪いものだったと思うんだよね。それが80年代になって、例えば遠藤賢二『東京ワッショイ』なんかが出てきて変わってきた。「TOKIO」とかテクノとか。その頃は、もうチャラにするのは時代遅れというか、もっと退廃的なムードになってくる。

そういう中で、日本からではなくて外国人のギブスンがサイバーパンクの未来を描く、しかもその舞台裏を東京にするというのは、どういうことなのでしょうか。

大森:サイバーパンクの日本趣味って、根っこは伝統的なオリエンタリズムだと思うけど。アメリカのサブカルチャーには、昔から「東洋に学べ」みたいな考えかたがある。ただ、ギブスンの場合は、わび・さびの日本じゃなくて、ハイテクのニッポンを持ってきたところに先見の明があった。もっとも当時はそれほど日本通じゃなかったはずで、だからこそ異様にかっこいいチバ・シティが生まれたとも言える。その後は日本の情報が入り過ぎちゃって、最近の『あいどる』なんて、日本人の目には当たり前すぎるように見えるけど。

柳下:バブルに向かう東京を舞台にしたから、ギブスン自身が意識したかどうか分からないけど、そこには明るい未来はない。さらにもう一回チャラにするというカタストロフの未来もない。だから未来は現代の続きでしかないという諦観をズバッと言えたのかもね。

山下:カタストロフのない未来が諦観というのは、それはまたすごい諦観だ。

柳下:70年代というのは、松本零次の『男おいどん』のような四畳半とビジネス街のオフィスビルがあって、それが私と公として対立してて、それを何とかするためには『首都消失』するしかないわけだ。だけど80年代のサイバーパンクの中では、ビルとビルのすき間に私的なものが入り込んでいく。それがすごく新鮮なんだよ。

それは『アキラ』や、ゆうきまさみの『パトレーバー』も同じ感覚ですね。

柳下:サイバーパンクは廃虚の美学といわれるくらいで、グランドデザインがない。物語もないといわれているけど……。

山形:もう巨大な計画にリアリティーを感じなくなっているんだ。バブルの頃に東京フロンティアといって一生懸命、東京湾を埋め立てていたけれど、それはあまりフィクションに影響しない。

柳下:逆に現実をつくる人ばかりで、文学をやる人がいない。

山形:それはあるかもしれない。80年代のアメリカで広告ビジネスがすごい儲かってた時、文を書く人がみんなそっちに行っちゃって文学をダメになったという説があるくらいだから。

大森:グランドデザインは必要ないっていうサイバーパンク的な考えかたは、は結果的に、バブルの乱開発を肯定する役割を果たしたとも言えるんじゃないの。無秩序なまま、へんなものがぼこぼこ生まれてもそれはそれで楽しい、と。もちろん書いてる側は現状を肯定するつもりはなかっただろうけど。

山形:そうそう、そのころはテーマパーク流行りで、テーマパークの計画がゴロゴロしていた。私も仕事でずいぶん関わったんですけど、手掛ける計画が全部ポシャっていく。しまいには「おまえが入るとプロジェクトがつぶれる」と言われましたよ。

全部実現すると小林恭二の『ゼウスガーデン衰亡史』にあるテーマパーク国盗り合戦のような国になっていたかも知れませんね。
 ところで映像化されたサイバーパンクをはじめとする未来イメージにはどのようなものがあるのでしょうか。

柳下:サイバーパンクのイメージはやっぱり『ブレードランナー』でしょ。それから昔ながらの未来らしい未来は『メガロポリス』、あとは、ツルツルピカピカに殺菌されたルーカスの『THX-1138』、パターンはこの三つでしょう。ほとんどがこの三つに分類できる。

柳下:サイバーパンクの亜種として『未来世紀ブラジル』のゴシック的パターン。

山形:そのあたりは視線が後ろ向きだね。映像といえば『惑星ソラリス』の未来風景は東京の現実。

首都高速で撮ったシーンが映画の中の未来になったんですね。そういう現実とフィクションの関係の一つのパターンとしてシミュレーションもの、例えばもし日本が戦争に負けなかったら、というものが最近多くありますが、これについてはどうでしょうか。

大森:いわゆる架空戦記のような単純な願望充足ファンタジーをべつにすれば、矢作俊彦『あ・じゃ・ぱん!』なんかがそうですね。第二次世界大戦後、日本は社会主義国になって、その首都が東京という設定。これは、チャラにする時点を過去にもっていく訳でしょう。今からやりなおすのはたいへんだから、過去に遡ってやりなおそうと。押井守脚本の『人狼 Jin-Roh』もそのパターンかな。

山形:60年代。でもそこには寓話をつくりたいっていう欲望がある。村上龍は『五分後の世界』でもう一つの世界というか、自分の国をつくりたい訳ですよ。村上龍といえば『愛と幻想のファシズム』の中に湾岸のカジノみたいな場所が出てくるけど、あれは今のお台場?

柳下:そう、橋の向こう。

山形:そうすると、今、石原知事が言っていることと同じ訳だ。お台場にカジノをと言っているでしょ? それは石原慎太郎が村上龍を読んだと言うことかな。

その可能性は大いにありますよね。

柳下?:読んでるにせよ、無意識にせよ、面白いじゃない。小説にコントロールされる小説家知事。(改行)

山形:石原慎太郎自身が物語的だからね。都民も物語を求めて小説家を知事にしている……。

柳下:でも今、政治家になって無理矢理にでも大きな計画をやってみようなんてことがなくなっているよね。

山形:そんな事ない。パリの巨大プロジェクトなんか無理矢理やっているしね。計画をたてるのは自由でしょ。でも今は、やったからどうなるという事が説明できない、予測できない。

大森:トップダウン式の計画がなくても、インフラさえ整えばあとは自然発生的に勝手に発展する――というか、なるようになってしまう。例えばインターネットのように。(トルツメ)

柳下:でも勝手にやっていると出てこないものもある。例えばお台場のカジノみたいな、橋の向こうの悪場所みたいなものはインタ-ネットの中にはつくれない。

今そういう状況からすると、 SF 小説的な想像力が未来を予言して現実化するということはあり得るのでしょうか。例えばディックの『高い城の男』の中の日本人のキャラクターのコレクションはまるでオタクを予言している様ですし、ディックのお得意の人形遊びや箱庭はすぐにでも商品化できそうです。それに私は超高層マンションのマーケティングをやる時に、ハラードの『ハイライズ』の中に出てくるファシリティーを全部書き出してみたりもしました。そういう、 SF 小説のほうでのとんでもないけどリアルな想像力というのでは、今、何があるのでしょうか。

大森:ここ数年は、宇宙開発をテーマにした SF がちょっとしたブームになってますけどね。キム・スタンリー・ロビンスンの《火星》三部作とか。リアルと言えばリアルだけど、ある意味ではこれも、ゼロからやり直そうという考えかた。
 未来都市ってことで言えば、いまの SF 的な想像力は、物理的な都市計画より、電子的なものに向かう傾向がある。『マトリックス』的な人工現実とか、そういう世界での新しいルールを考えてみようと。例えばグレッグ・イーガンの『順列都市』。永遠の生命が保証された仮想世界で暮らす人間の意識はどうなるのか。気分や性格もプログラム次第で自由に変えられるとしたら、どんなふうにヒマをつぶすのか。イーガンはそういう原理的なことをひとりで真剣に考えている。

山形: SF 小説だけじゃなく、都市計画も現実化の手法を考える必要があるかもれない。都市づくりではフィジカルなプランばかりやっていたわけですよ。道路とかゾーニングとか。将棋に例えれば駒の配置だよね。だけど、そうではなくてルールを変えてやるという方法もある。桂馬はこう動く、とか。それでやってみて面白いかどうか試す。いわば都市計画におけるアーキテクチュアだよね。建築ではなくてコンピュータの方のアーキテクチュア。これを深く考えていけばもっと都市計画の地位があがるんではないかな。

柳下:そうは言ってもバーチャル・リアリティーでも都市でも新しいルールづくりなんてなかなか実現しないよね。人間は本来そういう都市とか求心的なものを構築する本能を持っているはずなんだけどね。この際、山形が都知事になる方が速いんじゃない。小説を書いて、シンクタンクなんか辞めて、小説家になって、それから都知事になる。どう?

山形:……?

大森:それだな。でもまず障子を破る小説でベストセラーを出さないとね。

2000.6.17 神宮前にて

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YAMAGATA Hiroo<hiyori13@alum.mit.edu>
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