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21 世紀後半には別の形での欲望の組織が行われ、セクシュアリティは反動となる。

『國文學』 1999年 1 月号「特集:セクシュアリティ革命」

山形浩生

要約: 個人化が進むともはやセクシュアリティなんてものはほとんど意味がなくなり、むしろそういうことを言うこと自体が、かつての性にこだわりすぎた文化の名残として反動扱いされるだろう。いまの性的刺激もすべて脳への電気的刺激やある種の条件反射に還元されてしまうはずだ。いまのおたくの巨乳やヤオイも、そうした条件を探るための実験の一環で、それは着々と成功しつつあるようだ。


 すでに 21 世紀が目前に迫ったいま、21 世紀のなんとかについて語ることは、ある程度までいまのわれわれについて語ることではある。そしてもはや 21 世紀がまったく新しいなにかをもたらしてくれるという期待はあまりない。われわれは、いまのだらしない延長線上で 21 世紀を迎えるだろう。

 それはセックスという面でもそうだ。セックスに関わる動きがいくつかすでに進行中で、それがこれからあと数十年はずるずると続くだろう。それにともなってあらわれる現象も、ずるずるといまの続きで進行するだろう。というより、あらゆる予想はこのように、現在の延長という形でしかできない。かつてのカタストロフ理論も(ある程度までは)いまのカオスや複雑系も、そうではないものを予測できないかという希望で注目された面が大きいわけだけれど、どちらも予想のツールとしては使えないのだ。複雑系やカオス理論にいたってはまさに、その予測がわれわれには不可能だということを実証してくれてしまっている。われわれにできるのは、いくつか目立つ要因をとりだして指摘することぐらいで、「こういうことがあってもいいかな」くらいの見当づけでしかありえないのだけれど。

 さて、現在の延長にあるそうした大きな要因としてまず挙げられるのは、資本主義がいまよりさらに徹底して進むという点である。そしてその結果として、家庭の崩壊と解体がもっともっと進むだろう。

 家族・家庭は、現在は労働力を組織する一つの手段であり、また同時に種の再生産と、子供の養育を担保するための仕組みである。そしてその中で、男を働かせるための仕組みとしてセックスに基づく権力関係がねつ造されている。なぜそのとき男のほうが優位にたつような仕組みが多いのかについては、ヒトの妊娠期間が長いから女は活動に制限ができるためだ、とかいろいろ議論があるけれど、いまのところ「わからない」というのがいちばん正直な答えだろう。
 ほかの仕組みも十分にありえるのは、多くの論者が指摘する通りである。フルディらは、サルにも売春のような行為が存在することを発見している。やらせてやるからあたしに貢げ、あたしを守れという現象である。それがすぐに、じゃあ貢いだからやらせろ、守ったからやらせろ、ほかのオスにはやらせるな、という力関係に発展する、というのが一つの仮説ではある。そして、それを猿山方式ではなくなるべく広く均等にばらまくことで、個体数を確保するのが現在のような家庭のもつ生物学的な戦略である、というような議論も、かなりおもしろい説得力あるものだとは思う。そしてもちろん、いまの企業システムは、そうした仕組みを積極的に肯定して支援することで成立している。たとえば配偶者手当や扶養家族手当、という形で。

 しかしもちろん、資本主義の進行とともに、こうした条件は変わってくる。もちろんクローンや試験管ベビーにより、種の保存と生殖手段が変わってきた点は大きいし、育児などをはじめとする家事サービスもますます外部化されるようになってきている。そしてそれがさらに、いままでは家庭内にこもっていた家事労働が、経済統計にのるようなものとして、金銭を獲得できるようになってくる。こうなってきたとき、いままでの家庭は意味をどんどん失ってくる。もはや女もセックスに依存せずに生活できるようになってくる(もちろん、そうでない人たちもいる)。社会も、人を働かせるために家庭でのセックスを通じた権力関係を必要としなくなってくる。

 さらに、いまの家庭に期待されていると思われるある種の社会関係訓練所としての機能も、もはや消滅しかけているのではないか。好き嫌いをとわずいっしょにいざるを得ないことで、なんらかの譲歩や協調、かけひきといった社会的な作法を修得し、日常性の感覚を獲得するという機能が家庭にはある程度期待されている。しかしこれがメディアの変化によって、すでにうまく働かなくなっている。テレビもそうだし、コンピュータネットワークもそうだし、いちばんわかりやすいのが携帯電話だろう。携帯電話は、目の前にいる相手を一瞬で連れ去ってしまう。家庭でいっしょにいることである種の日常を紡げるというのは、そろそろ説得力を失いつつある。人はビデオのポーズボタンを押すように会話を中断して、遠い他人と接続してしまう。ぼくはそれをやられるととてもむかつくけれど、多くの人は「だって仕方ないじゃん」とまるで平気なようだ。

 こうして家庭は存在意義を失う。反動的な動きは確実に生じるだろう。それがどこまで効力を持ち得るだろうか。たぶんほとんど意味をもたないだろう。少なくともいま行われているような形では。保守を名乗るいろんな人が、父性の復権とかいうバカなことを口にしていて、惨めなもんだと思う。すでにサラリーマン化の進行で、父親は本当に抽象的な給料の運び屋にすぎない存在になっている。そしてその父親が家で目に見える形で果たせる役割はほとんどないのだもの。家にほとんどいない、いるときは疲れて寝ているしかない父親に、いったいなにを期待しているのか。しかも唯一の存在意義である金銭獲得能力も、ほかの家族メンバーに脅かされるようになってくる。父親になにが残されているのか。「父性」を確立しろというのは威張れるようになれということだけれど、こういう状況では、残された道といえば暴力を使って粗暴になれと言うに等しい話だもの。そしてそれすらいまは困難になっている。

 家庭がくずれたときに、いまの社会がどういうふうになるのかはよくわからない。あらゆる関係、あらゆる交渉が金銭ベースで行われるような、そういう関係になるのだろうか。育児は金銭で他人に任せられるが、そもそも自分の子供を育てたいという感情は残るんだろうか。それとも、それすら変質するんだろうか? むかし計算してみたことがあるけれど、どう考えても子育ては割に合わない。収益性があまりに低いし、リスクがあまりに高い。それが明らかになりつつあるからこそ、出生率は低下しているのだ。これがどこまで続くのだろう。いまのペースから見て、これがもっとあらわになってくるまでに要する時間は、20 年というところだ。

 こうして家庭が、完全に消滅しないまでも、いまより後退した存在になってくるのと並行して、いろいろな意味での性の「乱れ」がますます進行するだろう。

 最初のうち、それはまだわれわれに理解可能なものとなっているはずだ。それは売春ににたもの、いや売春そのものになるだろう。性的サービスを、はっきりと金でやりとりする行為。もちろんこれは援助交際なんかですでにはっきり生じつつある。そして国連も含めて世界的に見ても、すでに売春そのものは合法化、非処罰化への動きをとどめがたいものとなっている。売春そのものを禁止すべき合理的な理由というのは何一つ存在しないのだから。いまの売春の問題は、単なる労働環境の確保の問題と、労働者の権利保全の問題でしかないのだから。家庭という「正しい」男女関係のありかたさえ崩れてくれば、売春を特殊視する必然性は低下する。
 そして男女関係以外の性交渉だって、相対的に地位を高めてくる。だんだんそれは、男でも女でもどうでもいいことになってくる。性別は意味をもたなくなる。単なる趣味の問題になってくる。人間の「性欲」には実は何の根拠もなく、適当なインプリンティングでどうにでもなることは、あちこちで指摘されている。男が女に、女が男に性欲を感じるというのは必然でもなんでもなく、ゲイでも、近親相姦でも、なんでもまったくかまわないのだ、というわけ。男もおのれのセクシュアリティを発揮して春をひさぎ、女もおのれのセクシュアリティの差異を最大限に活かしてセクハラをする、というすばらしいフェミニズムの理想郷がそこには実現されるだろう。

 ただ残念なことに、そのときのセクハラはすでにいまのような楽しい陰湿な付和雷同的ないじめや権力発揮として性格をうすれさせてしまっているかもしれない。たぶんその時点でのセックスは、一種のスポーツのようなものになるはずだ。別にそれは、身勝手なまぐろセックスになる必要はない。うまく雪面の状態をとらえてきれいに動くことにスノーボードの快感があるように、相手の状態を見てそれにうまく自分を応答させる快感はあるはずだ。相手に対する執着も、ダイビングやクライミングのバディと似たような、単にうまのあう相手、というもの以上にはならない可能性もある。

 そのとき、いまと同じ意味で、権力関係的な意味づけを残した形でのセックスとしては、ペドファイルが残るだろう。泣き叫ぶ子供を無理矢理押さえつけて殴りつけ、股関節がはずれるまで股を開かせ、さかさにしてふりまわし、肛門や性器に拳をつっこんで血を流させ、激痛に全身をけいれんさせるその筋肉の収縮を感じ、泣きながら恐怖にひきつりつつ、放心状態でこちらの性器をしゃぶる相手の顔をながめ、それを足蹴にして蹂躙するとき、そのときわれわれは、相手を完全に支配したという心の底からのよろこびと爽快感をおぼえるはずだ。もちろん、これは合法化されることはあり得ない。したがってこうしたサービスはきわめて高価なものとして、隠微に栄えるはずだ。そのとき家庭はむしろ、そういうことを行うためのかくれみのとして存続する可能性もないわけではない。

 あるいは強姦。いやがる相手から無理に性的サービスを引き出したことで支配欲を満足させるかもしれない。もっとも、セックスが単なるスポーツになっているときにそれがどこまで意味を持つかは疑問ではあるけれど。それはもはやセクシュアリティと呼ぶべくもない、自分の力を誇示したいというまったく別の欲望なのかもしれない(が、それは本当に別物なのだろうか)。

 そしてそれは最終的には、相手が人間であることさえ必要でなくなる。バラードは、技術風景(テクノロジカル・ランドスケープ)という話をよく引き合いに出す。廃棄物と廃液にまみれた処理場、車や高速道路、自動車事故に対する欲望、そしてその他さまざまな、テクノロジーの産んだ風景への欲望。それはセックスの一種として描かれるが、いまのわれわれにとってそうした欲望がセックスにおいていちばん強く発揮されるからそうした表現手段が採用されているにすぎないともいえるだろう。

 あるいはギーガーのバイオメカノイドたち。機械と一体化した人間状の生物たちの、果てしない性交(といえるのか?)がそこには描かれている。それはエロチックなのだけれど、でもそれは、そこに描かれた性器のためではない。性的な結合と、人間・機械の融合とが等価に結ばれていること、前者と後者に共通性が明らかに存在していることはあらわになっているがために、ギーガーの絵はパワーを持っている。われわれにはそういう欲望もあって、それは性欲とほとんど同じものなのだ。

 その欲望が何に対してでも向けられるなら、それを「性」欲と呼ぶことさえ妥当ではないのかもしれない。それはなんらかの欲望ではあって、ただその正体はよくわからない。金塚貞文は「性的欲望なんかいらない」という。対象があるから欲望がうまれる。それを、その欲望だけを取り出して議論しようというのは、倒錯ではないのか、という。その対象だけを一生懸命考えればいいのではないか、と。だが、主張はわかるものの、必ずしも納得できる議論ではない。たぶん車マニアのフェティシズムは、車をいくら調べたところで明らかにはならないだろう。

 そしていずれ欲望を組織する方法としてのセックスが地位を低下させるにつれて、いま議論されているようなさまざまな「セクシュアリティ」という考え方はまったく意味を失う。どこかの時点で、セクシュアリティという概念でものを考えること自体がむずかしくなるだろう。それはただの現象にすぎないものとなってくる。それと前後して、フェミニズムは解体するか、抑圧的な反動としてのみ存続することになるだろう。

 ただしこれは、もし資本主義が続けば、という前提にたっての考察である。いま 20 世紀の終わりにあって、資本の働きについて、われわれは必ずしも以前ほどの確信をいだけなくなっている。それはこの 10 年ほど、どうも市場というものの働きに限界が感じられつつあるという点が挙げられる。これは単に、不景気が長引いているがゆえのペシミズム、という可能性は大いにあるので、注意しなくてはならない。にもかかわらず、われわれはそうした不安を持っている。これまでは、資本をうまく流動化させるだけで増大するフローは存在した。流通を改善させたので全体のスループットが増えてきたわけだ。しかしそろそろ、流通ではどうにもならなくなっているのではないか。その根底にある生産能力や消費能力が問題になってきたのではないか。そのための欲望組織方法を考え直さなくてはならない段階にきているのではないか。そしておりしもそのときに、もう一つのポイントが浮上してきている。それはフリーソフトなどにみられる、金銭や市場以外の動機づけによる人間活動が本格的な迫力を持つようになってきたという点である。

 前者のポイントについていえば、同じく金塚貞文の指摘だが、資本主義はある意味で、性が根本的な商品であって、商品の性化によって多くの商品は市場での価値を獲得している。もし金塚のこの洞察が正しいなら(かなり正しいだろう)、性がどうでもよくなってきたときにいまのような形での資本主義は成立しなくなっているかもしれない。そのとき価値はなんに担保されるのだろうか。

 そのとき、この世界がどうなっているのかはわからない。一つの仮説として、そのときすでに人間は霊長類であることをやめ、機械の従僕となっているのではないか。相互にむすびつくよりは、機械に従属し、機械からもらう報酬にのみよろこびを感じるようになっているのではないか。それはたとえば、要りもしない、使いもしないコンピュータを次々に買いあさり、それが何の成果も挙げなくてもまったく気にしないといういまの情報投資なるものの現状を見ると、なんとなくわかるだろう。なぜ収益や市場的にまったく正当化され得ないこのような「投資」が、すでに数十年にわたって続けられているのだろうか。

 その手段として、たとえばウィリアム・バロウズをはじめとして、脳に直接電極なりなんなりをさしこんで刺激を与えることで快楽を生じさせるような方向性を構想する人もいる。が、たぶんそういう面倒なことはされないだろう。そんなことをするまでもなく、いますでに、人はきわめて単純な刺激と反応のサイクルの中でのみ生きるように訓練されつつある。それはいまのきわめて幼稚なテレビや、きわめて幼稚なディズニー商品など。あるいは、テレビゲームに見られるように、単純な刺激とそれへの応答だけで、人は何の報酬もなしにいつまでも機能し続けられる。ほかの生物を見れば、性的な反応というのはきわめて単純な刺激だけで構成されている。腹が赤いとか、ちょっとフェロモンが出ているとか、そんな刺激だけで性的なメッセージはできているのだ。おそらく人間にもそういった非常に単純な刺激があるはずだ。それがきちんと見つかれば、もう実物の人間を持ち出してこなくても、自由に人の動きをコントロールできるようになるだろう。たとえばフリーソフトは、評判や名声といった動機づけでも生産システムがきわめて有効に作用することを証明してしまっているのだ。ほかのところでもそうした動きがあり得るだろう。

 そして文学なり芸術なりに、なにか意義が長期的にあるとすれば、それはこうした人間の刺激と反応の可能性を探ることにあるはずなのだ。人間の刺激に対する反応を抽出して、新しい人間制御の可能性に貢献することであるはずなのだ。アタリはノイズが次々に音楽へと編入されるさまに、資本主義の先駆を見いだしている。バラードは、自動車事故や高層アパートや核実験施設などにそうした新しい刺激の可能性を見いだしている。ボルヘスなら「その一語だけで読者がいきなり射精してしまうような究極の単語」とかいう話を書きそうだけれど。いま、おたくアニメやロリコン・やおいまんがなどで追求されている、自分の刺激を受けるポイントだけが誇張された、われわれには醜悪としか見えない作品も、おそらく長期的には、そうした生物・社会的な要請の一つの産物ではあるのだろう。

 ぼくのモデルが正しければ、この段階までくるのに、おそらく 63 年くらいかかるだろう。63 年。20 世紀における 60年代は、さまざまな意味で社会的な変動の大きな時期だったといわれるけれど、21 世紀の 60 年代もまた、こうした巨大な社会変動の時代となるのだろうか。そのとき、もはや今日的な意味でのセクシュアリティは存在しなくなり、なにかよくわからないブヨブヨした欲望の固まりだけが、さまざまな刺激に反応を繰り返すだけとなっているのかもしれない。ぼくたちの多くはおそらく、命あるうちにこうした変動をまのあたりにすることとなる。


学燈社 國文学編集部 牧野さま

1998 年 11 月 16 日 山形浩生

本当にさんざん遅くなって申し訳ありません。なんかわけのわからんものができてしまいました。ご要望に添えるかまったくわからないですが、取り急ぎ。ちょっと字数的には大目になって、17 枚くらいになっているはずです。

いま、ニューヨークにおります。あとでお電話いたしますが、もし問題点やご要望事項があれば、ファックスでご連絡いただくのがいちばん確実です。では。

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