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進化論の楽しさと威力、そして宗教との共存

David Sloan Wilson, Evolution for Everyone: How Darwin's Theory Can Change the Way We Think About Our Lives (Delacorte Pr, 2007)

(『一冊の本』2007 年 7 月号 pp.26-7)

山形浩生

要約: 進化論が実に単純な発想であること、それでもいまだに各種の分野に驚くほどの成果をもたらしつつあることを楽しく語った入門書。それは閉じた学問の世界を開く発想でもある。そして進化論者が往々にして嫌う宗教も、進化論的な有利さがあって発達してきたものであることを理解すれば、むげに嫌うこともない。その有用性を認めて評価し、適当に調子をあわせせてやれば共存の道はある、と著者は述べる。が、科学は共存を許しても、宗教の側はそんな功利主義的でうわべだけの信仰を認めてくれるのか?




 進化論はアメリカでは結構な鬼門で、人間ははじめっからそのままの形で神様がこしらえたんだと信じている人がいまだに多い……どころかかえってそういう連中が増えてしまっているのが現状だ。そして聖書原理主義で進化論全否定な人々と、そういう連中をバカにしてやまない進化論支持者たちがかなり厳しく対立している。

 さて、本書はこれに対して、両者は対立する必要がないんだ、宗教と進化論を両立させる立場があるんだ、と主張する。そしてまずは進化論や自然淘汰の基本的な考え方からはじめ、サルや犬の尻尾等々、楽しい進化論的なトピックをちりばめつつ、最初の論点をどんどん補強する。

 かれが述べる基本的な考え方は、要するに生存に有利な条件を備えていると、そういう個体は増えるよ、というだけのことだ。「たったそれだけなの? はい、ほぼその通り。自然淘汰について学ぶのは、早漏みたいなものだ。長いことかけて壮大なクライマックスに到達するのかと思っていたら、始まったとたんに話はほぼ終わってしまうんだから!」(p.18)

 そしてかれは、進化論的な発想がまったくの素人であってもいろいろな分野に適用できるのだと指摘し、実際にそうした素人が多くの分野に進化論的発想を持ち込んで大成功を収めた例を挙げる。たとえば、マージー・プロフェットによる、妊娠女性のつわり理論などだ。つわりは不快なものだし、明らかに妊娠中の女性の適応性を引き下げる。でもそれは、赤ん坊を守るための機構として機能するので温存されたのではないか? そしてそれを人工的に抑えようとすると、かえって赤ん坊に害を及ぼすのではないか? まったくの医学の素人だったプロフェットはこの理論をたずさえて登場し、それを見事に実証して見せた。

 そしてそこからかれは、この発想を協力関係、社会構築にまで適用する。社会は、人々の生存に有利だったからこそ生き残った。これまた進化論的に説明がつくものだ。別にそれが遺伝子的に根拠づけられる必要はない。残る理由があるものは残る。それ以上でも以下でもないのだ。また道徳にもそうした面がある、とかれは述べる。各種道徳規範は、恣意的なものではなく、社会の存続に有利だからこそ残っているのだ。

 では、宗教はどうだろう。多くの科学者――特に宗教に攻撃されることの多い進化論者――は、宗教を過去の遺物であり、早晩人々が捨て去るべきものだと主張することが多い。最近、『神という妄想』なるタイトルからして攻撃的な本を書いたドーキンスもそうだし、もう少し穏健ながらダニエル・デネットもそうだ。そしてそれが宗教側と、売り言葉に買い言葉のけんかを引き起こすことも多い。

 だが著者は、宗教だって進化的な適応現象なんだ、と主張する。だからむげに否定する必要はないのだ、と。世で残った宗教は、社会をまとめる力を持ち、そして社会に対してアカウンタビリティを持つ(つまり上層部が極端にやりたい放題をしない)宗教だった。つまり宗教は社会統合のツールという重要な意味を持つ。神様とか奇跡とか超自然的な話は、そのおまけにすぎないのだ、と。そう考えれば宗教と進化論は十分に共存できるじゃないか、と。

 著者デビッド・スローン・ウィルソンは、進化論の分野では有名人だ。シデムシなどによる適応研究で名を挙げたが、最近になって社会や道徳、文化に進化論を適用する研究で飛躍的に知名度を上げている。そしてかれの著書の中でも、最新作の本書はあまり専門的でもない。もともと大学の学部生向け進化論講座での経験をもとにしたものでもあるし。宗教云々の部分を除いても、メカニズムに深入りしない進化論の発想をわかりやすく述べた本としてたいへんにおもしろい。おもしろいのだが……

 ぼくは最後まできて、かれの宗教の理論にまったく納得がいかなかったのだ。確かに、宗教がある種の進化的な適応として理解できるのは事実なんだ。宗教は確かに社会をまとめる力を持つ。それは各地の宗教団体を見れば明らかなことだ。が……宗教と科学/進化論が対立するのは、そういうところではないんじゃないか?

 著者が言っているのはつまり、宗教というのは基本的にはウソだ、ということだ。神様とか奇跡とか、そんなものはすべて方便。単にそれは、人々を共通の規範のもとにおいて、社会としてまとめるためのおとぎ話なんだ、と。確かに進化論者は、それで納得するだろう。

 だが、宗教側はそうはいくまい。キリストが神様の息子さんだなんて信じないけれど、でもキリスト教の社会規範は受け入れるからぼくはキリスト教徒です、といっても認めてもらえないだろう。著者は、マルクス主義やなどを挙げて、超常的なものがなくても宗教(もどき)は成立する、と主張するけれど、マルクス主義の多くは絶対無謬の党を掲げ、多くの国でそれが個人崇拝カルトと化したのも事実。それどころか宗教が社会的なまとまりを作り出す手法の一つが、常識的にはありえないことを敢えて信じると言わせることで帰属感を確認することだ。その超常的な部分をなくしては――自分より高いものへの帰依をなくしては――そもそもの社会のまとまりさえ機能しないはずなのだ。

 ぼくはこれがあたりまえのことだと思うし、深い信仰を持つ人たちを見ていれば自明なことだと思うんだが。でも著者は、なぜかその点を完全に見逃している。超自然的なものは宗教には不可欠だし、だからこそ宗教と科学の対立があるのだという点を、著者は本気で忘れているのか、それとも議論の都合上見えないふりをしているだけなんだろうか。あるいはむしろ、科学側に宗教をどう理解すべきか教えて寛容さを訴えるのが狙いで、その逆は意図していないと感がえるべきか? それが本書を何度か読んでも消えなかった疑問ではあるのだが……

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YAMAGATA Hiroo<hiyori13@alum.mit.edu>
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