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毎日新聞ネット時評 2009

山形浩生

目次

  1. 2009.11 ネット発のデフレ議論
  2. 2009.08 ネットの過度のデータコントロールと自由
  3. 2009.05 豚インフル騒ぎに見る、ネット優位の限界

連載 3 回

ネット発のデフレ議論

(毎日新聞 2009/11/26 掲載、pdf 版

 当然のことながら、ネットが普及するにつれて「ネット論壇」も変化する。このコラムも当初は、現実世界とは隔絶したネットの片隅で行われているおたくたちの風変わりな議論を、動物園の珍獣を見るように見物しようという意図があったように思う。だがいまやネットの議論はリアル世界と相互に影響しあうだけの力を持つに至っている。それを感じたのは、この十一月に急激に展開した、デフレ関連の動きを目の当たりにしたからだ。

 日本はかなりの長期にわたりデフレが続いていた。デフレとはインフレの逆で、物価が持続的に下がり続ける現象を指す。待っていれば物価が下がるので、人々は買い物をなるべく先送りしたがる。でも、みんなが買い物をを控えたら、経済全体では不景気が生じる。いまの経済停滞や失業率の上昇などは、ほとんどがこのデフレの副作用だといえる。それを解決するには、軽いインフレに戻すリフレ政策を採る必要がある。

 だがこれまでの日本政府や日本銀行はこのデフレの害をまったく顧みようとはせず、対策を怠ってきた。そしてマスコミも(残念ながらこの毎日新聞は特に)それを指摘しないどころか、逆にデフレは物価が下がるからよいことだなどとうそぶいて、問題を悪化させてきた。

 だがこの十一月に状況は一変した。その台風の目は、今人気の勝間和代だ。彼女がなぜ急にデフレに関心を持ち、それを何とかせねばと思うに至ったのかはまったくわからない。ぼくは勝間のよき読者ではないが、それまでの彼女はマクロ経済政策的な不景気対策よりも、個人の努力での景気回復をというナイーブな立場だったように思う。それがある日ネット上で突然、彼女はデフレの害を訴え始めた。そして、リアルタイムのつぶやきシステムとでも言うべきツイッターで、デフレ対策を求める署名運動を開始。その直後に勝間は、菅直人経済財政担当大臣に対してデフレの害を直訴し、リフレ的な対応による景気回復策を主張する。そしてその数日後には、その菅直人が月例経済報告で、日本がデフレ状況だと明言するに至る。

 そしてそれを受けて、ネット上でもデフレ議論が急激に活性化した。ネット上では以前から、反デフレ・リフレ支持論者と、それを否定する論者が小競り合いを続けてはいた。実はリフレによる景気回復論の発端となったポール・クルーグマンの一九九八年論文も、まずネット上で発表された(ちなみにそれをいち早く訳して日本に紹介できたのは、ぼくの数少ない自慢の一つだ)。初出が査読誌ではなくネットだったことは、この理論に対する中傷の材料になったのだが。だがその後の十年で、この理論は精緻さを増し、支持者も増えた。もはやその初出など気にする人はいない。そしてその間に行われた議論が、この一月ですべて蒸し返されて再整理されている。そして大手新聞にもようやく、デフレの害をきちんと述べた解説が載るようになった。

 ネットでの動き、リアル世界での動き、政治の動き、そして既存マスコミの動き――それらがこの十一月には、デフレと日本経済をめぐってほぼ同時に動き、筆者をはじめとするリフレ支持者たちが十年がかりでもなかなか実現できなかった現実的な成果が生まれた。これは驚き以外の何物でもない。それがこれほど一斉に生じたのは、誰かの仕組んだシナリオでもあったのか、と勘ぐりたくもなるほどだ。もちろん今回は勝間和代という個人による戦略的なネット活用があったのも大きい。だがそれを差し引いても、ネットでの議論や動きはもはや現実世界にとって無視できないものとなりつつあるのだ。あとはこの勢いでリフレ政策が実現されて日本がデフレを脱してくれれば何も言うことはないんだが……

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連載 2 回

ネットの過度のデータコントロールと自由

(毎日新聞 2009/08/24 掲載、pdf 版

 ここ数年は、本や雑誌という媒体がインターネットが既存のメディアをどう変えるかは、ネット業界お気に入りの話題の一つだ。紙媒体の終焉は長く言われているが、それにかわるはずの電子ブックなどは前世紀末からなかなかモノになる気配を見せない。それを読むためのリーダー機器が未成熟なので、コンテンツの点数が乏しく、流通体勢も整わず、だから機器も売れないという悪循環が繰り返されている。

 だが昨年から今年にかけて、それが急変しつつある。グーグルが世界的にすさまじい量の書籍の電子化に乗り出し、日本では未発売だがアマゾン・コムがキンドルという電子ブックリーダーでかなりの成功を収めている。流通も、そのアマゾンや、アップルのiTunesストアなどが手法をほぼ確立しつつある。

 だがその一方で電子メディア特有の問題も次第にあらわになりつつあるようだ。

 アマゾン・コムのキンドルで、オーウェル「一九八四年」「動物農場」の電子ブックを買った人は、六月に驚かされることになった。版元に問題があったから、としてこれらの本が手元のキンドルから勝手に消し去られていたのだった。問題のある本が店頭から引き上げられるのはよくある話だ。だが、本や雑誌や通常のソフトなら、いったん買ったものを勝手に取り上げられることはありえない! アマゾンは、この対応のまずさについて謝罪し、二度とやらないと宣言した。が、そもそもそんなことができるということ、そしてそれが実際に行われたことには多くの人が戦慄した。しかもそれが皮肉なことに、まさにそうした情報統制社会の恐怖を描いた「一九八四年」で起きるとは。

 またiTunesストアも問題を起こしている。アップルはこのオンライン店で販売されるiPhone/iPod用のソフトの健全性に、きわめて神経を使っている。わいせつ語が入っているソフトは、軒並みアダルト指定を受ける。先日、なんと辞書がこれを理由にアダルト指定を受け、ストアへの出店を拒否された。アップルはこれについて、対応のまずさを認めてはいるが、でも方針には今のところ変化はない。

 我が国では、動画投稿サイトニコニコ動画が同様の問題を見せた。酒井ノリピーの昨今の騒動を受けて、彼女の歌の替え歌を歌唱ソフト『初音ミク』に歌わせた動画が投稿された。ところがそれに対し、なんとその歌唱ソフトのメーカーであるクリプトン・フューチャー・メディアが、そんなことに使われたら自社ソフトのイメージダウンだ、と称して削除を要求したのだ。

 当然ながらかれらは自社製品で作られたコンテンツに対して何の権利も持っていない。が、信じられないことに、ニコニコ動画を運営しているニワンゴはあっさりその抗議に応じて、問題の動画を削除してしまった。ニワンゴの経営陣でもある西村博之はこの対応に疑問を述べ、その後同社は、問題の動画を復活させた――投稿者に対する自主検閲を促すコメントつきで。

 ネットは著作権無視でコントロールのきかない無法地帯とされる。でも実はデジタルコンテンツの真の問題は、コントロールができすぎてしまうことなのだ。今回とりあげたケースはいずれもそれを如実に示している。いま多くの日本のコンテンツ運営業者は、抗議があればそれが正当なものだろうと不当なものだろうと、人に不快感を与えてはいけません、といった低級なお題目の下に問題のコンテンツをとりあえず消してしまい、その場をおさめるというのがありがちな対応だ。ニワンゴの対応はその好例だろう。だがそれでいいのか? 目先の快・不快なんかより重要なことが世の中にはある。デジタルコンテンツも、そろそろそれを考えざるを得なくなりつつあるのではないか。

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連載 1 回

豚インフル騒ぎに見る、ネット優位の限界

(毎日新聞 2009/05/21 掲載、pdf 版

 ネット議論についてぼくや稲葉振一郎が書くのは、いささかマッチポンプ的な側面もある。というのもこの二人は、ネット上での多くの議論で、単なるウォッチャーどころか当事者であることも多いからだ。 今回の件も、多少そんなところがある。今回の件とは、新型インフルエンザに関するネットの反応だ。 

 インターネットに伴う自由な言論と民主主義の高まりについては、多くの人が期待と希望を表明している。多くの人がブログで意見をいいあい、独自の分析や情報を加えてマスコミ報道などを検証修正することで、もっと民主的な世論形成が可能ではないか、というわけだ。

 確かに、そうなることもある。窓の外はいい天気だ。だが新型インフルエンザでは、そうはならなかった。この件については既存マスコミとネット論者たちは、まったく同じことをやった。数少ない情報源であるWHOや保健当局の発表をもとに、話を誇張してあおったのだ。スペイン風では何百万人死んだ、今回もすごいことになりかねない、ほらパンデミック目前だ云々。

 確かに、当初のメキシコの状況に関する報道は、感染者がまたたくまに千数百人に達して死者も百人超というすさまじいものだった。過剰な反応もやむを得ない。でも四月末時点頃には、感染者も死者もそんなにいないことは明らかになっていた。それなのにネットでの論調は相変わらず。たとえば稲葉振一郎のブログなどは未だに新型インフル情報をトップにあげ、豚肉に対する風評被害を懸念する同じ記事で、豚肉にはよく火を通せなどと書いて自ら風評を悪化させている。一方のマスコミも当初の過大な死者数を掲載し続け、国内感染例が報告されてからはネットもマスコミも、スペイン風邪は数年たってから突然変異したから今回もヤバイかもしれないと楽しげに脅すばかり。

 なぜこの件では、ネットもマスコミも同じことしかできないのか? 理由は簡単。情報の出所がそもそも限られているからだ。別の視点や情報がない。結果として、両者は同じネタをもとに、自分の不安や聞きかじり情報を足すしかできなかったからだ。そしていちばん恐ろしげなことを言ったやつが目立ち、みんながお互いの不安を参照し合い、それが増幅する。

 これは一方で、舛添要一厚労相を筆頭に保健当局の情報伝達のまずさでもある。今、アメリカからの直行便は、すさまじい検疫体制だが、ソウル等などの経由便はほぼ完全にフリーパスだという。当局だって水も漏らさぬ検疫が狙いではなく、ある程度入り口をしぼって国内進入を多少遅らせればいいとしか思っていないはずなのだ。

 保健当局が多少用心気味の反応をするのは仕方ない。後々詰め腹切らされるのもいやだろうし。でもそれに対して、本当ならマスコミなりネットなりに期待されるのは「さはさりながら、多少は入ってくるのは仕方ないでしょ」と冷静に指摘することだったはずだ。国内感染者数をいくら騒いだところで、一般人にできるのはうがいと手洗い励行くらいなんだし。

 それができないのは、ネット論議の限界を示すものではある。一次情報源が限られているときにはネットには何の優位性もないのだ。ネット論壇の真価の一つは、その視点なり情報源なりの多様性だ。それが発揮できないときには、ネットも既存マスコミと何ら変わらないか、それ以下でしかないことも多い。受け手はそこまで考えて情報を咀嚼する必要がある。

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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>
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