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世界最小のマクロ経済モデル

THE WORLD'S SMALLEST MACROECONOMIC MODEL (1998)

ポール・クルーグマン   山形浩生訳

要約:世界最小の経済学モデル紹介。財とお金しか出てこないし、期待も何もない。でも、人々が持ちたいお金の量が実際のお金の量を上回ると失業が発生することがわかるし、乗数効果も出てくる。ラフなモデルだけれど、マクロ経済学(つまりケインズの主張)の本質はあらわしているんだよ。


 このモデルは一九七五年にロバート・ホールから教わった。ばかげてつまらないものに見えるかもしれない。でも当時のぼくには、それがマクロ経済の「需要サイド」で起こっていることの本質を捕らえ、世間一般と、言いたくはないがかなりの博士号を持つ経済学者たちの両方が混乱しがちな点をはっきりさせるのに役立つと思った。いまのぼくもそう思う。これはまた、ぼくが大好きで何度も活用してきた経済たとえ話、赤ん坊子守協同組合(経済を子守してみると) にもうまく適用できる。

  財はたった一つ。収益一定で、生産要素はたった一つ、労働だ。単位をいじって、労働一単位が財一単位を生産するようにしよう。すると価格水準と賃金水準は同じはずだ。それを一つの記号 \(P\) で表せる。

  資産もたった一つ。お金だ。エージェントたちは今期の初めに \(M\) ドルを持ち、消費して労働の売り上げを稼ぎとしてもらうことで、\(M'\) で終わる。効用は、消費 \(C\) と、期末の手持ち現金から得られる期待購買力から得る (お金の効用は、将来の消費をもたらすのに役立つかどうかを反映するんだろう。でもこの暗黙の動学問題は見て見ぬふりをする)。つまり効用関数は次の形を取るものとする: \[U = (1-s) \ln(C) + s \ln (M'/Pe)\]

(訳者説明:ここでいきなり対数関数が出てくるので、それだけで挫折する人がいるようだけれど、この先の話にはまったく関係ないので無視していい。重要なのは、単に消費 \(C\) からの効用と、手持ち現金の期待購買力からの効用との加重平均が効用だ、ということだけ。そして期待購買力は、期末での手持ちのお金 \(M'\) が、将来の価格 \(Pe\) のものをどれだけ買えるかということなので、\(M'/Pe\) であらわされる。それだけ。この先でこの効用関数が意味を持つのは、「消費者たちは当初の富のうち、\(1−s\) 分だけ財に使い、\(s\) を現金に使う。」という下りだけ。それ以上のことは考える必要なし。)

  ここで \(Pe\) は期待価格水準だ。でも消費者は期待が変わらないと仮定して、\(Pe = P\) とする。

  最後に、人々は労働 \(L\) を持っているものとする。

  まず、このモデルの完全雇用版を考えよう。労働が完全雇用されるとき、予算制約は \[C + M'/P = L + M/P\]

  でもマネーサプライが一定なら、 \(M' = M\) だ。だから両辺から\(M/P\) を消去して、\(C = L\) になる。効用関数を見ると、消費者たちは当初の富のうち、\(1-s\) 分だけ財に使い、\(s\) を現金に使う。つまり均衡は、財の需給が一致する条件で表せる: \[L = (1-s)(L + M/P)\]

  あるいは、お金の需給が一致する条件でも表せる: \[M/P = s(L + M/P)\]

  どっちの場合でも、価格水準についての等式は以下になる。 \[P = [(1-s)/s)](M/L)\]

  つまり物価はマネーサプライに比例する。

 でもここで、価格硬直性を少し導入しよう。仮に何らかの理由で――理由はどうでもいいんだが――物価(賃金)水準は完全雇用をもたらす水準以上で固定されていて、お金の実質残高である \(M/P\) が完全雇用水準より低すぎるとする。これがもたらす問題は二通りに書ける。完全雇用のときには、実質現金残高がお金の供給を超えるのだと言ってもいい: \[M/P < s(L + M/P)\]

  あるいは、完全雇用のときには、総需要が産出より低いと言ってもいい: \[(1-s)(L + M/P) < L\]

  これは同じモノを別の形で見ているだけだ。

 するとどうなるか? 産出は需要制約を受けている。でもこれはつまり、雇用、そして所得もまた需要制約を受けているということだ。消費(これは産出と等しくなるはず)の式はこうなる: \[C = (1-s)(C + M/P)\]

  これはパッと見ただけで「乗数効果」の匂いがする。

 ここからはっきり出てくる政策的な含意は、産出を増やすにはマネーサプライを増やせということだ。なぜなら: \[C = ((1-s)/s)(M/P)\]

  あるいは別の言い方をすると、問題は完全雇用では人々が、実際にあるよりも多くの現金実質残高を持ちたがる、ということなんだ。そして\(P\) が下がらない以上、完全雇用のためには \(M\) を増やすしかない。

  たぶんジョン・メイナード・ケインズの『一般理論』の有名な以下の下りは、そういうことが言いたかったんだと思う:

  「つまり失業が発達するのは、人々が月を求めるからだ。人々は、欲望の対象(つまりお金)が作り出せず、それに対する需要を簡単には抑えられない場合には、雇用されなくなってしまう。その治療法といえば唯一、月でなくてもグリーンチーズでかまわないんだよと納得させて、グリーンチーズ工場(つまり中央銀行)を公共のコントロール下に置くことだ」

  このモデルのどこがおかしいだろうかって? ほほう、そんなもの無限に指摘できて止まんないよ、いいのかえ? でもまじめな話、マクロ経済学者が指摘しそうな大きな問題は三つある。

  1. 金利はどうなった? ほとんどの場合、最低でも雇用、金利、お金の理論がほしいはず。つまり、お金と財以外に債券のあるモデルということで、これはつまり IS-LM だ (ぼくのメモ「古いどマクロに首ったけ」を参照).
  2. もっと根本的なこととして、ここでの準静的なアプローチは、せいぜいが動学モデルの粗雑な近似でしかない。本当の動学モデルでは、行動は将来についての期待に基づく計画から生じる。
  3. 最後に、お金の産出に対する効果は価格硬直性の想定からきている。これはどっから出てきた? (圧倒的な実証的証拠からに決まってるだろ――でも、なぜそうなるんだろう?)

 こうした非難をまとめると、どれも過去六〇年の研究テーマ設定に一役買ってきたものばかり。

  でも、マクロ経済学ってなんだか呪文みたいだと思ってきた人や、セイの法則がどうしても捨てられない人、総需要不足なんてことがどうして起こりえるのか想像もつかないというあなた――あなたがそういう人ならば、世界最小のマクロモデルは、啓蒙に至る道のすばらしき第一歩となるだろう。


訳者説明:

 このモデルがわからないという人の多くは、式がわからないというより、そもそもマクロモデルというのが何を表現すべきなのか、ということがわかっていないことが多い。それをちょっと説明。

マクロ経済モデルって何?

 マクロモデル(特に一般に理解されているケインズ経済学的な意味)では、経済全体を見たときに、財の市場とお金の市場が相互に関連し、その結果部分的にしか均衡しない状態で安定するというのがポイント。片方だけなら、普通の需要供給の曲線だけでいい。でもケインズの開発したマクロ経済学のキモは、お金の市場が財の市場 (需要)を制約するということ。投資案件があっても、それがお金の需給で決まる金利水準より儲からないものなら、投資は行われない。何か買いたくても十分にお金がなければ買えない。だから需要不足が発生し、モノの市場(ひいては労働市場)は均衡しなくなる、ということだ。これを単純なモデルであらわす、というのがこの「最小のマクロモデル」の要点だ。少なくともここでクルーグマンが考えているのはそういうことだ。

 それを前提に、ちょっと別の角度から上のモデルを見よう。まず、ものすごく変な例から:

モデル理解の前段:現金の不足が経済全体を制約する例

 たとえば、ある経済はポテチしか作らず、そこの人はポテチを喰って暮らしている。100 人が、月 100 円の給料をもらい、一袋 10 円のポテチを 1,000 袋作る。そして各人はもらった給料でポテチ 10 袋買って次の給料日まで食いつなぐ。(給料日&買い物デーは毎月10日ね。)この取引のためには、世の中に給料で見れば\(100円 \times 100人=1万円\)、あるいはポテチを買う側で見れば\(10円/袋 \times 10袋 \times 100人=1万円\)の現金が必要だ。経済はそれでまわる。
 でもこの人たちが子供を作って、人口が 200 人になったら? そして給料&ポテチの値段が変わらず、世の中の現金も 1万円のままなら?
 仕事を増やしてポテチを増産し、そのためにその100人を雇えば話はすむ、と普通は思う。でも、それに必要な現金がない。200 人分の給料を払うためには、給料日には \(100円 \times 200人 = 2万円\) いるけれど、世の中には現金が 1 万円しかないんだから。
 すると子どもたちは、そのままだと親を退職させないと仕事にありつけない。でもお金の量を倍にして経済全体に 2 万円現金があるようにすれば? そうすれば経済は回るようになる。

 もちろんいまの話は明らかに変だ。需要と供給のバランスで、当然ながら賃金もポテチ価格も下がる。それですむんじゃないの? ポテチ 5 円にして、一人あたり月給 50 円で我慢しろといえばそれですむはずでしょ?(よく聞く、「よいデフレ」議論というやつですな。) だからその仮定が変なんじゃないの?
 あるいは頭のいい人なら、別の解決策を思いつくかも知れない。給料日ずらせば? 200人雇っても、給料日を毎月10日と25日にすれば、それぞれの日に現金が1万円あればいい。経済の現金は増えなくてもすむ。
 いずれもその通り。そしてそうした思いつきが、意外な理論的展開を生み出す可能性もあるので、是非考えてほしいところ。ただ実際には、現実世界を観察すると、価格はそう簡単には下がらないのも事実。そして仮定はどうあれ、この変なお話で理解してほしいこと:なんらかの条件下では、お金の量が経済の規模を制約してしまい、失業が発生する。これは直感的にわかるんじゃないか。そしてその調整のために、労組が賃下げに応じろとか価格破壊とか、いろんなことはいえる。でも、お金の量を増やすことが一つの根本的な解決策になり得る、というのもわかるんじゃないか。

モデルの本丸:みんなが現金を手元に置くと、経済に需要不足が発生する

 じゃあ次に、経済の人口は増えないとする。でも、みんな突然、手元に 10 円残しておきたいと思ったとしよう。すると、どうなるだろう?
 みんながふとそう思ったある月、人々は 100 円もらって、そのうち 90 円しか使わない。10 円のポテチを 9 袋しか買わないことになる。ポテチ工場は、月の売り上げが 9,000 円にしかならない。すると 100 円の月給を 100 人に払うことはできない。10 人をクビにするしかない。そしてみんなが 10 円ずつ抱え込んでいるものだから、世間に出回るお金は 9,000 円しかない。その後の経済も 90 人が月 900 袋のポテチを作り、それを買って消費する経済になる。そして失業者 10 人がいつまでも続く。
 上のモデルは、これを数式であらわしたものだ。人々が現金について抱く欲望が変わった――手元に 10 円くらい置いときたいな、と思った。そのお金の需給にをめぐる話が、まったく関係ない実体ポテチの需要に影響を与えてしまう。これが(ケインズ的な)マクロ経済学モデルの重要なポイントとなる。お金の量次第で、実体経済全体としての総需要が不足することがある。

 なぜこのモデルの人々は現金を手元に置きたがるのか? それは自分の胸に聞いてほしい。現にこれを読んでいるあなたも、現金を手元に持っているはずだから。
 そして理由はどうあれ、そこですかさず現金の量を 1,000 円増やして 1,1000 円にしたら? どう増やすかは問題じゃないけど、たとえば失業してる 10 人に失業手当で 100 円ずつあげたら?そうすればまたこの世界は完全雇用に戻る。みんな 10 円手元に持ちつつ、100 人全員がポテチを作って消費する世界に戻れる。

 このモデルが表現しているのは、こういうごく単純なことだ。そういうことだ。それがわかれば、あなたはマクロ経済の一番重要なポイントを理解したことになる。

 でも、こうしてうだうだ文で書いても、あそこはどうだとか、この仮定が入るとどうなるとか、いろいろ不明確な部分がある。数式モデルにすることで、その見通しがかなりよくなる。赤ん坊子守協同組合(経済を子守してみると) も、言っていることは同じだけれど、みんなそれがただの風変わりなお話だと思うだけで、経済全体に適用できる話だというのをなかなか理解せず、なぜそれがマクロ経済の話になるのかわかってくれない。こうしたモデル化は、その関係をもう少し明確にしてくれる。

 そして、それを自分で作って見る(あるいは訳しつつこの式の導出をなぞってみる)ことで、何が重視されているのかがわかるようになる。多くの人はこういうモデルとその展開を見ると、途中の数式操作に注目しがちだ。でもいちばん重要なのは、最初の定式化の部分だと思う。それが理解できれば、結論の式をみて、「これが増えたらどうなるだろう?」と少し遊べるようになる。それが重要なんだ。というわけで、是非やってみてほしい。

 さて、このモデル(ひいてはケインズのマクロ理論)のキモは、繰り返すけど、お金の量などによって実体経済の需要が制約されてしまい、そのために実体経済側での財や労働に対する需給が均衡しないことがある、ということ。均衡しないからこそ、長期的な失業が発生するわけだ。

 でも、「古いどマクロに首ったけ」でクルーグマンは、こういうモデルがいい顔をされない、と述べている。そして、「こんなのマクロモデルの名に値しない」と言いたがる人も当然いるはずだ。
 いまの経済学業界最先端のモデルでは、まずすべてが均衡するという一般均衡モデルが前提になっている。そしていろんなミクロな条件のために、それが一時的に均衡からずれている、という組み立てになっている。いま、最先端の学者たちは DSGE モデルというのを使う。これは「動学的確率的一般均衡モデル」というのの略。その名の通り、一般均衡がベース。そして、ニューケインジアンの人たちもこれに肩入れしてるんだよね。オリヴィエ・ブランシャールはこの DSGE の研究をこんなふうに皮肉っている。

 今日のマクロ経済学論文は、厳格な俳句じみた規則にしたがうことが多い。まずは一般均衡構造から始める。そこでは個人が効用の期待現在価値を最大化し、企業は自社の価値を最大化し、市場はクリアする。次に、論文はひねりをくわえる。不完全市場や、特定市場の閉鎖などだ。そしてそれが一般均衡に与える意味を分析する。それから補正に基づく数値シミュレーションを行い、モデルがうまく当てはまることを示す。そして最後には厚生面での評価だ。(O. Blanchard, "The State of Macro" 2008, p.26)

 ブランシャールは慎みある方だからクルーグマンみたいなすごい嫌みではないが、言いたいのはそれ (DSGE) がワンパターンで自己完結しすぎてるということ。この後かれは、なんでも一般均衡にこじつけるのはやめて、部分均衡をそれ自体としてちゃんと考えようぜ(つまり均衡しないケインズ的マクロをもっと重視しようぜ)とか、その「ひねり」を単に理論的にクレバーだというだけで導入するのはやめて、そのひねり自体の妥当性を独立に検証しようぜ、というのを主張している。

 むろん、「ものすごく厳密な条件が成立すればすべての市場が均衡する」という美しい一般均衡理論が証明された以上、「じゃあ均衡しないというモデルは醜いからやめ。美しい一般均衡から、なぜずれが生じるのかという条件を探すことだけに専念しましょう」という発想になるのはわかる。でも、均衡しないのが身上だったケインズ経済学、ひいてはマクロ経済学は、その本質からして一般均衡とは相容れないように思うんだけれど。DSGE 的なニューケインジアンは、ケインズ経済学の本質をどう考えているのか、いつか説明を読みたいな、とは思う。


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YAMAGATA Hiroo<hiyori13@alum.mit.edu>