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古いどマクロに首ったけ

THERE'S SOMETHING ABOUT MACRO (1998)

ポール・クルーグマン   山形浩生訳

要約: MIT には古くさい IS-LM を教えられるマクロ経済学者がいなくなってしまった。学者たちがそういうモデルをバカにして無視してきたからだ。でも現場では IS-LM がばりばり使われている。それは IS-LM みたいなモデルが、いろいろ批判はあるにしても、具体的な問題を考えるための実に簡潔で有用なツールを提供してくれるからだ。


 年の瀬を迎えてぼくの頭をよぎるのは……講義の下準備だ。講義開始は二月だけれど、でも教科書も注文しなきゃだし、教材の版権をクリアしてコピーセンターに送らなきゃだし、講義のアンチョコも用意しないと。

 この春学期、ぼくは新しい仕事をもらった。大学院生に、マクロ経済学初級を教えるのだ。通常、この講義はマクロ経済学を専門とする人物が教える。そして一般向けのぼくの文章はいろいろ扱うけれど、専門家としてのぼくの分野は国際貿易と金融であって、一般マクロ経済理論じゃない。でも MIT はいま一時的に人材問題を抱えていて(そしてこれ自体がマクロ経済学の現状について何事か物語るものだ)、穴を埋めるためにぼくにお声がかかったというわけ。

 問題はこうだ。マクロ経済学初級 (MIT の講義番号だと 14.451) は四半期の講義で、この分野の「馬車馬」モデルを扱うことになっている――つまりみんなが知っているべき標準アプローチ、FRB や財務省や IMF での議論の根底にあるモデルだ。特にカバーすべきなのは、金融財政政策をめぐる IS-LM モデル、短期分析と長期分析をめぐる AS-AD アプローチ等々。現代マクロ経済学理論の基準からすれば、これは粗雑で単純きわまりない代物なので、ちょっと訓練を受けたマクロ経済学者ならだれでも教えられる中身だと思うかも知れない。でも実は、そうじゃないのだ。

 つまりだね、若手マクロ経済学者たち――まあ40歳あたり以下の連中――はほとんどが、こういうのを本当に知らないのだよ。かれらの先生たちは、 IS-LM モデルみたいな代物はあまりにいい加減で、あまりに単純で、教える価値さえないと考えていたからね。なんといっても、IS-LMをもとに卒業論文を書かせてはもらえないんだから。さて、うちの若いマクロ連中は、もちろんすごく頭がいいし、教えるとなれば勉強するだろう――でも奇妙だと思うだろうし、それどころか嫌悪感を抱くかもしれない。だからこの講義の講師として MIT が選んできたのは、少なくともぼくが思い出せる限り、古くさいマクロを古くさくなる前に習った経済学者たちだった。でもあれやこれやで、今年はいつもの候補が使えない。スタン・フィッシャーは世界を救いにいっちゃったし (訳注:1998 年の文なので、アジア通貨危機の話)、ルディ・ドーンブッシュも他のことで忙しく、オリヴィエ・ブランシャールは学科主任だし、リカルド・カバレロ――ちょっと若すぎるけれど、必要なら我慢してやってくれる――は休暇中。というわけで残ったのはぼく一人。

 さて、こんな内容が古くさいんなら、カリキュラムから落とすべきなのでは、と思うかも知れない。でもおかしなことだけれど、こういう古くさいマクロ経済学は、ますます大学院の講義からは押し出されるようになっているのに――ぼくが指定するブランシャール/フィッシャーの教科書やローマーの教科書ではほんの数ページ、他のやつだとまったく触れられていないのも多い――外の現実世界では、いまだにまじめな議論の主な根拠となっているんだ。25 年にもわたり、合理的期待形成だの均衡ビジネスサイクル、成長理論と新成長理論云々と論じ続けてきたのに、いざ話がグリーンスパン (訳注:昔のFRBの親玉。当時は神様だと思われていた) の次の動きや EMU (訳注:ユーロの昔の名前) の先行き、ブラジル救済計画のリスクといった内容になると、そこで効いてくるのはいつも――明示的にせよ暗黙にせよ――ぼくが二月から教えるはずの、古くさいマクロと似たり寄ったりの理論なのだ。

  なぜこんな古くさいマクロ経済学が、こんなにしぶといんだろうか? その答えは、別に知的な保守性ではないと思う。実は経済学者たちは一般に、えらく新しいもの好きで、いつも何か目新しく目先の変わったものを探している。それにぼく自身が何度も見てきたことだけれど、IS-LM みたいなものを軽蔑するよう教わってきた若き経済学者たちが、ワシントンやニューヨークで数年過ごして、気がついてみると IS-LM にすがるようになっている。原始的なマクロには、ぼくたちを引き戻す何かがある。ヒックスが IS-LM を 1937 年に発明しなくても、結局ぼくたちは自力でそれを発見し直したことだろう。

 でもなぜ古くさいマクロはかくもパワフルなのか? この問いに答えるには、そもそもその出自を考えると役にたつと思うのだ。

 マニアならご存じの通り、ぼくたちがケインズ経済学だと思っているものの大半は、実はジョン・ヒックスの手になるものだ。ヒックスが 1937 年に書いた「ケインズ氏と古典派たち」という論文は IS-LM モデルを導入した。これはケインズのいわんとしたことに忠実なのかもしれないし、そうでないという人もいる。でもまちがいなく、世界の大半はこれがケインズの言いたかったことだと思っている。でもヒックスはどうやってこの簡潔な表現にたどりついたのか? これに答えるには、当時ヒックス自身が書いていた本『価値と資本』を見るだけでいい。これはあまり目立たないが、ケインズ『一般理論』に匹敵する影響力を持った本だ。

 『価値と資本』は、「市場同士の相互関係について、一貫性をもって考えるにはどうしたらいいだろう? 豚肉価格がトウモロコシ価格に与える影響、またはその逆はどう考えればいいだろう? システム全体はどう相互に収まるんだろう?」という問題を長々と考えたものと思っていい。経済学者たちは昔から、孤立した単一の市場をどう考えるかは理解していた――それがまさに需要と供給の話だ。そして一部の領域――特に国際貿易――では、二つの財を作る経済でのおさまりをきちんと考えてきた。でも三つ以上の財があって、その財の一部は代替物、一部は補完物等々だったりしたらどうだろう?

 これはヒックス(そして当時の学者たち)が「一般均衡」のお話をどうまとめたかについて長々と語る場じゃない。でも IS-LM の発端を理解するには――そしてなぜそれがしつこく登場するかを理解するには――需要供給曲線以外のものが必要となる、いちばん簡単な例を考えてみるといい。それは財が三つの経済だ。その財を\(X, Y, Z\) と呼ぼう。そして \(Z\) は「単位財」、つまり価格を計る基準となる財としよう。

 さて三財モデルの均衡は、それぞれの市場が均衡となる価格の組み合わせを示す曲線を描くことで表現できる。というわけで図1では、\(X\) と \(Y\) の価格(どっちも \(Z\) が単位) が軸になっている。\(X\) とついた線は、\(X\) の需給が一致する価格の組み合わせを示す。\(Y\) と \(Z\) も同様。曲線は三つだけれど、ワルラスの法則 (一つの市場以外のすべてが均衡していたら、その残った一つの市場も均衡している) から、この三本は同じ点で交差することがわかる。これは経済全体としての均衡価格を示す点だ。曲線の傾きは、「自分の価格」の影響はマイナスで、クロス価格効果はプラスだ――つまり、\(X\) の価格が上がったら、\(X\) 自身の需要は下がり、\(Y\) の需要は上がって、それが\(Y\) の価格を押し上げる。逆も当然なりたつ。もちろんながら、この枠組みに補完性を導入することもできる。それがこのモデルの主な強みでもある。

三財均衡モデル
図1: 三財均衡モデル

 

 この図は単純に、標準的で何のてらいもないミクロ経済学だ。マクロと何の関係があるのかって?

 うん、たとえば金利と物価水準といったマクロ系の問題について考えるための、手っ取り早い枠組みがほしいとしよう。そういう枠組みは最低でも財の需要供給を考えるべきだ。そうでないと物価水準の話ができない。金利の話をするから、債券の需要と供給の話もいる。そしてもちろん、お金の需要と供給も必須だ。

 だったら、一般財、債券、お金を図1の三つの財として考えてみるのが一番自然ってもんだろう。一般財の価格――つまり一般物価水準――を一つの軸、債券価格(一期ものの債券なら、\(1/(1+i)\) をもう一つの軸にしよう。すると図2みたいなものができあがる――あるいはもっと見慣れた形で、縦軸を債券価格じゃなくて金利にしよう。図3だ。すると早速、基本的にはパティンキンによるIS-LMの価格柔軟版ができあがる。

三財均衡モデルを金融的に変形
図2: 三財均衡モデルを金融的に変形

図2をよく見る形に変形
図3: 図2をよく見る形に変形

  ケインズ以前の金融理論を読もうとしたり、あるいはこうした話を現代の素人や、これを初めて目にするいまの大学院生に説明しようとしたら、こうした一見単純な仕掛けが、実は考えをはっきりさせるツールとして実に優秀だとわかる。それはまさに、それが市場の相互作用を考慮した一般均衡の枠組みだからだ。このモデルで突然はっきりしてくる点としては以下のようなものがある:

  1. 金利は何で決まるんだろうか? ケインズ/ヒックス以前は――そしてある程度はその後も――金利が貯蓄と投資を一致させるように動くのか、債券とお金との選択で決まるのかについて、争いがあったようだ。どっちなんだろう? 答えはもちろん――でも「もちろん」と思えるのは、問題に正しいアプローチをした結果だ――どっちも。一般均衡の話をしてるんだから、金利と物価水準は両方の市場で同時に決まるのだ。
  2. 投資ブームがどうしてインフレを起こすの(あるいは投資減退がデフレを起こすの)? ケインズ以前は、これはすさまじい混乱を引き起こして「生産期間の延長」「強制貯蓄」等々の得たいの知れない話が山ほどでてきた。でも三財一般均衡を考えれば、話はごく単純になる。投資需要や消費需要が高いとき――つまり人々が本物財を買うために借金をしたがるとき――というのは、要するに債券から財に乗り換えようとしているということだ。だから図4 に示すように、債券市場均衡と財市場の均衡曲線はシフトする。でもお金の市場曲線はシフトしない。結果として、インフレと金利上昇が同時に生じる。
    三財均衡モデル
    図4: 投資ブームでインフレと金利上昇
  3. 金融政策と財政政策はどう区別しようか? うん、財政拡大では、政府は債券を売って財を買う――図4で示すのと同じ曲線のシフトが生じる。金融拡大では、債券を買って、新規に刷ったお金を「売る」つまり債券曲線とお金の曲線はシフトするけれど、財の曲線はシフトしない。これが図5だ。
    三財均衡モデル
    図5: 金融拡大

 むろん、これはどれもまだ「お金、利子、価格」(パティンキンの題名)であって「雇用、利子、お金」(ケインズの本の題名)じゃない。この移行のためには、何らかの価格硬直性を入れて、デフレの少なくとも一部が産出低下に変換されるようにする必要がある。それから、その産出低下の乗数効果を考える必要がある等々。でもその分析の基本的な形は、やはり三財一般均衡モデルからくるもので、その三つの財は「一般財」、債券、お金なのだ。

  六十年後の今、こういう形でマクロ経済学をやる知的な問題点は、よく知られている。まず、お金を通常の財として扱おうというのは、いろいろ問題含みだ。どう考えてもお金は経済の中で特殊な役割を果たす。第二に、ここでの関係の根底にある意思決定のほとんどすべては、時間をまたがる選択を必要とする。これは投資、消費、お金の需要ですらそうだ。だから物価と金利が静的な均衡問題で決まるようなふりをするのは、ちょっと困ったところがある (もちろんヒックスだってそのくらいは知っていたし、自分の「一時均衡」手法の限界については十分自覚していた)。最後に、これを本文の経済変動理論にするには、価格のねばつき (stickyness) が重要な役目を果たす。ぼくはそうしたねばつきがあるという証拠は疑問の余地がないと思うけど、名目価格が少なくとも一時的に硬直だという仮定は、現実では見事に機能するのに、理論ではまったくダメなものの一つなのだ

 でもこういう重箱の隅から一歩下がって、金融政策変化や投資減退、財政拡大の影響について判断する人の立場になってみよう。いちいちお金や価格行動についてミクロ的基礎を考え、期間をまたがる最大化枠組みを構築し、そこに限られた手持ちデータをあてはめようとするのは、実に煩雑だ。当然ながら、できるだけ扱う変数を減らして、作業モデルを考案しようとするだろう。思考のメモ帳というわけだ。それは個人の動機や行動をそこそこ反映し、本質的に積み上がる制約を尊重し、でも勝手に動くような部分がないモデルであってほしい。準静的な財・債券・お金モデルは、まさにそういうものだ――だからこそ古くさいマクロ経済学(それは要するにこのモデルをめぐるものだ)が現実的な政策分析にとって、いまなお有効なツールであり続けているのだ。

訳注:題名「There's something about macro」は、この文の発表時期から考えて、キャメロン・ディアズ主演の名作 There's Something About Mary への目配せ。邦題が「メリーに首ったけ」なのでこちらもあわせてみました。映画でなぜか男たちが何度も何度もキャメロン・ディアズに惹かれてしまうように、マクロ経済学もなぜか IS-LM にみんな繰り返し引き寄せられる、というわけ。むろん映画の場合、みんなが惹かれるのは当然それが当時絶頂期のキャメロン・ディアズだから、であって、それがどんくさい IS-LM の比喩になるかはアレだが。いまなら、Ugly Betty にちなんで「Ugly Macro」とでもつけたんじゃないかな。



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YAMAGATA Hiroo<hiyori13@alum.mit.edu>