An idea of an evolutionary economist

経済学者は進化理論家から何を学べるだろうか。

What Economists Can Learn From Evolutionary Theorists
(ヨーロッパ進化政治経済協会での講演, 1996/11)

Paul Krugman
山形浩生

 おはようございます。進化論的政治経済を専門にする人々に向かってお話するというので、大いに名誉だと思う一方で、ちょっと不安でもあります。すでにご存じかと思いますが、わたしは進化経済学者というわけじゃ必ずしもありません。自分が多くの人よりも経済学に対するオルタナティブなアプローチには好意的だと思いたいところですが、でも基本的にわたしは最大化と均衡を奉じるような輩です。それどころか、多くの場合にはわたしは、標準の経済モデルの重要性を熱烈に擁護する立場にまわります。

 じゃあなぜこんなところにきたのか? ええ、理由の一つは、わたしの研究が新古典派パラダイムの限界にまでたどりついてしまったからです。わたしみたいに、収穫逓増が重要になる状況のことを考えていると、完全競争という想定は捨てなきゃなりません。また、市場の結果は絶対に最適だとか、市場が何かを最大化するなんていう発想自体を捨てる必要があります。効用を最大化する個人や、均衡だって部分的には信じてもいいでしょう。でも、仮想的なエージェントたちがおかれた状況は実にややこしいので、あなたは——そしてたぶん当のエージェントたちも——その行動を慎重に特定した最大化問題の結果ではなく、なにか場当たり的なルールで表現するしかなくなります。そして、しばしばモデル構築上の必要性という力そのもので、初期条件が結果を決めてしまうという大ざっぱとはいえ「進化的」な性質を経済が持つと考えざるを得なくなるんです。みなさんの中には、わたしの経済地理学の研究を読んだ人もおいでかもしれません。わたしはしばらくモデルをいじってみてからやっと、自分が経済変化の問題を論じるのに「replicator dynamics」を使っているんだ、というのを知ったくらいです。

 でも、ここにきた理由がもう一つあります。わたしは経済学者ですが、一方でいわば進化論おたくでもあるんです。つまり、かなりの時間を割いて進化生物学者の著作を読んでます——一般向けの本ばかりでなく、教科書や、最近では専門論文も。生物学者たちと話をしてみようとさえしたんですよ。学問タコツボ化の今日では、それだけでかなりの努力だと思いませんか。わたしが進化論に興味あるのは、一部は娯楽です。でも、自分自身の専門分野を新しい目で見るのに、進化生物学がなかなか便利な足場だというのも事実なんです。ある意味で、経済学と進化生物学の似たところとちがうところはどっちも、自分が経済学をやるときに何をやっているのかを理解する助けにはなるんです——大仰に言うなら、両分野の認識論に対する新たな視点を得るのだ、とでも言いましょうか。

 生物学に関心があるのはわたしだけじゃないでしょうし、経済学者が進化論から何か学べると思っているのもわたし一人じゃないはずです。それどころか、この部屋にいらっしゃる方の多くは、わたしよりずっと進化論に詳しいと思います。でも、わたしは一つだけちがうところがあるんです。進化論の概念を経済学に適用しようとする経済学者のほとんどは、経済学の現状に何か根本的な不満を持っています。さてわたしは、経済学の現状すべてに満足とはもうしません。でも正直言って、わたしは伝統的な経済学の世界でかなり成功してきたんです。わたしはその世界の境界を広げましたが壊しはしませんでしたし、わたしの発想はかなり広く受け入れられました。これがどういうことかと言えば、わたしはみなさんのほとんどよりも、標準の経済学に好意的だということです。わたしの批判というのは、その分野を愛していて、その愛情が報われてきた人物によるものなんです。それが外部からの批判者に比べてわたしを道徳的に高い立場におくのか低い立場にするのかは知りませんが、でもそれは確実にちがう点ではあります。

 まあとにかく、前置きはこんなところで。

姉妹分野

 経済学の知識がある人が本気で進化生物学の本を読み始めると——そしてたぶんその逆の場合も——この両者が姉妹分野だというのにすぐ気がつくでしょう。ほんとうにすごく共通点があるんです。どんな問題をたてるか、ということや手法面だけじゃなくて、外部世界との係わりや、外からどう見られているかという点でも。

 手始めに、基本的なアプローチの類似性があります。まずは、経済理論の基本手法に関するわたし個人の定義を述べましょう。わたしに言わせると、経済学として知られているものは、知的で利己的な個人同士の相互作用から生じることになる現象の研究です。この定義には、よく見ると 4 つの部分があるのに注目してください。英語のケツのほうから見ていきましょう。

  1. 経済学は個人の行動に関するものである:階級じゃないし、力の相関でもありません。個人としてのアクターです。だからってもっと高次の分析の重要性を否定するわけじゃありません。でもそれは個人の行動に根ざしたものでなきゃだめです。手法上の個人主義が本質なんです。
  2. その個人は 利己的である:経済学では、別に他人の消費を見て人が満足をおぼえちゃいけない、とするものは何もありませんが、経済理論の予測力は、通常は人々は自分のことを気にかけるという想定からきています。
  3. その個人は知的である:明らかに儲かる機会があれば、それは見逃されたりしません。百ドルが落ちていたら、それはいつまでもそこに転がっていたりはしません。
  4. 検討されているのはそうした個人の相互作用である:ほとんどのおもしろい経済理論は、需要と供給からはじまって、「見えざる手」についてのものです。集合的な結果が、個人の意図とはちがうものになるプロセスがおもしろいんです。

 で、これが経済学の中身です。じゃあ進化論ってのはどんな話なんでしょうか。

 答えは、基本的には、進化論学者はいまの4つのうち、3つの点を共有しているということです。かれらの分野は、自己利益を追求する個体に関するものです——それは通常、生命体ができるだけたくさんの子孫を残そうと「努力している」ものですが、状況によっては、遺伝子がなるべく自分の複製を多く残そうと「努力している」と考えたほうがいいこともあります。進化理論と経済学の主な差は、経済学者たちはモデルの中で自分たちのエージェントが最適戦略を見つけられるほど賢いと想定するのに——そして経済学者たちは、エージェントたちが完全な合理性を持たずに行動すると想定するモデルについては常にあまりいい顔をしません——進化論者たちは目先のことしか考えない行動で全然かまわないと思っています。むしろ近視眼こそがかれらの見方の本質なんです。

 このちがいがどんな差を生み出すかは、また後で話します。目下の論点は、基本的な手法が同じではなくても似ているので、経済学と進化理論は驚くほど似ている、ということです。経済理論はしばしば、物理学から霊感を引き出すとされており、もっと生物学みたいになれと言われています。もしそうお考えでしたら、二つのことをやってほしいと思います。まずは進化理論の本を読むこと。たとえばジョン・メイナード・スミスの『進化遺伝学』とか。ミクロ経済学の教科書そっくりなので驚きますよ。第2に、単純な経済学上の概念、たとえば需要と供給を物理学者に説明してみることです。経済学者の思考様式すべて、個人の意志決定から全体の物語を構築するというやり方は、かれらの発想とはまるでちがうのがわかります。

 だから、経済学と進化論との間には、手法的にも、そして知的スタイルの面でもかなりの類似性があるんです。でももう一つおもしろい類似があります。経済学と進化論はどっちもモデル指向で数学偏重の分野でありながら、数学に耐えられないような人たちが大いに関心を持つ分野なんです。そして結果として、どっちの場合にも外の人が思っている(そして通俗書に描かれた)その分野像と、その実像とを区別するのがとても重要になります。ご存じの通り、経済学者というのは一番有名な著者たちが、その分野の専門家たちすべてから、まともに論じる価値もないと(正当にも)思われているような分野です。あの世界的なベストセラー、ラビ・バトラ『1990 年の大恐慌』をご記憶でしょうか? (訳注:いま知ったが、これって邦訳はあの勁草書房なんだねえ。絶句)それと、ジョン・ケネス・ガルブレイスは、世間的には大経済学者の見本と未だに思われていますが、ほとんどのまじめな経済学者には知的な素人できちんと考えをつめるだけの根気がないやつに見える、というのも有名な話だと思います。で、進化論でも話は同じです。

 これがどれほど知られているかはよくわかりません。この講演の準備のために、進化経済学をいくつか読んでみて、特にその連中がどんな生物学者を参照しているかを知りたいと思いました。ふたを開けてみると、かなりの人物がスティーブン・ジェイ・グールドを引用していて、ほかにはほとんど進化理論家を参照していないんです。さて、進化論の分野でちょっと本を読めば、グールドがこの世界でのジョン・ケネス・ガルブレイスなんだというのはすぐにわかります。つまり、すばらしい書き手で、数式やむずかしい専門用語を使わないので文芸インテリには大人気だしメディアでもひっぱりだこ、という人物ではありますが、残念ながらかれが数式や専門用語といった罪悪に手を染めないのは、かれが同僚たちの上をいっているからではなく、同僚たちの話を理解できないせいらしい、ということです。そしてかれ自身が進化論の分野について言っていることを見ると——その答えのみならず、問題設定ですら——たえず誤解を招くようなものばかり。感心するほどの文学的・歴史的なウンチクのおかげで多くの読者はかれの著作が深遠だと思ってますが、もののわかった読者はやがて、そこには何もないと結論します(そしてはい、かれの名声を嘆く声もあります。不当に有名な「断続平衡説」で、グールドとナイルス・エルドレッジは進化が一定の速度で進むのではなく、急速な変化が短い期間に突発的に起こるのだ、という説をとなえますが、これはその筋では「jerk による進化」として知られています(訳者注:すいません、これだけは訳せませんでした。jerk は、何かを強く短く引っ張ることと、同時にどうしようもないヤツ、ろくでもないやつ、という意味でもあります ()。断続平衡説はまさに、前者の意味での jerk が続く進化、なのですが、それと同時に後者の意味だと……)

 進化経済学の分野で滅多に見ないのは、少なくともわたしの知る限りでは、その分野の人々自身が偉人とみなす理論家への言及です——たとえばジョージ・ウィリアムス、ウィリアム・ハミルトン、ジョン・メイナード・スミスなんかですね。これは深刻ですよ。だってグールドの考えが進化理論の最先端だなんて思ってるなら(わたしも一年半前まではそうでした)、進化生物学という分野の到達点はおろか、そこで何が問題になっているかさえ、ほとんど完全に見当違いをしてるってことですから。

 これは重要な点です。というのも、「進化論的」概念を使いたがる経済学者が進化に期待しているものは、かれらが思い込んでいる進化論に基づいていて、実際の進化論には基づいていないんです。そして逆に、伝統的な経済学がいまのような状態なのはなぜかということも、進化理論かたちが同じ立場に落ち着いたのはなぜかというのを見ることでずっとはっきりします。

 このいささか得体の知れない発言を説明するために、経済学者たちが進化論的アプローチで得られると思っているとおぼしきこと——これは私見であって、訂正は歓迎です——をちょっと説明し、さらに進化論者が本当は何を言っているかについて話をさせてください。

進化経済学者の求めるもの

 知的で利己的な個人の相互作用を扱うのが経済学だ、というわたしの基本的な定義を本気で否定しようという経済学者は、ちょっと変わった考え方の人たちですらそんなにはいないと思います。マルクス主義者なら手法的な個人主義の発想そのものをいやがるだろうし、ガルブレイス派なら広告業者等々が嗜好を形成する能力を考慮せずに利己性が定義されているという発想をいやがるでしょう。でもそういう細かい話はさておき、基本的な発想はそんなにちがわないと思います。

 不満が生じるのは、この 4 部構成のプログラムの最初の 2 条件をどう実現するか、というところです。はい、もちろん経済学は相互作用についてのものですし、エージェントたちは知的です。でもどのくらい知的なのか、そして相互作用ってどんなものなのか?

 というのも、伝統的な経済学が知性や相互作用の一般的な考え方をはるかにこえて、ずっとゴリゴリの極端な想定をしているというのはまちがいないことだからです。少なくともポール・サミュエルソンが 1947 年に Foundations of Economic Analysis を刊行して以来、伝統理論の圧倒的多数は、エージェントたちは知的なばかりでなく、最大化する——つまり、あらゆる代替案の中で最高のものを選ぶ、ということになっているからです。そして相互作用するときには、経済学者はかれらが均衡に到達すると想定します。各個人が、ほかの人々の行動の中で達成できる最高のものを実現している、と想定するわけです。

 さて、現実世界を見てみた人ならだれしも、これがあまりに極端で非現実的な想定だというのはわかります。わたしはちょうど、家の工事をしたところです、最終的な請求書を見ると、わたしが最大化しなかったのは痛いくらいはっきりしてます——わたしは工務店の最適探索を行わなかったんですね。残った仕事をする人を探そうとしたら、マサチューセッツでの好景気に見合うほど賃料水準や物価が上がっていないことがわかりました。だからだれも大工や左官をやってくれません——市場は明らかに均衡していないんです。じゃあ最大化と均衡というアプローチを離れて、もっと現実的なものを探したらどう?

 で、わたしの理解する限り、進化経済学ってのはまさにそういうものなわけです。具体的には、進化好きな経済学者は以下のようなものを求めているようです:

  1. 個人が(効用や利益の)最大化を追求するという発想から逃げたいと考えています。むしろ、意志決定は代替案をあれこれ試すプロセスの結果として出てくるものとして考えたがります。これは最大化にずいぶん時間がかかるかもしれない——そして見つけた極値も、局所的なものかもしれない。
  2. 均衡という発想から逃れたいと考えています。特に、ものごとがすべて不均衡で、経済が常に進化しているというアプローチをとりたがります。最近では、一部の経済学者は進化論的な発想を、経済が「創造的破壊」の波を通じて進むのだというシュムペーター的な発想と融合させようとしています。

 さて、わたしの理解する限り、進化経済学者たちは要するに進化論的なアプローチがこうした欲望を満足させてくれると信じているようです。だって、本当の生命体は、きちんと観察すると進行中の作品みたいに見えることが多いですからね——環境に完璧に適応させるような形態とはほど遠い特徴だらけです。つまりは、適応を完全には最大化していない。そしてしばしば局所的な極値につかまってしまったように見えることも多い。イルカは魚みたいに見えますが、でも空気を求めて水面に出てくる必要があります。だいたい、進化というのは絶え間ない変化で、それが微生物からヒトにまで発展を作ってきたんですよねえ? そしてグールドやその取り巻きたちの読者なら、進化は突発的な変化の発作を通じて進むものだと理解していて、これは実にその展開においてシュムペーター的に思えるでしょう。

 というわけで、進化的なメタファーの魅力——特に経済学が物理の真似をして道を誤ったと思っているなら——はわからないわけではない。でも進化論による革命の見通しでぬか喜びする前に、当の進化論者たちがホントは何をしているのか見た方がいいでしょう。

進化理論の実像

 進化論の本当の成果を読むのは——たとえば、ジョン・メイナード・スミスの『進化論とゲーム理論』やウィリアム・ハミルトンの新刊論文集 Narrow Roads in Gene Land を読むのは、それまで進化論について雑誌記事や通俗書からしか知らなかった人にとっては、驚愕する体験です。この分野は、聞いていたお話とぜんぜんちがうんですから。実際にそれがどうかといえば、驚くほどいろんな点で——あえて言うべきでしょうか?——新古典派経済学そっくりなんです。そして、最大化と均衡の厳しい原則からの避難場所を求めている人には、ほとんど落ち着ける場所を提供してくれません。

 最初の、最大化という問題を考えてみましょう。明らかに、進化の場合それが小さなステップを重ねて進むしかないというのは重要な点です。だから頂点も徐々にアプローチするしかなくて、局所的な最大値にとらわれてしまうことも起こりがちだ、ということになります。でもそうした観測は、進化理論で大きな役割を果たしているでしょうか? いや、それほどでも。

 たとえば、ウィリアム・ハミルトンの深遠な影響力を持った論文「社会行動の遺伝基盤」を見てやりましょう。この論文の最初の部分では、個体数動学のモデルを導入して、遺伝子が広がるのはそれがその生命体の個体適応を挙げるときではなく、「包括適応」を高めるときだ、ということを示します。包括適応度というのは、その個体の親戚の適応度の加重平均で、そのときの重みは血縁の近さに比例します (これを別の形で考えると、遺伝子はそれを宿した個体のことなんかおかまいなく、それ自体の適応性を高めようとして広がる、ということになります。これはリチャード・ドーキンスの著書『利己的な遺伝子』の主題です)。さてハミルトンの導出にはプロセスが含まれます——それは次の小さなステップがどっちに進むかという動的なお話です。でも第二部では、その発想を使って現実世界を論じようとするのですが——なぜ鳥が、ご近所に警告の鳴き声を発することでわざわざ捕食動物に目立つようなことをするのか、なぜ昆虫があれほど組織化された社会を持つのか——ハミルトンはあっさりと、すでに見ているものがそのプロセスの累積結果として見ていいんだと想定し、生き物たちがすでに最大化を実現したと想定します。一言で、進化は必然的にちょっとした変化のプロセスですが、進化理論家たちはそのプロセスが最大値に到達させてくれると想定することで近道をして、その途中の動学には驚くほど無関心です。

 局所的な最大点にとらわれてしまう可能性はどうでしょう? ええ、これは一部の理論家、たとえばサンタフェ研究所のスチュアート・カウフマンなんかには大きな懸念事項です——でもカウフマンはこの分野では中心的な人物じゃありません。進化理論家の一般的な態度は、自然はしばしば驚くような道を見つけて、小さなステップを重ねたのでは到達できないと思われていたところにも行ってしまうようだ、ということです。何十万世だもかければ、ちょっと光に敏感な皮膚の一部は、きちんと細かく設計された目になってしまうし、アゴ骨があちこちに移動して、見事なまでに敏感なサウンド検出装置になってしまうんです。これはリチャード・ドーキンスの新著『不可能の山を登る』のテーマでもあります。それはまた、わたしの理解が正しければ、哲学者ダニエル・デネットがレスリー・オーゲルの第2法則と呼ぶもののオチです。こんな法則です:「進化はあなたよりも賢い」(デネットによれば別バージョンがあって「進化はレスリー・オーゲルよりも賢い」)。

 つまり実際には、進化理論家たちは生命体(または見方として便利なときは遺伝子)は最大化を実現する、という想定をするわけです。プロセス、つまり小さなステップを重ねて目的地にたどりつくべきだという必然的な落とし穴は、脇に置いておかれます。

 じゃあ均衡はどうでしょう? 部外者には、進化理論は連続的で継続的な変化に関する理論に思えます。実際、スティーブン・ジェイ・グールドの最新作は、進化というのはますます高次の複雑性を目指した連続的な進歩でなければならないという正統教義なるものへの反論となっています。でも、だれがそんな正統教義を擁護しているのでしょうか? 進化理論を読んでわたしが見つけた真に驚異的なことは、進化が継続的なプロセスだなんてほとんどだれも言わない、ということです。むしろ、人々は現実に見えているものを完了したプロセスの結果として説明しようとします。それぞれの種はその環境に完全に適応したと想定されます——自分と同じ種の個体や、他の種の個体も混じった環境ですね。ジョージ・ウィリアムスの古典的な本が、現代進化理論に重要な役割を果たしたとされていますが、その本の題名は実に啓発的です——この本は、社会行動は遺伝子の利己性をもとに説明されるべきだという原理を確立した本ですが、「適応と自然選択」と言います。「進化」ということばは題名に見あたりませんし、さらなる完成目指しての止めがたい運動という意味での進化なんてものは、中身にもありません。ウィリアムスや他の進化論者ほとんどの作業仮説は、少なくともわたしのわかる範囲では、自然界はどこかに向かう途上のものとしてではなく、すでに到達点にいるという想定でモデル化すべきだ、ということです。

 この嗜好を最も雄弁に物語るのは、ジョン・メイナード・スミスの「進化的安定戦略」(ESS) が広く使われている、ということです。ESS というのは、他の生命体が従っている戦略を前提としてその生命体が採用すべき最高の戦略です——ほかのみんなが適応を最大化していることを前提として自分の適応を最大化する戦略です。そしてその他のみんなも、その他の連中の戦略を考慮して戦略を採用しています。なんかどっかで聞いたことがありませんか? あるでしょう。この ESS の概念は、経済学者の均衡概念とほとんどまったく同じものなんです。

 ついでながら、メイナード・スミスの教科書は、進化が必然的に進行中のプロセスだという考えにはっきり疑問を呈していますし、ましてそれが特定の方向に向かっているなどということも大いに懐疑的です。モデルが通常は均衡に落ち着くというだけじゃありません。たとえば RNA 進化での実験も均衡に落ち着きます。そしてあらゆる進化論者は、生命は地上で数十億年にわたって嬉々として単細胞のままで、何かのきっかけで次の大きなステップを踏み出すにはかなりかかったということを知らないわけはありません。

 これで進化論の教科書はミクロ経済学の教科書みたいだ、と申し上げた理由もおわかりかと存じます。深いレベルで、両者は同じ手法を共有しています。つまり、最大化する個体の中での均衡をもとに行動を説明する、ということです。

 でも、なぜ進化理論は実際問題として、進化のあらゆる物語に内在する近視眼性や動学を活用(そういってよければ)しようとしないんでしょう?

進化論者が進化を扱わないわけ

 これまでわたしが論じてきたのは、進化論というのが段階的な変化の理論、近視眼的な力学に関するものなのに、実際にはほとんどの進化理論はそうした力学の結果にばかり注目している、ということです。ほかの個体がやることに基づいて自分の適応を最大化する均衡、ということです。なぜ進化論はこうなったんでしょうか。

 こたえは、単純化してわかりやすいモデルを作るという絶え間ないニーズのせいにちがいありません。最大化と均衡は、手のつけられない複雑性を持つものに切り込むためのまちがいなく驚異的に強力な方法なんです。そして進化理論家たちは、まったく正当にも、個体が最大化してシステムが均衡しているという便利なフィクションを喜んで採用しているんです。

 例を挙げましょう。ウィリアム・ハミルトンの「利己的な群れの幾何学」というすばらしい題名の論文があります。この論文では、丸い池のふちにカエルの群れがすわっています。池からはヘビが出てきます。そしてハミルトンは、ヘビが最も手近なカエルを捕まえて食べる、と想定しています。さてカエルはどこにすわるでしょうか。議論を煮詰めるべく、ハミルトンはもし池のまわりに二つのカエル集団がいたとして、それぞれの集団が攻撃される確率は同じ、と想定します。さらに、それぞれのグループ内で個々のカエルが攻撃される確率も同じです——ということは、大きなグループに所属したほうが、カエルとして食べられる確率は減るわけです。だから生存機会を最大化したいカエルは、大きなグループに所属したがるでしょう。そして均衡は、すべてのカエルがなるべく近づいて団子状に固まっている、ということになります。

 この分析に欠けているものに注目。ハミルトンは、カエルが「他カエル隣接配置」行動を獲得するための進化力学については何も語りません。大きな群れに混じるのがいいな、とカエルたちが完全には「気がついて」いない時期における、進化過程の中間段階をたどったりもしません。なぜでしょう? そんなことをしたらすさまじくややこしくなるし、論点とは関係ないからです。そうした問題点を一気に——えーその——カエル飛びして、他のカエルの行動を前提に生存確率をそれぞれのカエルみんなが最大化する均衡を見るのは、洞察を得るためのきわめて簡潔で、鋭い方法なんです。

 さて、この種の便利なフィクションのでっちあげは過去のもので、いまや複雑な動学をコンピュータシミュレーションで観察できるじゃないか、と言う方もいます。でも、その手のことをやってみた人なら——このわたしも大量にやってきました——いずれは、最大化と均衡に基づく紙と鉛筆の分析というのが、いかにすばらしいツールであったかというのを認識するに到ります。理解の範囲を広げるには、シミュレーションをどんどん使いましょう。でも単にでたらめにシミュレーションをいろいろ走らせてどうなるか見てみる、というのは退屈だし、最終的には非生産的な活動でしかありません。なんとかして、「モデルのモデル」を作って何が起きているか理解できないとだめです。

 ここでさらに例を重ねることもできますが、論点ははっきりしたと思います。進化理論家たちは、根本的には安全に最大化や均衡を想定できないような枠組みを持っていても、最大化や均衡をモデル化のための道具として、便利に使うんです——世界についての便利なフィクションとして、複雑さに切り込むための道具として。そして進化論者たちはこうしたフィクションをきわめて便利に使っていて、同じフィクションが経済理論を支配しているのを同じように、そうしたフィクションは進化論の分析も支配しているんです。

新古典派経済学とは何か

 いま、こうしたフィクションが経済学を支配していると言いました。でも経済学の問題は、それが深く根ざした真実ではなくフィクションだということをわかっているか、ということです。というのも、まさにそこにこそ経済学者が進化理論家から学べる何かがあるんです。

 経済学では「新古典派」という用語をよく使います。これは相手をほめるのにもけなすのにも使います。個人的には、わたし自身は誇り高き新古典派たど思っています。だからといって、わたしが完全競争を一から十まで信じているってことじゃないのは当然です。この世を理解しようというとき、できるだけ個人が最大化してその個人のやりとりが何か均衡概念でまとめられるようなモデルを使うのが好きだ、という意味です。この種のモデルが好きなのは、それが文字通りの真実だと思っているからではなくて、思考をまとめるにあたって、最大化と均衡の力を思い知っているからです——そしてこうした組織装置なしに経済学をやろうとする相手が、まったくのアホダラ経を量産しているのに、自分では何やら正統教義のくびきから逃れているのだと思い込む傾向があるのも見ているんです。

 さて、さはさりながら、最大化と均衡を便利なフィクション以上のものと考える経済学者は確かにおります。そういう人たちは、それを文字通りの真実と考えるか——日々の経験の現実を見てなんでそう思えるのか、かなり理解不能なんですが——あるいは経済学のあまりに確信にある原理なので、いささかなりとも曲げてはいかん、それがどんなに便利だろうと絶対ダメ、と思っているかのどっちかです。

 公平のために言っておくと、確かに一部の経済学者が均衡の原理や、特に最大化の原理をとても強力に推すというこだわりには、正当化できる部分があるんです。なんのかの言って、ヒトは遺伝子よりは頭がいい。もし人が儲ける機会をみすみす見逃しているようなモデルを示したら、なんでみんなその機会を利用しないの、と聞くのは正当なことです。そして遺伝子の場合とちがって、代替案はわが想定エージェントが目下やっていることとまるでちがっている、という議論はあまり歓迎されません。現実世界では、人々は実際問題として機会に応えるために自分の行動をがらりと変えます。生物学では、純粋に局所的な変化は神聖な原則です。経済学では、別にそれに相当するような正当化理由はありません。

 それでも、こうしたちがいにもかかわらず、経済学者たちがもっと自覚を高めたほうがよいと思います——自分たちの最大化と均衡の利用が、進化生物学者の場合と同じく、万難を排して擁護すべき原則なんかじゃなくて、ただの便利なフィクションでしかないんだ、ということを理解すべきだと思います。自分たちのモデル構築戦略がなにをしているかについてもっと慎みを持てば、分析の中に現実世界をもっと取り込めるように自分を解放できるかもしれません。

 そして最後に、もっと条件をゆるめた「進化論」的スタイルを経済学のアプローチで使ったらいかに現状から逃れられるか、という例を二つあげたいと思います。

経済学の二例

 ご存じのとおり、わたしの研究分野の一つは経済地理の研究です。こうしたモデルにおけるもっとも基本的な洞察は、集積を生じる累積プロセスの可能性でしょう。二つの地域があって、片方がちょっと大きい産業集積を持っていたとしましょう。この産業集積は、大きい方の生産者にもっと大きな市場ともっといい供給業者を提供してくれるでしょう。するともっと多くの生産者がそっちの地域に立地して、さらにその優位は強化され、という具合です。なかなかいい話ですし、ある意味でこれが事実なのはまちがいないと思います。でも、わたしや学生たちがこの研究を発表しようとすると、驚くほどの困難にぶちあたります。理論家たちは、動学がずいぶんお気に召さないのです。なぜその個人たちは、産業の将来立地をきちんと予測しないんだね? 将来を見通すエージェントや合理的期待なしにそんなモデルを作るとは、何を考えてるんだね?

 さて、実際問題としてこんなモデルで合理的期待形成をしようとすると、話はずっと面倒になって、基本的な論点はわかりにくくなります。一言で、完全な最大化行動まで想定を進めてしまうこと——そして不均衡をの進化の力学を避けようとすることもあると思いますが——が話を簡単にするどころか難しくする例がここにあるわけです。わたしの見たところ、ここには経済学者たちが、最大化というのは理解の助けになる範囲でだけ使うべきメタファーなんだよ、ということを理解してくれた方がいい結果が出る状況があります。

 この手の批判に出くわすと、フィッシャーのrunaway 性淘汰理論のモデルみたいなのをやって、近視眼的な不均衡力学を何の断りもなしに使える進化理論家をうらやましく思います(このモデルを知らない方のために行っておくと、こんな具合です。仮に尻尾の大きなオスを好むメスのクジャクをつくる遺伝子があったとします。そしてもう一つ、大きな尻尾のオスを作る遺伝子があったとします。前者の遺伝子を持つメスが多ければ、大きな尻尾のオスは、捕食者にめだって生存確率が低くても、子孫を残す確率は高まります。でも大きな尻尾のオスが、大きな尻尾好きなメスの息子である確率が高いから、その子孫もやっぱり大きな尻尾好きな遺伝子を広めがちで……集積との類似は明らかでしょう)。

 別の問題:金融政策が本当に効果あるか、どうして効果があるか、という問題を考えてみましょう。最終的には、これは価格が名目値で変わりにくいかどうか、という話で決まります。わたしに言わせると、証拠は圧倒的に変わりにくいことを示しています。でも多くの経済学者は、自分たちの信じる原則を根拠にこうした証拠を排除します。合理的な価格設定者はお金の幻想にはだまされるはずがなく、したがってだまされると想定する経済学はよろしくない、というわけです。わたしみたいな新ケインズ派が、ちょっと制約合理性を想定すればすむよ、と指摘すると、制約合理性は概念的にあまりにオープンエンドであり、あまりにちがった行動を正当化できてしまうと言われます。

 でも進化においては、最大化の精度には限界があるという発想は嬉々として受け入れられます。鳥が補食者を見つけたら、警告の鳴き声を発します。これで自分のリスクは高まりますが、その分ご近所は助かる可能性が高まります。この行動が「うまく行く」理由は、そのご近所の多くは親戚である可能性が高く、だから鳥はその「包括適応性」を高めることができる、ということです。でもなぜその鳥はなぜ親戚に聞こえるときだけ警告を発しないのか? ええ、それはそんなことができないから、と想定しておしまいです。

 ひとことで、わたしは経済学者たちが進化理論家から重要なことを学んでくれたら、経済学はずっと生産的な場所になると思っています。モデルはメタファーでしかなく、だからモデルを使ってもモデルに使われちゃいけない、ということです。

訳者コメント:いやあ、ぼくが何よりも知りたいのは、これをきかされた観客の反応。実質的に、おまえらみんなお馬鹿の集団、と言ってるに等しい講演だもん。ぼくが観客なら、ブーイングと卵投げだろうなあ。

: えー、なぜ jerk がろくでもないやつの蔑称になるかというとですね、男性の小便に使う器官を握って、jerk であるところの「強く短く引っ張る動作」を継続的に加えることで、尿以外の体液を排出せしめる行為というのがございまして、jerk はそれに通じるからなのです。この行為は、進化論的に子孫作成の機会を無駄にする行為として蔑視されることが遺伝的に決まっております(そういうのを蔑視する個体は、蔑視しない個体にくらべて相手を探そうという努力を積極的に行い子孫を残す機会が増えるため、これは進化論的必然です。スティーブン・ピンカーもこれには逆らえません)。したがいまして、evolution by jerks は、さらに深いメタ遺伝進化的な意味合いを持つとすら言えるわけでございます。



クルーグマン翻訳一覧  山形浩生 日本語トップ


Valid XHTML 1.1!YAMAGATA Hiroo<hiyori13@alum.mit.edu>