アジアは復活するか?

Will Asia Bounce Back?
(speech for Credit Suisse First Boston, Hong Kong, March 1998)

ポール・クルーグマン
山形浩生訳
 

 のっけからなんですが、まずは訂正から。みなさまおそらくご承知の通り、1994年にぼくはForeign Affairs誌に「アジアの奇跡はおとぎ話」という、意図的に挑発的なタイトルをつけた文を発表しました。その中でぼくは、当時の流行とは完全に逆行したことを言いまして、それはアジア人と欧米のアジア崇拝者たちを、少々ではすまないくらい怒らせるように計算されたものでもあったんです。しかし、一つだけぼくがしなかったことがあります。それは、このいまの危機を予測することです。それどころか、危機が近いといったような予想にならないように、えらく骨をおったというのが実状なんです。ある段階で Foreign Affairs の担当編集者が、理由は敢えて触れるまでもないんですが、文のタイトルを「アジアの繁栄は終わった」に変えたがりました――ぼくは怒り狂いましたね。繁栄が終わってるわけないでしょうに――それに、もしアジア地域の成長が、だんだん停滞するのではなく急停止するというようなことをちょっとでも言ったら、自分の信用が全部パァになるともおそれていました。確かにその一年くらいあとで、東南アジアでほんの小規模な通貨危機が起こるかも知れないとは心配するようになりましたし、シティバンクに東南アジアのエクスポージャーを抑えるよう提言したりもしました――が、そのときでさえ、ぼくが予想していたものは、現実になってしまったこのカタストロフとは比べものにならないようなものだったんです。

 つまるところ、ぼくはアジアで何が起こるかについて、90%まちがってたわけです。しかしながら、ほかのみんなは150%まちがってた――かれらは「奇跡」しか見ず、リスクはぜんぜん見なかったんですから。だから、だれも実際に起きたことを予測はしていなかったにせよ、その意味ではぼくがいちばん近いところにはいた――ぼくが今日ここにいるのも、そのせいなんでしょう。

 で、これからアジアはどうなるんでしょう。秘密を教えましょう:ぼくも実はわからないんです。そしてぼくがここで言うことが、またもや90%まちがっていても、それは当然でしょう。しかしもちろん、これは秘密でもなんでもないことですが、次に何が起こるかなんてだれ一人としてわかってないわけです。そしてぼくがたった10%でも正しければ、たぶんみんなよりはずっと先を言ってることになるはずです。

 というわけでもうちょっとしたら、少し予測をしてみましょう。が、それは後のお楽しみ、まずはそもそもこんな状況にどうしてなってしまったのか、少しお話する必要があります。ですから、今日の話の前半は、なぜこんなことが起きたのかという疑問を取り上げることにします――世界中がうらやむような経済成長を誇っていた地域が、なぜほとんど警告もなく、一瞬のうちに経済的な大惨事に陥ってしまえたのか。
 
 

1 危機のモデル

 アジアをおそったこの経済的な惨事について、完全に理解していると称するやからは、それだけで自分がなにを口走ってるかわかってないのを暴露してるんですね(スハルトに通貨委員会をつくんなさいと説得したヤツ が、まさにそのいい見本です)。実際問題として、だれもいままでこんなものにお目にかかったことはないんです。もちろん、IMFやアメリカ財務省の田舎医者たちは、その立場上、口に苦い経済クスリを処方しつつ、なんでも知っているような安心させる振る舞いをしなくてはならないわけです。が、かれらはありもしない自信を演技してるだけで、患者のための法律を敷きながらも、この一件をなんとか説明してくれるようなモデルや類比を必死になって探し回ってるなんてことは、周知の事実なわけです。それどころか、ぼくがこの芝居をうってる連中――実はぼくの知り合いばっかだったりしますが――について少しでもいいことが言えるとすれば、かれらは自分たちがその場でいろいろでっち上げていることを理解し、自分でも認めるだけの頭脳と、人間的な強さを持っているということなんです。いや実は、この連中の一部は非常に珍しいことをしてます。いまでも学問的な会合や、学問的もどきの会合にやってきて、無責任な当て推量なんかやってる余裕のある部外者の、ああだこうだいう話を聞いたりしてるんです(聞いてその通りにするかは、また別問題ですが)。

 さてお察しのとおり、ぼくもまた同じ学問的/学問もどき的な景気づけ集会――もといセミナー――でしょっちゅううろうろしてます。だから、このベスト&ブライテスト連中がアジア危機について何をいうか、一通りわかってます。これを手短にお伝えしましょう。

 おおむねアジア危機に対する見方で、多少なりともまともなものは、二種類あります(まるっきりまともでない見方はいろいろあって、しかも支持者がかなりついてたりするんですが――たとえばすべてはジョージ・ソロスとボブ・ルービンの邪悪な陰謀だとかいうのや、これがなんだか知りませんが、全地球的な生産能力過剰の避けがたい帰結なんだとかなんとか――でもこういうふざけた考えについては、具体的な質問が出ない限り触れません)。

 一つの見方――これはぼくがハーバード大のジェフリー・サックスの説として考えてるものですが――これによると、アジアに起きたことは基本的には、昔ながらの古き良き金融パニックの現代ハイテク多文化版だ、ということになります。

 この見方の支持者たちはなにをもって「パニック」というのでしょうか。単に、投資家がビビるというだけではありません(もちろんビビりはしますが)。かれらが考えているのは、特定の、自己増殖的な金融危機のことで、その仕組みについては経済学者はかなりよく理解しているんです(ただしそれがいつ始まっていつ終わるかを予想するとなると、こりゃまた別問題ですが)。そこでまず、この理論による説明についてお話しましょう。

 パニック理論の出発点になるのは、柔軟性――気が向いたときにいつでも消費できる能力――と、長期的なコミット、つまり長期的なプロジェクトに最後までつきあうことで得られる経済的な利益との間には、トレードオフの関係があるということです。原始的な経済では、このトレードオフをのがれる道はありません。すぐに砂漠旅行にでかけるんなら、イーストのないパンでがまんしなさい。手元に現金がほしければ、マットの下に金貨を隠しときなさい、というわけです。しかしもっと高度な経済では、このジレンマを解決できます。ぼくの近所の銀行は、おおむね長期でお金を貸す商売――まあ、30年の住宅ローン――をしていると言えますが、しかしそのための資金を提供しているぼくみたいな預金者に、好きなときに預金を引き出す権利を与えてくれてます。

 金融仲介業者(銀行やその他銀行っぽいものです)は、多数の人々からお金を集めてプールして、その金のほとんどを「低流動性の」(つまりすぐに現金化できない)長期投資につぎ込むわけです。現金とか、その他「高流動性」の資産で持つのはほんのわずかな準備金だけ。これがうまくいくのはなぜかというと、平均の法則がきいてくるからです。だいたいの日には、入金と引き出しはまあそこそこ釣り合いがとれてて、手元の現金だけでその差額はうめあわせがつくんですね。個々の預金者は好きなときにお金を引き出せて、それでもそのお金は長期のコミットが必要なプロジェクトの資金として使えるわけです。この一種の魔法のおかげで、複雑な経済がうまくまわっているわけです。

 でも魔法にはそれなりのリスクがあります。通常は金融仲介というのはすばらしいものなんですが、ときどき大惨事に見舞われるんです。たとえば何らかの理由で――根も葉もない噂とか――預金者の多くが、自分たちの預金がヤバイと思ったとしましょう。みんな預金引き出しに殺到します。でも、全員に払えるだけの現金はありません。そして銀行のほかの資産は低流動性なので、それをすぐに売って現金化するわけにはいかない(できても大出血セールでしか売れない)。結局銀行は倒産して、動きのいちばん遅かった預金者が金をなくすわけです。そして、預金の引き出しに殺到した人たちは、実は正しかったことが証明されたことになります――この銀行は、やっぱ結局ほんとにやばかったんだなあ、という話。つまり金融仲介業には、常に大量引き出しのリスクがついてまわるんです。自己実現的なパニックですね。

 こういうパニックが起こると、銀行一つではすまない場合が多いんです。1873年のパニック――あるいは1893年、1907年、1920年、そしてあのあらゆる引き出し騒ぎの母とも言うべき1931年の危機(ちなみにこれは、1929年の株式市場の暴落よりもずっと、大恐慌の原因となったのです)――のように、これは拡大して国の経済全体をのみこんでしまうこともあります。長期的な経済パフォーマンスがよくても、こういう危機に対しては何の保証にもなりません。今挙げたリストが示すように、アメリカはパニックが起こっただけでなく、他の先進国に比べて異様にパニックに弱かったんです。そしてこれはまさに、アメリカが経済的・技術的な支配力をうちたてつつある時期のことでした。

 さて、ジェフ・サックスたちが主張しているのは、アジアに起こったのはこの古い話の現代版で、ただちょっと新しいひねりが入ってるだけなんだ、ということです。確かに、ストレートな伝統的引き出し騒ぎがあったのはインドネシアだけでした。しかしながら短期の負債と長期資産とのミスマッチという基本問題は、それにともなう自己実現的な危機のリスクと共に、すべての国に存在していたわけです。このリスクは、多くの債務がドル建てだったことでさらに拡大しました――おかげで危機がやってきたとき、各国は金利をあげて通貨を防衛し、国内企業を多数破産においやるか、あるいは通貨を暴落させて、同じく負債の自国通貨でのお値段を暴騰させることで、結局は企業を倒産させるか、という究極の選択を強いられることになったわけです。

 ここで注意すべき大事な点は、このパニックは自分に何の罪もなくても起こる、ということです。少なくとも原理からいえば、経済は「ファンダメンタルズ上は問題がない」――つまりだいたいやることはすべてきちんとやっている――かもしれないけれど、でもただの自己実現的な噂だけで、すさまじい取り付け騒動にさらされてしまうかもしれない。そしてジェフ・サックスとその他数名がとってる立場というのは、ぼくの理解している限り、これがまさにアジアで起きたことなんだ、というものです。経済は万事オーケー――1996年版の世界競争力レポートで、ジェフが高得点をつけたときと同じくらいいい状態――だったのに、どこからともなくパニックがやってきて、それがおじゃんになってしまった。

 はい、もうお察しの通り、ぼくはこの説は買ってません。ただし、一部ホントのところもあるとは思います。ぼくが思うに、実際の状況というのは(とはいっても、仮説にすぎませんが――さっきもいったように、アジア危機についてすべてわかったと思ってるヤツは、自分をごまかしてるだけですから)は、アジア危機にパニックが大きく作用したことを否定するものではありません――しかしこのパニックは、危機に先立つ年月におけるまずい政策によって、お膳立てができていたんです。この危機は一言で、アジアの罪にたいする罰だったんです。とはいえ、その罰は、罪に比べていささか大きすぎるものではありましたが。

 アジアの罪とはなんだったのか? 「堕落した資本主義」というのがいい表現ですね。アジアの多くで起こっていたことの本質もよくとらえています。が、もう少し厳密な言い方をするのがすごく大事です。汚職と縁者びいきはろくでもないものですし、アジアではこれはとんでもない規模で行われていました。が、ろくでもないものがすべて金融危機にいたるわけじゃない。アジアを絶壁においつめた具体的な罪というのは、融資におけるモラルハザードだったんです――しかもおもに国内融資の。

 ある意味でこれは、金融パニック問題の裏返しでもあるんです。政府がパニックを防いだり制限したりするための手だての一つは、預金者や、その他金融仲介業にお金を貸している人たちに対して、保証をつけることです。自分のお金が無事だとわかれば、引き出し騒ぎに加わる理由はなくなりますよね。しかしながら、保証は保証でまた別の問題をつくりだします。金融仲介業者の債務が政府に保証されるようになったとたん、そこに金を貸している人たちは、そこがやってる投資のリスクをチェックしようというインセンティブは消えます――ということはつまり、その仲介業者のオーナーは可能なリスクをしょいこむ(つまりヤバイ投資に手を出す)インセンティブができるわけです。「うまくいったらオレの儲け、こけたら払うのは別のヤツ」という原理で行動できるんですから。だから、ある程度パニックに強い金融システムがほしいなら、金融規制もきちんとやらないとダメなわけです――仲介業者には安全な投資しかしないように規制して、あまり派手なばくちを打たないように、自分のお金をそれなりにつっこめと要求するってことですね(ちなみにあのうっとうしい"Capital requirement"というのは、みんな忘れがちですが、このためにあるわけです)。要するにポイントは、よい銀行業というのはおやすくないということです。金融システムをまともに動かし続けるというのは絶え間ない闘いであり、この闘いには明晰な思考と正直さ――人格的にも知的にも――が政府の官僚に要求されるんです。

 歴史的に実直さで知られる国でさえ、しばしば資本市場をむちゃくちゃにしてしまいます。アメリカのセービングス&ローン騒動はみなさんご承知の通りですが、似たような例は日本からスウェーデンまで、数多くの先進国でも見られます。

 でも発展途上アジアで特徴的だったのは、かれらがこの金融管理のジレンマに直面してみようとさえしなかったということでした。かわりになにが起きたかといえば、政治的にコネのある個人や機関――タイの金融会社、スハルト一族、チェボル(韓国財閥)に牛耳られた銀行――は、不文律の政府保証がついてるものと広く理解されていたのに、まともな監督はほとんど行われていませんでした。このシステムとすら呼べない代物は、過剰なリスクをしょってくれと大股開きで招待してるようなもんです。そしてこれは、1990年あたりから、外資が自由に導入できるようになったので、だんちがいに危険なものとなりました。結果として、いまやおなじみのまちがいの連鎖が起きたわけです。派手な融資が投機的な不動産ベンチャーにいって、強気すぎる企業の拡大がとんでもないレバレッジ で行われ云々。おそらく90年代半ばには、アジアの資本市場は巨大なバブルでふくれあがっていて、いずれこれは破裂するしかなかったんです。

 バブルの破裂そのものは、一種の循環プロセスでした。金融機関のいまの債権者への支払いで、政府はたくさんお金がいるなというのがはっきりしたら、追加の債権者にいくお金は減るだろうというのが見えてきたわけです――というわけでお金は干上がり、資金ショートと通貨危機が起きて、それがさらに金融仲介業者をつぶし、それがまた……というわけです。

 ここでさっきのパニック話が登場します。完璧な世界では、モラルハザードによるバブル終焉はすばらしいことだったでしょう。ダメな金融機関はお取りつぶし――大臣の甥っ子や大統領の息子たちは、債務を肩代わりしてもらうかわりに、これからは遊びはよそでやれとしかられる――でも、よい金融機関は無事に生き延びて、穴が開いた部分には新しい金融機関が誕生します。しかし現実の世界では、バブル破裂は広範なパニックの徴だったりします――だって、破裂のプロセスがどこまで続くかわかりゃしないですから。そういうわけで、おそらくは過大だった為替レートや資産価格は、今度は派手に過小評価されるでしょう。実体経済はきりもみ状態ですが、これは資産圧縮と高金利で需要が下がったからというだけでなく、取引用の資金がショートして供給が圧迫されているからだ、ということです。だからアジア経済は、自分で危機を培養してたわけです。自業自得ではあるんですが、でもジェフ・サックスにも正しい面はあるわけです。この危機のひどさは、かれらの過ちよりずっとすごかった。

 でもここまでひどいとは! というわけで、こんどは危機管理の問題を少々。

2 IMFはかえって足を引っ張ったか?

 事態がいまのアジアくらいひどいことになると、その救助隊と称する連中はちゃんと仕事をしたんかいな、と思ってしまうのは人情でしょう――いや、かえって事態を悪化させたりはしなかっただろうな、と。IMFが不手際だったんじゃないかとくさすのは、一部では人気のお遊びになってますが、しかしマジな部分もあるんです。

 さて、IMFの方針に対する批判として重大でないとぼくが考えるものを、手早く処分してしまいましょう。IMFが各国に金利を上げろと言ったのはまずかったと言う人がいます。少なくとも今回のはあげすぎた、とか。確かに高金利で国内の状況は悪化しました。しかし単独で低金利を、と主張する人たちは、金利というのが他のすべてと独立しているという奇妙な見方をしているわけです。だって、仮に為替レートが暴落してるとしましょう。手持ちの外貨準備高が底をついたら、通貨防衛には金利をあげるしかないわけです。さて、それならひたすら通貨を下げるに任せた方がいいやと言うかもしれない――そしてぼくがまさにそう主張するような状況というのはたくさんあります。しかしながら、韓国や、もっとひどいインドネシアは、1992年のイギリスとはちがうんです。当時のイギリスでは、為替レートをまったく無視しても、通貨がせいぜい15%下がってインフレが1%かそこら増えるだけの話。こっちは為替レートは底知らず、下手すりゃハイパーインフレという事態。かなりの高金利のほうがまだマシではないですか。(一部の人が、いわば為替レート・金利版のラファー曲線 みたいなものを提案しているのを聞きました。金利をカットしたらそれが経済を強化して、だから為替はかえって上がる、というわけです。あほくさいと思うでしょう。御意)。

 IMFに対する本当の批判、われわれが心配すべきものというのは、IMFがアジア危機のパニック部分を理解し損ねて、本来なら市場を安心させる努力をすべきときに、各国のしつけにばかりかまけてた、というものです。

 さてIMFもみんなと同じように、アジア危機の深刻さとリスクを甘く見ていたのはまちがいありません。そして、基金として本能的にまっさきにやったのは、いつもの改革プログラムを棚からおろしてくることだったのも事実です――たとえば、財政問題のない国にまで緊縮財政を要求したりとか。しかしながら、IMFの診断の知的な質については後知恵でいろいろ言えるんですが、大事な問題は、IMFのうつべき手として他にどんなものがあったか(あるいは今からでもどんな手を打てばいいか)ということですね。

 反IMFの立場をちょっと戯画化してみましょうか――でも、結果は実際の人々の主張と驚くほどそっくりになるんですが。この見方によれば、基金がアジアでやるべきだったのは、この危機を純粋なパニックとして扱うことだったわけです。経済のファンダメンタルズから見て、まったく不当なものだった、と。ですからIMFとしては、純粋に駆け込み寺的な融資機関として行動すべきだったということになります――アジア諸国に無条件で融資を行うべきだったということです。そしていつものように各国の政策を批判して条件を科したりするかわりに、もっと景気づけをやるべきだったというわけです。カムデススとラリー・サマーズは、アジア各国の首都を行脚するときにもっとニコニコして、行く先々で、実体経済はすばらしいではないですか、と宣言すべきだった、ということになります。

 申し上げたとおり、これは戯画です。でもカムドシュはもっとニコニコしろという下りを除けば、これはジェフリー・サックスらIMF批判者たちの要求にかなり近いものです。

 問題は明らかでしょう。まず、IMFの資源は限られているんです。だれがなんと言おうと、駆け込み寺として十分な規模にはなってない。アメリカの連邦準備銀行は、流動性不足で困っている銀行に、いくらでも融資をすることはできます。でもIMFは、流動性不足の国にいくらでも融資をするわけにはいかんのです。

 こうした資源の制約は、逆にいえば、無条件融資という戦略が失敗したかもしれない――いや、ほぼ確実に失敗したであろう、ということなのです。インドネシアと韓国はその融資で何週間か食いつなげたでしょう。自分たちの外貨準備金で数週間食いつないだように。でもそれが尽きたら?

 というわけで、もっと大きな問題です。今回の危機がただのパニックだったというのははっきり言ってウソ。これら経済は、特に金融システムに深刻な問題を抱えてました。だから一部の銀行や企業は、たとえ経済の絶頂期であってもたち往かなくなってたでしょう。タイの金融機関は6月の通貨切り下げよりずっと前につぶれだしたし、韓国でも30の大チェボル(財閥)のうち8つは、ウォン暴落以前から破産状態かそれに近かったことはお忘れなく。

 さて、駆け込み寺的融資機関の仕事は、手持ち資金が足りないだけで健全な機関にお金を貸すことです。不健全なところに貸し手はいけません。だからたとえ無限の資金力があったとしても、アジアで貸しまくっていたら、これはまずい行動だったでしょう。

 そして最後に、いちばん大事な点:IMFは資金の面で限られているだけでなく、政治的な資本の面でも限られてるんです。仮にIMFが、どっかに無条件で千億ドルほど貸しつけて、その相当部分が貸し倒れたとします――その相手国が、融資の大半は大統領の息子が牛耳ってる銀行に消えたり、いまや囚人の前大統領に、袖の下数億ドルほど贈ってたようなコングロマリットに消えたりするようなところだったらどうでしょう。これをダマト上院議員にどう説明したもんですかね。

 IMFが今みたいに大構造改革を要求するのはまちがいだ、という人はたくさんいます。そんなのは基金としての任務を超えてる、というわけです。しかしぼくに言わせれば、アメリカ財務省の官僚が内輪で「ネズミの巣」問題と称するもの――つまり、お金があっさり汚職まみれの政治的にコネのある機関に消えてしまって、それをダマト上院議員が見つけるという問題――が存在している以上、基金としては堕落した資本主義と正面対決するか、さもなければそもそも口も金も出さないほうがいいんです。後者のほうがよかったのかもしれません――が、なぜかこれはIMF批判論者の言わないことですね。

 いつの日か、ひょっとして、真にグローバルな駆け込み寺的な融資機関ができるかもしれません。偏狭で何もわかっちゃいない国内機関なんか無視できて、最大の金融トラブルにも対処できるだけの力を持ち、たまに数十億ドルすっても存続が危うくなったりはしないような機関です。そんな機関があれば、この世はもっと安全になるでしょう。が、これはただのないものねだり。

3 これからどうなる?

 6月以来、数週間おきにアジアでは何かしら起きて、みんなそのたびに完全に虚をつかれてます。だから、予測というのは非常にリスキーです。が、立場上やらざるを得ないんでしょうね。

 ぼくの見たところ、これからアジア経済に起こることとしては、3種類の基本シナリオがあるでしょう。これをメキシコ95年シナリオ、メキシコ82年シナリオ、そして文明の没落シナリオと名付けます。

 メキシコ95年シナリオは、この危機の冒頭にみんなが願い、期待したシナリオです。短く鋭いショックの後に、市場の雰囲気が逆転して、資本がまたなだれこみ、さあ8%成長だ、というものです。

 メキシコ82年シナリオは、もうちょっと陰気なシナリオです。投資家たちは、やけどをしてもっと根深い構造的な問題について不信がぬぐいきれず、逃げ出すのはやめても、強気で営業再開するまでにたっぷり様子を見る、というものです。アジア諸国は何度も債務繰り延べ交渉をすることになり、延滞金もあちこちで発生、そして経済成長はかなり長期に滞ることになるでしょう。

 最後に、大惨事シナリオがあります。この危機の経済的な打撃が家計を直撃して、政治不安がわき起こって手が着けられなくなり、それが資本流出と国内暴動の悪循環につながる、というわけです。企業や商店は焼き討ち、ビジネスマンはボートピープルに。

 実際問題として、これはみんな、どれも十分にあり得るシナリオです。たとえば金融の状況が数ヶ月落ち着いたら(特に韓国あたりで)、ミューチュアルファンドの運用係が、アジア経済崩壊に巻き込まれるのをおそれるよりは、アジアの回復に乗り遅れるのをおそれるようになる、ということも十分にあるかもしれないし、そうしたら急速な、1997年ラテンアメリカ型の回復が起きるかもしれない。一方で、たとえば特にインドネシアあたりがむちゃくちゃな内部分裂に突入するという可能性は十分にある。

 しかしながら、とにかく何か選べという話になったら、自分の金は真ん中のシナリオに張りましょう――もっと正確には、そのシナリオのハイエンド版、とでも言いますか。つまり、負債のワークアウトは長引くでしょう。ワークアウトとはつまり、各国とも債権者たちと、支払いを待ってくれと交渉を続けなきゃならないということですが、しかしそれでも状況は上向くでしょう。これがぼくの予測(はいはい、根拠レスだから「見当」ですか)です。アジアは、80年代のラテンアメリカ(あるいは90年代の日本!)のような、ゼロ成長の「失われた10年」を迎えたりはしないでしょう。せいぜいが失われた2年とか3年とか、そんなものでしょう。

 そんな予測がどっから出てくるのか? ぼくが劇的な回復シナリオ――V字危機って話ですね――を信じない大きな理由は、この危機が純粋にパニックだけによるものだとは思わないのと同じ理由です。アジアの経済は、すごい構造的な問題を本当に抱えていたんです。特に金融部門にね。こういう問題が一掃されて、一掃されたということをみんなに理解してもらえない限り、お金はあまり入ってこないだろうし、経済成長も完全には回復しないでしょう。

 一方で、アジアの奇跡を信用しなかった男と評判のぼくではありますが、でもアジア経済が張り子の虎だといったこともないんです。過去1世代にわたる生産力のものすごい成長は、奇跡ではなかったかもしれないけれど、だからといってそれがインチキだってことではない。こうした経済は、ポチョムキン村ではない、つまりファサードしかない書き割りの家なんかではない。だから、そこそこ高い成長の可能性はまだある。今日お話した中で、長期的な経済のパフォーマンスと、危機に対するもろさとの間には何の関係もないと指摘したのを思い出してください――第二次世界大戦以前のアメリカは、先進国の中でもっとも成長性が高く、同時にもっともパニックに弱かった国でもあったわけです。まあこれは諸刃の剣、とでも言いましょうか。アジアの経済成長力は、危機の回避には役に立たなかった。でもアジアの危機は、それが経済の潜在力を失ったと言うことではない。

 なぜぼくが、完全崩壊シナリオを支持しないのか? 基本的にそれは、ホントに何かつかんでいない限り、そんな恐ろしい予測はしないほうがいいからで、だいたいぼくは平均的なインドネシア人の思考形態について、なんにも知りゃしませんから。

 さて、やっとあの大きな疑問にやってきました。以上は結局のところ、投資判断について何を物語っているか? ぼくに言わせれば、答は明々白々:買い。

 その理由は、ジェフ・サックスがForeign Affairs誌の最近の記事に残念ながらつけたように「アジアの将来は明るい」からではありません。ホントのことを言えば、アジアの未来はかなり暗澹としてます。が、アジアの真相を言えば、いまのアジアはとにかく安い。アジア全域にわたって、資産は(ドル価格で)危機以前のお値段の25%引きから、下は10分の1。さて、かりに1996年のお値段がすごいバブルのせいだったとして、こういう経済の将来の成長が、90年代前半の半分にしかならなかったとしましょう。いや、それどころか、来年にインドネシア華僑500万人が、いっせいにオーストラリアめざしてボートピープルと化す可能性が20分の1もあったとしましょうか。仮にの話ですよ。それでも、このお値段でなら投資する価値は十分にある。

 この点について、どのくらい確信があるかと言いますと――ま、10%くらい、ですな。



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