Nature 書評 (Vol 414, 8 November 2001) に対するビョルン・ロンボルグのコメント

未来について心配する必要なし

スチュワート・ピム&ジェフ・ハーヴェイ

1 スチュワート・ピムは Center for Environmental Research and Conservation, MC 5556, Columbia University, 1200 Amsterdam Avenue, New York, New York 10027, USAに所属。

2 ジェフ・ハーヴェイは Centre for Terrestrial Ecology, Netherlands Institute of Ecology, PO Box 40, 6666 ZG Heteren, The Netherlands に所属。

環境的に見て、「事態はよくなっている」とわれわれは言われる。

Bjorn Lomborg The Skeptical Environmentalist: Measuring the Real State of the World Cambridge University Press: 2001, 515 pp.

 本書の副題でお里が知れるというもの。これは Ronald Bailey著 The True State of the Planet (Free Press, 1995) などの焼き直した。ビョルン・ロンボルグの話では、本書の期限はかれが1997年に教えた講義だったとか。もとのデンマーク語版はそのたった1年後に刊行された――学術出版の遅さを考えると、すさまじい早さだ。その拙速さもあらわだ。

 この世界環境問題――食糧、森林、エネルギー、水、公害、生物多様性、地球温暖化――の調査は、生徒全員に不可をつけなくてはならないような地獄の講義で提出された課題レポートの寄せ集めさながらだ。それは消化不良の材料の山で、その事例や分析の選択もきわめて歪んでいる。ロンボルグは故ジュリアン・サイモンを崇拝している。サイモンはThe Ultimate Resource (Princeton University Press, 1996) の著者だ。サイモンと並べば、ヴォルテールの楽観主義的パングロス博士ですら陰気だし、アルバート・アインシュタインは理論の素人になってしまう。サイモンは「増加を続ける人口を今後70億年にわたり食べさせられるだけの技術がある」と主張して、アメリカの政治右派を感動させた。エコロジストたちは、この基本的な生態学法則の驚くべき否定により疑問視されたわけだ。現在の成長率が続けば、人間の総質量は今世紀中にもバイオスフィア全体の重量を上回ることになる。物理学者たちも真っ青だ。割り当て時間のはるか前に、人類の質量は宇宙よりも高速に増加することになる。

 これはサイモンへの批判だ(そしてある程度は正しい――かれは確かにとんでもない主張もいくつかやった)けれど、ぼくの本とは関係ない。指摘しておいたほうがいいのかもしれないけれど、ぼくは最初はサイモンを論破しようと思って作業を始めたんだし、かれの議論の一部についてはいまでも疑問だと思っているのだ (邦訳 p.2):

  本書の着想が生まれたのは、1997年2月、ロサンゼルスのある書店でのことだった。『ワイアード』誌を立ち読みしていると、アメリカの経済学者ジュリアン・サイモン(メリーランド大学)のインタビューがあった。ぼくたちのこれまでの環境に対する理解は、はっきり言って先入観とダメな統計に基づくものでしかない、とかれは主張していた。環境についての、破滅の日的な理解は正しくないのだ、と。主張の根拠には公式統計しか使っていないし、だれでもアクセスできるものだから自分の主張はすぐ確かめられるぞ、とサイモンは強調していた。

  ぼくは挑発された。ぼくは古くさい左翼のグリーンピース支持者で、長いこと環境問題について案じてきた。同時にぼくは統計学を教えているので、サイモンの情報源をチェックするのは簡単なはずだ。さらに、ぼくはいつも生徒たちに、統計学はぼくたちの重要な社会的信念が精査に耐えるものか、それともただの神話かを判断するための、科学の最強の手段の一つだ、と教えている。それなのに、ぼくはずっと荒廃を続ける環境という自分の信念を本当に精査してみたことはなかった――そこへサイモンがやってきて、自分の信念を統計の顕微鏡にかけてみろ、と言ったわけだ。

  1997年の秋に、ぼくはいちばん出来のいい学生10人と研究会を作り、サイモンの主張を徹底的に調べてみようとした。正直いって、ぼくたちはサイモンの発言のほとんどが、ただのアメリカ右翼プロパガンダでしかないことを証明しようと思っていた。そして、はい確かに、かれの発言すべてが正確ではなかった。でも――期待とはうらはらに――かれの論点の驚くほど多くの部分は検証に耐え、ぼくたちの思いこんでいた知識とは逆だった。先進国の空気は、汚染が進むどころかきれいになっている。発展途上国の人々の飢餓も、増えるどころか減っている、等々。

 こうして影響されたロンボルグは「定番話」についてまず語る――これは地球のどこがおかしいかと、そしてかれの見方で見ると、「事態はよくなっているのか」を述べた一覧だ。定番話は、ニュース雑誌や SF 作家二人による本を挙げるけれど、科学者の本を直接挙げることはない。「事態がよくなっている」と述べる、それに続く段落を支持する参照文献もない。一次文献の引用にはサイモンも苦労していた。

 「定番話」はまさに環境についての一般的な理解で、あり、ニュース雑誌や一般向け科学雑誌(たとえば TimeNew Scientist) や、ワールドウォッチ研究所の『地球白書』などの一般向け環境本に書かれていることなのだだから、それをぼくが記述のために引用するのは当然のことだ。一方で、科学者たちが自分の領域について記述するときには、かれらが正しいものとぼくは想定しているし、だからかれらのデータはあの本でたくさん使われている(定番話と文献利用については注 5 を参照 (邦訳 p.67):

 もちろん学術的な観点からはもっと優れた環境に関する論文や報告がたくさんある(たとえば UN, WRI, EPAの報告や、これら機関の重要な調査研究で、その多くは本書の中でも使われているし、参考文献に挙がっている)。

 「事態はよくなっている」という議論を支持する参照文献がないことについては、注14で説明した。「これと以下の主張は、本書の後の個別章で記述する。」「事態がよくなっている」という主張が、その部分でいきなり記述されているとピム&ハーヴェイが期待するのは、無茶な話だ。だってそれは、あの本全体の主題なのだもの。

  できの悪い課題レポートのように、ロンボルグの文は大幅に二次資料に頼っている。2,000件ほどの参照文献のうち、5% はニュース記事で、30% はウェブのダウンロードからだ――入手しやすいけれど、それ故に査読されていないことが多い。Nature の原論文からくるのはたった1%、その半分が、サイモンの著書への寄稿者からきている。この、国際的に評価の高い雑誌よりも査読なし材料に偏向する傾向は、ときには驚異的なほどだ――たとえばニューヨークのラブカナルの汚染に関する証拠が「歪んでいる」という主張など。あるいは、でっちあげくさいものもある。「ハーバードの生物学者E. O. ウィルソンや、スタンフォードの生物学者ポール・エーリックは、アメリカの全人口を移住させるという野心的な計画を熱心に支持している(中略)人々は小さな閉鎖された都市の島に住むことになる」(訳注:これは本書の増刷では記述が修正されている)。この引用は、ウィルソンのものでもエーリッヒのものでもない。「これは事実ですか」とわれわれは二人に尋ねた。エーリック曰く「そんな計画は知らない。あったとしても賛成しない」。ウィルソンも同意した。

  5% がニュース記事からくるのはあたりまえだ。この本は、グリーンピースが地球温暖化についてどう思うか、有機農法の農民が精液の質についてどう思っているか、そして一般人が環境一般についてどう思っているかも記述しようとしているからだ。そして30% がウェブからきていたらどうなの? そのウェブサイトの圧倒的多数は、国連、世界銀行、ワールドウォッチ研究所、EU 等々のものだ。これについてはぼくははっきり述べている (p31, 邦訳 pp.62-3):

 でもぼくにとっていちばん重要なのは、自分の情報源の信頼性にまったく疑問の余地を持たせないことだった。このためぼくが使う統計のほとんどは、環境論争に参加している人の多くに広く受け入れられた公式の情報源からきている。これは世界最高のグローバル組織である国際連合とその各種下部機関を含む。FAO(食糧)、WHO(健康)、UNDP(開発)、UNEP(環境)。さらに、世界銀行やIMFなど、主に経済指標を集めている国際機関の発表する数字も使っている。

 世の統計の多くを集めている組織が二つある。国際資源研究所 (WRI) は、UNEPやUNDP、世界銀行といっしょに、隔年で世界の重要なデータの概観を発表している。ワールドウォッチ研究所もまた毎年大量の統計データを用意している。多くの分野でアメリカの各種省庁は世界中から、たとえば環境やエネルギー、農業、資源、人口になどに関する各種の情報を集めている。こうした省庁としてはたとえばEPA(環境)、USDA(農業)、USGS(地理調査)、アメリカ国勢調査局などがある。最後にOECDとEUはしばしば地球や地域ごとのデータをまとめていて、これも本書で使われている。国別統計としては、その国の省庁などの公共機関からの数字を使うようにしている。

 数字がUNEPからきているからといって、そこにまちがいがないってことにはならない。そうした数字は、もっと「公式」ではない性格の出版物からの転載であることが多いからだ。だからこうしたデータの出所について批判はできるけれど、でも非常に問題の多いデータから恣意的に選んだものじゃないか、常識から激しく逸脱しているんじゃないかというほどの心配はしなくていい。同時に公式の情報源だけを使うことで、インターネットの大きな問題の一つは避けられる。ネットはあまりに分散化していて、\textbf{ほとんどどんな代物でも}出てきてしまう、という問題だ。

 だから本書を読んで「こんなの本当であるわけがない」と思っている自分に気がついたら、ぼくが提示している統計データはふつうはWWFやグリーンピースやワールドウォッチ研究所の使っているものとまったく同じだ、ということに留意するべきだろう。人はよく「他の人たち」の使っているデータはどこにあるんだ、と尋ねるのだけれど、そんなデータはないのだ。本書で使っている数字は、みんなが使っている公式の数字なのだ。

  ピム&ハーヴェイが、Nature 論文が1%しかないというのを問題視するのも、ずいぶん変だ――なぜ Nature ばかりことさら参照する必要があるの? Science の論文ではご不満ですか? あるいは無数の、もっと分野に特化した雑誌は?――ちょっと挙げるだけでも、Journal of the American Medical Association, American Economic Review, Papers and Proceedings, Environment, Energy Policy, Climatic Change 等々。これではいけませんか?

 ピム&ハーヴェイは、ニューヨークのラブカナルの場合に、国際的に評価の高い雑誌より査読なしの材料を優先させた偏向ぶりを「驚異的」と考えている。でも、ラブカナルに関する参照文献は、非常に評価の高い Lancet からきたものだし、Environmental Health Perspectives Supplementsの参照で補ってある。野心的な計画ワイルドランドプロジェクト) の引用元は、Science (260:1868-71)のニュース記事だ。どこがでっちあげなの? この参照文献は、こう書いているのだ (1868ぺージ, 1段目, 一番下):

 ハーバード大学のエドワード・O・ウィルソンやスタンフォード大学のポール・エーリック(エーリックは、自分が「熱心な支持者だ」と述べている)およびカリフォルニア大学サンタクルズ校のマイケル・ソール(かれはプロジェクトの創始者の一人だ)のような科学著名人は、ワイルドランドプロジェクトの背後にある考え方を支持している。

 人類の将来に対するロンボルグの大いなる楽観主義は、かれが統計を示す手口に出ている。サブサハラアフリカのほとんどをしめる地獄のような世界について、「飢えた人」は「1970年には38パーセントだった(中略)が、1996年には(たった)33パーセントだった。(この比率は)2010年にはさらに下がって 30 パーセントになるとされる」と述べる。不思議なことに、この下りからは飢餓者の絶対数が欠けている。大まかに言って、この地域の人口は1970年から1996年にかけて倍増した。飢餓者の数を一定に保つには、比率は半分以上下がる必要がある。この地域の栄養失調者の絶対数――および貧困の無数の帰結(AIDSを含む)によって死を免れた人々の数――は、「事態はよくなっている」とだいされた章の筆頭の「グローバルトレンド」としては話がちがうだろう。

 ぼくは本書で、道徳的に見て、絶対数と相対数のどちらが重要かを検討し、相対比率のほうが重要だと結論している (p64, 邦訳 pp.116-7):

相対的な改善? 絶対的な改善?

 飢えやきれいな飲料水の不足といった問題を見るにあたってよく出てくる問題は、絶対数を使うか相対的な数値を使うか、というものだ。

 当然ながら、飢えに苦しむ人の数が絶対数と比率の両方で低下すればもちろん結構なことだ。同じように、もし人数とパーセンテージの両方が増加していれば悪いことにちがいない。でも、一方が増えていてもう一方が減っていたら?

 この問題を道徳的に解釈する方法として、ぼくは架空の、道徳的な選択肢を考えてみる。要するに、どっちの世界に住みたいか選ぶ立場におかれた一個人の立場にたって問題を考えるのだ。ポイントは、その個人は各社会での自分の立場を知らないということにある(「無知のベール」で覆われたような状態)。これで道徳的評価の普遍性が確保される。

 議論しやすいように、世の中には2種類の人しかいないとしよう――飢えて死ぬ人と、生き延びる人だ。そして世界Aと世界Bを以下のように表す:

 Bの世界では、餓死者の絶対数は増えているが比率は下がっている。ぼくならこの状況では明らかにBの方がAよりいいと思う(もちろん死者の出ない世界が一番いいけれど)。ぼくが(飢えで)死ぬリスクは、世界Bで37.5パーセント。世界Aでは50パーセントだ。ということはつまり、絶対数と相対的な数値が反対のことをさしている場合、相対的な数値の方が重要だということだ。

 もちろんこの選択を道徳的な立場から批判し、死者の絶対数が低い社会が一番だという説を唱えることもできる(つまりAの方がBよりよい、という主張だ)。でもそういう観点は、別の仮想社会を考えると難問に直面することになる:

 この状況でも、絶対数を重視する見方では世界Aより世界Cを選ぶ事になってしまい、かなりの弱点がある。これを正しい選択だと思う人はごくわずかだろう。

 だから絶対数と相対比率が反対のことをさしている場合、たぶん相対比率の方が、人類の境遇が改善したか悪化したかを評価するにあたり、道徳的に意味がある方法なのだ。

  だからこそぼくは相対の比率を示している(特にこのピム&ハーヴェイが引用した部分については。ここでの問題は Global Environment Outlook 2000 が40年で穀物収量が半減するかもしれないと言うとき(ほかのあらゆる予想とは正反対だ)、それが過大な主張ではないかどうか、ということだ)。絶対数を提示しないのが、どういうわけか怪しいと主張するのは、相対/絶対の議論を無視するものだ。さらに、ぼくはサブサハラアフリカの悲惨な状況を論じるのに、まるまる一節を費やしている (p. 65ff, 邦訳 p.117)。最後に、サブサハラアフリカでさえ、期待寿命は1990年までのびたし、それが停滞するのも「わずかに」2010年までの話で、期待寿命が下がったことはない (p. 52, 図 16, 邦訳 p.96).

 ロンボルグはしばしば、サイモンとまったく同じやりかたで批判文献を見逃す。たとえば、生物多様性についての章を見てみよう。ここは、すでに常識となった絶滅率の推計に対する、よくある言いがかりからはじめて、当然のところであっても関連論文を無視する――サイモンの推計が、ほかのみんなの推計と比べて三分の一から四分の一の低さだ、ということを示した論文も含め。

  ぼくがそれに言いがかりをつけるのは、しばしば引用される、きわめて高い死亡数がまちがっていて、国連のデータとすら一致しないからだ――以下を参照。さらにここでも、これはぼくの本への批判のはずなのに、出てくるのはジュリアン・サイモン批判ばかり。

 この本は、たとえばゲイの男性がAIDSでは死んでいないとか、ナチスがユダヤ人をねらって虐殺したりしなかったとか議論する人々の戦略を使う。「死んだやつの名前を挙げて見ろ!」と仮説的な批判者は要求し、そして実際の名前がわかっている少数の人々と、われわれが推計した何百万の無名の人々との数の差を嘲笑する。サイモンをそのまま繰り返すロンボルグは、名前のわかっている死んだ少数の種を、われわれが何も知識を持たない無数の種の数と並べて見せる。

 混乱した議論が何ページも続いた後で出てくる「今後50年で0.7パーセント」という絶滅推計は、今日までの人間の行動によって絶滅の縁にまで追いやられているよく知られた種の 10-40% という数字と驚くほど一致しない。よく知られた種の 2% は、すでに絶望的に希少となっていて、それが本当に生きているかさえわからない。ロンボルグはその一部が再発見されたことで安心している。末期症状に苦しむ人々と同じで、かれらがからくも生き延びているということは、展開する疫病に関する恐怖を和らげるものではないのだ。

  ピム&ハーヴェイが、ここで何をいいたいのかわからなくなってくる。かれらは「仮説的な批判者」なるものに依存した議論を始めるけれど、これはたぶん、ぼくであるかのような印象を与えることになっているんだろう。でも、ぼくは少数の既知の絶滅種数を、未知の多数の種の数に重ねたりはしていない――文中でも表でも、ぼくは既知の絶滅数が大幅な過少評価だということを指摘している:「絶滅を記録する際の厳格な条件のため、この数字は間違いなく実際より過小となっている」(p. 250, cf. p. 252, 邦訳 p.407).

  ピム&ハーヴェイはそれから、 0.7%/50年は、危機に瀕した種が 10-40% という数字と驚くほど乖離していると述べるけれど、でもこれはまったくちがう数字だ。実はあの本は、絶滅しそうだとされる鳥 1000 種のうち、もっぱら保全努力のおかげで「これらの種のうち2015年までに本当に絶滅しそうなものはかなり少ない」(p255) と述べている。だから 10-40% というのは実際に絶滅する種の数をかなり過大に見積もっている可能性が高い。ピム&ハーヴェイは、「危機に瀕した」という指標の方が「絶滅」よりも生物多様性の指標として優れている、と議論してみることはできる(が、「危機に瀕した」の定義を長期間一定に保つのはずっとむずかしいだろう)。でも、ちがった二つの数字を並べて、ぼくの生物多様性推計がまちがっているとにおわせるのは、どう見ても議論としてまちがっている。最後に、ピム&ハーヴェイは驚いたことに、 0.7%/50年が、最新の最も権威ある、国連による 0.1-1%/50年という範囲にしっかりおさまっていること (p256, 邦訳 p.417) に触れない。ぼくがまちがっているなら、かれらとしては少なくとも、UN Global Biodiversity Assessment だってまちがっているのだということを示すくらいの手間はかけてほしいものだ。

  森林消失に基づく将来のトレンドについても、かれの欠陥だらけの例はまったく目新しさがない。「アメリカでは、東部の森林は断片化されてもとの面積のたった1-2%になった。だがその結果として絶滅したのは森の鳥一種だけだ」。正しい数字は50% 近くで、絶滅数は4種、さらに2種は深刻な危機に瀕している。こうした絶滅は、この地域だけで見つかる鳥の15%を構成する(世界的に見て絶滅に瀕した唯一の種だ)。これは、ロンボルグが否定する種-面積モデルから出てくる予測を見事に裏付けているのだ。

  この例と、森林や鳥の消失については、生物学者のシンバーロフが世界動植物保存連合 (IUCN) のために書いたものから引用している。これは本文で参照している通りだ。かれがまちがっているなら、ピム&ハーヴェイはかれを批判すべきだ。議論が目新しくないというのはまったくその通り――ぼくは単に、ほかの科学者の研究結果を引用しているだけだ。ピム&ハーヴェイが、ブラジル大西洋雨林を見たときのIUCN によるもっと強い議論を無視しているほうが、ずっと驚かされる (p. 255, 邦訳 p.416).

 すでに森林の章で見たように、ブラジルのアマゾン雨林の約86パーセントはまだ手つかずで残っている。でも、大西洋側のブラジル雨林は19世紀にほとんどすべて伐採され、残っているのはたった12パーセントほど、それもきわめてちりぢりになっている。ウィルソンの経験則によれば、生物種の半分が絶滅していると予測される。ところが、ブラジル動物学協会のメンバーが既知の171の太平洋森林動物すべてについて分析したところ、「生息地がすさまじく減少して断片化してしまったにも関わらず、既知の動物種で正式に絶滅したと宣言できるものは一つも見つからなかった」。そして2次リストに載った120の動物についても「絶滅したと言える種は一つもない」。同じく、植物種で絶滅が報じられたものもなかった。動物学者たちは「既存データを精査してみると(中略)大西洋森林地帯では種の絶滅がまったく起きていないか、ごくわずかしか絶滅していないという主張が支持される(ただし一部の種は非常に脆弱な状態で生息しているかもしれない)。実は、20年前には絶滅したと思われていた、鳥数種とチョウ6種を含むかなりの数の種が、最近になって再発見されている。

  この本を章ごとに暴く産業が生まれつつある。現在では、あるウェブサイト (http://www.anti-lomborg.com)、Scientific American用に企画された論文集、懸念する科学者連合によってまとめられた、ロンボルグの大きなミスをまとめたジャーナリスト向けのガイド、そして各種の刊行パンフレットなどが含まれる。ここで出したのは一例にすぎない。

 現在(訳注:この書評とコメント執筆時点)で唯一参照できる文献は anti-lomborg.com だけだ。ピム&ハーヴェイは、ぼくがウェブからの材料を使うといって非難しているくせに、自分たちはここで読者に対しウェブサイトを示すだけで、それも本の重箱の隅をつつくような、かなりどうでもいい中身しかないサイトだ、というのはちょっと驚かされる。さらに、このウェブサイトのコメントの多くは、イギリスのオックスフォードでぼくと面と向かって議論するかわりに、パイを投げつけた学者が書いたものだ。こうした参照文献を Nature 誌のレビューに含めるのが適切かどうかは、読者に判断していただきたい。

 だが Nature は、本の中身を説明する以上のことを書評子に求める。われわれはそのもっと大きな意味を検討しなくてはならない。われわれの見て取れる唯一の意味は、ケンブリッジ大学出版局がどうして、広い科学的合意と一致せず、あまりにしばしば査読つき刊行物ではなくニュース記事をもとに議論されているような、複雑な科学問題に対する拙速な本を刊行しようと思ったのか問いただす、ということだ。もちろん論争は科学の一部ではあるが、とんでもない主張は有能な査読からくるとんでもなく詳細な検討を必要とする――本書ではそれは欠けているようだ。

  このまとめは議論として成立していない――ピム&ハーヴェイは、ぼくの議論が広い科学的合意と一致していないことをきちんと論証できていない(生物多様性についての唯一の議論は、ぼくの推計が国連の推定範囲のどまんなかにあることに触れさえしない)し、ぼくが査読つき刊行物ではなくニュース記事をもとに議論をしている、ということだって示されていない。

  要するに、ピム&ハーヴェイにききたいのはこういうことだ:ぼくがそんなにまちがっているなら、どうして単純にそのまちがいを指摘しないんですか?

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YAMAGATA Hiroo (hiyori13@alum.mit.edu)