Scientific American (SA) 2002年1月号での11ページにわたる批判に答える

Bjørn Lomborg、山形浩生訳

2001年12月31日にほぼ完成。; 最終更新 January 4, 2002, 12:06:44 原文 html, 原文 pdf
日本語訳の pdf 版は http://cruel.org/kankyou/sarebuttal.pdf

目次

  1. はじめに (ジョン・レニー)
  2. 地球温暖化:複雑さを無視 (スティーブン・シュナイダー)
  3. エネルギー:まちがった問題のたてかた (ジョン・P・ホルドレン)
  4. 人口:インパクトを無視 (ジョン・ボンガーツ)
  5. 生物多様性:科学的プロセスを否定 (トマス・ラブジョイ)
  6. さらに詳しく学ぶには

[背景: 最近になってぼくは、非公式なルートでScientific Americanの11ページにわたる特集の最終ゲラを入手した。11 ページすべてが、ぼくの近著『環境危機をあおってはいけない』(文藝春秋社 2003, 以下SEJ, 原著The Skeptical Environmentalist, Cambridge University Press 2001, 以下 SE )をボロクソにけなすのに費やされている。これを書いている時点で、Scientific Americanはまだ読者に対してぼくの側の議論を提示するチャンスを与えてくれていない。ぼくの議論の正当性を判断する材料としてSAの読者が受け取るのは、批判文 4 つとそれに伴う編集部コメントだけだ。ぼくの側の議論をScientific Americanで載せてもらえるかも、という漠然としたはっきりしない約束はもらったけれど、でもその形式も時期も、まったくはっきりしていない。

 ここでは、この特集に対するとりあえずの反論を、論点ごとにしておく。各種文献への言及は、特に断らない限り、SEで使ったものと同じだ。SEの書誌は www.lomborg.org でダウンロードできる。]

Scientific American, p61-71, January 2002, (赤字).

 以下の文は、最終ゲラからのもので、pdf から Word に変換した過程でときどきイタリクスになった部分や単語が落ちているかもしれない。見出し、小見出し、大文字の使い方などのレイアウトはほとんど残っている。最初のページ(p.61)は編集長ジョン・レニーによる編集部コメントで、残る 10 ページは三つのコラムが改ページなしで続いており、それぞれのページで興味をひく一文が大きなフォントで目立つようにしてある。その文は以下で指摘してあるけれど、でもこれは編集部の判断かもしれない。ウェブ上で Scientific American はこの論文集を以下のように表現している:

地球についての誤解を招く算数

STEPHEN SCHNEIDER, JOHN P. HOLDREN, JOHN BONGAARTS, THOMAS LOVEJOYによる論考

 『環境危機をあおってはいけない』は、地球についての災厄警告を無視するよう統計を使ってうながしている。でも科学によれば、当の著者こそが現実を正しく見ていない。

(http://www.sciam.com/page.cfm?section=currentissue).

『環境危機をあおってはいけない』に対する科学の自衛

 この発言こそが、いちばんびっくりさせられる部分かもしれない――以下の批判が、ぼくの本から自分を自衛しようとする科学の発言だ、というんだから。ある意味でこれは、この後の批判が持つバイアスを総括したものだ。ぼくの本ははっきりと科学重視をうたって事実に基づくようにしている。事実やぼくの情報源についてははっきり述べているし、だからだれでもまちがいは指摘できるし、そういうまちがいはもちろんぼくのウェブサイトに投稿する。だから、ぼくの本から科学を守る必要なんかない――科学を打倒しようなんてことは、ハナから問題になってないのだ。議論すべきなのは、ぼくの本に書いてあることが正しいのか、正しくないのかということだ。それを、科学対ぼくの本の戦いみたいな印象にするというのは、焦点をずらして歪めるためとしか思えない。むしろ、ぼくの本に対して自衛しなきゃいけない立場というのは、警鐘ばかり鳴らしたがる環境保護主義だ。そう書いたほうが、もっと意味の通る見出しになったんじゃないだろうか:The Skeptical Environmentalist(眉にツバする環境保護論者)に対する警鐘好きの環境保護論者の自衛、という具合。

John Rennie

地球に関する誤解を招く算数

 あらゆるよい科学の要となるのが、批判的な思考と確固たるデータである。環境科学は生物学的および経済的な生存――この両者はしばしば対立するものと見られている――にとって実に重要なので、十分な検討が必要だ。これを考えると、デンマークのアーハウス大学の統計学者兼政治科学者ビヨルン・ロンボルグ著『環境危機をあおってはいけない』 (Cambridge University Press) は歓迎すべき監査であるはずだ。が、実際にはちがう。
 同書の副題――本当の世界の状態を計る――が示すように、ロンボルグの意図は環境データを再評価して、公共が科学のつきとめたものをなるべく正しい理解し、それに基づいて政策決定ができるようにする、ということだった。かれの結論は、かれ自身も驚いたそうだが、陰気な衰退予想(かれが「定番話」と呼ぶもの)の正反対――何もかもが改善されているという。万事快調ではないけれど、でも環境の未来は思われているよりも明るい。かわりにロンボルグは、悲観的で不正直な環境保護団体や機関やメディアを、科学者たちの実際の発見を歪めているとして非難する(同書の第一章が www.lomborg.orgにある)。
 ロンボルグの結論の問題は、当の科学者たちがそれに猛反対しているということだ。当 Scientific American に対して多くの人が、ロンボルグによる自分たちの分野の歪んだ紹介とかれらの呼ぶものについて、苛立ちを表明した。かれらによると、ロンボルグの一見冷静なアウトサイダー的見方は、データの不完全な使用や根底にある科学についての無理解によって歪曲されている。統計的な分析が有効なところでも、その解釈は的はずれなことが多い――たとえば文字通り木の数だけ見て森の状態を見ていないなど。そして、一生を捧げた研究者よりも、自分のほうが科学精神を誠実に見据えているというロンボルグの思いこみには、驚かざるを得ない。また幅広い環境科学のあらゆる分野で、通念に反する同じようなよい報せをかれが見つけられるというのも、同じく不思議なことだ。

 すべての科学者があの本を否定しているような書き方は、明らかなまちがいだ。多くの科学者は、公式にも(たとえばあの本の見返しの賛辞)非公式にもあの本を誉めている。以下を見れば、ここで言われている「まちがった言及」「データの不完全な使用」「根底にある科学についての無理解」という主張はどれ一つとして示されていないことがわかる。
 ここで編集者によって提起されている唯一の具体的な主張というのは、ぼくが「文字通り木の数だけ見て森の状態を見ていない」というものだ。これはどう考えても、ラブジョイによる森林についての一節についてのものだ(以下の批判で森林について触れたのはここだけだ)――そしてここでの分析ははっきりしている。ぼくは、環境運動が、地球が「地球に残った最後の森林」を失う危機に直面しており、「世界の森林はいまや存亡の危機にある (WWF, SEJ:188/SE:110 で引用)」と述べたがることを指摘した。でも、最も長期にわたる時系列データを見ると、戦後の森林面積はほとんど変わっていない (SEJ:190/SE:111)。さらに、国連気候パネル (IPCC) の最長の未来シナリオでは、どう考えても 2100 年の森林面積は 1950 年より多いことになりそうだと示している (IPCC 2000b, SEJ:460/SE:283)。ここでは、冷静に最長の時系列データを見ることで、環境保護の神話や大風呂敷に従うよりもずっといい情報が得られている。つまりこの編集者は、唯一の具体的な論点でも完全に的を外しているようだ。
 ある分野に一生を捧げた人よりもぼくのほうが詳しいなんておかしいという指摘は、まったくの状況証拠でしかないけれど、それでも強力な論点に見える。でも、ある一つの問題に一生を捧げてきた人物は、もちろんその分野こそが何より重要な課題の一つと考えがちだろうし、その分野内の問題はすべて、その人にとっては解決が必要な問題に思えるにちがいない。そして、それがまさにぼくの論点だ。こういう人たちの科学はまじめに考察すべきだけれど、問題についてのかれらの評価を、批判なしで受け入れてはいけないんだ。社会のあらゆる分野には、問題はいくらでもある――改善したいモノは後からどんどん出てくる――でもリソースは限られている。だから社会としてぼくたちは、その問題が大きくなっているか小さくなっているか(つまりぼくたちが正しい方向に向かっているか)、それに対して何ができるか(大きく変えられるか、あまり手の施しようがないか)、そしてリソースの使い方としてこれが最善か(ほかにもっと成果をあげられる分野はないか)を考えなきゃいけない。こうした評価は、個別の課題領域を見ているだけで自然に得られるようなものじゃない。だからこそ、各分野の科学を見るだけじゃなくて、こう尋ねなきゃいけないのだ:「細かい話はさておき、大きな全体像の中で、あなたの課題ってのはどれだけ重要なんですか?」
 『環境危機をあおってはいけない』でぼくがやろうとしたのはそういうことだ。

 弊誌では最先端の専門家 4 人に、ロンボルグによる各自の分野の扱いを批判してほしいと依頼した。その分野とは、地球温暖化、エネルギー、人口問題、生物多様性である。これにより読者は、同書がこれほどの否定論を引き起こす理由を理解することができよう。地上の状態が人間の福祉にとっておおむね改善を見せているというロンボルグの評価は、ある程度は真実かもしれない。だがここで指摘されたまちがいを見ると、世界の真の状態を記述するという目的において、同書が失敗していることがわかる。

編集長 ジョン・レニー

 この専門家 4 人は、明らかにランダムに選ばれたわけではないことに注意。レビューア 4 人のうち 2 人は、実はぼくの本の中で直接批判されている。ラブジョイは 1980 年に、地球上の全生物種のうち 15--20% は 2000 年までに死に絶えると予言している (1980:331, SEJ:411/SE:252)。この予言は明らかに事実ではなかったし、それは本の中で指摘されている。ホルドレンもかつて 1980 年に、多くの天然資源が枯渇しかけていると明らかに考えていた。エーリックやホルドレン(訳注:Harte のまちがいでしょう)といっしょに、かれはジュリアン・サイモンとこの信念について賭をした。

 地球の原油、食料、原料が枯渇するというしつこい主張にうんざりした経済学者ジュリアン・サイモンは、この確立された信念に対し、1980 年に賭をもって挑んだ。サイモンはどんな原料――賭けの相手に選ばせたもの――であっても、その価格が少なくとも 1 年後には下落している方に 10,000 ドルを賭けると申し出た。スタンフォード大学の環境学者エーリック、ハーテ、ホールデンは「あぶく銭の誘惑には逆らいがたい」とこの挑戦を受けた。かれらはクロム、銅、ニッケル、スズ、タングステンに賭け、時間枠を 10 年とした。この賭けは 10 年後にその実質価格(インフレ調整した価格)が上がったか下がったかで判定されることになった。1990 年 9 月、これら原料の合計はもちろんのこと、それぞれの個別価格も下がっていた。クロムは 5 パーセント下落、スズは 74 パーセントの暴落。終末論者たちの負けだった。

 実際のところ、かれらはどうやっても勝てたはずがない。エーリックたちが賭けたのが、石油だろうと食料品、砂糖、コーヒー、綿、羊毛、鉱物、リン酸だろうと、何をとっても負けていただろう。すべて安くなっていたのだ。(SEJ:231-232/SE:137).

 1990 年以来、原材料価格はさらに 1/3 下がった(The Economist 工業価格指数, SEJ:233/SE:138).
 編集者は、この本がなぜこんなに否定論を引き起こしているかを示すためにこの専門家たちを選んだと主張するけれど、本書が根本的にまちがっていると感じている専門家四人を敢えて選ぶようでは、読者がぼくの議論になにか価値があるかもしれないと理解できるのか、その否定論に意味があるのかを理解できるのかは、よくわからない。ぼくの本に対するバランスの取れたレビューを示そうという配慮がまったくないのを見ると、この Scientific American 特集の真意はなんなのかな、と思ってしまう。が、寄稿者の一人 スティーブン・シュナイダー は、別の折りに目下の特集における不思議なバランス欠如の理解に役立つ示唆を行っている。

 シュナイダー は、よりよい世界に貢献したいと思っている科学者が直面するかもしれない、倫理的なダブルバインド状況について検討している。科学者としては、その人は真実に集中する。でも心配する市民としては政治的な効率性にも関心を示す必要がある。明らかに、シュナイダー はこれがデリケートなジレンマだと思っていて、正直さと有効性を両立させられたら、と希望を述べる。でもこのジレンマをめぐって苦悶する過程で、シュナイダー は以下のようなアドバイスをはっきりと行っている。「というわけでわれわれは、恐ろしげなシナリオを作ってあげたり、単純化したドラマチックな声明を出し、疑念があってもそれはなるべく口にしない必要があります」(*1)。ジョン・レニーはこれを編集上のアドバイスとして採用したんだろうか? それはわからないけれど、特集全体の調子とバランス欠如の説明はつくように思う。残念ながら、この論調とバランス欠如は、これまで Scientific American の評判を高めてきた啓蒙と合理性の誇り高い伝統が、残念かつ痛々しくも放棄されてしまったことを示すようでもある。

*1 「一方で、科学者としてわれわれは倫理的に科学的手法にしばられていて、要するに真実、真実すべてを語り、真実以外のものは語りません、と約束しているわけです――つまりわれわれは、あらゆる疑念、落とし穴、条件や制約について含めなくてはならないということです。一方で、われわれはただの科学者ではなく、人間でもあります。そして多くの人同様に、世界がもっといいところになるのを見たいと考えており、この文脈だと、大災厄になる可能性がある気候変動のリスクを引き下げようという活動にそれが反映されます。このためには、広範な支持を得ることが必要で、一般人の想像力をとらえる必要があります。これはもちろん、メディアに報道たくさん報道してもらう、ということです。というわけでわれわれは、恐ろしげなシナリオを作ってあげたり、単純化したドラマチックな声明を出し、疑念があってもそれはなるべく口にしない必要があります。われわれがしばしば置かれるこの「二重の倫理のしばり」は、どんな公式をもっても解決できません。一人一人が、効果を挙げるのと正直であるのとで、適正なバランスを自分で決める必要があります。これが両立できることを祈ります」 (Discover, pp. 45-48, Oct. 1989 での引用。 American Physical Society, APS News August/September 1996, http://cyclotron.aps.org/apsnews/0896/11592.html も参照)。

 最後にジョン・レニーは、ロンボルグの根本的な想定は確かに「ある程度は真実」かもしれないと述べるのに、その次の部分では、この本は失敗していると述べる。これはいささか露骨すぎる矛盾だし、最低でも、続くレビューがぼくの議論に根本的で深刻なまちがいを証明できるかどうかに大きく依存している――が、そんな証明はこの先、出てこないのだ。

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Stephen Schneider

地球温暖化:複雑さを無視

 30年にわたり、私は持続可能な開発についてのオルタナティブな解決策について、何千人もの科学者仲間たちや政治アナリストたちと議論してきた。それは無数の論文や公式会議でやりとりが行われている。にも関わらず、絶え間ないフラストレーションを感じていることは、はっきり告白しておこう。気候変動の問題にはあまりに不確実性の入り込む部分が大きくて、穏便な結果も極端な結果も排除できないし、まして環境問題についての主張やその反論について、確実な確率を示すことなど不可能だ。

 もっとも信頼できる国際評価機関、気候変動に関する政府間パネル (IPCC) ですら、未来の温度に対する主観的な確率推計を試みるのはやめたほどだ。おかげで政治家たちは、地球温暖化の様々な程度の可能性について、自分なりの当てずっぽうを試みるしかなくなった。2100 年の気温は 1.4°C 上昇するだろうか、5.8°C 上昇するだろうか? このちがいは、そこそこ適応可能な変化から、きわめて打撃の大きい変化ということになる。

 この苛立ちの背景の中で、デンマークの政治科学部にいる若き統計学者、ビョルン・ロンボルグが統計技能を使い、環境問題がどれだけ深刻かをもっときちんと見極めようとしている、という話がだんだん聞こえてきた。もちろん私は、このきわめて喧伝された貢献を見たくてたまらなかった。それが『環境危機をあおってはいけない: 地球環境のホントの実態』(原題:The Skeptical Environmentalist: Measuring the Real State of the World) だった。「Skeptical Environmentalist (懐疑的な環境保護論者)」というのは最高だ、と私はつぶやいたものだ。こうした複雑な問題は、データの欠如、理論の不完全さ、非線形の相互作用などのおかげで、不確実な部分だらけだからだ。でも「地球環境のホントの実態」となると、可能な結果の幅広さを考えればこれはずいぶん高いハードルだ。

 それとこのロンボルグとは何者だろう、と私は思った。なぜこれまで、いつもの顔ぶれがコストや便益や絶滅速度や、carrying capacityや雲のフィードバックなどについて議論する席でお目にかかったことがないんだろう。かれの科学論文や政策論文も、何一つ読んだ記憶はなかった。でもそこへ、この分厚い 515 ページの巨巻が、2,930 もの巻末注を添えて出てきた。序文の xx ページでロンボルグは「ぼく自身は環境問題について専門家じゃない」と自認している。でも、それ以降のページで、これほど真なる言葉を目にすることはなかった。これについてはすぐに述べよう。私はもっぱら、分厚い地球温暖化の章と、その 600 超 の巻末注を扱う。この手の詳細なボリュームだけでも、少なくとも包括的で慎重な学術研究の衣装をでっちあげてはいる。では、その文の現実は、その意匠に負けないものだろうか? すでにご推察の通りではあるが、でも読んでみて何がわかったかいくつか例をあげさせていただこう。

 この部分は、ぼくの本をあつかったものじゃないけれど、いくつか重要なレトリック上の論点をうち立てているので、指摘しておくべきだろう。まずはジョン・レニーの、この分野の科学に一生を捧げた研究者、という呪文だ:シュナイダーは名望高き科学者だけれど、このぼくは無名人、というわけ。

 二番目に、かれはぼくの序文を引用する。そこでぼくが、自分が環境問題については専門家じゃないと述べている。確かにそう書いてはあるけれど、でも全体を引用したら、その部分の文脈が見えてくる:

「ぼくは本書の各章を専門家にレビューしてもらったけれど、でもぼく自身は環境問題の専門家じゃない。ぼくのねらいは、むしろこの問題へのアプローチについて説明して、しかもそれを専門家たち自身が関連書籍や雑誌で述べた通りに提示することだ。そして各種の対象領域を、総合的な社会的優先順位づけの中でどれだけ重要なものか評価できるように、そうした視点から見直してやろうとしている。

鍵となる発想は、ぼくたちは環境団体やビジネスロビイストやメディアだけに、真実や優先順位の提案を任せておくべきじゃない、ということだ。むしろぼくたちは、環境論争において慎重な民主的チェックをがんばって追求すべきなのだ。そしてそのためには、世界の本当の状態を知るべきだ――ぼくたちの世界の本質的な部分について、最重要の事実や関係についての知識を持つべきだ。本書がそうした理解に貢献してくれればと願ってやまない。

もちろん、本書の残りの部分にこれほど真なる言葉がまったくなかったと言うのは明らかにレトリックでしかない。なぜかといえば、ぼくが言っていることのほとんどは、国連や OECD、世界銀行、EU、アメリカなどの公式機関からくる、入手できる最高の統計の引用でしかないからだ。

第三に、シュナイダー は、ぼくの本に巻末注がたくさんあるので、最低でも学術的議論の意匠をでっちあげようとしている、と非難する。これは不当な批判だと思う。これがあるおかげで、批判者たちにしてみればぼくがどこでまちがっているかを示すのはずっと簡単になるからだ。この議論はまた、すぐにバックファイアすることになる。シュナイダー自身は、注も何も、学術的な議論の意匠となるようなものすら提供していないからだ。もちろん Scientific American の紙面は限られているけれど、でも SA としては注釈つきのバージョンをウェブサイトに置くとかできたはずだろうに。( シュナイダー が自分の SA 記事を最高の議論だと考えていることは、Grist 誌に載ったかれのもっと短く手厳しい議論 (http://www.gristmagazine.com/grist/books/schneider121201.asp)でもわかる。かれはそこで、文献として自分の SA 論文と、Natureに載った Pimm & Harvey記事を挙げているからだ。ちなみに Nature の記事もほとんど参照文献がない。実際の文はぼくのウェブサイト http://www.lomborg.org/ からダウンロードできる。)

気候の章は、4つの大きな議論をしている:

 シュナイダーは、自分の批判の主要論点をこの 4 点の中で明らかにした点はほめられるべきだろう。とはいえ、その際に「非対称的に、何の範囲もない」とか「だれも言っていない政策」といった悪口を混ぜずにはいられなかったようだけれど。どっちもまちがっていることは、後で示す。

 各主張がなぜ根本的にまちがっていると思うかを具体的に示す前に、ロンボルグの手法について触れておくべきだろう。まず、かれのほとんど 3,000 近い参照注は、ほとんどが二次資料やメディア記事へのものだ。さらに、たまに査読付き論文が引用されていても、それらは不確実性の範囲の一番低いところだけがもっともらしいという彼のバラ色の見方を支持する偏ったものが選ばれている。これに対して IPCC の著者たちは、何百人もの外部専門家たちによる査読を三回も受けねばならなかった。かれらは、自分たち個人の見方にあったコミュニティの一部だけから報告をするというぜいたくは許されなかったのだ。

 二次資料というのと、メディア記事というのでは、重要なちがいがある。世界全体の状態を議論する場合には、二次資料が提供する莫大なデータや理論の集積を使わないのはすさまじく効率が悪い――だからこそ、そもそも二次資料というものが存在しているわけで、そのおかげで科学の専門化が可能になっている。でも、こうした二次資料のほとんどは、世界の状態についての論者が使っているまさにそのままの資料だ――国連 (FAO, UNDP, UNEP, WHO 等) 、IMF、世界銀行、OECD, WRI, ワールドウォッチ研究所、EU, US 政府機関などの報告書類。シュナイダー が論じている気候の章では、巻末注 646 のうち、IPCC 報告の参照がおよそ 1/3 を占める。でも、IPCC 報告は明らかに二次資料だ。ほとんどの人は――ぼくを含め――まちがいなく、こうした報告が気象科学についての理解に関し、手に入る最高のまとめだと考えるだろう。ぼくがこれを主要な参考文献として使うときの議論もまさにこれだった:

この先ぼくは――断らない限り――IPCC、国連の気候変動に関する政府間パネルが出した公式レポートの数字とコンピュータモデルを使う。IPCC レポートは、気候変動がらみのほとんどの公共政策の基盤となっていて、環境保護団体が持ち出す各種議論のほとんどの根拠となっている。

 メディア記事をぼくが使うとき、それはほとんどすべて、メディア上の議論を分析して、環境報道に蔓延する悪いニュースへの偏向や不正確な情報だと考えるものを指摘するときだ。IPCC による気温上昇の範囲が 1.4-5.8°C となっていることに触れて、ぼくはこう指摘した:

 CNN、CBS、『ロサンゼルス・タイムズ』紙、『タイム』誌などの主要メディアでの報道を見てみると、そのすべてが 5.8°C の高い温暖化の数字は使ったのに、低い推計の 1.4°C に言及したものは一つもなかったことがわかっている。

 もちろんこの部分は、メディア記事を参照しているけれど、それが何か? こうした偏向は指摘すべきでないとでも? 同じように、ぼくはU.S. News & World Report が 2001 年 2 月に、地球温暖化が深刻な影響をたくさん持つと読者に告げた時のウソを暴いた。一番とんでもなかったのが、アメリカについての予測だ: 「世紀半ばまでに、今マイアミのサウスビーチに並ぶしゃれたアールデコ風ホテルは水浸しになり、放棄されたままとなるかもしれない」―― IPCC が予測しているのは、2050 年までに海面がたった 16 cm ほど上がるというだけなのに (SEJ:471-4/SE:289-91)。こういうメディア情報源の利用は不適切だろうか?

 さらに、ぼくの情報源の使い方に対する非難は、ぼくが査読付き論文を使うときでも自分のバラ色の低めの推計を支持するときだけだ、と述べるけれど、これについてそれ以上何の証拠も提出されない。

 第二に、統計学者による一般向けの本で、各種の確率のちがいについての明確な議論が見あたらないのは皮肉なことだ。たとえば、頻度確率とベイジアン確率(つまり「客観的」と「主観的」)のちがいなどだ。かれは「可能性が高い」ということばをよく使うけれど、統計学者なのに不思議なことに、なにが「可能性が高い」のかについて確率を設定しない。一方、IPCC の三次評価報告書は、信頼性用語をすべて定量化するニーズにはっきりと対応した。たとえば第一作業部会は「ありそう」という用語に 66-90% の発生確率を与えている。IPCC はその予想のほとんどに広い範囲を設定しているのに、ロンボルグはこうした範囲をほぼ無視して、一番深刻でない結果ばかりに集中している。危険な結果がもたらされる可能性については、一つも可能性が示されていない。それなのにかれは、気候が「絶対に」22 世紀には 2°C 以上に上がることはないと自信たっぷりに断言している――これは IPCC やその他の気候評価や、気候科学分野での最新研究にも反する結果だ。

 確かに IPCC は「可能性がある」というのを定量化したというのは事実だ。でも当の IPCC 自身が、正当にもその各種の確率がどのくらい厳密なものかの限界についてはっきりさせている。以下の用語が、場所に応じて信頼性に関する主観的な推定を示している;「ほぼ確実」(その結果が真である確率が99% 以上)、「可能性が高い」(90-99% の確率)、「ありそう」(66-90% の確率)中程度の可能性(33-66 パーセントの確率)、考えにくい(10-33% の確率)、ありそうにない(1-10% の確率)、きわめてありそうにない(1% 以下の確率)(IPCC 2001d:2, 強調追加)。でも、非常にしっかりした確率分布のわかっている事象について問題にしているのでない限り(そして地球温暖化問題については、ほとんどどの事象もここにはあてはまらない)、何かの生起確率が 89% か 91% かなんていうのは、当てずっぽうでしかない――だから、ぼくが似たような巻末注を追加して、ことばに信頼性を定義づけたとしたところで、それは一見客観性が増すように見えても、実は手元の事実に何ら貢献するものではない。

 第二の主張はずっと深刻だ。つまり、ぼくが IPCC の示した範囲をほぼ無視して、いちばん深刻でない結果ばかりを取りあげる、というものだ。こうした範囲をすべて、理由もなしに無視するのは、もちろん深刻な誤解のもとで、だからぼくはこの本でそんなことをしていないし、ぼくの批判者たちもそんな実例は指摘できていない。地球温暖化の最も重要な特徴二つを見てみよう。海面上昇と、気温が農業に与える影響だ。海面上昇については、ぼくははっきりと主要シナリオからの範囲を示している (SEJ:432/SE:264) し、農業への影響でも、はっきりと IPCC の範囲を示している (SEJ:470/SE:288)。

次に、ぼくが危険な結果の可能性をまったく示さないと主張されている。これははっきりまちがっている。「反対論:大災厄が怖い」(SEJ:514-7/SE: 315-7)と題した節を丸ごと使って、ぼくは危険な結果についての二つの主要な懸念、西南極氷床 (WAIS) の水没と、メキシコ湾流を動かす熱塩循環 (THC) について論じている。そこでぼくは、2001 年の IPCC 報告をひいて WAIS の崩壊が「21 世紀中にはまず起こらない」(SEJ:514/SE:315)とされていることを指摘した。同じように、THC についてぼくは、2001 年の IPCC が「「気候モデルを使った現在の予測では、2100 年まで熱塩循環が完全に止まることはない」と述べていることを挙げつつ、「放射強制力の変化が強く、十分長期にわたって続けば」(SEJ:515/SE:316)それが完全かつ回復不可能な形で停止するかもしれないと述べている。巻末注では、この停止が起こるほど輻射が強く、十分長期にわたって続く可能性はどれだけかについても論じられている。だから主要な危険な結果について、シュナイダー の主張とはうらはらに、ぼくは詳しく可能性を論じているのだ。

最後の「絶対に」という話も、文脈を無視して取り出しているからそう見えるだけだ。

このもっと現実的なモデルはいくつか大事なポイントを含んでいる。まず、地球温暖化はひたすら悪化する一方の問題じゃないことが示されている。実は、どんな妥当な技術変革シナリオのもとでも、何ら政策干渉がない場合でも、炭素排出量は A1FI の水準には達しないだろうし、ぼくたちがますます安くなる再生可能エネルギーに移行するにつれて、21 世紀末になってくれば下がるだろう。次に、気温は IPCC 最大推計値よりずっと低いところまでしか上昇しないだろう――気温は B1 推計(2100 年に 2°C 以下)並か、あるいはそれ以下になり、22 世紀に入ったら絶対に上昇することはない。三番目に(後略) (SEJ:467/SE:286, 強調追加).

 「絶対に」という引用は、「もっと現実的」と思われるモデルに基づいたものだけれど、ぼくが温度上昇が 2°C 以下で 22 世紀には上がり続けたりしないと言えるのは、もちろんこのモデルの中での話だ。ぼくがそれ以外の主張をしたというのは(「自信たっぷりに断言」したとか)は、ひたすら誤った引用でしかない。

気候科学。ロンボルグの典型的なやり口は、Nature に載った1989年のハドレーセンター論文に言及するときに、二次資料を言い換える点に見られる。この論文で、研究者たちは自分の気候モデルに変更を加えた: 「その後、プログラマーたちは雲のパラメータ化を 2 カ所で改善した。するとモデルの温度予測が、5.2°C から 1.9°C に下がるという結果となった」 これが一級の学者であるなら、ロンボルグは原論文を読んだだろう。すると第一段落の最後に、著者たちの注意書きが述べられている:「改訂された雲の記述が詳細度が高いからといって、必ずしも洗練度の低い方式に比べて正確だということにはならない」。同じように、かれは Richard S. Lindzen による、議論の多い安定化フィードバック、または「光彩効果 (iris effect)」を、IPCC の気候感度がほぼ 1/3 に下げられるべきだという証拠にする。かれはこの仕組みを理解もできていないし、それが一つの海のごく数年に基づくものでしかないことも述べていない。この小さなサンプルデータを全地球にまで引き延ばすのは、大陸の内陸部陸塊における雪解け時の強い不安定かフィードバックを全地球に引き延ばすようなものだ――こんな不適切な拡張をしたら、気候感度の推定値は数倍にはねあがるだろう。

 ぼくが二次資料を引用するときのやりかたを指摘してもらえてありがたい。ぼくが正確にそれを参照していることがわかるだろう。もとの引用文は、1997年のScienceからのものだ:

 数年前、先進的な気候モデル――ブラックネルにあるイギリス気象局の気候予測研究ハドレーセンターで開発されたもの――が、工業化以前の二倍の二酸化炭素水準を持つ地球は、5.2°Cという恐るべき温暖化を迎えるという予測を出した。その後、ジョン・ミッチェル率いるハドレーセンターのモデル開発者たちは、モデルの雲に 2 つの改良をほどこした――各種の雲からどれだけはやく降雨が行われるか、そして太陽と放射熱の雲との相互作用の仕方だ。二酸化炭素の倍増に対するモデルの反応は、 5.2°C からもっと穏当な 1.9°C に下がった。(Kerr 1997a:1040).

 でも、ぼくが原論文にまでさかのぼるべきだったという主張は、いくつかの点で疑問だ。まず、なぜ大きなScienceの概説論文が、一般に信頼できる情報源だと考えてはいけないのか(そして、その情報源を単に「二次情報」とするのではなくScienceだとどうして書かないのか)? 第二に、二次情報にまちがいが入り込んでいる可能性はもちろんある。ただし、Scienceのような評価の高い情報源では、そのリスクはきわめて小さいだろうけれど、でも、ここできくべき問題は、それが重要な誤りかということだ。そしてもしそうなら、なぜだれも(我が批判者も含め)この記事がScienceに出たときにそれを訂正しなかったのか? そして最後に、さかのぼって参照すべき論文がその1989年(8年前)の論文だけだというのは正しいのか? 当然ながら、1989 年以降でも、どの雲の考え方が正確化についての研究はたくさん行われている。1993 年論文で、ミッチェルは (C. A. Senior と共著で)以下のように指摘している:

 一般対流モデルにおける雲表現の重要性を、イギリス気象局気候予測研究ハドレーセンターの一般対流モデルの低解像度版において、4つのちがった雲層のパラメータ化方式を使うことで検討した。雲と放射で見た各バージョンの性能は、Earth Radiation Budget Experiment (ERBE) の人工衛星データをもとに評価されている。予測的な雲水変動を持つ方式は、相対湿度依存型雲を持つものに比べて多少は優れている (some improvement) が、どれもすべて ERBE データに比べると大幅にずれている。モデルの各バージョンが大気中の CO2倍増に対して持つ感度も検討された。中高度と低高度の雲は、雲が相対湿度に依存するときには減るため、強い正のフィードバックとなる。インタラクティブな雲と水の関係が含まれる場合には、この影響は雲の水が懲りから水になるという相転移からくる負のフィードバックのおかげでほどんと完全に相殺される。すると4つのモデルで作られる地球温暖化は、相対湿度方式による 5.4°C からインタラクティブな雲水放射特性による 1.9°C までの広がりを持つ。観測に基づいた氷雲の扱いを改善すると、モデルの感度はわずかに上がって 2.1°C になる。エネルギーバランスモデルを使うと、相対湿度方式といっしょに雲の放射特性からくる負のフィードバックを使った気候感度は 2.8°C になる。つまり 2.8°C-2.1°C が、CO2 倍増に対する均衡反応の範囲推計としてはもっと優れているようだ。(Senior & Mitchell 1993, http://ams.allenpress.com/amsonline/?request=getabstract&issn=1520-0442&volume=006&issue=03&page=0393", 強調追加)

 ここでかれらは要するに、1.9°C の結果を出したモデルのほうが、それほどではないにせよ、優れている (“some improvement”) と述べていて、低い方の推計値のほうが「優れた推計だ」と述べている。だから二次資料引用の例は、よく言ってもへんてこだし、最悪でいえば、意図的に誤解を引き起こすものだ。

Lindzenに対する論難も、不適切だろう。これは Lindzen自身が Scientific Americanに書いた手紙でも指摘されている(ぼくのウェブサイトで参照可能)。Lindzen はこう書いている:

「個人的にちょっとおもしろいと思われる一点が、これらの攻撃のいささか異様な性格を示しています。シュナイダーはロンボルグがわたしと同僚たちの、「瞳孔効果」と呼ぶものについての論文 (Lindzen, Chou and Hou, Does the Earth Have an Adaptive Infrared Iris?, Bulletin of the American Meteorological Society, 82, 2001) を引用し、IPCC の主張した感度を3分の1に下げようとする、と主張しています。でもロンボルグがやっているのは、1/4ページほどを割いてわれわれの論文に言及し、それが IPCC の示す範囲に「問題をつきつけるかもしれない」と指摘しているだけです。シュナイダーはさらに、ロンボルグがわれわれの議論の致命的な欠陥と称するものに言及しなかった、といって揶揄します。それが「一つの海のごく数年に基づくものでしかない」という点だそうです。さらにかれは、春の大陸内陸部の氷融解からの正のフィードバックにそれをたとえるというわけのわからない「アナロジー」を持ち出します。シュナイダーがここで実際に示しているのは、かれはわれわれのやったことを完全に誤解しているということです。われわれのやったのは、積乱雲対流の振る舞いに対する気温の影響と、それが熱帯の大規模上層巻雲に与える影響を評価するということでした。こうした研究における最大の要件は、それが十分な積乱雲 towerを含む期間と地域を取りあげる、ということです。その後、結果(これは積雲活動の計測によって正規化されています)は全熱帯地方にも拡大できるのです――これは単純な拡大適用とはほど遠いしろものです。われわれが取りあげた期間(論文では20ヶ月ですが、現在は4年にまで延びています)と観測地域 (30°S-30°N, 及び 130°E-170°W) はこの基準を十分に満たすものでした。これを論理的に試験するため、われわれは巻雲領域の対流活動に対する比率依存度が、完全なデータセットの任意の小サブセットだけに限定した場合でも、堅牢なままであることを示しています。われわれはまた、既存の気候 GCM がこうした観測結果を再現できていないことも示しています。われわれの論文がたっぷりと強調しているように(そしてロンボルグも指摘しているように) われわれの作業には不確実性が残っています。でもシュナイダーの言う過剰な「拡大適用」というのはまったく当てはまりません。

というわけで、シュナイダーはこの一文をもって、攻撃している本をゆがめると同時に、自分が代表しているはずの科学をもゆがめているわけです。

 最後の例として、かれはデンマークの雲物理学者たちによる議論の多い仮説を引用する。太陽磁気現象が宇宙線の変動を招いて「地球の低層雲の覆空率と宇宙線の入射との間に明確な関係」を作り出す、という仮説だ。デンマークの研究者たちはこの仮説を使って、近年の気候変動の説明として二酸化炭素に代わるものを支持しようとしている。ロンボルグはこうした雲への変動と称されるものが、地球の放射バランスに対して何をしたのか議論していない――そしてわたしはそれがこの推察の多い理論の著者たちによって議論されているのも見たことがない。雲が増えると、大気は暖められることも冷やされることもある。これは雲の頂上の高さ、その下にある地表面の反射率、季節や緯度によってくる。これは 1967 年の 真鍋淑郎 & Richard T. Wetherald 論文や、1972 年の拙論文によりよく知られていることだ。IPCC がこの理論を割り引いて見ているのは、その支持者たちがずっと控えめな理論、たとえば人工の強制力などに匹敵するほどの放射強制力を実証していないからだ。

 シュナイダー はこの理論を「近年の気候変動の説明として二酸化炭素に代わるもの」と呼んでいる。でも、デンマークの雲物理学者たちもぼくも、それが代わるものだなんて言ってない。それを補う説明だと言っている。「地球温度の上昇の説明におけるもう一つ重要な要素」 (SEJ:451/SE:276, 強調追加)。さらに、ぼくはその理論でまだ解決されていない科学上の問題も示しているし、またその力も示しているし、その両者が相対的にどれだけ重要かも示そうとしている:

 この理論的な関係には、まだ答のない疑問もたくさんあるし、未解決の科学上の問題もいろいろある。でも重要なのはこの太陽黒点理論が、今経験しているような短期の黒点周期はもっと活発な太陽活動、もっと弱い宇宙線、もっと少ない低層の雲、したがって気温上昇、という相関の可能性を生み出しているということだ。この理論には、温室効果理論に比べると大幅な長所があって、1860 年から 1950 年までの気温変化が説明できる。これは他の気象学者たちが肩をすくめて「自然の変動でしょう」と言うしかなかったものだ。

 図 146 を見ると、気温と太陽黒点周期との関係は、過去10--30年ほどでずれてきていて、温度が太陽黒点活動を上回る上昇を見せていることにご注目。たぶん、太陽黒点よりも、CO2みたいな温室効果ガス増加のシグナルが現れている可能性が高そうだ。こうした発見はまさに、太陽活動の変動だけでも温室効果ガスだけでも、気温変動の記録を全ては説明できないこと裏打ちするものだ。温室効果ガスのシグナルがやっと今になって現れてきたということは、これまた CO2による温暖化効果の見積もりを下げてやる必要があると示唆しているようだ。こういう IPCC に忠実な研究の一つによれば、気温変動の約 57% は太陽仮説で説明できて、データを見ると気候感度は 1.7°C、つまりIPCC の最良の推計より 33% 低いとのこと。(SEJ:253-4/SE:277-8, 強調追加).

 デンマークの気象学者たちも、Scientific Americanに手紙を送っている (Jan 7, 2002; Prof. Eigil Friis -Christensen, Dr. Nigel Marsh and Dr. Henrik Svensmark):

ビョルン・ロンボルグ『環境危機をあおってはいけない』の批判 [‘Global Warming: Neglecting the Complexities’, January 2002] において、スティーブン・シュナイダーはわれわれの宇宙線による地球雲被覆に関する研究について、3つのまちがった主張をしています。かれは「デンマークの研究者たちはこの仮説を使って、近年の気候変動の説明として二酸化炭素に代わるものを支持しようとしている」と述べます。この主張はつまり、かれは査読付き雑誌に掲載されたわれわれの研究や、各種の国際会議で提示された発表について十分に知らないということを示しています。知っていたなら、かれはわれわれの動機がその他の自然・人工原因とは関係なく、太陽が気候変動にどんな役割を果たすか理解することだった、ということを理解したでしょう。太陽の変動の役割はまだ完全には理解されていませんが、それが気候に対して持つ可能性の高い重要な影響は何度も示されており、最近の例では Bond et al., Science, 294, 2130-2136, 2001 があります。

 ここから見て、シュナイダーが「こうした雲への変動と称されるものが、地球の放射バランスに対して何をしたのか議論していない――そしてわたしはそれがこの推察の多い理論の著者たちによって議論されているのも見たことがない」と書くとき、どうもわれわれの試みのいくつかを認識していないらしいのも無理はないでしょう。われわれはそれを議論していないどころか、地球の雲被覆の体系的変化による雲の放射強制力の純変化について基本的な推計を行っているのです。そうした推計の背後にある根本的な想定は、もちろん議論の余地があるでしょう。でも、過去1世紀について示唆されている放射強制力は、IPCC が人工の強制力について推計しているのと同じ桁となっています [詳細な参照は http://www.dsri.dk/~hsv]。

  すると、かれの第三の最終論点でかれが「IPCC がこの理論を割り引いて見ているのは、その支持者たちがずっと控えめな理論、たとえば人工の強制力などに匹敵するほどの放射強制力を実証していないからだ」と述べているのは不思議なことです。でもIPCCが宇宙線と雲被覆の議論を終えるにあたっての IPCC による実際の発言は以下の通りです:「現在では雲被覆が太陽の変動に反応すると認めるには証拠が不十分である」[http://www.grida.no/climate/ipcc_tar/wg1/246.htm]

 スティーブン・シュナイダーがロンボルグに対し、原論文を読んでいないと言って非難しているのに、ロンボルグに対するシュナイダー自身の批判が同じ非難の対象となるというのは皮肉なものです。

 まとめると、ぼくは自分が気候科学を不適切に述べているという非難は認められない。もしぼくがそんなにまちがっているなら、批判者はもっと楽にそれを示せたはずだ。重箱の隅をつついたり、文脈外の引用をしたり、話を歪めたりしなくてよかったはずだ。

排出シナリオ. ロンボルグは、今後数十年で新しい改良されたソーラーマシンやその他再生可能技術が化石燃料を市場から追い出すと想定している。そしてこれが実に効率よく起こるから、 IPCC のシナリオは二酸化炭素の大幅な増大について、かなり派手に課題推計しているという。これが実現してくれたら私としてもどんなにうれしいことか! でも願望は分析にはならない。引用されている調査は一つ。無視されているのは、後に排出制限を導入しない場合のコスト推計についてかれが受け入れいている、経済分野での大量の研究だ。実はこうした経済学者のほとんどは、高い排出量がかなり見込みが高いと強く信じている。かれらは「最適な」経済政策として、二酸化炭素の倍増から三倍増を予想しているのだ。私はこの文献に対し、伝統的燃料の価格を上げる気候政策が、代替エネルギーシステムへの投資を促進するということを指摘していないことで攻撃してきた。でもこうしたインセンティブのためには、まず政策が必要だ――そしてロンボルグはまさにそうした政策に反対している。信頼できるアナリストなら、化石燃料偏重シナリオを、単純にあり得ないと前提に置いてしまうわけはできない――そしていつもながら、かれはそれが起きる確率をまるで与えない。

 これはたぶん、シュナイダーのいちばん奇妙で弱い議論だろう。かれはIPCCの新シナリオに対するぼくの批判にまるで答えない。これらのシナリオは、モデル作成チームの一人によれば「コンピュータ支援によるお話語り」でしかない。ここでIPCC は未来を予想しようという努力を丸ごと放棄して、かわりに各種の可能性のある未来について語っているだけだ。でも、もし最悪の結果を導き出すお話が一貫してあり得なさそうなものなら、そういうきわめてありえないお話語りの中でしか起きないような脅威に対抗しようとして、大量のリソースを使う結果になるというリスクは明らかにとても大きい。

 ぼくは、太陽光発電のような再生可能エネルギーの価格が過去30年を通じ、10 年あたり 50% 以上も下がり続けてきたことを指摘している。それから、査読付きのモデル (Chakravorty et al. 1997)を提示した。そこでは、もしこのトレンドが続けば、再生可能エネルギーが重要なエネルギー限になるのは 2025 年あたりで、化石燃料の終わりは 2065 年になることが示されている。将来について、ずっとゆっくりした価格低下、たとえば 10 年あたり 30% を想定したとしても、再生可能エネルギーは 2035 年までには射程に入ってきて、化石燃料は2105年には終わる (SEJ:463/SE:284ff)。シュナイダーはこの点について単に、地球温暖化に関する各種の費用便益モデル(統合モデル)を指摘するだけで反論している。こうしたモデルは確かに炭酸ガスの排出低下を示していない。それは事実ではあってもまったく関係ない――これらのモデルはそれとは別の費用便益問題を扱っている(主に炭酸ガスの早期削減からくるコストのタイミングの問題だ)。Chakravorty 論文は、まさにこの問題を解決すべく書かれたものだ。

 だからぼくの批判者は、実はまともな反論がない――単に分析を、無い物ねだりとして排除し、「信頼できるアナリストなら」だれもそんなことは言えない、と述べるにとどまる。これは権威に頼った物言いで、科学じゃない。もしシュナイダーが他に何か研究を知っていて、そこで再生可能エネルギーと化石燃料の相対コストについて調べられていて、過去数十年の再生可能エネルギーのすばらしい効率向上も考慮されているのに、再生可能エネルギーが化石燃料にとってかわらないとされているのであれば――だったら参照文献をあげて、もっと詳細を説明すべきだろう。

費用便益計算. ロンボルグの最も言語道断な歪曲と貧困な分析は、かれの費用便益計算の引用だ。まずかれは、各国政府が IPCC のワーキンググループ II の最終草稿を書き換えたと揶揄する。その変更は、気候変動の被害をまとめた経済研究の重要性を過少に述べている。ロンボルグはこう述べる:「政治的判断から IPCC は地球温暖化の総費用便益を見ないことに」なった、と (ついでながら、かれがこの場合に最終より一つ前の、承認を受ける前のドラフト報告を引用しているのに、承認を受けた概要報告の一番最初に出てくる項目、つまり近年の温度のトレンドは植物や動物に目に見える影響を及ぼした、というは言及しないのは不思議だ。もっと不思議なのは、生態学的な影響全般について論じずに、健康と農業に議論をしぼっていることだ。これはかれが自分の予測するわずかな気候変動によって対して被害を受けないと考えているセクターなのだ)。

 ここでは、二つの議論が混同されている。はい、確かに僕は政府が WGII 技術サマリーを編集したことについて揶揄している。このサマリーは、議論の多いがそこそこ合意を得ている論点を述べている。穏健な地球温暖化は発展途上国には大きなマイナスの純インパクトをもたらすが、先進世界に対しては、ゼロか、プラスの純影響をもたらす。WGII サマリーのもっと技術的な用語だとこうなる:

「公表された見積もりによると、世界の平均気温上昇は、検討されたどんな規模の場合でも、多くの発展途上国にとっては純損失を生じるだろうし、温暖化の規模が大きければ、その損失も大きくなる。多くの先進国では、世界の平均気温上昇がおよそ 2°C までならば、経済的な純利益が計上されるだろう。気温上昇が 2-3°C の範囲なら、先進国への影響はプラスマイナスの混合か、差し引きゼロの影響が見込まれ、温度上昇がそれ以上なら純損失が生じる。予想される経済的影響の分配は、このように先進国と途上国との福祉不均衡を拡大するもので、温度が上がるほど不均衡も拡大する。発展途上国で見積もられている大きな損失は、一部は途上国の適応力の低さを反映したものだ」(IPCC 2001b:Summary for Policymakers, original government draft, 2.6., SEJ:491/SE:301)

 最終版では、このはっきりしたメッセージは何の追加の科学情報もなしに消え失せた。こうした動きを批判するのは、正当なことだと思えるのだけれど。シュナイダーは、これが経済調査の扱いを下げたことからきたものだと示唆し、そしてぼくの次の引用である「政治的判断」に言及する。でもこれは WGIIIについての話だ――だからまったく話が別なのだ (これがただのうっかりミスでないことは、シュナイダーの Grist 記事を見てもわかる。そこでもかれは WG2 について述べている)。つまりシュナイダーは、各国政府が都合の悪い結論を変えたという事実に対する反論を持っていない。

 かわりにかれは、ぼくが確定前の報告についてはある部分に言及し、完成版報告についてはまったく別の部分を言及しているのが不思議だ、というわけのわからない搦め手からの批判をする。これはまるで意味がない――ぼくがある部分に言及するのは、そのときの議論の文脈で重要だからだ。シュナイダーとしては、ぼくが別の部分についても話すべきだと思うかもしれないし、こんなに多くの様々な問題を採り上げた本では、そういう批判はもちろん可能だ。でも、地球温暖化の影響として、生態よりも農業と健康へのv影響に注目するのは、科学的、メディア的な関心がずっと高いことを考えてもまったく正当だと思うし、さらにぼくはあの本の冒頭部で、人間中心の評価をする、とはっきり書いている (SEJ:29-31/SE:11-2)。

 政府代表が、総合費用便益調査の重要度を引き下げたのにはちゃんと理由がある。こうした調査は、政治指導者が重要だと考える被害のカテゴリーをあまりにたくさん検討していなかったので、単なる市場セクターの取引に関するガイドラインにしかならず、ロンボルグの求めるような「総合的費用便益分析」にはなっていなかったからだ。総合分析は、失われた種の価値、低下する重要な生態系サービス、富裕層が貧困層よりも大きく被害を被ることからくる不平等(これについてはロンボルグも認めている)、減少する生活の質(たとえば海面上昇は、小島住民を伝統的な故郷から追い出すことになる)、異常気象や変動率に関する変化の可能性なども考慮しなくてはならない。さらにまた、ロンボルグは気候被害についてたった一つの値しか示していない――5兆ドルだ――かれが気候政策のコストについて参照している同じ経済論文は、一般に気候被害が便益をもたらす場合から大災厄的な被害をもたらす場合まで大きな幅を持っていることを認めている。

 ここでは何の参照文献もなしに、費用便益分析がすべてのカテゴリーを含んでいなかったから、政府代表者たちはそれをやめるべきだったのだ、と主張されているけれど、正直言ってそんな理由で費用便益分析が注しされたというのはかなり眉唾だ――むしろ当然の選択は、費用便益分析の幅を広げることだったはずだもの。さらに、すべてのデータがないなら、追加のデータを得ようと努力することさえやめて、はい中止! とすべきだなんていうのは、科学的に不合理だ。中止したら、その後は何をするの?

 最後に、5兆ドル(総割引現在価値コスト)が不合理だと主張されている。ある経済学者(ノードハウス)が、コストはずっと少ないかもしれず、惨事が起こればずっと多くなるかもしれないと論じているから、と述べられている。ぼくは単に、ノードハウスの最新モデルで推計されたコストの平均値を書いただけだ。このコストはまた、IPCC が 1996 年の報告で推計された値とかなり近い(これは費用便益分析が中止されたので2001年には含まれていない)。1996 年報告では、年間コストは世界 GDP の 1.5-2% とされている。これは不合理じゃない。特に地球温暖化コストが、削減の推計の同じ平均値と比べられる場合には(以下の議論を参照)。

 まさにこうした大災厄的な帰結を責任ある科学コミュニティが高い信頼度を持って排除できないからこそ、気候削減政策が真剣に提案されているのである。そして、回避されるコストについて広い幅を示さずにたった一つ値をあげるというのは、まったく説明のしようがない。特にかれは気候政策のコストについては幅を示しているのに。だがこの幅は、経済文献に基づいているけれど、エンジニアの発見を無視している。エンジニアたちは経済学者たちの典型的な推計値に反論している。経済学者たちは既存の市場不完全性、たとえばエネルギー効率の低い機械、家屋、プロセスなどを考慮しないからだ。こうしたエンジニアリング調査は、アメリカエネルギー局の研究所5つ――過激な環境論者にはほど遠い――が行った有名なものも含まれるけれど、非効率な設備をもっと効率のよい最新製品と置き換えるためのインセンティブを提供するような気候政策は、実はゼロ以下のコストである程度の排出を削減できる、と述べている。

 もちろん大災厄的な結果の可能性が高ければ高いほど、気候削減政策の緊急度は高く見えるだろう。でも、わが批判者がいまや何のためらいもなく、われわれが炭素排出を削減すべきなのは、まさに責任ある科学コミュニティが大災厄的な帰結を排除できないからだ、と述べているのは驚くべきコトだ。かれの解釈に基づけば、IPCC 2001 報告全3巻はほとんど丸ごと無価値だということになる。だってあの報告書で論じられているモデルや結果のほとんどすべては、大災厄ではない結果について述べたものだからだ。実は、大災厄として述べられているものはたった二つしかなくて(WAIS の剥離と THC の停止だ)、現在のモデルはまさにこれが起こる確立がきわめて少ないことを示している(すでに述べた通り)。さらに、すべての一般議論は、海面上昇や平均温度の上昇、マラリア増加の可能性などにしぼられている――このすべては、IPCC の非大災厄的な結果に基づいたものだ (ちなみにこれらは当のシュナイダー自身が上で持ち出してきたものだということに注意: 失われた種の価値、低下する重要な生態系サービス、富裕層が貧困層よりも大きく被害を被ることからくる不平等(これについてはロンボルグも認めている)、減少する生活の質(たとえば海面上昇は、小島住民を伝統的な故郷から追い出すことになる)、異常気象や変動率に関する変化の可能性)。

 確かに、大災厄的な結果の可能性にもっと注意を向けるべきだという点で、ぼくはシュナイダーに同意する( 「そんな事象(大災厄)が起こる見込みを考えるほうにもっと注力すべきだというのも、おおむね明らかだろう。というのも、本当に高くつくのはそういう極端なできごとだからだ」 SEJ:515/SE:316)。でも、地球温暖化の議論において、これはどう見ても主流ではなかたし、いきなりここでこれを目玉に据えようとするのは、正しくないしずるいと思う。

 さらにシュナイダーは、上のサマリーでやったように、ぼくが地球温暖化のコストについては数字を一つ(5兆ドル)しかあげず、「気候政策コスト」については幅を示す(3兆から33兆ドル)と述べ、この「非対称性」が不合理だと述べる (Gristで、シュナイダーはもっと外交的でない言い方をする:「この統計学者と称する輩は、都合のいいときにはコストの幅をしめすが、便益の幅は都合が悪いと示さない」)。問題は、シュナイダーが明らかにちがう種類の数字とちがう種類の幅を比べているということだ。5兆ドルというのは、ノードハウスとボイヤーによる地球温暖化コストの中央推計値だ(そしてこれは、上で論じたように IPCC の推計ともおおむね一致している)。これは単に、Business-as-usual (BAU) 世界を、仮説的な BAU世界(つまり人工地球温暖化がない世界)と比べたときの地球温暖化コストだ。要するにこれは、何もしない場合にぼくたちが払うコストだ。

 もう一つの数字(3兆から33兆ドル)は、各種の排出削減政策を選んだ場合の追加コストからきている。たとえばノードハウス/ボイヤー推計では、地球排出安定化政策(一種の京都議定書の世界版だ)は 8.5 兆ドルとされている (SEJ:506/SE:310)。でも、何もしなかった場合のコストは5兆ドルだったから、世界排出安定化の追加コストは 3.5 兆ドルくらいだ。もし温度増加を 1.5°C に抑える政策をとったら、ノードハウス/ボイヤー推計ではコストは 37.5 兆ドル、つまり追加コストとしては 32.5 兆ドルとなる。こうした戦略がいろいろあって、それが追加コストで 3 兆から 33 兆ドルということになる。これがぼくの挙げた数字で、シュナイダーが引用している数字でもある (SEJ:519/SE:318)。

 さて明らかに、5 兆ドルという数字を 3-33 兆ドルという範囲と比べることはできない。5 兆ドルは、地球温暖化のコストを含むもので、範囲は政策による追加のコストを述べたものだからだ。だからシュナイダーがこの二つを比べるのはまったくまちがっている(あるいはかれが Gristでやったように、片方がコストで片方が便益だと主張するのも大まちがいだ)。これはまた、範囲 vs 一つの数という苦情がまるで検討はずれであることも示している。5兆ドルというのは、BAU のもとでの何もしないときの地球温暖化コストだ。「何もしない」方法は一つしかない。だから数も一つしかない。3 兆-33 兆という数は、様々な政策の選択肢のもとでの純コストの範囲だ。さて、とれる政策にはいろいろある。軽いのから、きわめて制約を多くするものまで。軽い政策はほんのわずかな純コスト(3 兆ドル)で、制約の多いものはきわめて高い純コスト(たとえば 33 兆ドル)がかかる。だから別に、いやらしい「統計学者と称する輩」が都合のいいときだけ範囲を示している、なんてことはないのだ。数字が一つしかないのは一つのコストだ。幅が示されているのは、政策選択しに幅があってそれに対応する幅が示されているだけだ。これを比べたり、その非対称性について文句をつけたりするのは、ひたすらまちがっている。

 その後、ぼくがコスト推計を経済文献から引用するけれど「エンジニアたちの発見は無視している」と言われている。これは理解不能だし、これまたまちがっている。ぼくはほとんど 2 ページにわたり、こうした別のエンジニア(またはボトムアップの)コスト推計を挙げている (SEJ:509-11/SE:312-3 を参照)。こうしたエンジニアによる推計のほとんどで何が問題かというと、それが直接的なコストや便益だけを数えて、経済生産に対する間接的なコストや便益(これは直接の費用便益よりずっと大きいのが普通だ)を無視するということだ。はっきりした例が本の中で挙がっている。UNEP (国連環境計画) がデンマークでの CO2 削減の可能性について評価している部分だ。「主要な質問は: この [CO2 削減] ポテンシャルのうち、そのくらいがこうしたオプションの発見と導入に伴う大幅なコスト増もなく、深刻な福祉低下もなしに実現できるだろうか? 以下の計算ではこうしたコストはまったく含まれておれず、直接コストの考え方だけを使用している」 (UNEP 1994:II, 21, SEJ:594/SE:426)。だからぼくは――ほかのほとんどの経済学者と同様に――こうしたエンジニアによる推計は実際の機会をとてつもなく過大評価している可能性が高い、なぜならそれは先のコストを体系的に無視しているからだ、と結論づけている。シュナイダーは賛成しないかもしれないし、ぼくたちを説得するだけの新しいデータを持っているかもしれないけれど、でもぼくがその問題を扱っていないとかいうまちがった主張をするのではなく、そういうデータを見せるべきだ。

 最後にシュナイダーは、研究者たちの発見によれば、インセンティブを提供すれば時には炭素排出を削減し、純便益がもたらされることがある、と述べている。かれはまた、これが驚くべきことで、なにやらぼくの議論に反対すべきものであるかのように書いている。でも、一部の排出がゼロ以下のコストで削減できるかもおしれないという議論はまったくよくあるもので、ぼくの本でも採り上げている。議論は、ゼロ以下のコストで排出を削減できるか(通称「後悔なし」オプション)どうかではなく、それが可能なものがどれだけあるか、ということだ:

 だから多くの経済学者たちは、こういうコストなしで実現できたり、実施したらかえって儲かるような効率性改善の主張はすごく眉ツバだと考える。その理由の一つは、そういう計算が上で見たように、往々にして大事な支出項目を抜かしているからだ。このため経済学者たちはまた、儲かるような再構成ができるもんなら、そんな可能性はすでに採用されていてもいいはずだ、と議論する。

 典型的な経済学者の表現として「ただ飯なんてものはない(there is no such thing as a free lunch)」というのがある――いずれどこかでコストは発生するんだよ、ということだ。ノードハウスは、この儲かる二酸化炭素排出削減の可能性についてこう表現する:「経済学の言い回しを使うと、この分析によればただ飯があるどころか、どっかのレストランでは食事をするとお金がもらえることになる!」

 新しい調査では、こういう「後悔なし」の可能性はどうやら通常考えられているよりずっと限られているようだ。どうも、実際には消費を数パーセントほど引き下られるだけで、がんばっても 5 パーセント叩き出すのが精一杯。同じように、月々の電気料金の調査によれば、屋根の断熱を高めたところで、本当に儲かるにはほど遠い。まあ経済学者たちが予想した通りだ。

 だから最適な CO2 排出削減水準が低いことについての最初の反対論は、かなりあぶなっかしいようだ。 (SEJ:510-1/SE:313).

 ここでのシュナイダーは新しい情報を提供してくれないけれど、でもぼくの議論の一つに反論しおおせているような印象を作り出している。ところがぼくははっきりと、ゼロ以下のコストで実現できる削減は 2-5% くらいだと書いている。

京都議定書. ロンボルグが、10 年しか続かない議定書を 100 年続く方式に仕立てたのは、気候政策プロセスを歪めるものである。あらゆる IPCC 報告は、二酸化炭素排出は 21 世紀後半や 22 世紀に二酸化炭素濃度の大幅増加を避けるために、ほとんどのベースライン予測より 50% 以上の削減が必要になることを指摘している。ほとんどのアナリストは、「京都の延長」がそうした大規模な削減を実現できず、先進国も途上国もいずれ協調的でコスト効率のよい解決策を徐々に導入する必要があることを知っている。これはかなりの「やりながら学ぶ」プロセスが必要になる。国際協調は、よくある経験ではない。京都は出発点だ。それなのにロンボルグは、だれも言っていない 100 年の予測によって、この最初の一歩すらつぶそうとする。

 あの本ははっきりと、京都だけでは地球温暖化にほとんど影響しない、ということを示しているし、シュナイダーがそれに同意しているのはありがたい。でもかれは、京都だけというのは誰もいっておらず、われわれはもっと努力すべきなのだ、と主張する。さてこれは、分析上の問題と民主主義的な問題を両方はらんでいる。まずは民主主義的な問題から行こう。いまの民主的な議論はほとんどすべて、京都を採用するかしないか、という点についてのものだ。いま目の前に出てきているのは京都なんだから、問題になっている京都の実際の影響について議論するのは正当じゃないだろうか。同じく、もしシュナイダーが真の問題は京都ではなく、何かずっと人間活動を制限することなんだ、と述べるのであれば、民主主義的に言って、決断すべきは京都かどうかではなく何かずっと厳しいものなんだ、というほうが正直じゃないだろうか。さらに、「ロンボルグが 10 年しか続かない議定書を 100 年続く方式に仕立てたのは、気候政策プロセスを歪めるもの」というのはいささかレトリック上の歪曲だろう。ぼくが述べているこの延長は、実は 1996 年 IPCC 報告の主要著者の一人である Wigley が書いた論文からきている。かれはまさに、京都議定書を延長してその影響がどんなものかを見極めようとしている。こうすることで、Wigley 教授は気候政策プロセスをホントに歪めたことになるんだろうか?

 もう一つの分析上のも題は、シュナイダーがぼくの京都に関する分析だけについて語り、実際にぼくが各種のずっと厳しい政策を検討していることは無視している、という点だ(いろいろ見たからこそ、上述の 3-33 兆ドルという範囲がでてきたわけだ)。これは、控えめに言っても不思議だ。もちろん、もしシュナイダーが「京都よりずっとキツイ」政策を支持したいなら、それはそれで結構だけれど、この点についての費用便益分析は非常にはっきりしている。京都は、どんな形で実施されようとまずい取引になるし、それをもっときつくすれば、損害はますます増える。

 これはまさにあの本の核心の議論なのに、シュナイダーはそれを無視する。すべての費用便益分析は、大量の二酸化炭素削減が正当化できないことを示している (SEJ:519/SE:318): 「すべての経済モデル作成者の会議からくる中心的な結論は:『現在の評価によれば、『最適な』政策は CO2 削減を比較的穏健な水準にとどめるものだとされる』ということだ」

 最後の文は、ぼくが京都議定書を「つぶそうと」していると述べるけれど、これは政策からきた言葉で、科学の言葉じゃない。ぼくは各種の政策の費用と便益を指摘しようとしたし、はい確かに、京都の便益は地球温暖化を 6 年遅らせるだけで、それに対して京都議定書のコストとしては、地球上の全員にきれいな飲料水と下水処理施設を永久に提供できるだけの費用を、毎年支払えるだけの金額になる、ということは指摘している。

 では、「地球環境のホントの実態」というのは何だろう? 明らかにそれは、伝統的な統計用語では知り得ない。主観的な推計を責任もって提示することはできるにせよ。IPCCが、その査読を受けた報告書で提示している範囲は、気候変動の本当の状態に関する最高のスナップショットを与えてくれる。運が良ければわずかな影響、運が悪ければ大惨事がもたらされる。IPCC は、この問題をリスク管理上の意志決定としてヘッジできるように提示している。それはロンボルグがわれわれに信じさせようとしているような「すべては結局は何も問題ない」という話ではないのだ。

 指摘するまでもないと思うけれど、IPCC は地球温暖化の科学については洞察を与えてくれるけれど、われわれの限られた資源を地球温暖化の回避に使うのがいいのか、それともたとえばきれいな飲料水や下水設備を世界中に提供するのがいいのか、という問題の答えは提供してくれない(これはまさに費用便益分析をやめるようにした政治的な意志決定のせいだ)。

 ぼくの本が「すべては結局は何も問題ない」と言っているというのは、ぼくの文の扱いとしてはレトリック的で、まるっきり誤解を与えるものだ。ぼくは、環境問題には対処すべきだし、大気汚染をもっと減らすようにすべきだし、再生可能エネルギーの研究開発にも投資すべきだ等々と指摘しているし、同時にその他の数多くの重要な地球問題、たとえば貧困や飢餓などに取り組むべきだと述べている。でもぼくの論点は不可欠な優先順位づけに絶えず気をつけるべきだということだ――本当によいことを実現することをやるべきであって、耳に聞こえのいいものばかりやるような意志決定をすべきじゃない、ということだ。これは正面切った正直な分析が必要で、どんなに確立した神話でも検討しなおすのをためらわない、ということでもある。

 このような学際的な問題については、出版社は社会科学者だけでなく自然科学者たちにも原稿を査読してもらうほうが賢明だっただろう。この本は、ケンブリッジ大学出版の社会科学部門から出版されているのだ。各種の分野が交錯する複雑性を考えれば、査読者たちがロンボルグの偏った自然科学の提示を指摘できなかったのも無理はない。でも自然科学者たちが査読を求められなかったというのは、ケンブリッジ大学出版のような権威ある出版社としては深刻な手落ちだ。

 「偏った自然科学の提示」という主張は、この批判者がそうした例を示すことができなかったのを見れば、明らかに裏付けがない。これはまた、ケンブリッジ大学出版がぼくの本を出すことにしたことをかれが残念がっているのは、批判的な議論を抑圧したいという願望でしかないことを示唆するものだ(訳注:ちなみに本書は、自然科学者による査読も受けている)。

 残念ながら、結果として出てくるのはこのような怒りのレビューだ。もっとひどいことに、多くの素人や政策決定者たちはそんなレビューを見ることもなく、何千もの参照文献や何百ページもの記述がバランスのとれた学問研究だとだまされてしまうことだろう。もっと役に立つ見分け方としては、範囲を明示し、主観的確率を示すのがだれかを見ることと、神話破壊者だの「真実を語る者」だのには気をつけることだ。

 これはもちろん、驚くべき終わり方だ。Scientific American のこの記事はすべて、真実を語るものとして売られている。ぼく自身の科学の理解では、科学というのはまさに神話をうち破って真実を語る者となることだ。真実を語ることや神話の打破を疑問視するのは、Scientific American が達成しようとしている目的すべてを否定するものだと思えるけれど、でもおそらくは、そして残念ながら、この批判の状況を示すものとしては非常に正確だと言えるだろう。

スティーブン・シュナイダー (Stephen Schneider)はスタンフォード大学の生物化学部教授で、国際調査研究所 (Institute of International Studies) シニアフェローであり、Climatic ChangeEncyclopedia of Climate and Weather 編者であり、IPCC のいくつかの章と、IPCC 不確実性ガイダンスペーパーの主執筆者でもある。

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John P. Holdren

エネルギー:まちがった問題のたてかた

 ロンボルグのエネルギーに関する章はたった 19 ページ。そのほとんどが、世界のエネルギーが枯渇しかけているという信念の攻撃にあてられている。ロンボルグはこの信念を「環境の定番話」の一部と考えているようだが、こんな信念を実際に抱いている環境保護論者は、ほとんど(まったくではないにせよ)いない。環境保護論者たちが主に主張しているのは、われわれの環境が枯渇しているということだ――つまり、空気、水、生態が、エネルギー抽出や輸送、変換、利用の影響を吸収する能力が枯渇しかけていて、それが人類の福祉にとって耐え難い帰結をもたらすということだ。またかれらは、われわれがエネルギー供給の他のリスク、たとえば中東の石油に依存しすぎていることや、原子力システムが兵器材料や技能を、核拡散の起きやすい国やテロリストたちの手に渡してしまうことの、政治的経済的な危険などを管理する能力も枯渇しつつあると議論している。

 ホルドレンが実際に、エネルギーは枯渇しかけてはいなくて、ぼくは正しいということを言ってくれているのはうれしい限りだ。でもちょっと矛盾しているように思えるのが、妙に侮蔑的な「たった 19 ページ」という言い方だ――ぼくが正しくて、話がすぐに解決がつくものなら、そんなにたくさんページを割かなくてもいいじゃないですか。

 でも、その後ホルドレンは、環境保護論者たちが心配しているのは、環境の枯渇(SE が取りあげた最大の議論だ)と、政治、経済、軍事的な危険を管理する能力の枯渇だ、と続ける。これこそまさに、ぼくがあの本で対抗しようとした物言いだ――なんの参考文献もあげずに、ホルドレンはすべてがますます悪化していると述べ、さらには環境問題の中に、その核心部分とはかけはなれたもの、たとえば核拡散だのテロリズムだの、原油価格高騰による不況だのまで含めようとする。問題となっている分野を一つ、大気汚染を見てやろう (アメリカ環境保護局 (US EPA) が、圧倒的に重要とした分野だ, SEJ:266/SE:163)。ここでは、環境は枯渇していない。空気は、人間の福祉にとって耐え難い影響をもたずに吸収する能力がなくなりかけたりしていない――アメリカのすべての基準となる汚染物質は、過去数十年にわたって濃度が低下している。これについてはあの本で、EPA の参考文献を挙げた (SEJ/SE:ch.15)。ここでホルドレンは単に聞こえのいい引用(環境の枯渇)を選んだだけだ。科学の防衛のつもりだったんだろうけれど、参考文献もないし、ひたすらまちがっている。これはぼくの本でも示されている。

 「エネルギー問題」というのが、もっぱら全地球的な意味での資源枯渇の問題ではなく、むしろ環境上のインパクトや社会政治的なリスク――そして潜在的には、環境と社会政治的なハザードが適切に内部化されて保障された場合の金銭コスト上昇――であるというのは、もう何十年にもわたり環境保護論者の立場だった。これはたとえば私が、1971 年シエラクラブ刊「バトルブック」エネルギー(当時Time 環境エディターのフィリップ・ヘレラと共著) で説明した立場だった。またこれは、1974年の先駆的な報告「選択の時 (A Time to Choose)」 でフォード財団エネルギー政策プロジェクトが説明した立場だった。エイモリー・ロヴィンスも、影響力の大きかった1976年の「フォーリン・アフェアーズ」記事「エネルギー戦略:取られざる道」でこの立場をとっている。ポール・R・エーリックとアン・H・エーリックとわたしも、1977年の大学教科書「エコサイエンス」でこの立場をとっている等々。ならばロンボルグがこの世界のエネルギー資源の潤沢さに関する言説で、ここまで声高に論駁しているのはだれなんだろうか。どうもかれの標的は識者(たとえばその章の冒頭部で引用されている「Eマガジン」や CNN の記者) 、プロのアナリスト(だが引用されている人物はわずかで、しかも非常に選択的)の中で、しかも世界のエネルギーそのものがなくなっていると論じた人ではなく、安い石油が枯渇しかけていると論じただけの人々のようだ。ロンボルグがあっさりとレトリックで切り捨てているものではあるが、これは馬鹿な疑問ではないし、簡単に答えられるものでもない。

 ホルドレンは、ぼくの標的が安い石油の枯渇を論じてきた識者やアナリストだということを認識してる。そういう人たちに反論するのは正当なことじゃないんだろうか? かれはまた、多くの人が 1970 年代にすら石油の枯渇については心配しなかったと指摘しているけれど、でもかれが 1970 年代で最も重要で影響力の高かった環境問題への影響、『成長の限界』を無視するのは奇妙なことだ。そこでははっきりと、石油が 1992 年以前に枯渇すると予言されている (Meadows et al. 1972:58)。同様に、エーリックは 1987 年に、石油危機が 1990 年代に復活すると心配した (Ehrlich and Ehrlich 1987:222)。最後に、かれは、識者やアナリストたちはぼくが言っているのとは別のことを主張しているんだ、かれらが心配しているのは、安い石油がなくなることだけだ、と述べている。でももちろん、これは同じ話だ。それについては本書でも指摘している:「石油がなくなったと言っても、それは別に石油が完全に消滅したってことじゃない。ものすごく高価になるということだ。もし石油がどんどん希少になっているかどうか調べたければ、石油がどんどん高価になっているかどうかを見ればいい」(SEJ:208/SE:122).

 石油は伝統的な化石燃料の中で最も柔軟性があり、現在では最も価値が高く、われらが文明のエネルギーの相当部分を供給してきたし、世界のエネルギー供給において最大の貢献をしている(輸送に使われるエネルギーはほとんどすべてが石油からきているし、その他の役割もある)。でも、採掘できる石油の伝統資源は、石炭や、たぶん天然ガスよりもずっと小さいと(かなりの証拠を持って)信じられている。こうした資源のかなりの部分は、政治的に不安定な中東にある。残りのかなりの部分はオフショアや他の採掘困難だったり環境的に脆弱だったりするいちにある。そして伝統的な石油に対する潤沢な代替物は、石油よりも高価になりそうだ。こうした各種の理由から、入手可能性の低下と価格上昇に関する懸念は、他の化石燃料に比べて石油についてずっと顕著だった。真剣な技術文献(おもに地質学者と経済学者によるもの)が、世界の石油生産で石油がピークに達するのはいつかという質問を検討していて、それによれば 2010 年か 2030 年か 2050 年かで、それも情報量の豊かな専門家の間でもかなりの見解の相違が見られている。

 この段落は実は批判しているわけじゃないが、「伝統的な石油に対する潤沢な代替物は、石油よりも高価になりそうだ」という下りを含んでいるこの発言はまったく参考文献もなく、思いこみで書かれているだけだけれど、ぼくはアメリカエネルギー情報局 (EIA 1997c:37) を参照して、「今日ではタールサンドやシェール油から、30 ドル以下で 5,500 億バレルの石油を生産できる、つまり現在の地球石油埋蔵量を 50% 増やすことができる。そして 25 年以内に、石油の現在の石油埋蔵量に比べて倍の埋蔵量を商業ベースで活用できるようになる」(SEJ:217-8/SE:128)と述べている。つまりホルドレンの主張はまちがっているようだ。

 ロンボルグは、世界エネルギー市場における石油の優位性は、石油が地下からなくなるからではなく、他のエネルギー源が石油に比べて魅力的になるからだ、という基本的なポイントは正しく指摘している。でも、かれは石油から他のエネルギー源への移行は、必ずしもなめらかにはならないし、現在の石油消費者たちが享受しているような低価格ではそもそも移行が起こるかどうかも確実ではない、ということを認識していないようだ。実際、世界の石油への大幅な依存がわれわれの存命中にまた大きな問題になるかもしれないという立場を嘲笑しつつ、かれは真剣な人々の間でこの件について本当の議論が生じている理由を理解しようとも(伝えようとも)していないようだ。

 ホルドレンはまたもやぼくと同意しているけれど、移行が円滑でも安上がりでもないかもしれないことを無視したといって非難する。もちろんそうかもしれない(だれも 100% の予測なんかできないのだ)けれど、あの本の基本的な議論は、ホルドレンが起こるかもしれないと言っている危機は、実はかなりあり得そうにない、というものだ――この手の枯渇の恐怖は何度も言われてきたし、毎回それはまちがっていて、さらには、各種のエネルギー源が将来も競争力ある価格で十分なエネルギーを供給してくれると考えるべき理由は十分ある、ということだ。

 ロンボルグは、読者たちに「証明済みの埋蔵量」(すでに見つかっていて、現在の価格でも、現在の技術を使って採掘できて利用して儲けることができるもの)と「残った究極的に利用可能な埋蔵量」(これは今日の価格で今日の技術を使って儲かる形で利用できるけれど、まだ見つかっていないものや、将来の潜在的に高い価格で、将来の技術を使って利用可能になるものも含まれる)とのちがい――枯渇の議論を理解するにはきわめて重要なちがいだ――についてはっきりした説明を与えない。そして、世界の石油埋蔵量のほとんどが中東にあることは指摘しつつ(さらに残った究極的に利用可能な埋蔵量もかなりがそこにあるということは、記述しないばかりかその概念すら導入せず)、かれはあっさりと「ぼくたちの未来のエネルギー供給にとっても、この地域がそこそこ平和でいてくれるのはとても大事なことだ」と述べ、その観測が将来への安心に対する前提をまるで揺るがさないかのようだ。(この点について、かれの 2,930 に及ぶ脚注の一つは、この中東の平和の必要性こそが「湾岸戦争の背景の一つだった」と述べている)。

 ホルドレンはこの段落の半分かけて、ぼくがすべての区別を説明しないとこぼすのに、その前のところでは、ぼくの述べていることはあたりまえすぎる、と論じている(つまりなんでもかんでも紙幅をたくさん割いて説明すべきではないんでしょう?) もっと好意的に読んだとしても、この批判はいささか思いつきにすぎるんじゃないだろうか。ぼくが世界の石油埋蔵量のほとんどが中東にあると指摘しているのを認めつつ、ホルドレンは国際関係論みたいな他の領域(中東の相対的な平和と商品取引への帰結)に寄り道して紙幅を使わないといってぼくを批判する。この批判が結局何を言いたいのか、ここでもはっきりしない。もっと説明したほうがいいの、しないほうがいいの?

 最後のカッコ入りのコメントは、ぼくがこの一言を言うのに議会の研究論文に依拠していることを述べない。

 ロンボルグの非石油エネルギー資源の扱いも似たり寄ったりだ。石炭、オイルシェール、核燃料や再生可能エネルギーの資源が大量にあるという基本的な主張の点では正しい(これについては環境保護論者たち――とくに知識豊富な人々――はだれも反対しない)。でもこうした資源が使われる状況やその量を左右する技術、経済、環境要因に関するかれの扱いは、偏向していて、混乱し、しばしばひたすらまちがっている。かれのまちがいは、統計データの明らかな誤読や誤解――つまりは、 かれが環境保護論者たちの書き物に蔓延していると称するまさに同じ種類のまちがい――や、他の数量的な操作などの基本的なまちがいで、まともな統計学者ならだれもやらないようなものだ。

 この段落で、ホルドレンは強気に出る。ここでかれは、残りの部分も石油の扱いに比べて似たり寄ったりだと述べる(が、その石油の章についてホルドレンはほとんど同意しているし、具体的なまちがいは一つも見つけていない)。ここでもかれは、ロンボルグは「その基本的な主張の点では正しい」と述べつつ、続けてぼくが山ほど誤読や誤解、基本的なまちがいをしでかしていると述べている。ホルドレンのこうした厳しい言葉が、続く部分で裏付けられるだろうか。

 たとえばかれは、世界に石炭の資源がたっぷりあることを正しく指摘しているけれど、それが「今後 1,500 年を優に越えるだけの石炭があると考えられている」と述べるにあたり、この結論を出すのに使われた石炭使用量については何も述べない。石炭への依存上昇がもたらす環境上の問題について、かれは以下のように書いている。「石炭はおおむねえらく公害をだすけれど、先進経済諸国では、低硫黄石炭に切り替えたり、脱硫装置みたいな大気汚染制限装置のおかげで、二酸化硫黄や二酸化窒素の排出は大部分が除去されている」。ところがこれとは正反対に、ウェブ上でアメリカ環境保護局が出しているデータ「National Air Pollutant Emission Trends 1900-1998」をちょっと見れば、アメリカでの石炭火力発電所からの窒素酸化物の排出は1980年には610万米トンだったのが、1998年には540万米トンになったことがわかる。アメリカでの石炭火力発電所からの二酸化硫黄の排出は、1980年には 1610万米トンだったのが、1998年には1240万米トンだ。これは多少は減っているけれど排出の「大部分」にはほど遠い。

 ぼくが環境データを誤解・誤読した初の実例(「(ロンボルグが)環境保護論者たちの書き物に蔓延していると称するまさに同じ種類のまちがい」)は、明らかにぼくが書いたものをよく読んでいないことを示している。ホルドレンはぼくが、世界に石炭資源がたくさんあると述べているのは正しいという。でも、世界が石炭1500年分あると述べるとき、ぼくがこの結論を出すのに使った石炭使用量について何も言わないと述べる。おかしいな。というのも、ぼくはずっと同じ計測方法を使っているからだ:その議論が出たときの年の使用量が基準になっている (SEJ:216/SE:127):

 石油と天然ガスの場合と同じく、石炭の利用可能埋蔵量もだんだん増えてきた。1975 年以来、石炭の利用可能埋蔵量の総量は 38 パーセント増えた。1975 年には、1975 年レベルの消費を 218 年間続けられるだけの石炭があったけれど、その後消費は 31 パーセント増えたのに、1999 年の利用可能石炭埋蔵量は 230 年分もあった。消費可能年数がもっと増えていないのは、単に価格が下がっているからだ。石炭資源の総量はずっと多いと見積もられている――今後 1,500 年は優に保つだけの石炭があると考えられている

 そしてもし読者が 1,500 年について不信に思ったら、かれらは(本書のほとんどすべてと同様)、そこで使われた参照文献を見てみればいい。誤読や誤解でぼくを責める前に、まずはこの参照文献を入手してみてはどうだろう。そしてそこに問題があったとしても、ホルドレンが主要な論点(つまり石油の資源はたっぷりあるということ)を認めている以上、これがなぜそんなに大問題なの?

 ホルドレンのもう一つの主張は、ぼくの石炭からの公害が減ったという記述がまちがいだ、というもの。ぼくがうっかりまちがえたと思っているのか、わざとまちがえたと思っているのかははっきりしない。というのもかれはぼくがこの記述に際して依拠した情報源をチェックしていないようだからだ。いずれにしても、ホルドレンはアメリカの SO2排出は、1980 年以来たった 23% しか下がっていない (0.23=1-12.4/16.1) と主張して、だからぼくの記述はまちがっていると述べる。

 でもホルドレンは、アメリカの石炭火力発電所における石炭利用が過去数十年ですさまじく増えたということを無視しているようだ――1980 年に比べると、5 億 6930 万米トンから、1999年には 9 億 5160 米トンに上がった (http://www.eia.doe.gov/emeu/aer/txt/tab0703.htm)。だから燃焼石炭重量あたりの SO2 汚染は、たった 23% どころか 56% 下がっている。さらに、ホルドレンはどうして出発点として 1980 年を選んだんだろう。環境改善は遅くても 1970 年頃からずっと続いているのに。1970 年に比べれば、石炭重量あたりの SO2 汚染は 75% 下がっていて、石炭燃焼からくる公害が大幅に減っているという記述は裏付けられる。

 さらに、ぼくは石炭からの大気汚染はまだかなり大きいということははっきり書いているのに、Scientific American の批判ではこれが無視される。ぼくの文が手元にない人のために、石炭の環境ハザードについてぼくが述べている文句なしの一文をここで繰り返しておこう (SEJ:215-6/SE:127):

 石炭はおおむねえらく公害をだすけれど、先進経済諸国では、低硫黄石炭に切り替えたり、脱硫装置みたいな大気汚染制限装置のおかげで、二酸化硫黄や二酸化窒素の排出は大部分が除去されている。でも全世界で見ると、石炭は相変わらず大きな公害源で、推定では年間1万人よりかなり多くの人が石炭のせいで死んでいる。これは一部は公害によるのと、一部は石炭採掘が今日ですらかなり危険だということがある。

 原子力に関していうと、ロンボルグは原子力が「世界のエネルギー生産の 6 パーセントを占め、原子力を持っている国のでは 20 パーセントを占める」と述べている。最初の数字はあっているけれど、二番目は深刻なまちがいだ。原子力はこのエネルギー源を使う国でも、1次エネルギー供給の 10% をちょっと下回るくらいを供給している(どうもロンボルグは、電力部門への貢献と、1 次エネルギーへの供給を混同したようだ)。ウラン資源と高速増殖炉との関係についての混乱した議論(これは海水から取るウランの利用可能性という決定的なものになる可能性のある課題をまるで無視している)のあとで、かれは高速増殖炉が「プルトニウムも大量に作り出すので、安全保障上の懸念がさらに増すことになってしまう。」とほとんどおまけのように述べるだけだ。この問題があまりに大きいため、プルトニウム抽出がずっとやりにくくなっていて、このアプローチが現在よりさらに不経済にならないような技術が開発されない限り、高速増殖炉によるアプローチは不可能かもしれない、と追加しておくべきだった。

 ホルドレンが指摘するとおり、20% というのはまちがいだ。原子力発電による電気の 20% と書くべきだった(これはもちろん、ウェブサイトの正誤表に掲載する)。こういうまちがいは、もちろんないに越したことはない。でもこれは単に一般的な情報として提示されているだけで、何か議論の根拠となっているわけではないことを考えると、それを「深刻なまちがい」とするのは大げさじゃないだろうか。 もう一つの批判は、ロンボルグが追加の安全保障上の懸念について「ほとんどおまけのように述べる」というものだけれど、これもまた過大なものだと思う。核融合議論は、272 語、3 段落が使われていて、ここで安全保障上の懸念は 2 回も述べられている。これは「ほとんどおまけのように述べる」にはほど遠い。参考までに、その 3 段落を挙げておこう (SEJ:218-9/SE:129):

 ふつうの原子力は、ウラニウム 235 分子をかち割って、そこから出る熱エネルギーを利用する核分裂方式だ。ウラニウム 235 が 1 グラムで得られるエネルギーは、石炭ほぼ 3 トンに近い。原子力はとてもきれいなエネルギー源でもあって、通常の運用下ではほとんど公害を出さない。二酸化炭素は出さないし、放射能排出は、実は石炭火力発電所から出てくる放射能より低いくらいだ。

 一方で原子力は、何年にもわたって(中には 10 万年以上)放射性を持つ廃棄物を作り出す。これは廃棄物の保管所と、未来の世代にそんな遺産を残すことについて、すさまじい政治論争の種となった。さらに、民間核反応炉からの廃棄物は、核兵器用のプルトニウム生産に使える。だから多くの国では原子力の使用は、安全保障上の問題にもなってくる。

 現在では、この先 100 年分くらいのウラニウム 235 がある。でも、特殊な反応炉――通称高速増殖炉――は、ウラニウムの 99 パーセントを占める、はるかに豊富なウラニウム 238 を使える。発想としては、ウラニウム 238 そのものはエネルギー生産に使えないけれど、それをウラニウム 235 といっしょに反応炉の炉心に入れておこうというわけ。ウラニウム 235 のほうは普通の原子炉と同じようにエネルギーを作り、その放射能がウラニウム 238 をプルトニウム 239 に変えて、これが原子炉の新しい燃料として使える。ほとんど魔法みたいだけれど、高速増殖炉は本当に、消費するよりたくさんの燃料を生み出す。だから、この原子炉を使えば、今後 14,000 年も保つだけのウランがあることになる。残念ながら、こうした原子炉は技術的にもっと脆弱で、核兵器生産に使えるプルトニウムも大量に作り出すので、安全保障上の懸念がさらに増すことになってしまう。

 ロンボルグは、エネルギーの末端利用効率が上がることや、再生可能エネルギーからくる大きな貢献について、一般的にまともなことを言っている――この点についてかれは、ほめられるべき点として、「環境定番話」を批判するよりむしろそれに貢献しているようだ。でも他と同様この点でも、かれの問題の扱いは不自然で不均等で、無数のまちがいや不適切さだらけだ。たとえば、かれはたえず2桁、3桁の精度で数字を述べるけれど、その多くはそんな精度では求められないものだ。「アメリカのエネルギー利用の 43 パーセントは無駄遣いされている」「二酸化炭素」排出のコストは「0.64 セント/kWh」である、植物光合成は年間「1,260 EJ」である、という具合だ。かれは引用文献一つだけをもとに、それを十分考慮もせずに主張を行い、そのもとの文献を代弁するにはほど遠いことを言う。「今日では、リッター 50--100km を叩き出せる安全な車だって、作ろうと思えば十分作れることがわかっている」 (その車はどれほどの大きさで、どういうふうに動力を得るんだろう?)かれは用語をごっちゃにする: 「エネルギーは水を触媒分解して水素として保存できる」(たぶん「水を電気分解して」または「水を熱化学的に触媒分解して」と言いたかったんだろう)。そしてかれは各種の概念上の混乱をまき散らす。たとえば、送電網につながった風力発電は「余剰発電能力を持っている必要がある」、なぜならそうしないと「ピーク需要に対応できないから」など。

 またもやホルドレンは、ぼくが各種の点で正しいと述べているけれど、それでもその扱いは徹底的に批判されている。いちばん驚くのは、ぼくが厳密すぎると言って非難されていることだ。もちろん、ぼくたちが十分には知らない数字はたくさんあるけれど、統計における基本的な発想は、もしその数字が均等に誤差の分布したプロセスによって生成されたものであるなら、正確な数字のほうが、実際の数字の予想としてはやはり最高なのだ、ということだ。あるいはもっと明確に述べよう。もしある調査で、アメリカのエネルギー利用のうち 43 パーセントが無駄になることが示されたとする。その場合、本当の数字は 38-48 パーセントだろうけれど、でもぼくが 43% というのを丸めて 40 とか 45 にしたら、数字の価値はさがってしまう――そしてホルドレンはたぶん、ぼくが結果をごまかしたといって非難しただろう。さらに 43 %という数字は、ミラー教授によるベストセラーの大学向け環境教科書から取ってきたものだ。ホルドレンはかれもまちがっていると言うのだろうか? ホルドレンは、ぼくが文献を代弁するにはほど遠い主張をしていると主張して、例を一つあげるけれど、その主張がまちがっていることを示す参照文献も挙げないし、その主張がなぜ文献の代弁とはほど遠いのかということを示唆することさえしない

ぼくは用語が混乱しているといって責められている――確かに「分解」はデンマーク語からの翻訳で、「電気分解」とすべきだった。でもここでも、それがそんなに重要か? 概念的な混乱は、ホルドレンがこの二つの段落をきちんと読んでいないことから起きるようだ。もし風車が石炭火力の電力グリッドにつながっていたら、風車でピーク需要に対応する必要はないけれど、でもこれが長期的な再生可能エネルギー戦略にならないのは明らかだ。だからぼくはむしろ、ダムと風車の組み合わせを論じているわけだ (SEJ:228-9/SE:134):

 送配電網がダムにつながっていたら、これを保存に使える。要するに、風が吹いたら風力を使って、ダムは閉じて水が貯まるようにして水力を保存する。風がなくなったら、水力で必要な電力を作ればいい。でもこれは、風力も水力もかなりの余剰発電能力を持っている必要があるってことだ。どっちもピーク需要に対応できなきゃいけないから。この解決法はまた、大規模な水力発電にすぐアクセスできることも条件になる。

 もちろん、世界のエネルギーの構図で一番問題な点は、そのエネルギーの章に書かれてはおらず、大気汚染や酸性雨、水質汚染、地球温暖化の章に書かれている。地球温暖化については、p.62 でシュナイダーに徹底的に批判されている。他のエネルギー関連の章を扱う紙幅はここにはない。ここでは単に、ためにする議論、選択的な議論、誤解の水準は、ここで検討したエネルギーの章と似たり寄ったりだったと述べるにとどめよう。これは恥ずかしいことだ。ロンボルグは懐疑主義――および統計学者――の面汚しだ。

 ホルドレンに見つけられたのが、翻訳まちがいの単語一つと、原子力による電力生産という厳密な記述の欠如だけだったことを考えると、ほかの章が似たり寄ったりだと言われてぼくはほっとしている。でも、この批判の調子のほとんどがおどろくほど雑だと思うし、ここから見てホルドレンは、まともな分析のかわりにとにかく罵倒を使うしかなかったのだな、と思えてしまうのだ。

ジョン・P・ホルドレン (John P. Holdren) は、ハーバード大学ジョン・F・ケネディ行政スクールの環境政策に関する Teresa and John Heinz 教授であり、また同大学の地球惑星科学部における環境科学と公共政策教授でもある。1973 年から 1996 年にかけて、かれはカリフォルニア大学のエネルギーと資源境界領域大学院プログラムの共同主催者となった。かれは全米科学アカデミーと、全米工学アカデミーのメンバーである。

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John Bongaarts

人口:インパクトを無視

 世界中で、各国はかつてない人口変動を体験している。最も有名な例は、人間の数のすさまじい拡大だが、他の重要な人口トレンドもまた人間の福祉に影響する。人々の寿命はのび、健康な生涯を送り、女性の生む子供の数は減り、ますます多くの移民が都市や他の国に移住してもっとよい生活を求め、人口が高齢化している。ロンボルグによるこうしたトレンドやその影響の一部に関する、バランスを欠いた提示は、いい部分だけを強調し、悪い部分を無視する。広範な飢餓をよそうし、世界の環境、経済、社会問題の多くについて、急速な人口増大が原因だと指摘した環境保護論者の多くは、議論を誇張しすぎていた。でもロンボルグの「人の数は問題じゃない」という見方はひたすらまちがっている。

 まずボンガーツは、物事はどんどんよくなっていて、環境保護論者の広範な飢餓の予言はまちがっていた、と書いている。オッケー。ここでは「科学がロンボルグから自衛」というのはあまり見られないようだ。でもその後かれは、基準を高くして、人の数が問題じゃないというぼくはまちがっている、と言う。以下では、ボンガーツが自分のこの論点を証明するだけの任すら果たそうとしないどころか、最後にはむしろその論点自体を放棄してしまうことを見る。でももちろん、ここでその論点を挙げることで、反論自体がなにやらもっともらしくなるわけだ。

 おもしろいことに、ボンガーツはまた、ぼくがなぜ人の数は問題じゃなくて、問題は貧困なんだと指摘しているのか書いてくれない (SEJ:90/SE:48):

 地球の人口過剰という話はよく聞く。だいたいそういうのは、びっしり密集した大群衆や、大混雑の地下鉄駅かなんかの派手なカラー写真つきで示されている。  著名な人口生物学者ポール・エーリックは、人口爆発についてのベストセラーでこう書いている:

 心理的に、人口爆発が初めて腑に落ちたのは、デリーの臭く暑い一夜のことだった。通りは人で活気にあふれていた。食べる人、身体を洗う人、寝る人、仕事をする人、議論して怒鳴る人。タクシーの窓から手を突っ込んで物乞いする人。大便する人、小便をする人。バスからぶら下がっている人。通りで動物を追っている人。人、人、人。

 でも重要なこととして、人の数が問題なんじゃないということだ。一番人口密度の高い国の多くはヨーロッパにある。人口密度の一番高い地域である東南アジアは、平方キロあたりの人口数はイギリスと同じだ。オランダやベルギーや日本は、インドよりずっと人口密度が高いし、オハイオとデンマークはインドネシアより人口密度は高い。

 今日、エーリックらもこの点には同意している。それでも、人口過剰の解釈として別のものが二つ、表舞台に登場してきた。その一つは飢えに苦しむ家族の姿を引っ張り出してくる。みすぼらしく、狭苦しい状態に、早死。こういうイメージは確かにリアルなものだけれど、実は人口過剰じゃなくて貧困の結果なのだ。貧困については後述。

 かれの選択的な統計の使用は、人口問題はもうほとんど片づいた、という印象を読者に与える。確かに人口の成長率はゆっくり減ったけれど、人口増加の絶対数は、近年見られた非常に高い水準に近いままだ。率は減っても、それをかける母数が増え続けているからだ。世界人口は今日 60 億人で、1960 年から 30 億人も増えている。国連の予想によると、 2050 年までに人口はさらに 30 億人に増え、いずれは 100 億人に達するだろう。

 ここでボンガーツは、ぼくが統計をごまかすと言って糾弾する。でも、その後に続いている記述を見ると、非難はどうもあさっての方向を向いているようだ。ボンガーツは、世界人口増加率は確かにだんだん減ったけれど、増加の絶対数はピークに近いままだ、と主張する。まず、かれはぼくがそれを言っていないかのような書き方をするけれど、ぼくだってそれは指摘している。それは本の以下の段落を見ればわかる (SEJ:87/SE:47):

図 13 を見ればわかるように、全地球人口の増加は、1960 年代初期に 2 パーセントをちょっと上回ったのがピークだった。その後、増加率は 1.26 パーセントに下がり、2050 年には 0.46 パーセントになると予想されている。それでも、人口の絶対数の増分は上昇し続け、1990 年に年 8,700 万人が世界人口に追加されてピークを迎えた。今日では年間7,600 万人が世界人口に追加され、2050 年の年間人口増は、約 4,300 万人になっているだろう。

 第二に、ボンガーツは人口増加率が「ゆっくり」としか減少していない、と述べるけれど、実は1964年に 2.17% だった増加率は、今日では 1.26% (40% 以上の低下だ)。ボンガーツは、増加の絶対数は近年の高い水準に近いままだというけれど、でも今日の7600万人という数字は、ここ20年で最低なのだ。

 ぼくはまた、1750--2200 年までの国連による人口推移のグラフを示していて (SEJ:86/SE:46)、そこには最新の 2000 年国連推計も載っている。そしてそこでぼくは、予想値は 2050 年に 93 億人で、安定人口はおよそ 11 億人(ボンガーツの主張するように 10 億ではない)と述べている:

 国連は絶えず、現在と将来の地球上に人が何人いるかを計算し続けている。2100 年についての数字は 1994 年、1996 年、1998 年で 15 億人分下方修正され、2000年の数字は5億人分上方に修正された。これは各国で出生率の低下速度が変わってきているからだ。2000 年以降について、最新の長期予想を図11 に示した。これによると、2025年には地球上には人が約 80 億人いて、2050 年には 93 億人ほどいる。推定では、世界人口は 2200 年に、110 億をちょっと下回る水準で安定すると推計されている (SEJ:87-8/SE:47).

 どうやらボンガーツのこの段落は、ぼくが統計をごまかしたと示したかったようだけれど、でもボンガーツはこれを示せないばかりか、かれの議論のほうが不思議とごまかしを含むようだ。

 世界トレンドの議論は、地域間のすさまじい差を考慮しなければ誤解のもとだ。今日のアフリカ、アジア、ラテンアメリカの最貧国は、急速に成長する若い人口を擁していて、ヨーロッパ、北アメリカ、日本などの技術的に発達して豊かな諸国では、人口成長はゼロに近く(時にはマイナスだ)、さらに急速に高齢化している。結果として、将来の人口増のほとんどすべては、人口の 4/5 が住む発展途上国に集中する。2000 年から 2025 年にかけての発展途上諸国での人口増加推計(48.7 億から 67.2 億人)は、過去25年にわたり記録的な増加と同じくらい大きいのだ。世界最貧国でのかつてない人口増は、いまだにおさまらないまま続いている。

 ここでもボンガーツは、ぼくが世界の地域間のすさまじい差について考慮していないといって非難しているようだ。でも、ぼくの本での最も一貫した点の一つは、データを先進国と発展途上国の両方について示していることなのだ。とはいえ、確かにぼくは発展途上国の人口増加についてグラフを示さなかったので、ここで出しておこう (図1)population growth: absolute and rateここでも、本書の図 13 とほとんど同じパターンが見て取れる。そしてまた、ボンガーツの分析がどんなに眉ツバかもわかる。かれは、歴史的に前例がない人口拡大がほとんどおさまらずに続くと主張しているけれど、2001 年の増加数 7,400 万人は、1984 年以来最低だし、成長率はピークの 2.6% から今日の 1.5% に下がった。1975- 2000 年の成長が、2000-2025 年の成長とほとんど同じだというのは、数字のうえでは本当だけれど、でも誤解を招く。1975 年以降の成長は、人口の増加数がどんどん増えることからきていたけれど、2000 年以降には、増加する人の数はどんどん減る一方だ。

 過去の人口増加は、多くの国で高い人口密度をもたらした。ロンボルグはこの問題についての懸念を、総国土に対する人の数に基づいた密度という単純で誤解を招く計算に基づいて否定する。明らかにもっと有用で正確な密度指標は、人間居住や農業に向かない地域、たとえば砂漠や山岳地帯を除いた面積に基づくものだろう。たとえば、かれの単純な計算を使うと、エジプトの人口密度は扱いやすい 68 人/km2 となるが、灌漑されていないエジプトの砂漠を除けば、密度は途方もない 2,000 人/km2 になる。だからエジプトが食糧供給のかなりの部分を輸入しなくてはならないのも当然だ。きちんとはかれば、人口密度はきわめて高い水準に達している。特にアジアや中東の大国においては。

 おもしろいことにボンガーツは、ぼくのまちがい具合を示すために議論をでっちあげる必要にかられて、ぼくが本書の中でエジプトの話なんか一度もしていないことすら言及しない。本当の問題は、上にしめした本書からの引用カ所だ。たとえばそこで、世界で最も過密な居住地はヨーロッパにあると指摘している。ボンガーツの明らかなはずの議論というのは、たとえばオランダの人口密度がインドよりずっと高い、ということと何か関係あるんだろうか? そういう話は一度もない。

 なぜこれが問題になるのか? 人口トレンドが人間の福祉に与える影響については何世紀にもわたり議論されてきた。18世紀後半に現代の人口拡大が始まったとき、トマス・ロバート・マルサスは人口増加が食糧不足で制約されると論じた。ロンボルグや他の技術楽観主義者たちは、世界人口がマルサスの見通しよりずっと急速に拡大した、と正しく指摘する。そして栄養状態も改善した。さらに、世界の食糧生産が今後数十年にわたりかなり増大できる、という技術楽観論者たちの見通しは、たぶん正しいだろう。現在の平均穀物収量は、最も生産性の高い諸国で実現されている水準よりまだ低いし、一部の国は耕作可能地をまだ残している(かなりが森林だが)。

 またもやボンガーツは、ぼくが正しいとほとんど言いかけているけれど、でもこの議論を二つ、かなりさりげなく矮小化している。かれは栄養状態が改善したという。それは事実だけれど、実際には改善したなんてもんじゃない。地球の一人あたり利用可能カロリーは、1961 年には 2,257 カロリーだったのが 1998 年には 2,792 カロリーと、24 パーセントも増大し、発展途上国では 1,932 カロリーから 2,663 カロリーへとさらに大きな 38 パーセントもの増大が実現している (FAO 2001a)。

 さらにかれは、食料生産はたぶん、ずっと増やせるだろう、なぜなら収量が増大するし、「一部の国は耕作可能地をまだ残している(かなりが森林だが)」と言う。これまた、耕作地については過少評価もいいところだし、森林については過大だ。最新の2030年までのFAO農業報告での見通しでは (FAO 2000d), FAO ははっきりと農業生産での土地利用を論じ、農用地があとどのくらい増やせるかを語っている。 FAO 推計では、現在では 1.5Gha または地球上の総陸地面積の 11% が農業に使われており、さらに穀物生産の可能性がある土地はあと 2.9 Gha ある (FAO 2000d:98)。これらのうち、森林地は 45% だ (FAO 2000d:103)。だから新しい農地を作る余裕はたっぷりあるし、森林地はまるで使わなくていい。実は FAO の発展途上国に関する推計(先進国はもうこれ以上農地は増やさないだろう)は、2030 年まではあと 0.12 Gha、たった12パーセントの増加となっている。つまり、農用地の利用は、潜在的な土地利用の 32% から2030年には 36% に増えるということだ。世界的に見ると、これはつまり農用地は総陸地面積の 11% から 12% に増えるということだ。

 でも農地の拡大は、コストが高くつく。特に、世界の食糧生産が、数十億人の追加人口に対し、もっとよい栄養状態の要求に応えるのであれば。現在農業に使われている土地は、まだ耕作されていない土地より一般に質が高い。同じように既存の灌漑システムは一番有利な土地に敷設されている。そして水は、世帯、工業、農業との競合が強化するせいで、多くの国で不足している。結果として、食糧生産が増えることに、入手はますます高価になる。これは農業生産に含まれていない環境コストまで考えれば特に言えることだ。

 これは環境の定番話からくる、気絶しそうなほど単純きわまる分析の一つだ。すでに一番いい土地と灌漑しやすい等々の土地は使っちゃったので、農業生産を拡大するとコストは上がる、というわけだ。でもこれは明らかに、生産効率がますます上がっていて作物の質もどんどん上がり、食物価格は下がる一方という歴史的なトレンドを無視している。でも、ボンガーツは価格が増加するというかれのシナリオが現実かするという証拠をまったく示さない――だが IFPRI, USDA、世界銀行のいずれも価格はさらに低下すると予言している (IFPRI 1997, 1999; ERS 1997:4; USDA 2000b; Mitchell et al. 1997)。これは1800年以来ほとんど一貫した食糧価格低下の継続だ(小麦価格について 1316-2000年のデータは SEJ:112/SE:62).

 追加の食糧増産が問題でないというロンボルグの見方は、世界の食糧価格が低く、歴史的にも下がり続けてきた、という事実に大きく依存している。でもこの証拠は欠陥がある。農民への大量の政府補助金のせいで、特に先進国では、食料価格は人工的に低く保たれているのだ。技術進歩のおかげで価格は下がったけれど、こうした大量の補助金なしには、世界の食糧価格はまちがいなくもっと上がる。

 最後の仮説的な文章は事実だ――補助金がなければ、価格は上がるだろう。でも、議論のキモは価格のトレンドのほうで、それは下降傾向にあるし、それは1800年代から変わらない。まったく、Scientific Americanが批判者たちに「科学を自衛」させるにあたり、まともな参照文献も挙げずにこんなせこい思いつきを並べるだけで許しているというのは、じつに奇妙なことだ。これもまた、あらゆる主要食料分析期間が、相変わらず食料価格低下を予想しているせいなのかもしれない。 (上に同じ, IFPRI 1997, 1999; ERS 1997:4; USDA 2000b; Mitchell et al. 1997).

 ポール・R・エーリックとアン・H・エーリックが「地球を人間用の巨大な飼料採取所」にしてしまうと呼んだことの環境コストは、じつに大きい可能性がある。増える人口によりよい食事を与えるための、大規模な農業拡大は、集約農業化と新しい農地の開拓で、さらなる森林消失、生物種の喪失、土壌流出、農薬や肥料の流出にともなう公害を招く可能性が高い。この環境インパクトを減らすことは可能だが、コストがかかるし、人口増が遅くなったほうが明らかに楽になる。ロンボルグはこの環境インパクトを否定はしないが、ぶっきらぼうにこう尋ねるだけだ:「地球上に60億人以上いるのに、他にどんな手がある?」

 驚いたことに、何の統計的裏付けもなしに、ボンガーツは「地球を人間用の巨大な飼料採取所にする」という滅亡の日論者のたとえを持ち出してくる。でも、上で見たとおり、現在では地球総陸地面積の 11%くらいが農業に使われていて、2030 年には 80 億人以上にずっといい食事を与えられるようになるけれど(一人あたり3100カロリー)、農地面積は 12%になる――「地球を人間用の巨大な飼料採取所にする」というにはほど遠い。さらにもしボンガーツがきちんと統計を見ていたなら、かれは過去 25 年の農業土地利用増大は、実は今後 30 年の農地増大より大きかったことを認識できたかもしれない (これまで増えた農地は 0.173Gha、今後見込まれる農地増加は 0.12 Gha, FAO 2000d:105).

 ここでもボンガーツは、ぼくが環境インパクトについて論じていることを実際に認めているけれど、ぼくがぶっきらぼうに「他にどんな手がある?」ときくだけだ、と述べる。でもこれは最低でも3つの点で誤解を招く。まず、ぼくは長期的に人口を抑制する手段について洞察を示している――これは貧困削減と発展の問題だ、と (SEJ:85-6/SE:46)。だからこそ、ボンガーツが記事のトップで引用をちょんぎって、ぼくが貧困を論じているのを示さなかったのは問題だ (SEJ:89/SE:48)。

 第二に、ぼくは実は食料生産に伴う問題を減らすためと称する環境運動家たちの提言の一部に耳を貸すと、どんなひどい事態が起こるかについて示しているのだ。よくきかれるのは、有機農法に移行せよ、というものだ。そうすれば肥料の流出が減るから、と。でも、これはほかのもっと大きな影響をもたらす (SEJ:321-322/SE:197):

 今日、作物の窒素の 40 パーセントが合成肥料からのもので、人間のタンパク質消費の3分の1が合成肥料に依存していると推計されている。さらに、肥料は少ない農地でたくさんの食糧生産を可能にしてくれる。だからこそ、農地面積はたった 12 パーセントしか増えなかった1960 年から 2000 年にかけて、地球人口は倍増できて、しかも食糧事情は改善できた。

 これを 1700 年から 1960 年にかけて農地が 4 倍に増えたのと比べてみよう。これはもちろん広大な森林や草原を開拓したことで実現された。要するに、1960 年以降の肥料供給量のおびただしい増加は、他の自然生育環境に対して人類が極端に圧力をかけずにすむようにしてくれたわけだ。肥料使用が 1960 年の水準にとどまっていたら、最低でも現在より5割増しの農地が要る――これは、全地球の森林のほとんど 4 分の 1 を耕作地にするのに相当する。今後 2070 年まで肥料使用を放棄するとしたら、100 億人をもっとよく食わせるための必要農地は、地球にますます多くを要求することになる――ある研究では、地球表面積の 210 パーセントの農地が必要になるとされる。これは不可能だ。つまり合成肥料は、世界を養う一方で他の生物種のために十分な場所を残しておくのにきわめて重要だったし、今後はもっと重要になる。でも、地球上で使える窒素の量を倍増させたことで、問題も生じた。
[本文はその後、肥料流出の問題について論じている.]

 第三に、ボンガーツはぼくが疑問に答えない(実際には答えている)といって批判するのに、自分自身は答えを出さない。これは続く段落で明らかになる。

 ロンボルグが、飢餓と栄養失調の主原因は貧困だと指摘しているのは正しいけれど、かれは人口増が品行に与える影響を無視している。この影響は二つの別の仕組みを通じて機能する。まず、急速な人口増は若い人口、半数以上が労働人口参加年齢以下であるような人口構造を作る。こうした若者たちは、衣食住と教育を与えられる必要があるけれど、生産力はないので、経済を制約する。第二に、急速な人口増は新しい仕事に対する巨大な需要を作り出す。限られた数の仕事に対して応募者がたくさんいれば、貧困と不平等が悪化する。失業は後半だし、貧困国の労働者の多くは、生存最低水準近い賃金しか得ていない。こうしたマイナスの経済効果は、どちらも出生率を下げることで逆転できる。出生率が下がれば、学校は混雑しなくなるし、労働者に対する扶養人口も減るし、職を求める人の数も減る。こうした有利な人口効果が、いくつかの東アジア諸国の経済的「奇跡」に貢献している。もちろん、こうした劇的な結果は、決して保証されてはいないし、その他の面でしっかりした経済政策を持つ国でのみ生じるものだ。

 ここでボンガーツは、まともな議論に見えるものを提示している――ただし残念ながら参照文献は示していないけれど。でも、かれの議論がまったく条件づきだということに注意。「これらのマイナスの経済効果は、出生率を下げることで逆転可能だ」。はい、そしてそもそもそれができないから困ってたんじゃありませんか? でもこうした出生率をどうやって下げるかというかれの唯一の示唆は、それが「その他の面でしっかりした経済政策を持つ国」で生じる、ということだけ。だからボンガーツの解決策は、人口増大に対抗するには貧困に取り組んでそれを削減すべきだ、という議論のサブセットでしかない(なぜサブセットかというと、経済政策がしっかりしていても、それが富裕層にだけ利益をもたらすなら、大量の貧困者たちは相変わらず高い出生率を維持するだろうからだ)。

 ロンボルグは、現在も続く、発展途上国における村落から都市への大規模な移住について肯定的に書いている。これが歓迎すべき発展だとかれが考えるのは、都市住民は普通は村落民よりも高い生活水準を持っているからだ。しかし移民の流れがいまやあまりに大きくなり、都市の吸収力を上回る傾向が出て、多くの移民たちはスラムのひどい状況で暮らすはめになる。伝統的な都市の優位性は、最貧国では薄れつつあり、スラムの健康状態はしばしば地方部と同じくらいひどい。これは急速な人口増の別の負担を指摘している:政府が新しい人々の追加に対応できないということだ。多くの発展途上国では、教育、保健、インフラへの投資は人口増に追いついていない。

ここでボンガーツは、「伝統的な都市の優位性は、最貧国では薄れつつあり」という裏付けのない主張をまたもやしている。これはどこから出てきた? でも、続く文は論理的にもおかしい。都市の最悪のエリア(スラム)と平均的な農村部を比べているからだ。これについては、あの本でも指摘したけれど、よくあるまちがった比較だ。(SEJ:662/SE:362):

もちろん、掘っ建て小屋地域に出てきたばかりの人々は、平均的な地方部人口に比べるとかえって貧しいかもしれない。でもおそらく、多くの人が田舎を離れたのは、かれらがその地方部の平均より貧しかったからにちがいない。たとえば部分的には不成功だったテストとしては Siwar and Kasim 1997:1,532 を参照。

 ここ数十年で、多くの人にとって生活が改善したというのは事実だけれど、ロンボルグはこの望ましいトレンドが、一部は政府や国際コミュニティの大きな努力によってもたらされたことを認めない。途上国に投資を行い、「緑の革命」技術を広めることで飢餓は減り、公衆衛生キャンペーンが死亡率を引き下げ、家族計画プログラムが出生率を引き下げた。こうした進歩にもかかわらず、8億人もの人々がまだ栄養不足だし、12 億人がどうしようもない貧困の中で暮らしている。このきわめて深刻な状況は、もっと有効な是正行動を要求している。ロンボルグは先進国に、途上国支援に GNP の 0.7 パーセントを寄付するという国連の宣言を守るようにうながしているけれど、この目標を満たした国はほとんどないし、世界で最も豊かなアメリカは一番けちな国の一つで、GNP のたった 0.1 パーセントしか拠出していない。先進国から途上国への ODA は低下基調にあり、増えてはいない。残念ながら、ロンボルグの本に蔓延する、臆面なき「すべては問題ありません」的な態度は、事態に対する緊急性を高めるどころか、手をこまねくようにうながすものでしかない。

 これまた、真実を語ったり神話をうち破ったりする者にご注意、というシュナイダー発言みたいに、お里が知れる発言だ。基本的にはボンガーツは、ぼくの人生に関する記述は正しいと述べているわけだけれど、でもだれが具体的な改善を実行したかはっきり書くべきだった、という。これはじつにばかばかしい――もちろん改善を実際に行ったのは「一部は各国政府と国際コミュニティの大きな努力」だし、たぶん部分的には、個人やコミュニティの大きな努力でもあるだろう。ほかにだれがやったはずがある? これはほとんど同義反復的な下りを文に追加しろと言っているに等しい。「こうした記述された進歩の事例は、一部は政府や国際コミュニティの行動のおかげです」――そしてその記述がないからぼくの分析がまちがっていることになるわけだ。でも、Scientific American が提起した問題は、ぼくのデータが正しいかどうかだ。世界の状態が実際に改善されたのか、それともあらゆる面で衰退を主張する滅亡予言者たちが正しいのかだ。ところがこの第三の批判者は、出てきて単にこう言うだけ:「はい、ロンボルグの言うとおり、だけれどかれは言うまでもない一文を付け加えていません」

 人口は世界の社会、経済、環境問題の主因ではないが、その多くに大きく貢献している。もし人口増加が過去に少なかったら、人類はいまもっと豊かになっていただろう。そして将来の成長を遅くできたら、将来の世代が豊かになるだろう。

 この最後の発言は、論文全体の強力さをほとんど台無しにしている。基本的には、議論すべてをただの条件つき文章にしてしまうからだ。人口差成長を減らせれば、物事はよくなるだろう、でももちろん、人口成長を減らすには事態がよくならないとダメだ――そして今起きているのはまさにそういうことで、だから人口成長はどんどん減り続けているわけだ。

ジョン・ボンガーツ (John Bongaarts) は、ニューヨーク市の人口評議会政策研究部門の副長官である。1998 から 2000 年にかけて、全米研究評議会の全米科学アカデミーにおける人口予測パネルの議長を務めた。王立オランダ科学アカデミーのメンバーでもある。

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Thomas Lovejoy

生物多様性:科学的プロセスを否定

 生物学者たちは、統計や統計学者には健全な敬意を払うように訓練を受けている。したがって、絶滅問題を検討するまえに――そしてそれが問題かどうかを実証するための数字が出てくるまえに――ロンボルグが生物多様性に関する章を、生物多様性が重要かどうか疑問視する節で始めていたのは、いささか穏やかならぬものがあった。一ページ以下で、かれは生物多様性が持つ生命科学の図書館としての価値も、生態系サービス提供者としての価値も低いと見なす(こうしたサービスに対する市場が一般にないから、ということで)。

 ラブジョイは批判の開口一番、ぼくが生物多様性の章を、生物多様性の規模の話をするまえにそれが価値あるものかどうか疑問視することで始めたのが「穏やかならぬ」ことだったと述べる。これが環境保護論者や政策参加者にとって穏やかならぬものだろうとは思うけれど、なぜ懸念の根拠を問い直そうとするのが科学者にとって穏やかならないんだろう。ちなみに、ラブジョイが別にぼくの結論に文句をつけているわけではないことに注意――単にこれを質問するだけで、善男善女すべてにぼくのまちがいは明らかなはずだ、というわけ。

やっと絶滅の話にたどりつくと、かれは種が絶滅したと判断されるプロセスと、絶滅速度の推計や予測をまったくごっちゃにする。公式に絶滅が宣言されるためには、その種が科学に知られているだけでなく、絶滅するところが観察されなくてはならない(アメリカリョコウバトの場合がそうで、1914 年に最後の一羽がシンシナティ動物園で絶滅)。あるいは直接観察がなければ、自然の中で 50 年以上観察されないことが条件になる。

 この文では、ぼくが種の絶滅判定プロセスと、絶滅速度の予測をまるっきりごっちゃにすると主張する。これはへんな主張に思える。だってぼくは、ラブジョイとまったく同じ議論を少なくとも二ヶ所でしているのだもの:

絶滅を記録する際の厳格な条件のため、この数字は間違いなく実際より過小となっている。(SEJ:407/SE:250, 表6のキャプション).

 同じく、絶滅の議論の中でも指摘してある (SEJ:410/SE:252):

けれど過去 400 年間に関しては、絶滅について他にも考慮すべきことがある。まず、絶滅を記述するためには、その種が生息していそうなあらゆる場所を数年間探し続けなきゃいけない。こういう膨大な作業は多くのリソースを必要とするので、記録された絶滅数は最小限に減ってしまう。もう一つは、他の生物より圧倒的にほ乳類と鳥類に関心が集中していることだ。

 一方、絶滅速度/絶滅率の予測は、一般には種の数と面積との長期的に確立された相関に基づいている(この相関は 1921 年からあるもので、ロンボルグの主張するように 1960 年代のものではなく、面積が増えると種の数が増える率を示している)。研究者たちは、自然居住地の減少がどのくらいの種の消失に相当するかを推計する。種の消失は必ずしもすぐには起きないし、だから一部の種は最初の居住地消失を生き延びるけれど、基本的には「ゾンビ状態」となる――長期的には生き延びられなくなるのだ。残存居住地による種の消失は、後半に観察された現象だ――ロンボルグが言及している、根底にある科学的な想定を確定しようというまともな努力はまったくないという古くさい発言とは正反対だ。

 結果として、ロンボルグがその後で示す一見して大きな矛盾は、実はまるで矛盾ではない。ブラジル大西洋森林は、もとの面積の 10 パーセント程度にまで減ったが、記録上では大きな絶滅は起きていないということだ。まず、これは種やその絶滅を記録しようとするフィールド生物学者がほとんどいない地域だった。さらに、大西洋森林が現在のように小さくなって断片化したままでいれば、現在ではなんとか生き延びている生物種のかなりの部分を失うだろうという証拠はたっぷりある。

 はい、ブラジル大西洋雨林は、90 パーセントが切り倒されました――これは種と面積の相関式から見て、全生物種の半分くらいが消失すると期待される計算だ。でも、ブラジル動物学協会は 300 種近い動物のグループを分析して、死に絶えた種を一つとして見つけられなかった。同じように、植物の一覧を検討しても、絶滅は見あたらなかった(かれらの報告の引用は SE:255にある)。もちろんラブジョイが指摘するように、こうした消失を記録するだけの生物学者は、アメリカやヨーロッパに比べれば少ないだろう。でも、150 種の絶滅が予想されるところで、見つかったのがゼロ、ですよ!? だからこそ IUCN (世界動植物保全連盟、すべての生物種への脅威や絶滅を仕切る組織)は、この証拠を種と面積の相関式の面で、かなり困惑するものだと考えたわけだ。

 種が基本的に「ゾンビ状態」――なんとか生き延びているけれどいずれ死ぬ――だと言うにいたっては、ほとんど失笑ものだ。ラブジョイがここで述べていないのは、ブラジルの大西洋雨林の伐採は 1800 年代に起こったもので、だからその「なんとか生き延びている」種が死に絶えるにはいままで 100 年以上もあった、ということだ。なのに死んでいない。だからこそ、このフィールド調査は実に強力なものなのだ。そして、これは Scientific American によるものよりもっといい扱いを受けていい話だ。

 もしこの例が IUCN にとって強力で驚くべきものなら、ラブジョイが「ロンボルグがその後で示す一見して大きな矛盾は、実はまるで矛盾ではない」としか言わないのは、不合理なことだ。これは IUCN にとっても矛盾なんだから:

「ブラジルの沿海森林は、世界中のどの熱帯林種に比べても負けないくらい、面積的には減らされてしまった。計算によれば、これは相当な生物種の喪失につながったはずだ。しかしその古く、ほとんどは固有の植物種のうち、絶滅したと見られるものは一つも知られていない」(Holden 1992:xvii).

 また生物種が生息地消失を生き延びた別の例と称するものとして、かれはアメリカの東部森林がもとの面積の1--2パーセントにまで縮小したときに、絶滅した種はほとんどなかったということを挙げている。でも、それほど縮んだのは、古い育成の森林だけだ。総森林面積は、およそ50パーセント以下には下がったことはなかった――だから森林がもっと広い面積に広がるにつれて、かなりの生物多様性は残った。結果として、鳥の絶滅が少なくても、種と面積の相関が予測するものに矛盾はせず、むしろそれを裏付けるものとなっているのだ。

 ここでも、これは ICUN の議論から持ってきた例だ(そして森林消失の数字も IUCN からのものだ)――もし ICUN がこれを問題と見なすなら、こんないい加減な根拠でそれを無視するのは、ちょっと傲慢じゃないかな。

 プエルトリコの分析を提示するにあたり、ロンボルグはまたも一見矛盾している証拠を挙げる。原生林の 99 パーセントは失われたのに、島の鳥は森林消失以前より多くの鳥を擁することになった、というものだ。まず、総森林面積は決してそこまで劇的には減らなかった。もっと重要な点として、かれはプエルトリコの固有種 60 種のうち、7 つが失われたということを無視している。そして追加された種は、世界の他の地域からきた侵入種で、ずっと広い生息地に暮らす鳥だ、ということも。世界の鳥種類が7種減ったというポイントを、かれは完全に見落としている。

 これは批判の質を見る実によい例だ。ここでラブジョイは、ロンボルグが「プエルトリコの固有種 60 種のうち、7 つが失われたということを無視」していると述べる。

 引用は以下の通りだ (SEJ:414/SE:254, 強調追加):

 熱帯雨林と種の絶滅の相関について、熱帯地区で最大の調査は、アメリカ農林水産省のアリエル・ルゴがプエルトリコで行ったものだ。この調査で、400 年にわたり原生林の 99 パーセントが減少したことがわかった。全滅したのは 60 種の鳥のうち「たった」7 種で、しかもこの島には今日 97 種の鳥が住んでいる。これはウィルソンの経験則が深刻な問題を持っていることを示す。そしておそらくもっと驚くべきこととして、プエルトリコの原生林地域は 99 パーセント減少したが、鳥の種はかえって増えている
[Endnote 2048: もちろん、ニッチの数を変えたら、もっと鳥の数は増えるから、これは別に驚くべきことじゃない。最も大きな発見は、絶滅した鳥がたった7種しかいなかった、ということだ。]

 ラブジョイは、ぼくが鳥 7 種が絶滅したという事実を無視して完全に見過ごしていると主張する。でも、本文でもそれに伴う脚注でも、ちゃんとそのことは書いているのだ。

 ロンボルグは、特にノーマン・マイヤーズが 1979 年に、地球から毎年 4 万種が失われているという推計から始まった大量絶滅の予測を特に糾弾する。この反論には、確かに正当性がある。マイヤーズは、その推計を得た手法を述べなかった。それでも、その数字が大きいことを真っ先に指摘したこと、そしてもっと正確な計算が不可能だった時期にそれをやったことについては、賞賛されるべきだ。現在の推計は、通常の絶滅率と比較した増加率で述べられる。地上の全生物種の数を求める必要がないから、この方法のほうが好まれるのだ。科学が生物種の総数を知らないということは、絶滅率の推計ができないことにはならない。ロンボルグはシニカルに、通常絶滅率の倍数を使うのを否定し、それは科学の改良として別のアプローチがとられたのではなく、単に「おっかなそうに」聞こえるからだ、と述べる。

 ここでラブジョイは基本的に、マイヤーズが年 4 万種という当てずっぽうを主張するにあたり、科学的根拠がなかったと述べているけれど、でもそれを言ったことはよかったのだ、と主張する。ぼくの理解しているよい科学というのは、そういうもんじゃない。

  さらに、ラブジョイは、かれ自身が 1980 年刊行の Global 2000 で、2000 年には全生物種の 15-20% が死滅する、と書いたことに何も言及しなくていいと思っているようだが、これも不誠実だろう。(Lovejoy 1980:331)

 生物種総数の絶対数がわからないから、規模とは関係ない数値を使う必要がある、という点ではラブジョイに同意する。でも一般の議論においては、自然絶滅率の倍数を使うのには反対で、総生物種数の比率を使うべきだと思う。主な理由としては、生物学者以外のほとんどの人々は、「自然絶滅率」がどんなものかまったく見当がつかず、だから自然絶滅率の 1,500 倍と言われても、被害の全体像を評価しようがないからだ。「今後 50 年で全生物の 0.7 パーセントが死滅する」という言い方なら、多少の見当はつく。だからぼくは、そうした倍数による議論を「シニカルに」否定したわけじゃなくて、比率で見た方がわかりやすい、と述べているのだ。

 現在の絶滅率は、通常の 100 から 1,000 倍の範囲と推計されており、ほとんどの推計は 1,000 倍と述べている。絶滅の危機にさらされている鳥の比率 (12)、ほ乳類の比率 (18)、魚の比率 (5)、花卉植物の比率 (8)は、この推計と一致している。そしてこの比率は、その自然生息地が縮小するにつれて確実に上がる――しかも等比級数的に。

 ラブジョイの生物多様性の議論はこれでおしまいだ。ここでは二つのことに留意するのが重要だ。まず、ラブジョイは今後 50 年で生物種の 0.7% が失われるというぼくの中心的な議論に反対していない。これは国連の 50 年で 0.1-1% という推計とも一致している。これは生物多様性の章の中心論点だったので、これについて文句がまったくないのは大変にうれしい。でも、その点について Scientific American 記事で明記しておくべきだとは言えるかもしれない。

  第二に、ラブジョイは今後自然生息地がどんどん減るので、事態はもっと悪くなると述べて終わる。これはもちろん、森林(特に熱帯林)が伐採され続けると思うかどうか次第だし、手持ちの唯一の長期推計は、2100 年までの IPCC シナリオからきている。ここで期待されているのは、発展途上国の住民たち(ほとんどの熱帯林のある場所だ)は 2100 年にはいまのぼくたちと同じくらい豊かになっているというものだ (IPCC 2000b, SEJ:458-456/SE:281)。これはもちろん、かれらだって自然をいまよりずっと重視するようになる見込みがとても高いし(いまのぼくたちと同じくらいには)、生産性の低い農業をするために熱帯林を伐採しにでかけたりはしにくいだろうし(豊かなら、もっといい仕事がある)、森林を維持どころか再生するくらい豊かになるということだ。だからこそ、IPCC シナリオは一つを除いてすべて、2100 年の森林はいまよりもっと増えていると予想しているわけだ (IPCC 2000b, SEJ:460/SE:283)。するとこれは、ラブジョイの「長期的にはどんどん悪くなります」という期待が無根拠であることを示すもののようだ。

 酸性雨に関する検討は別の章で行われているが、これも調査もプレゼンテーションも貧相なものだ。調査があまりに浅いため、査読つき文献からの引用がほとんど出てこないほどだ。ロンボルグは、大都市の大気汚染は酸性雨と何の関係もないと主張するけれど、実は主要な原因は車からの窒素化合物 (NOx) だ。酸性雨が3種の木に何の影響も与えないことを示すという調査への言及は、その調査がred spruceのような針葉樹を含めていないことに触れていない。これらの木は非常に敏感だ。酸性雨が土壌の栄養素、特に重要な陽イオンを減らすことへの言及もない。30から60年前の大気汚染からくる樹木への被害を、その後の酸性雨被害とごっちゃにして、葉の消失についてわれわれが心配する唯一の理由は「そういう消失をモニターするようになったからだ」というおとぎ話じみた主張をする。「酸性降下物が主要原因だとされる森林消失の例はない」というのはひたすらまちがっている。二つの明確な例は、アディロンダックスのred spruceとペンシルバニアのサトウカエデだ。

 ラブジョイは、大都市の公害が酸性雨と何の関係もないと述べたと言ってぼくを非難する。でもかれの証拠は、その反対が正しいということだ(酸性雨は大都市公害と関係ある、というのもNOxの20%ほどは大都市の車からくるから)。さらに、ぼくの発言は明らかに、酸性雨が汚染物質となって人を殺すといった極端な心配に向けられたものだ:「世界の各地の都市で、人々は酸性雨のために窒息――または死亡――している」というような。これは明らかにまちがっている。

  ラブジョイは、ぼくが昔からの大気汚染による樹木の被害と、酸性雨による被害をごっちゃにしていると主張するけれど、これは不当に思える。ぼくがやっているのは、葉の消失が30-60年前も今も同じくらいだと指摘している研究を指摘することだけだからだ。だからこそ、おとぎ話的主張なるものが、そんなにとんでもなくはないかもしれないわけで、さらにこれを述べたのはぼくではなく、非常に有能なノルウェーの酸性雨研究者たちだ。さらにラブジョイは、かわる参考文献やデータも示さず、単にそれをおとぎ話と呼んで議論にケチをつけているだけだというのにも注目。

  最後に「「酸性降下物が主要原因だとされる森林消失の例はない」というのはひたすらまちがっている」と言うにあたり、ラブジョイはこの引用がぼくによるものではなく、NAPAP、公式のアメリカ酸性雨プロジェクト(全米酸性降下物評価プログラム)の結論だというのを隠している。これは世界の最大、最長、最高価な酸性雨調査だ。ほぼ10年にわたり、科学者700人が参加し、5億ドルかかっている。その結論を否定するんなら、ラブジョイとしても「ひたすらまちがっている」より多少は詳しく説明する必要があるんじゃないかな。

 森林の章もまた、タメにする調査と数字の選択的な利用が見られる。ロンボルグは1948年から2000年の食料農業機関 (FAO) データを示すところからはじめる。FAOは、各国政府が用意した「公式データ」の合計を報告するところから始めた(こうしたデータは品質がばらばらで、森林ストックを過大評価する事が多いことで悪名高い)。結果として、FAOはあまりにちがった定義や手法を採用したから、統計学者であればだれでも、それが有効な時系列データとしては使えないことがわかるはずだ。

 ラブジョイは、ぼくが数字を選択的に使うと書くけれど、でもこれが長期的な時系列データとしては唯一のものだ、ということを述べないし、ぼくがこの時系列データは不確実だと指摘していることも述べない (SEJ:190/SE:111): 「データは不十分だが、手に入るものの中では圧倒的に優れている」、と述べている。さらに、まさにこの時系列データは世界の森林の状態を論じる専門家たちにも使われるのがふつうだ。たとえばケンブリッジ大学出版の Changes in Land Use and Land Cover のMichael Williams による森林の章など。

 ロンボルグの、1997年のインドネシア大火に関する議論もまた、選択的な情報で読者に誤解を与える例となっている。確かに WWF (世界自然保護基金)は燃えた森林面積を200万ヘクタールと見積もり、インドネシアはそれに対して 165,000 から 219,000 ヘクタールという公式推計を返した。でもロンボルグは、後者の数字がほとんど信頼がおけず、1999年にインドネシア政府と世界銀行を含むドナー機関は、その実際の数字が460万ヘクタールだったとする公式報告書にサインしているということを述べない。

 本からその下りを拾ってみようか (SEJ:197-8/SE:116):

 最後に、いやほど聞かされた 1997 年のインドネシア森林火災について。この火災は、何ヶ月もの間、タイからフィリピンにわたる東南アジア全域に厚いスモッグを広げた。この火災は深刻な健康問題を引き起こし、総額で GDP の約 2 パーセントにも及ぶ大きな経済的打撃をもたらした。でもこの火災は同時に、森林破壊への注目を集める手段としても利用された。WWF は 1997 年を「世界に火がついた年」と表し、主席クロード・マーチンは「これはただの非常事態ではない、全地球的な大災厄だ」と断言した。そしてまとめで WWF は「1997 年の火災は歴史上かつてない規模の森林を焼き尽くした」と主張した。

 だがこれは事実に反している。WWF は報告の中で、インドネシアの火災は 200 万ヘクタールに及んだと推定しているが、この数字は報告内で参照されている文献のどの見積もりよりも大きい。この 200 万ヘクタールという数字は絶えず出てくるけれど、これが森林と「非森林」地帯の双方を合わせた数字だということはかなり後まではっきりしない。インドネシアの公式見解は約 165,000--219,000 ヘクタールだ。後の人工衛星を利用した測定だと、130 万ヘクタールを上回る森林地が被害にあったらしい。フリーの火災専門調査官ヨハン・ゴルダマーは「1997 年がインドネシアや世界全体にとってまれに見る火災の年だったと示すものは何ひとつない」と述べている。

 ここでもまた、問題はこれが「世界に火がついた年」だったかどうかだ。さらに、燃えた森林200万ヘクタールというのは、かれら自身の報告でも、森林と「非森林」の両方を含む面積だった。ぼくは明らかにインドネシアの推計を認めておらず、さらに人工衛星の写真が130万ヘクタールくらいを示していると述べているけれど、これはラブジョイが書いていない数字だ。ラブジョイが証拠として、査読を受けない報告書(しかも参照文献がきちんと示されない)を使うというのには驚いた。これは明らかに、インドネシアが1998年にアジア通貨危機の後で、援助機関と発表した報告書だ――ひもつきの報告書の数字くらいで、経済的に弱い立場のインドネシアが援助と融資のパッケージを断るようなことをしたとはとうてい思えない。

 そもそもの発端――序章――において、ロンボルグは森林と植林を混乱している。WWFによる「自然の富」喪失推計の批判で、かれは森林の唯一の価値が、伐採できる樹木だけだとにおわせる。これはコンピュータのチップを、そのシリコン含有量だけで価値評価するに等しい。実はWWFが使った計測値は、天然林(その生物多様性のため)を含み、植林は抜いてある(生物多様性欠如のため)。

 ぼくの参考文献のいい加減さを批判するつもりで、ラブジョイが森林と植林を混同しているとぼくを批判するのは、ずいぶん不思議だ。実はぼくはその問題を扱っている (SEJ:197/SE:115-6):

同様に、森林面積が安定しているのは、天然林をつぶしてその分植林地を増やしているだけのことだと主張する人々も多い。古くからの天然林には動植物種が豊富だが、植林地には遺伝的に同じ樹木が立ち並び、それ以外にはごくわずかな動植物種が生存しているだけだというのだ。もちろんこれは、一般的な生物多様性に関する議論の副産物だ。でも、そもそも植林が全体的な生物多様性を損なうかどうかははっきりしない。確かに植林地には動植物種が少ない。でも植林は木材を大量に生産することが目的だからこそ、植林地が増えれば天然林への経済的圧迫を減らすことになる。結果的に、天然林の破壊は減り、残った天然林が多様な種を養ったり、人間にとってよい憩いの場になったりできるのだ。アルゼンチン産の木材の 60 パーセントは植林地で生産されているけれど、これはアルゼンチンの森林地帯のわずか 2.2 パーセント。つまり植林地がその他 97.8 パーセントの森林を救っていることになる。もう1つ気になるのは、植林地は一般的に広大だと言われていること。WWF は、植林地は「現在の森林面積の相当部分を占めている」なんて言ってる。もちろん「相当部分」という言葉はあいまいだけれど、FAO によると植林地が占めるのは世界の森林地帯のわずか 3 パーセントだ。

  さらにまた、ラブジョイが本気で支持したいのか疑問に思うような概念もある。具体的には、生態系の価値が下がっている、という話だ。これはかれのかつての所属組織である WWF が、あまりにまちがいが明白なために2年も前に捨てたものなのに。この点について本の記述を見よう (SEJ:39/SE:17):

  最後に WWF は、この森林推計値とその他の指標を使って、「生きている地球指標」なるものを作る。これによると過去 25 年に 30 パーセントの自然の豊かさが失われたことが示されるのだそうだ――「つまり世界は、たった一世代のうちに自然の豊かさを 30 パーセント失ったということです」。この指標は三つの数字を使っている。自然林の面積(だから植林した人工林は含まれない)、そして選ばれた淡水・海水生命体の個体数変化指標だ。この指標はかなり問題がある。まず、植林による人工林を除外するなら、もちろん森林面積指標はまちがいなく下がり続ける(植林は増えているので)。でも、植林による人工林が自然にとって悪いかどうかはわからない。人工林は林業資源の相当部分を作り出し、他の森林への圧力を減らす――アルゼンチンでは、材木の 60 パーセントは植樹人工林で作られているけれど、その人工林は総森林面積の 2.2 パーセントで、これがあるおかげでほかの 97.8 パーセントは無事でいられる。ちなみに WWF は「植樹人工林がいまの森林面積の相当部分を占める」と述べるけれど、実は世界の総森林面積の 3 パーセントにしかなっていないのだ。

 二番目に、海洋生物 102 種と淡水種 70 種を選んだというけれど、もちろんこれが無数の他の生物をよく代表しているという保証はない。実は、研究はすでに問題の存在が指摘されている生物種を対象にすることが多く(これについては次の章で見るけれど、要するにそういう生物種のために対応策を取るのに情報が必要だからそうなる)、だからこうした推計は、減少側に大きく偏ることが予想される。

 第三に、世界の状態を評価するにあたり、もっと多くのもっといい指標を見なきゃいけないということ。これがいちばんはっきりするのは、WWF が生態系の総価値が年 33 兆ドルだと主張する新研究を引用していることだ(この困った調査は、生態系が地球の年間総生産額 31 兆ドルを上回る価値を持っていると推計している。この調査については第 V 部でとりあげる)。WWF によれば、「生きている地球指標」が 30 パーセント下がったということは、生態系から毎年得られる利益も 30 パーセント減ったということだそうだ――つまり毎年 11 兆ドルの損害が出ている、と。こんな主張はナンセンスもいいところだ。森林の産出は 1970 年以来、減るどころか 40 パーセントほど増加している。そして海洋や沿岸部の価値の相当部分は、栄養物のリサイクル機能にあるのに、「生きている地球指標」はこれをまるっきり見ていない。さらに海洋食料生産は、1970 年以来 60 パーセント近く増えている(図 57 参照)。だからかれら自身の指標を考えても、生態系サービスは低下しているどころか増加していることがわかるのだ。

  森林消失などのせいで、世界が毎年 11 兆ドルを失っているという、記述も不十分ですでに放棄されたWWF のアイデアをラブジョイが受け入れたいなら、それはそれで結構。でもこれは明らかに森林産物からくるものではないから、年にたった 0.014% の絶滅水準で、どうして生物多様性の損失がこんな数字になるのかをここで示してくれるのが筋だろう。

 この本の中心的な質問「事態はよくなっているのか?」は重要なものだ。現実には、酸性雨の削減にはかなりの進歩が見られたものの、まだまだやることは残されている。そして森林消失を減らし、絶滅のツナミに取り組むために大きな努力が払われている。でも、森林消失と酸性雨は理論的には元に戻すことができるが(もっともどこか修復不可能な閾値があるかもしれない)、絶滅は元には戻せない。これまでわれわれがどこまできて、まだどれだけやることが残っているかを示す、冷静な分析は、大きな貢献となっただろう。ロンボルグはそれを提供するふりをしようとするが、実際に見られるのはワンパターンの否定ばかり。

 ワンパターンの否定ばかりだ、というのをラブジョイの文の残りでずばり証明してくれるべきだろう。この点について、かれはあまり成功していない。

 このパターンは選択的な引用にも明らかだ。絶滅速度を確定するのが不可能だと示そうとして、かれは述べる;「『サイエンティフック・アメリカン』でコリンヴォーは、絶滅率は「計算不可能」だと認めている。」と。ところが 1989 年 5 月刊の Paul A. Colinvaux の原文はこうだ: 「人類が大量の植生面積をつぶすにつれて、計算不可能でかつてない数の生物種が急速に絶滅しつつある」。なぜコリンヴォーが、その数字が大きいと考えていたことは示さないのだろう。ゆがんだ言葉、たとえばここでは「認めている」といったものが、本書には蔓延している。

 じゃあとにかくもとの文を見てもらおうか (SEJ:414/SE:254):

 生物多様性の問題は、モデルと現実の古典的な戦いとそっくりだ。生物学者たちは、数字となると問題があることは知っている。マイヤーズは「熱帯林の実際の絶滅率どころか、おおよその推測すらわかりようがない」と述べている。『サイエンティフック・アメリカン』でコリンヴォーは、絶滅率は「計算不可能」だと認めている。それでも E・O・ウィルソンは自分の権威をひけらかすことで、臭いものにふたをしようとする。「わたしを信じなさい、種は絶滅する。人類は年間 10 万種を優に絶滅させている」。かれの数字は「まったく否定しがたいものだ」し、「まさに何百という伝聞報告」に基づいているのだそうな。

 ここでぼくが、大量絶滅の数字は証拠による裏付けもないし、経験的に認められたものでもない、という事実をはっきりさせようとしているのは明らかだ。もちろんラブジョイとしては、コリンヴォーが実はその数字が大きいと思っていることも引用して欲しいだろうけれど、それはかれの都合だし、不可欠なわけでもない。もしだれかが「ニクソンは 1974 年に辞職したが、それはアメリカにとって大きな損害だ」と言ったとしよう。ラブジョイの要件によれば、ぼくは科学的な発言のほうを引用するときにその発言者の個人的な見解まで引用しなくてはならないそうだけれど、それでいくなら、ぼくはニクソン辞職がアメリカにとって大損害だったというのを引用しないと、ニクソンが 1974年 に辞職したという事実にも言及できないことになる。

 バイアスによるまちがいに加えて、テキストはそそっかしいまちがいだらけだ。何度も私は参照文献を、脚注から参考文献一覧へとたどろうとして、砂漠の中の蜃気楼にぶちあたっただけだった。

 具体的に指摘してもらわないと、こんな批判には答えようがない――それにもちろん、ラブジョイはぼくに直接問い合わせてくれてもよかったのだ(Scientific American は、ホルドレンが水の分解/電気分解のまちがいを指摘したときにはちゃんと問い合わせてきたぞ)。

 もっとひどいことに、ロンボルグは環境科学の進み方をまるでご存じないようだ。研究者たちが潜在的な問題を同定し、科学的な見当が各種の仮説をテストし、問題の理解が複雑となり、研究者たちが改善政策を提案する――そうすることで状況が改善するのだ。最初のステップをハイライトして、その後いきなり結果に飛んでしまうことによって、かれは環境保護論者たちは誇張するだけだ、と不正確ににおわせている。言いたいのは、物事が改善するのは特定の問題を指摘し、それを調べ、改善策を提案するという環境保護論者たちの努力のおかげだ、ということだ。残念ながら、著者は生物学者が統計学者に対して抱く敬意を返してくれないようだ。

 もちろんぼくはこのプロセスを検討していますとも。そしてさらに、ラブジョイの単純なプロセスが正しいのは、一部の時だけで、それも完全にじゃない。たとえば大気汚染の問題を見てやろう。ロンドンの大気汚染は 1800 年代後期からずっときれいになってきている。ここでは、一番重要な汚染物質である粒子状物質汚染に関する記述をもってこよう (SEJ:277-8/SE:169-70):

 なぜ微粒子がこんなに減ったかといえば、一つには微粒子汚染の相当部分を引き起こしている SO2 排出量がものすごく減ったからだ――EU では 1980 年以来およそ 50 パーセント、アメリカでは 1970 年以来約 37 パーセント。これは化石燃料消費の減少のおかげだ。特に高硫黄石炭の使用を減らしたのと、発電所で煙突に脱硫装置を導入し、エネルギー効率を上げたのが大きい。

 硫黄分の排出を制限しようという政策判断は、酸性雨問題に密接に結びついている。酸性雨問題は、1980 年代にはみんなの大きな懸念事項だった。やがて酸性雨の恐怖は、後に検討するけれど、ひどく誇張されたものだということがわかった。でも、 SO2 を減らす努力は、結果的には微粒子汚染の削減に役にたったから、理にかなっていたというわけ。

  でも、都市部での減少には他にいくつか原因がある。歴史的に都市部に発電所を作らなくなってきたことと、もっと高い煙突を使うようになったことが、公害緩和の大きな原因 2 つだ。同時に、ぼくたちはもうコークス炉を使わないし、石油によるセントラルヒーティングへの依存度も下がって、代わりに天然ガスや地域暖房に変えた。最後に自動車からの汚染は、触媒コンバータのおかげもあるけれど、ディーゼル車が低硫黄のディーゼル燃料を使うようになったので、以前よりはるかに減少している。とはいえガソリン車に比べるとディーゼル車は粒子状物質の点でずっと汚染度が高い――イギリスでディーゼル車は車両台数の 6 パーセントしか占めないのに、全自動車の排気ガスの 92 パーセントを引き起こしている。つまりディーゼル車が極端に増えると、微粒子排出の減り方が遅くなる。

  専門家の資料には、大気汚染の減少にとって法規制がどのくらい不可欠だったか、少なくともどのくらい重要だったか、という議論がいろいろ書かれている。多くの研究が――驚くべきことかもしれないけれど――特筆すべき影響をまったく記述できていない。イギリスの 1956 年の大気浄化法 (Clean Air Act) の分析によると、汚染が減っているのは事実ではあるけれど、1956 年以前と以後の減少速度には、はっきりわかるような差がないということだ。あるいは公害規制のある都市とない都市でも、明らかな差はない。「1956 年の大気浄化法がなくても、どのみち空気の質はかなり改善されていた見込みが高い」。なぜ空気がきれいになったかというと、産業や家庭で使う製品や技術が改善されたおかげが相当部分だ。

  アメリカの 3 都市の研究では、公害規制の義務づけは効果があったけれど、規制コントロールの効果は「おおむね経済変化、天候などの要素の影響によってかき消されてしまう程度のものだ」ということが明らかになっている。一般的に、規制が公害削減の理由の一つだというのは正しい主張だろうけれど、ほかの技術的な要因も大きな役割を果たすのだ。

  まとめると、人類へのコストで見れば、大気汚染物質として一番深刻なのは微粒子汚染だということは強調しておくべきだ。ということは(EPA 規制から生じる社会便益の 96 パーセントは大気汚染削減からくるので)、微粒子は圧倒的に、あらゆるものの中で最も深刻な汚染物質だ、ということになる。そしてこの点での結論は何の疑いもなくはっきりしている。ぼくたちの一番大きな公害問題はすさまじく改善されているのだ。

 というわけで、大気の質が改善したのは規制のおかげだ、というのは部分的にしか正しくない。そしてこれがまさにぼくがあの本で述べた論点だ。でも、規制があったにしても、ラブジョイがにおわせているように、すべての改善を環境保護論者たちのおかげだとするのはまちがっている。これはまさに本当の公害問題について、現実的な解決策に一生懸命取り組んだ科学者たちや政治家たちすべてを無視するからだ。最後に、そして最終的にずっと重要な点は、物事は確かに改善しているんだという事実であり、だから一般の議論に蔓延している災厄と陰々滅々のメッセージには反論する必要がある、ということだ。ラブジョイが全般的にこれに同意してくれたのはうれしいけれど、でももちろんそれは Scientific American による批判の基本的な勢いをさらに削ぐものとはなっている。

トマス・ラブジョイ (Thomas Lovejoy) は世界銀行総裁への主任生物多様性アドバイザーであり、国連基金議長へのシニアアドバイザーでもある。 1973 年から 1987 年にかけて、かれは世界野生保護基金アメリカの会長をつとめ、1987 年から 1998 年にかけて、ワシントン DC のスミソニアン博物館環境と渉外補佐官を勤めた。

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