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山形浩生の『ケイザイ2.0』

第23回 地域通貨って、そんなにいいの?
──その成否は時と場合によるのかも


 ここしばらく、このHotWired Japanでも地域通貨がずいぶんと熱い話題のようだし、博報堂の「広告」なんていう雑誌でも地域通貨が話題だし、柄谷行人が始めた(けれど最近あまり噂をきかない)宗教団体も地域通貨がどうしたこうした、という話がコアの一つになっている。地域通貨は従来の資本主義の矛盾――豊かな人がますます豊かになり、貧乏な人は貧乏なまま――を解決するものであり、人と人のつながりを回復し新たな流通の回路を生み出すものだ――そんなお題目を結構あちこちで見かける。

 さて、ぼくはこれまで特に地域通貨に漠然としか興味を持っていなかったんだが、先日お金というものについてちょっと話をする機会があって、その中で軽く調べてみた。同時に、これまたいつもながらポール・クルーグマンのちょっとした文を訳すうちに、地域通貨との関わりがちょっと見えてきた。まだ十分に調べられたという気はしないし、また個別のネタではいろいろちがいもあるんだろう。でも概論レベルでも、ぼくは地域通貨というのが一時言われていたほどすごいものかどうか、かなり疑問だという気がしているので、それを今回は書いておこう。


●1. 金利ってそんなに悪いモノか? 「パン屋のお金」の大きな誤解

 まず、簡単なところから始めよう。地域通貨の多く(全部、かもしれない)では、金利がつかない。これにあたって各種の地域通貨では、ミヒャエル・エンデの発言が大きな情緒的基礎となっている。「パン屋のお金とばくちのお金」か。お金を預けておいてそれが複利計算で等比級数的に増えるのは、ばくちみたいでよろしくない。それが正直に働いても財産が等差級数的にしか増えないパン屋さんより大きな儲けを作り出すというのは、ずるいじゃないか。というわけ。

 いまぼくは、「情緒的基礎」といった。理論的でも思想的でもない。情緒的だ。これは必ずしも悪い意味ではないけれど、でも決していい意味で言っているわけではない。というのも、パン屋さんの生産が等差級数的にしか増えないというのは、ホントのようで実はウソだからだ。パン屋さんは、作業のやりかたを工夫したりして、どんどん生産量を増やせる。こうすれば手間を省けるとか、こうすれば安くパンを提供できるとか。パン屋さんだって、やろうと思えば等比級数的に生産を増やせるし、実際に増やしてきた。エンデの物言いは、それを見ようとしていない。

 にもかかわらず、多くの人はエンデの言うことになんとなく納得する。近くの商店を見ていると、そんなに工夫をしているようには見えなくて、10年一日何も変わらないように見える、からだ。でもぼくが言っているのは、一挙に生産高倍増とか、そんな話じゃない。年にたとえば5%増とか、そんな話だ。事務の仕事ですら、そのくらいは実現する。ちょっと領収書をそろえて置こうとか、ちょっと書類を一本化しようとかね。

 さらにその、利息というのがどっからでてきているのか。一部の銀行屋だの経済ヒョーロンカまで「資本主義は必然的にインフレを引き起こしバブルを作り出すことで発展してきた」とかいうことをしたり顔で言う。でも、そんなことを言うやつは、世の中の経済がただのマネーゲームだと思ってるバカだ。実は、パン屋のお金とばくちのお金は、切り離されてはいないのね。実際の経済の生産力はどんどん増えている。等比級数的に。人はいろんな工夫をしてものを発明する。そしてそれによって、生産力を高める。金利はそれを実現するための手助けを、お金を通じて行った見返りでもある。パン屋のお金があればこそ、ばくち(金利)のお金もある。それを否定して、パン屋のお金だけを取り出せると思っているエンデ――いや、エンデは死んだから「思っていた」というべきか――は、そもそもかんちがいをしているし、その追随者はたぶんこれをあまりきちんと考えていない。

 要するに、地域通貨のシステムの多くは、技術革新とか工夫とか、そういうものにきちんと代償を支払ってくれない。進歩のない社会のシステムだ、ということだ。もちろん、エンデはそれでいいんだろう。エンデは、進歩のない社会がいいと思ってるんだから。ただ、その進歩のおかげでエンデみたいな小説家が苦労せずにそれだけで生きていける社会が成立したんだ、ということは忘れないでおく必要がある。

 さらにもう一つ指摘しておくべきなのは、これが昔ながらのある(差別的)発想の現代版でもある、ということ。昔から利息というものに対する風当たりはすごく強かった。ユダヤ教では、ユダヤ教徒同士が利息をつけてお金をやりとりしてはいけないことになっている(異教徒相手ならオッケー)。イスラームではいまでもダメだ。さらにシェイクスピアを見てもディケンズを見ても、金貸しに対する蔑視はとても強い。エンデの議論は、その昔ながらの蔑視にいま風の意匠をくっつけたもの、とも言えるんだ。


●2. 歴史の中の「地域通貨」

 次に、お金の歴史の中での地域通貨、というものについて。  各国で、お金を発行できるのが中央銀行だけというのは、いまはほとんどの国では常識となっている。そうでない国、というか地域でメジャーなところはただ一つ。香港だ。香港に旅行をした人は知っているだろう。香港でのお金は、香港上海銀行とStandard Chartered Bankと中国銀行がそれぞれお金を刷っている。もちろん、どのくらい刷るかは相談して決めるのだけれど。

 でも昔は、各地のいろんな機関がお金を刷るのはあたりまえだった。「赤毛のアン」シリーズに、「アンの夢の家」というのがあって、その中にジム船長というのが出てくる。かれは家の壁に、いろんなお札を額に入れて飾ってある。そのそれぞれは、いろんな銀行が発行していたのに、その銀行がつぶれて無価値になってしまった紙幣だ。かれはそれを「銀行を信用するな」という標語がわりに飾ってるんだけれど、それはいい。ここからも、当時は各地でいろんな紙幣が発行されていたのがよくわかる。それを、中央銀行がいろんな形で押さえ込んで、政府発行のものだけがlegal tender(法定通貨)と定めて、自前のお金を発行した人を厳罰に処すことで、いまの一国一通貨の体制ができあがった。地域独自の通貨はかつて存在していた。もちろんそれは金利もついただろう。ただ、地域ごとに小回りのきく流通通貨があるということは、それ自体ではいいこととはいえないのだ、ということは理解しておく必要がある。


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