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Gift

HB 2002.1 表紙
Harper's Bazaar 日本版 16 号(2002 年 1 月)

山形浩生



 記念日だからとか教祖の誕生日だとかおみやげだとか、なにか理由があるから人にモノを贈るというのが、ぼくはあまり好きじゃない。自分がそういう節目に、お義理以上のものをもらったことがあまりないためのやっかみもあるんだろう。人にモノをあげること自体が嫌いなわけじゃない。義務的な感じがいやだな、と思うのだ。そういうときの相場のさぐりあいみたいなのとか、もらって当然みたいな感じとか、欲しいものをさりげなく(あるいはおおっぴらに)相手から告げられるときの駆け引き感とか、ぼくはとても卑しい感じがして、そういう儀式には加わりたくないな、と思ってしまう。なにか贈るんなら、そんなお約束じゃなくて、相手が予想もしていない時に、予想もしていないものをあげて、びっくりしてほしいなと思う。

 そう話したらあなたは、そこがおまえの身勝手なところだ、相手を喜ばせるのが贈り物の役割なんだから、希望を把握して、それを期待通りのタイミングであげることこそは、贈り物の本道であり、ところでブルガリの腕時計って結構いいわよねー、と言ったっけ。

 でも、そうだろうか。だいたいブルガリのあれは、あのロゴの仰々しさが下品で……という話はさておき、贈り物の本道ってのは、相手の期待に応えることより、むしろ相手を驚かせて、圧倒することだからだ。それは南太平洋やアメリカ原住民たちの有名なポトラッチというやつで、相手が喜ぶかどうか、というのは度外視。「ここまでするか!」と相手が驚けば勝ち。大事な家畜をいっぱい殺したり、でっかい石のお金をこしらえてみたり、徹底的に無駄遣いをするのがポイント。相手の期待を量的または質的に裏切るわけ。

 ふーん、それならブルガリじゃなくてもパテク・フィリプの300万円くらいのをくれたってあたしはかまわないけど、と図々しいことを口走ろうとするあなたを遮って、確かぼくはこんなことを言ったような記憶がある。

 ただ、そういうのもぼくはまだ違和感があって。それすら、見返りを期待する贈り物、であるからだ。建前的には、贈り物は見返りを期待しないことになってる。もちろん実際には贈り物が社会的なしがらみの表現や、下心の表現なのは知っている。だからこそ「あげる」「もらう」と簡単にはいかず、収賄贈賄なんてのが問題になるわけだ。でも……そういうのから本当に逃れた、見返りのない贈り物というのがぼくはしたい。重たくならず、負担にならず、物欲しげにならず、贈られた側がいずれ、それが贈り物であることすら忘れ、でもインパクトのある、そういうものがあげられるといいな、とぼくは思っている。

 だもんで、ぼくが人にあげるものは、まったく無意味な機会に、瞬間芸みたいな冗談のタネで一ヶ月くらい笑い話のネタになって、飽きたら気軽に捨てられるものか、相手がなにかこだわりを持っているもの、完全な実用品がほとんどだ。使える文房具とか、食器とか。日頃、その相手を観察していて、ピンポイントで何かをあげる。その場でとりあえず喜ばれるのはもちろんだけれど、次に遊びにいったときに、それが贈り物だったことすら忘れられ相手の生活の中に完全にとけ込んでいる――そういうのを見ると、ぼくは「やった」と思う。そういう贈り物のチャンスを、ぼくはいつも探している。

 そういうわけで、今年もまもなくやってくるある巨大宗教教祖の誕生日にも、なにも期待してはいけないよ。時期と、そして適切なモノの登場を待って、何かがもらえることもあるだろうから、と言うと、あなたは一言「ケチ」と言い放ってその後口をきいてくれなくなり、そしてぼくとしても、あまりに贈り物の理想に忠実であろうとするのは、やはり失敗だったのではと暗に思うようになったときには、すでに手遅れではあったのだけれど。ここからどういう教訓を読みとるかは、読者諸賢にお任せしよう。

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