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Men & Women

HB 2001.12 表紙
Harper's Bazaar 日本版 16 号(2001 年 12 月)

山形浩生



 映画『マトリックス』に、エージェント・スミスがマトリックスの由来をモーフィアスくんに説明する場面があったのをご記憶だろうか。捕まって自白剤を射たれ、ボコボコにされて椅子に縛られたモーフィアスくんに、かれは言う。人間は、不幸が必要なのだ、と。最初のマトリックスは、人が完全に幸せになるような、だれも苦しまない場所として構築されたが、そこは崩壊してしまったという。ソフトウェアの一種であるエージェント・スミスは、それが人間そのものの特性なのだ、と主張する。種としてのヒトは、不幸や苦しみや惨めさをもとに現実というものを定義づける自分を位置づけているからだ。完全な世界、完全な幸福に出会ったとたん、人間の未熟な脳は、それを夢だと思って、そこから目覚めようとしてしまうのだ、と。

 男と女(あるいは男同士でも女同士でも)の関係にもそんなところがある。ある程度以上の幸福な関係に達してしばらくすると、ぼくはとても不安になる。こんなことはあり得ない、どこかに隠れた問題があるにちがいないと思って、そしてしばしばそう思って詮索すること自体が問題となって……もちろんそれは、ぼくの女としての個人的な問題、なのかもしれない。でも一方でかなりよく見かける現象でもある。かなり普遍的な傾向なんじゃないか、という気もする。

 それとも、ぼくのまわりにそういう人が多いだけだろうか。

 そういえば、作家のポール・オースターにインタビューしたときにやっぱり男とか女とかいうネタになって、かれが総不幸量一定の法則と称する持論を話してくれたっけ。世の中のすべての人は、同じだけの不幸を(主観的に)感じているのではないか、と。飢えて死にそうな人の感じている不幸も、何一つ不自由のないそこらの脳天気なマダムどもやリーマンどもの感じている不幸も、実は主観的には同じくらいの量しかないんじゃないか。餓死しそうな人にとっての飢えと、有閑マダムの「今日はお化粧ののりがずいぶんと悪いわ」という悩みとは、主観的には同じくらいの不幸さなんじゃないだろうか。

 もちろん、だからって別に同じ対応をしてあげなきゃいけないとか、餓死しそうな人を放ってマダムのお化粧の心配をしろってことじゃない。客観的に見れば、前者は切実な人命に関わる問題で、それに比べればお化粧ののりなんてのは、手前勝手などうでもいい不幸ではある。でも、だからといってそのマダムに、おまえは不幸であると感じてはならない、と言ったところで無駄で、彼女はどうしてもそれを自分の生死に関わる不幸と感じずにはいられない。大きな不幸が一つ解消されるたびに、その一つ下の不幸が昇格して、その人が感じている不幸の総量は、まったく変わらない。短期的には変動もあって、不幸の少ない状態がしばらく続くことはあるけれど、でも不幸不足が長く続くと、人は必ず不安になって、何かをしでかすようになる、と。

 もちろん、これはあくまで雑談中の冗談話でしかなかったんだけれど、ときどきこれって実はかなり的を射ているんじゃないか。さっき触れた、男と女(またはその他)の関係でもそうだし、あるいはぼくがこうして30年以上女として生きてきて感じている不幸の場合でも。その不幸のどのくらいが、女であることから生じているのか、あるいは想像するに男だったらどの程度の不幸があったのかは、実はよくわからないのだけれど。

 大島弓子は『バナナブレッドのプディング』の最後で「男でも女でも、どっちも同じように生きやすいということはない」と書いている。それもたぶん、そういうことなんだろう。でもその直後に大島弓子は、男でも女でも、最高に素晴らしいことが待っていると言う。そうなのかな。エージェント・スミスやオースターよりは大島弓子を信じたい気はあるけれど、ぼくにはその何かがまだ見えない。

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