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HB 2000.11 表紙
Harper's Bazaar 日本版 2 号(2000 年 11 月)

山形浩生



 愛。このことばを口にするのは、とてもむずかしい ことだ。いや、「愛」ならまだいい。愛だと、なん か抽象的なフワフワした観念のつもりで口に出せる もの。でも、動詞で使うとそうはいかない。具体的 な相手に「愛している」というのはすごくむずかし い。あなたは言える? 言ったこと、ある? また は「ぼくは自分の車を愛している」とか、胸をはっ て第三者に言えるだろうか。ぼくはできないと思う。 実際に口に出したことは、一回だけしかない。

 好きだ、とはいえる。だいじだ、ともいえる。実際、 言ったこともある(その結果はさておき)。いい な、とかすごいね、とっても気に入っているとかは いえる。言うときにも、自分がどういうつもりで何 をいいたいのかははっきりわかっている。

  でも、「愛している」というのが具体的にどういう ことなのか、ぼくはわかったような、わからないよ うな、こうとらえどころのない気持ちと、そしてそ の一方ですごくはっきりした確信とがいりまじった、 すごく落ち着かない感じなのだ。

 毛唐はそうじゃない。欧米人はいとも簡単に、LOVE を口にするよね。でも、それはぼくたちの感覚とは だいぶちがう。もちろん自分の妻や夫や子供や恋人 も愛している。でもペットの犬も愛していれば、自 分の仕事も家もパソコンも車も友だちも、ピザやラ ーメンやコーヒーや、その他ありとあらゆるものを 「愛して」いる。かれらにとって、LOVEというのは 単に「とっても好きだ」という意味なんだもの。 だからこそ、気軽にloveを連発できる。その気軽さは、 ある意味でうらやましい。

  橋本治は、えらい人なので、愛というのがふつうの 日常的な知り合いとしての関係から、腐れ縁から、 友だちづきあいから、家族だ恋愛だ、というところ まではばのあるものなんだ、とよく言う。

 でも、一般人が日本語で「愛している」というとき、 それはちょっとおもむきがちがうと思う。愛って、 すごく痛いことばなのね、日本語では。それは、自 分の弱点みたいなものをさらけださなきゃならないっ ていう、そういう苦しさもあるし、それ以上に、う まく言えないけれど、痛くて、歯をくいしばりなが ら言わなきゃならない、そういうことばだ。

 愛。こいつは反論の余地なくすばらしいものってこ とになっている。やっぱ愛がなきゃ、だの「愛だろ、 愛」なんてことをみんな平気で言う。でも、ぼくは いやだ。ひたすら鈍重なヒョーロンカみたいな連中 が、「愛こそが汲めども尽きぬ価値と創造の源泉な のである」なんて得意げに書き散らしていたり、不 潔な年寄りどもが「国を愛するナントカ」なぁんて 下心丸見えで怒鳴ってみたり、つくり笑いの宗教屋 どもが「神の愛がうんぬん」とか。下品なテレビド ラマが、愛してるの愛してないのとか。みんなみん な、ひたすらそのことばに酔って、それを言ってる 自分に酔って、口にしてることばの痛さを、ちょっ とだって感じてる様子はまるっきりない。

  ぼくはそれがとても悲しいと思う。そうやってこと ばが薄まって、なまぬるくなって、そのくせ英語的 な気軽さも生まれずに、もったいばかりがぜい肉み たいにまとわりついて、そしてやがて、あの痛さは どんどん取り残されて行き場をなくしちゃう。

  愛。たぶん日本でこのことばを正気で口走るのは、 よほどの例外を除いてペテン師ばっか。くやしい。

 もうあのことばは風化しだしていて、やがてなん の意味ももたなくなる。あるいはなんかのはずみで、 「仁」や「忠」や「義」みたいに、忘れられていた あのことばの痛みだけが悪用されて、気がつくと重 苦しい抑圧的なことばになり果てるかもしれない。

  そしてやがてあの「愛」にかわる新しいことばが生 まれるだろう。心の同じ領域をカバーして、同じ痛 みを持ったことばが。それはいったいなんになるだ ろう。まだ時間はある。そしてそのときまでに、人 は、ぼくは、よく考えておかなきゃいけない。あの ことばの意味を、痛みを。そして、そこにはなんか 可能性があったはずなのだ。その可能性を。

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