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『ハイ・リスク』な作家たち

――現代アメリカ小説の新潮流

(『GQ Japan』創刊 3 号 1993 年秋あたり)

山形浩生



 セックスが小説のタネになるのは今に始まったことではない。しかし最近のアメリカ小説(のましな部分)の多くに、登場するアブノーマル・セックスは、われわれの慣れ親しんだソフト・ポルノ的なセックスとは無縁の、ひたすらお互いを傷めつけあうような、寒々としたセックスだ。デニス・クーパーやキャシー・アッカーの諸作、ゲーリー・インディアナやデビッド・ウォジュナロウィッツの小説群などを読むのは、たぶん今のおじさんたちが少年時代に胸をときめかせながら『チャタレイ夫人の恋人』を読んだのとはまるでちがう体験だろう。それは興奮というより「いやあ、そんなつらい思いをしてまでセックスしたいですかぁ?」というようなとまどいだ。これらの作家の多くはゲイであり、小説も自伝的な色が濃いのだけれど、われわれが特にとまどうのは、そうした荒っぽいセックスがどうやら日々の生活において何ら特筆すべきものではなく、日常茶飯のことらしいという点だ。

 これが一人や二人ではなく、現在のアメリカ小説の大きな部分を占めているのは、考えてみれば不思議な事態である。最近邦訳の出た『ハイ・リスク』は、そうした作品を集めたアンソロジーだが、目次を見ると、現代アメリカの有力な若手作家の相当部分が名を連ねている。しかも、そうした作品は特に拒否反応も受けず、ごく自然に出回り、受け入れられている。

 こうした小説の台頭は、何よりもゲイ・コミュニティを筆頭として、異性愛正常位以外のセックス愛好者たちの活動が著しく表面化し、日常化したこと、そして社会の許容度も著しく高まったことを背景としている。六〇年代、ほとんどの州では、同性愛は非合法であり、かれらの多くは、口コミで伝わるバーに集まり、警察の手入れにおびえつつ交流するのが精一杯だった。しかし一九六九年のストーンウォール・インでの暴動を一つのきっかけとして、七〇年代以降、ゲイやレスビアンの活動が組織化され、社会的な認知を求めて動き始めた。その成果が浸透してきたのが八〇年代末から九〇年代にかけてのことだったのだ。

 ゲイ・コミュニティの横の広がりに伴ない、ゲイ/レズビアン関連出版物も次第にその数を増す。七〇年代初期から各種の雑誌や本がチョロチョロと出回るようになっていたが、八〇年代初期から各州で続々と同性愛が合法化され、特に一九八五年以降、刊行物も爆発的な増大を見せている。これらはゲイ作家たちに発表の機会を提供し、こうした刊行物が一般の流通経路に乗るにつれて、その作品がゲイ・コミュニティ以外の目に触れる機会も飛躍的に増大することとなった。エイズの出現も、よくも悪しくもこの流れに貢献している。

 また、ニューヨークを中心としたアートっぽい雑誌や小出版社も、こうした作家たちの多くに発表の場を与えてきた存在として見逃せない。ダウンタウンのジェントリフィケーション(要は体のいいスラム・クリアランスである)により、八〇年代にはイースト・ビレッジを中心に無数のアート系雑誌や出版社が誕生した。いまは作家として名高いキャサリン・テクシアとジョエル・ローズ編集の「Between C & D」は、デニス・クーパーなどに発表の場を与え続け、育てた雑誌である。前衛小説が得意なグローブ・プレスやハヌマン・ブックスも、ここに含まれるだろう。他に「BOMB」や「Semiotext(e)」など、いずれも NY に巣食うアーティストたちの結びつきにより成立しえた雑誌である。キャシー・アッカーは、こうしたアーティスト群から生まれた作家だし、系統はちがうけれど露骨な愛のないセックスを中心に据えた作品で名を成した、リン・ティルマンやメアリー・ゲイツキルらの女性作家も、こうしたコミュニティなくしては登場不可能だった。

 こうした作品が目立つ背景には、そうでない小説群の相対的な低調ぶりも挙げられるだろう。レーガノミックスの八〇年代、文才のある人間は、広告業界や音楽方面に流れた。小説家は、もともと職業として魅力あるものではなかったし、他分野の期待収入が増すにつれて、その魅力はさらに低下した。タマ・ジャノウィッツやブレット・イーストン・エリス、ジェイ・マキナニーなど、一時的な成功をおさめた作家たちはいた。けれど、多くはあっさりメディアに使い捨てられてしまった。残った作家の多くは、もともとあまり商業的な成功を期待していなかったゲイ作家、あるいはキワモノとしての商品価値(それだけとは言わないが)を買われた女性作家たちだったのだ。

 ちなみに『ハイ・リスク』収録作家以外でそれなりの存在感をもつアメリカの若手といえば、スティーブ・エリクソンのような他に能がないキチガイ、あるいはウィリアム・T・ヴォルマンのような、異様な量産能力と、それをうまく収入に結びつける才覚を持った編集者(かれは、決して売れているから本を出し続けられるのではない)がついた作家だけである。

 あとはダグラス・クープランド(この人がなぜかくも人気があるのかは不祥。主著『ジェネレーションX』は「原爆こわいよう」とみんなで砂漠に逃げてメソメソする、きわめて退屈な小説である。チャチな造語能力がウケているのかもしれない)や、マーク・レイナー(おそらくは現在、本気で教科書通りにポストモダンしている唯一の作家)のようなニッチを見出だした作家も、なんとか生き延びている。8 月に『バーチャル・ライト』を出したウィリアム・ギブスンも、独自のニッチを開拓した作家である。もっともかれは、純粋に「小説家」として期待されているとはいい難い。

 ゲイ作家たちの活躍の一方で、レズビアンやフェミニズム作家の作品に見るべきものはほとんどない。これまで触れた女性作家の多くは、フェミニズム運動や理論に無関心か、あるいは意識的に距離を置いている。カミーユ・パーリアの「レズビアンには美的センスがない!」「フェミニストにはセンスがない!」という乱暴な断言には、かなりの真実が含まれているのだろう。

 この傾向も、いつまで続くかはわからない。たとえばキャシー・アッカーの1993年夏の新作『わが母:妖怪学』には、かつて『アホダラ帝国』を取り巻いていた期待や毀誉褒貶はもはやない。注目すべき作家であるのはだれしも認めるし、一作ごとに作家としての力量と安定感をつけているのも確かだが、一方ではかつて『血みどろ臓物ハイスクール』であれほど注目を集めた色情狂セックスへのこだわりが、飽きられはじめているのも事実である。
 かつてサイバーパンクの旗印のもとに集まった作家たちは、いまは徒党も組まず、それぞれに執筆を続けている。サイバーパンクを特徴づけていた、荒廃した都市スラムとコンピュータ・ネットワークの世界は、すぐに使い古され、もはや「サイバーパンク」と肩肘張るまでもなく、ごく見慣れたあたりまえの光景となった。

 同様に、一時はショッキングだった同性愛やSMも、急速に飽きられ、一般化し、見慣れたものとなり、いずれはあたりまえになる。その時、同性愛やSM描写だけに頼っていた物書きたちは陳腐化するしかない。しかし、すでに述べたように、ここに挙げた作家たちの多くはそうではない。かれらにとって、同性愛やSMは目的ではなく、日常的なルーチンであり、単なる手段である。何の手段か……これは作家ごとに異る。ある人はそれらをくくって「ポスト消費社会における生の描出」であると評している。それを検討するには、アメリカの不況に伴なうホームレスやストリート・キッズの急増と、結果として都市生活の現実がますます厳しく暴力的になっていること、そしてそこに生きる人々の異様な感覚麻痺についても述べなくてはならない。これがなければ『ハイ・リスク』作家たちに共通の、暴力的なセックスの蔓延はありえなかった。が、もう紙幅がない。
(終)



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