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『高度一万メートルからの眺め』 連載 15 回??

炎上こそ言論の自由の発露

月刊『GQ』 2011/11月号

要約:論壇誌で、なにやら世間にあわない発言をするとブログやツイッターでコメントがたくさんつくのが言論弾圧だとバカなことを言っている知識人にげんなり。それこそまさに言論の自由の発露。それを知識人が否定するって何事?


 『世界』だの『中央公論』だの、いわゆる論壇誌を読む人は、本誌の読者の中にはあまりいない……というか世の中全体でもあまりいないのは、こうした雑誌が過去数年で次々に消えていることからも明らかではある。

 それは読者のレベルが下がってきたせいだ、つまり需要側のせいだと言われるのだけれど、最近家に送られてきた『中央公論』10月号を見て、ぼくはそれがむしろ供給側のせいだと思うのだ。

 その巻頭特集は「災後の“空気”がおかしい」なるもので、立派な肩書きの先生方が、世論が特定方向に流れてだれもそれに逆らえない雰囲気になっている、言論の弾圧だ、と懸念してらっしゃるんだが……

 そこで出てきた話は、原発関連でツイッターで発言したら批判コメントがいっぱいついて発言しにくくなったとか、ブログのコメント欄が炎上したとか。

 バカかね。

 言論弾圧というのは、逮捕されたり発禁になったり、物理的な妨害が出てきてのことだ。反対コメントがたくさんつく――それはむしろ、議論がある程度は活発に機能していることを示し、言論の自由にとってよいことなのに。

 実はこの欄はGQのウェブページにも公開されている。そして以前の原発関連の話は、かなり否定的なコメントをツイッターやブログで大量に集めた。さらに作家の矢作俊彦がそれに連続批判ツイートを加えたことで、その数はさらに増した。中公知識人たちにしてみれば、恐ろしい言論弾圧だ。

 でも当たり前のことなんだけれど、発言するというのは、それに対する批判の可能性を引き受けることでもある。でも何かを言えば、必ずそれに反発する人はいる。あらゆる人が文句なしに賛成する発言なんてのはないし、またそんなものは発言するまでもない。その反発はどこに根があるのか、その反発する人々をどう説得するか、どこに歩み寄れる点があるのか。それを知って自分の発言や見解を修正する――そこに言論や議論の意味があるのに。

 ぼくは矢作の議論に対し、反論を自分のウェブページで書いた。それに賛成する人も反対する人もいる。どっちも一理あって判断がつかないという人もいた。それでいいんだと思う。ただ、ちゃんと言うことで空気なんか変わる。変なごまかしや心にもない訂正や取り消しをせず、自分の理を自分なりに説明するのが重要だ。実害も何も伴わない「空気」を無意味に恐れる人々の行動こそが、その「空気」の実体でしかない。

 こう書くと「それは強者の論理」「普通の人はそんなに強くない」等々くだらないことを言う人が必ず出る。ぼくは、それだけの覚悟がない人は黙ってろと思う。言論の自由を守るというのは、各人がその覚悟と責任を引き受けるということなんだから。「論壇誌」で座談会するような知識人すらその覚悟がないなら、ぼくはそれこそ言論の危機だと思う。

 それは仕事でもしばしば顔を出す。国際会議で、日本人は結構いい意見を持っているのに、それを会議の席上では発表せず、後になってうじゃうじゃ陰で言いにきたり、話が決まってから変更要望とか持ってきたりするのは、あれは何だ、と時々言われる。根回しばかり上手になって、他人から突っ込みの入らないようなプレゼン技法ばかりを追い求めて、公式の場でちゃんと自分の意見を述べて通すことをしない。でもね、公式の場で筋を通した理屈が言えたら、それがいちばん強いのだ。それをしないことで、日本人はどんなに損をしていることか。

 こう書いているうちに、スティーブ・ジョブスの訃報が入ってきた。ジョブスが空気をいちいち読んでいたらいったいどうなっていたことか。Stay hungry, stay foolish がかれの座右の銘だったという。無謀であれ、空気を読むな。ジョブスを見習いたいという人はたくさんいるけれど、そういう人はまず、空気を無視するところからはじめてほしいな、とぼくは思うんだ。それは言論の自由にも貢献し、少しずつ世界を変えられるはずなんだから。



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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>
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