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『高度一万メートルからの眺め』 連載 15 回??

原発研究を続ける必要性

月刊『GQ』 2011/09月号

要約:今後、原発を処分するためにも原発研究が必要じゃないか? そうでないと、だれがいまある原発を終わらせるの?


 まだ福島原発事故の後処理は当分続きそうだが、今後原発をどうするのかという議論(というより議論の不在)は未だに続いている。でもそのほとんどは、中身を考えないお題目だけの原発反対か、単なる現状維持の原発賛成のみ。

 ぼくは「原発反対」という人々が何に反対しているのか、よくわからない。ぼくは耐用年数のすぎたポンコツをだましだまし続けるのには反対だ。そしてそんな基本的な工学原則も徹底できない、いまの愚かな関係者たち(いわゆる原子力村)にも反対だ(そしてたぶん後者のほうが大問題だ。これは老害の一種だから)。

 でも、核分裂を使うエネルギー源すべてダメとは思わない。福島の原子炉なんかよりはるかに安全性の高い原子炉はある。外部電源が切れても、冷却水がなくなっても何も起きず、自然に止まる設計の原子力エネルギーはすでにできている。それに反対といったって、いまある原発を明日から止めてつぶすことなんかできないのは、そろそろみんなわかってきただろう。何十年もかけて冷やしてつぶすことになる。それなら、それを安全なものに更新する手立てを考えるべきじゃないの?

 ましてぼくにさっぱり理解できないのは、原発か経済成長か、といった得たいの知れない二者択一を持ち出す連中だ。原発の見直しはいまの文明の見直しだとかなんとか。別に原発なくても経済成長はできるし、原発はいまの文明の不可分な一部じゃない。たまたまエネルギー源として有利そうな面もあったから使われたというだけの話だ。

 経済成長反対と口走る人の多くは、経済成長というのが携帯電話の買い換えとか車とかそんなぜいたくの話だと思ってる。そしてどっかのだれかが、経済成長を無理強いするためにいやがる人々を無理矢理働かせているように思っている。でも経済成長というのは、いま失業して生活に不安を抱いている人に職と安定を与えるものだ。自殺に追い込まれる人を減らし、医療を受けられない人に医療を与え、学校をよくして、高齢者の福祉を高めるものだ。それは人々の命を救う。それを否定するのは、人々に死ねということだ。

 繰り返すけれど、原発がなくても経済成長はできる。つまり反原発のために経済成長を否定したり文明の見直しを求めたりする人は、反原発を口実に、まったく無意味に人が死んでもいい、苦しんでもいい、と主張していることになる。ぼくはそんな「反原発」に荷担したいとは思わない。

 結局、老朽化した原発はきちんとつぶそう。それをまともな工学原則に基づいてきちんと主張できる体制を作ろう。そしてきちんとつぶし、それを安全性の高いものに更新するためにも新しい原子力の研究開発にはお金をつぎこもう。これが反原発の立場なのか、原発推進の立場なのか、ぼくはわからないし、気にもしていない。でも、これがいちばん正しいことだと思う。特にこれから日本は原発を輸出する気なんでしょう? だったら、それが最大限に安全なものになるよう、今後も面倒を見る責任があると思うんだけど。



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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>
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